Ⅲ敗戦
ゴルニア王ウェルティスは深い闇の中にわだかまっている。窓から差し込む月明かりが青白く室内を照らしていたが、若者はその光から逃れるように、部屋の奥でひとり座り込んでいた。
とは言え、それは休息のためではなかった。闇の中で緑色の瞳がぎらぎらと輝いている。神経が剥き出しになったような異様な感覚には、柔らかな月光さえ刺すような刺激として感じられた。近侍さえ遠ざけているのは、微かな物音さえ神経にやすりを掛けられるような痛みを覚えるからだった。
エルトリア軍の到着より一足早く出立したウェルティスたちはユルゲニスに帰還して、ゴルニア諸族に政治的な働きかけを強めていた所だった。それはロンダリア族との協議において、一定の合意を引き出すことができたと言う事だった。
が、エルトリア軍の動きは想定以上に早かった。ウェルティスは逐一、その動向を報告させていたのだが、その偵察班の連絡に不備があった。結果として、ウェルティスは包囲されたスタニウムに対して、有効な手立てを打つことができなかった。
スタニウム陥落は悲報となった。単なる敗北ではない。それと言うのも、籠城していた一万の戦力ばかