Ⅴ襲来
「……これで、終わりか」
エストリカは馬上で呟いた。メサ川の陣営を引き払ったのが昨日のことで、いまエルトリア軍は南西方向に転進していた。十日あまりをかけてエシュシュに戻り、反逆者を一掃する手はずであった。
それは今期の終わりも意味した。いったんエシュシュに引き返したのなら、わざわざ厳冬期を選んで再出撃する必要はない。来春まで兵団の英気を養い、サンギ族の政情を安定化させることになるだろう。
「笑わば、笑うがいい」
投げやりに声を掛けた先は、仲違いして以来、一度も口を利かなかった副官だった。彼の意見を退けて、不公正を甘受してまで拘った、早期のゴルニア征服は完全に破算したからだ。
それに対して、アリウスはむっつりとしたまま答えた。
「……笑えるほど、楽しい状況ではありませんよ」
「あなたが正しかったのに?」
「僕には総督を補佐する責任がある。ウェルティスが政治手腕に長けた男だと認識しながら、サンギ族の反体制派を炊き付ける可能性を見抜けなかった。……以前なら手の打ちようがありましたが、ここに至っては遠征を断念する他ありません。これは僕の失態です」
消沈した声には、責任を感じる負い目が滲んでいた。その真面目さはエストリカには意外だった。嫌々ながら引きずり回されている副官が、職務に対して責任を感じているなどと想像しなかったのだ。むしろ、これで危険な場所から遠ざかれるのだから、アリウスにとっては願ったり叶ったりではないのかと、そんな風に考えていた。
それを慰めるべきだろうか。エストリカは思案した。出来た上司なら、そうするだろう。だれも想像しなかったことだし、君の責任ではない。すべては総司令官である自分の責任だ云々と……。だが、エストリカはそうはしなかった。すべてに対して責任を負えるほど、エストリカは遠征軍の実権を掌握しているわけではなかったし、その身の上で責任を拡散させる物言いはいかにも説得力に乏しいように思えた。
「……シノンから、あなたが怒った理由を聞いたわ」
「え?」
関係のないことを言われて、アリウスは顔を上げた。
「夢があるというのは、いい事だと思う。まあ、あなたはまずわたしに取材の許可を取るべきだと思うけど」
「それは……失礼しました」
「いいけどね。……わたしには確たる夢がない。ゴルニアを征服すれば、何者かになれる気がした。だから、ここまで来たけど、しょせん虫のいい話だったんだわ。何者でもない小娘が、何を求めるのかも知らずにやって来たところで、何ができるはずもない」
そう語ったエストリカは、体内の熱をすべて失っているように見えた。アリウスはぞっとした。綺麗なだけに、その少女は今こそ人形のように見えた。きらびやかな軍装に飾り立てられた人形は、舞台の袖に潜む傀儡師によって踊らされるだけの、中身のない器だった。
「でも、来年がある」
思わず、アリウスはそう言った。するとエストリカは小さく笑みを刻んで、首を横に振った。冬の弱々しい日差しが金髪に散って、少女の輪郭をけぶるような光でぼかして見せた。
「必勝を期しての進軍さえ遮られた。何度やっても、同じことよ」
それもひとつの道理だった。いや、それこそ正しい物の見方なのかもしれない。隊列を作ってぞろぞろと歩く第十二軍団に、先日までの情熱は見当たらなかった。まるで敗残兵のようですらある。これが千載一遇の好機であったと、だれもが無意識に感じ取っていたのだろう。
「でも……」
「もういい。終わったことだから。来年からは、着実に、少しずつゴルニアを削り取ることにするわ」
なおも言い募ろうとしたアリウスの言葉を切り捨てたエストリカは、すでに諦めていた。
着実にと言うが、それでは五年の任期中にいくらの領土も手に入るまい。歳入は軍団を養うに足りるかさえ怪しく、莫大な借入金を完済することはできない。エストリカの言う「終わった」と言うのは、壮大なゴルニア征服計画ばかりではない。人生の終焉さえ意味していた。
後は籠の鳥として、売り買いを待つだけだった。名門貴族か、大商人か、いずれにせよ直系の皇女は買い手には困らないはずだ。だからこそ、これまでの信用貸しも成り立っていたのだ。
「足掻いてはみたけど、結局、母と同じか……」
エストリカの呟きが聞こえたが、アリウスにはその意味が取れなかった。
エストリカの母を知らないというのではない。むしろ、彼女は有名人だった。皇妃でありながら、幾多の醜聞を流した女性である。ゴルニアの反乱に手を焼いていた皇帝の留守をいいことに、何人も若い愛人を囲って、最終的には行き過ぎた不道徳のために離縁されたと言う。
エストリカの母は、爛れた貴族の性生活を示す代名詞にすらなっていた。
そういう女性と、目の前のエストリカのイメージはかけ離れていて、アリウスは意味を取れなかった。望まぬ婚姻によって、彼女が男漁りに精を出すようにも見えない。
が、それを聞くのは出過ぎた行為だろう。アリウスは作家としての好奇心は人並み外れて強かったが、反面でゴシップへの興味はほとんど持ち合わせていなかった。そういう性質もまた、彼が大衆作家になり得ない要因ではあったのだが。
逆に慰めの言葉を探し始めたアリウスが、こう言う時にはまったく役に立たない言語中枢に煩悶していると、不意に列の後方から轟くような物音が耳に飛び込んで来た。
「なに?」
振り返ったエストリカには、同じように後方を気にして足を止めた兵の列が見えるばかりだった。さらに後方は、道が蛇行しているせいで原生林に阻まれて見透かすことができない。
隊列の側方を抜けて、後方から伝令の騎兵が走り寄って来る。
「何事か!」
「敵襲! 敵襲です! ゴルニア軍の騎兵隊、およそ三千!」
エストリカの鋭い声に、伝令が叫んで応じた。ぞっとした。これこそ、幾度となくエルトリア軍が敗退した、ゴルニア人の戦法だった。
エルトリア軍の後尾は、千々に乱れていた。
後衛は補助軍団の軽装歩兵隊が務めていた。市民権を持たない属州民の軍団である。騎乗する馬を自弁できる資産階級の騎兵部隊とは異なり、それはエルトリアに迫害されながらも、食い扶持を稼ぐために入営した者たちであり、当然ながら全体的に忠誠心に乏しく、士気は低いし、装備も著しく貧弱だった。
彼らを蹴散らすことは、ウェルティスが直に率いた騎馬隊にとって造作もない事だった。
サンギ族に働きかけてエルトリアの補給線を断ち、撤退に追い込む。さらにそれを追撃し、攻撃に都合のよい地点で撃破する。それがウェルティスの算段だった。
追撃戦は当初から予定していたものではない。ウェルティスの構想はあくまでもゴルニア総決起に向けた持久戦である。好機にしても、危険を冒して戦闘を強行する理由はなかった。少なくとも、合理的な見地からするならば。
――否、戦術的に言えば、この出戦は正しい。
エルトリア軍は必勝さえ確信していた状況から、一転して撤退を余儀なくされた。自然と士気は落ち込むし、自分たちが孤立無援のまま敵地の奥に踏み込み過ぎた事を悟って弱気にもなる。そこが狙い目だった。
「突撃! 突撃だ!」
自ら長剣を振るって騎馬突撃の先頭に立ち、ウェルティスは声の限りに叫んでいた。従うのは同盟部族から引き出した騎兵に加えて、この時のために密かに雇い入れていたヴァラン人の傭兵だった。
さらに東方に住むヴァラン人は、ゴルニアに幾度となく侵入してきた宿敵であり、馬の扱いに長けた剽悍な民族である。ウェルティスは今回の出戦に当たってかなりの無理をして彼らを雇用したのだが、それだけの価値があったと思わせる威力を発揮している。
「今こそ報復の時だ!」
憎悪の滴る声を上げるのは、スタニウムで住民を虐殺されたロンダリア族の騎兵隊だった。巧みに敵の防備をすり抜けながら撹乱するヴァラン人に比べて、ロンダリア族の騎馬隊は強引な突撃を行って、さながら岩を砕かんとぶつかる波のようだった。
すでに補助軍団は崩れに崩れ、第十二軍団の後尾は突撃の勢いに狼狽するばかりだった。行軍中のエルトリア兵は重たい輜重を背負子に背負っている。身に付けた武具と合わせて、総重量六ガルム(約六十キログラム)にも及ぶ重量を背負っている状態では戦うどころではなかった。ひっくり返ると自力では起き上がれず、ために一様にやや前傾姿勢になって歩くのだが、驚いた兵士があちこちで倒れてもがいている。
元より戦列を組んで戦うエルトリア軍は、行軍隊形から戦闘隊形への切り替えに時間がかかる。それが、こうして行軍中にいきなり襲われると成す術を持たない。先のゴルニア遠征で多くの被害を出したのも、こうした襲撃を受けた際のことだ。
「荷物を捨てろ! 戦闘隊形! 隊列を組め!」
下士官や将校が叫びを上げるが、隊形の転換は一向に進まず、どころかその隙間を縫って疾駆するヴァラン騎兵が集中的に指揮官を狙って血祭りに上げて行くと、混乱は収まるどころか拡大した。
指示する人間を失った兵士は、経験不足を露呈して右往左往するままに、報復に燃えるロンダリア騎兵の攻撃に倒れて行く。
「助けて! 助けてくれ!」
荷物に押し潰されるようにして倒れ込んだ若い兵士が叫んで手を伸ばすが、それを気にする者などいない。その背負子に蹴躓いた別の兵士が倒れ込み、胸郭が押し潰されて声を上げるどころか、呼吸すらままならない。
どいてくれ――祈るような面持ちで覆いかぶさる兵士を見て、若い兵士は「うっ」と呻いた。覆いかぶさった男には、首がなかった。
「雑魚に構うな! 狙うは将軍か、総督だ! 報奨金も出すぞ!」
ウェルティスは苛立った声を上げた。ロンダリア族の熱狂に引きずられるように、他部族のゴルニア騎兵も殺戮に熱中していて、突破した地点に留まりながら、残兵を延々と殺して回っている。
そんな事をしている場合じゃない。ここが決戦なんだ。おまえら、それはちゃんと説明しただろうが!
三千の騎兵で、一万に及ぶエルトリア軍を殲滅することは不可能だ。特に戦列を組まれれば、容易に手出しすることはできなくなる。チャンスはエルトリア軍が動揺し、混乱している今しかない。
その上でウェルティスが示したのは、何としてもゴルニア総督の首を取ると言う目標だった。すればゴルニア軍は絶対の勝利を喧伝できた。あるいは歴戦のトゥリアスを討って、軍を機能不全に陥れる。そうなれば、いまだ去就を定めかねている連中とて、どちらに味方するのが正しいかを知るだろう。その時、ウェルティスの帝国は産声を上げる。二度とゴルニアにエルトリア人を踏み入れさせはしない。
そのための決戦だった。
苛立ちがウェルティスの腸を煮立たせている。ちっぽけな報復などに拘泥している時ではない。貴様ら、ゴルニアの未来がかかっているんだぞ。
もはやロンダリア族には恃まない。こいつらは古臭い蛮族としてのゴルニア人に過ぎない。そう切り捨てて、ウェルティスが恃みとしたのは、雇い入れたヴァラン騎兵だった。
「突破するぞ!」
叫んで馬の腹を蹴りつけたウェルティスは、ヴァランの精鋭を引き連れ、逃げ惑うエルトリア兵の間を駆け抜けた。まだ敵は混乱している。最低限の邪魔な雑兵を切り捨て、蹄にかけるに任せながら、ゴルニア王は戦場の血風をかき分け、愚直なまでに前進した。
が、その疾走は即座に失速せざるをえなかった。
第十二軍団の後尾を抜けたところで、円陣を組んだ部隊が騎兵の突撃を阻んでいる。彼らは輜重を一箇所に固めて、それを取り囲むように盾を並べ、全方位に対して槍を突き出していた。
ヴァラン騎兵が何かをわめいて馬首を翻し、何とか突撃の勢いを殺した。失敗した者は重装歩兵の壁に突っ込んで、敵を跳ね飛ばす前に馬から振り落とされた。馬は障害物に向かうことを嫌がり、そこには鋭い穂先が並んでいるのだから、なおさらのことだ。
「早すぎる」
ウェルティスは何とか馬を制止すると、愕然として呟いた。それに動揺もしていない。第十二軍団は、急場で掻き集めた新兵がほとんどのはずだ。なのに尻込みする気配もなく、ここで敵を食い止めるという気迫の凄まじさは、歴戦の兵団のようだった。
まさかこれまでの戦いが、敵を育てたと言うのか。必勝の機会をふいにしたと言うのに、なお士気を保っていると言うのか。
否――ウェルティスの視界に金と緋色が鮮やかに映った。小柄な体に立派な鎧と緋色のマントを羽織り、大きすぎる剣を振りかざして円陣の中央に陣取っている。その小さな姿が重装歩兵の戦列越しに見えるのは、その人物が積み上げた荷物の上によじ登っているからだった。
結った金髪の上に黄金の月桂冠を頂き、白皙に血を昇らせて、声の限りに将兵を鼓舞するのは、エルトリアの魔女――ゴルニア総督エストリカに違いなかった。
「あれか」
我が目で見ても、にわかに信じがたい。あんな小さな少女が、屈強な兵士を従えて戦場に立っている。それも安全な本隊ではなく、危険な最前線のことだ。
少女の近くには、ひときわ派手な前立を持つ兜を被った百人隊長が居て、直接的な指揮を執っていたが、こうして円陣で突撃を阻むエルトリア兵を支えているのは、間違いなく前線に立つ総司令官の存在だった。
「やはり、そうか」
ウェルティスはエストリカの姿を認めて、奇妙に納得した。ゴルニアを呑み込まんと欲するのは、不似合いにも前線に立つような、無謀なほどの血気と覇気に違いなかった。
「退くな! ここが勝負だ! 突き崩せ!」
ウェルティスの無謀とも思える指示に、ヴァラン人は明らかに気後れしている。無理か。ここが賢明な退きどころか? 指揮官としての冷静な思考が判断したが、背後から喚声を響かせてゴルニア騎兵が突撃して来る。ようやく本来の目的を思い出した連中だった。
まだ、機はある。ここ一番で運が味方したらしかった。
ゴルニア騎兵は隘路いっぱいに隊列を組み、馬が逃げられないようにしながら、エルトリア軍の壁にその身もろともぶつかった。馬や騎兵は槍に抉られて地に伏したが、同時に蹄に蹴られ、馬体に押し潰されるようにして、エルトリア軍の隊列にも大きな穴が開いた。
その隙間に、馬から飛び降りたゴルニア兵が取り付き、両軍入り乱れての乱戦が始まった。
もはや、騎馬隊の全てを消耗しても構わない。ウェルティスは撤退の時期を計ることをやめ、自らも馬を降りて長剣を振り回しながら乱戦の中に飛び込んだ。その左右にゴルニア兵が並び、エルトリア軍の戦列がさらに乱れる。
入り乱れての白兵戦に及ぶに至って、とうとうエルトリア兵は訓練不足を露呈していた。それでも新兵の中に混じる熟練兵や親衛隊を中心にして、ぎりぎりの所で踏みとどまって、容易には崩れない。当然だ。彼らの背後には総督がいる。
倒れても倒れても、駆け付けた兵士が次々と戦場に雪崩れ込んでくる。だが、埋めるより早くゴルニア兵が隙間を埋めて、エルトリア軍の防衛線は下がり続けている。
「寡兵を押し返せずに、それでも栄えある軍団兵か! わたしはここより下がらぬぞ!」
乱戦のけたたましい音を貫いて、甲高い少女の声が聞こえた。それほどウェルティスは接近している。どれだけ斬ったのか覚えていなかった。長剣は血に汚れて輝きを失い、刃はこぼれるのでなければめくれ返って、ひどいナマクラになっていた。
「おおおおっ!!」
己を鼓舞するように叫んだ男は、盾を掲げたエルトリア兵に体当たりして滅茶苦茶に長剣を叩きつけ、その兵士が手にしていた剣を奪う。倒れ込む死体を押しのけ――視界が開けた。そこはエストリカが足場にしていた荷物の山の裾だった。
「総督をお守りせよ!」
総督護衛の指揮を執っていた主席百人隊長が叫んだが、それより早く、ウェルティスは少女の足を引っ掴んで、引きずり落とす。エストリカが悲鳴を上げた。落とされた少女は、荷物の山に背を預けたまま、自分を引きずり落とした男を睨みつけた。剣を振りかぶるゴルニア王に対し、ゴルニア総督は気丈にも手にしていた剣を掲げたが、造作もなく払いのけられただけだった。エストリカの手から剣が跳ね飛び、それをウェルティスは器用に空中で掴み取ると、素早く彼女の首筋に切っ先を添えた。
ぴたりと周囲の動きが止まった。
エルトリア軍は総大将を人質に取られた形となり、身動きできない。ゴルニア軍はと言うと、手ずから大手柄を挙げた王に見入っていた。どちらにせよ、これで決着したと思えば、その勝者の言動に注目が集まる。
「総督だな? 名は?」
ウェルティスは呼吸を整えてから、エルトリア語で誰何した。エストリカは唇を震わせた。が、青い瞳はきつくウェルティスを睨んでいて、震えは恐怖ではなく屈辱によるものらしかった。
「無礼者め、尋ねるならば自ら名乗るがいい」
「ゴルニア王、ウェルティスだ」
エストリカは目を瞠って、逞しい若者を見上げた。青くペイントされた顔の中で、緑色の瞳が静かに驚く少女を見下ろしている。
「名乗ったぞ」
「……いかにも、ゴルニア属州総督、ラヴィニア・エストリカである。……殺すがいい。蛮族と言えども王は王、わたしを殺すに不足はなかろう」
「降伏すれば、命までは取らん」
ウェルティスは口を衝いて出た言葉に、思わず眉をひそめた。何を言っている。この娘を殺すことが目的だったではないか。しかし、自分の胸中にこの少女を殺そうとする衝動がもはやないことも分かっていた。
「総督は降伏などしない。虜囚の辱めを受けるぐらいなら、貴様の手に頼ることなく、我が軍団がわたしを殺すだろう」
「…………」
非情になりきれない、というのではない。殺す以上の価値を冷徹な計算に見出したわけでもない。ただ惜しんだのだ。ウェルティスは実物を目にして、その小さな身体の内側に秘められた何かを感じ取っていた。これほどの女は、ゴルニアにはいないだろう。広大なエルトリア帝国にしたって同じことだ。
「どうした? ゴルニア王とやらは小娘ひとりも殺せぬほどの腑抜けか!」
柄を握る手に力がこもる。ほんの少し力を加えれば、切っ先は少女の白い喉を突き破るだろう。そうだ。これは俺ひとりの問題ではない。すべてはゴルニア決起の大義のために――だが、最後のひと押しが出来なかった。
ゴルニアの決起、独立、すべてが空虚に感じられた。理想というのは空想であって、血肉を得て実体を持つことはない。いや、そもそもが理想は実体を得た途端、現実に堕落するのが世の常だった。決起だ、独立だ、と言葉を飾りながら、数万の犠牲者を甘受し、代価として年端もいかぬ少女の命を要求している。言い換えれば、理想はそれを成し遂げるために取られる過程によって堕落させられるのだ。
が、それも血の海に投じられる一滴に過ぎなかった。すでに多くの血を流したのだ。ならば、いまさら一人ぐらいと開き直ることは容易だった。エルトリア軍だって、スタニウムで赤子まで殺しているのだぞ。
自らを奮い立たせる言葉は、逆に自らの心を萎えさせるばかりだった。いや、もう建前はよそう。正直になろう。結局のところ、刃を鈍らせたのは罪悪感でもなく、理想を求める心でもない。ただ――俺を睨みつける青い瞳に引き込まれたのだ。
「おまえは殺さん」ウェルティスは宣言した。「殺さず、俺のものにする。俺の妻にする」
惚れたのだ。こいつは大した女だと、男の本能が反応した。地位だの役目だの、しちめんどくさい話を取り除けば、くだらない話だった。くだらないが、それで結構。大いに結構だ。ゴルニアを呑み込むほどの意思を備えた女を手に入れる。男にとってこれほどの喜びはない。
しかし、自身で納得した王の言動に、彼以外はまったく付いて行けない。エストリカはぽかんとした表情を浮かべ、エルトリア兵は無礼だのバカだのと罵声を投げかけて来る。きょろきょろと目を動かして、状況を呑み込めていないのは、エルトリア語を知らないゴルニア人ばかりだ。
罵声を無視して、ウェルティスは再び口を開いた。
「俺はおまえほど大した女に会ったことがない。俺はおまえに大した男だと言わせてみせる。俺と来い!」
「……ば、ば、バカにして! いや、ゴルニア人というのは、バカなのか!? こんな状況で求婚するバカなど、聞いた事がない!」
「求婚……確かにおかしな話だな。だが、俺はおまえが欲しい。それが今、分かったから言ったまでだ。死なれてからでは意味がない」
顔を真っ赤にして怒鳴りつける少女に対して、ウェルティスは笑いもせず、真面目腐った表情で答えた。
「答えろ、エストリカ。おまえは俺の妻になるか?」
「うっ、くっ、このバカめ。……ひとつおまえは思い違いをしている」
「何がだ? まさか自分がそんな大層な女ではないとは言うまい」
「そんなことは関係ない。わたしが大した女だと言うのなら、ここで「はい」とでも言うと思うのか!?」
すると、ウェルティスはきょとんとして、それから弾かれたように笑い声を上げた。肩を震わせ、胸を大きく上下させながら、大声で笑う。まったくもって、その通りだ。ここで唯々諾々と従うような女なら、欲しいなどとは思わない。手の届かぬ高根の花も悪くはない。
笑うウェルティスの不意を衝こうと、駆け付けて来ていたトゥリアスが身体を緊張させる。その気配に気付いたウェルティスはぴたりと笑いを収めると、空いている方の剣で将軍の動きを牽制した。
「この世で手に入らぬなら、殺そう。常世で俺を迎えるがいい」
エストリカは自分を殺す男の顔を食い入るように見つめた。その挑戦的な目をウェルティスは良いと思う。未練を振り払い、剣を動かす。最初から手に入るはずもなかったが、言うだけは言った。それだけで十分だった。
おまえ以上の女は、おそらく二度と俺の前に現れるまい。
「さらばだ」
ついに切っ先がエストリカの白い肌に食い込もうとしたその時、ウェルティスの頭上に黒い影が過ぎった。なんだ、と思う暇もない。ひゅっと風切り音を伴って、たちまち影が実体を伴った。
「ぐっ!?」
顔面に鋭い痛みが走ったのと、ばさりと重たい羽ばたきを聞いたのは、ほぼ同時だった。
「フレース!」
エストリカの声が聞こえた。訳の分からぬままにウェルティスは腕を振って、顔を引っ掻く何かを振り払おうとする。その隙をトゥリアスが見逃すはずがない。身体ごとぶつかられてウェルティスはよろめきながら後退し、総督を庇って剣を構える将軍と、荷物の山に着地して威嚇するように翼を広げた鷹を見た。
「殺せ! 生かして返すな!」
呆気に取られて身動きを止めたままの両軍の中で、トゥリアスの怒号が響く。その声に突き飛ばされるようにして、戦闘が再開された。
これも天運というものか。ウェルティスは乱戦の中を突っ切って、ヴァラン騎兵が連れて来た空の馬に飛び乗った。
「撤退! 撤退だ!」
これ以上の攻撃は無駄だった。状況が膠着していた中で、エルトリア軍は援軍を得て体勢を立て直している。ウェルティスは押し寄せるエルトリア兵を手勢とともに押しのけて戦場を離脱した。




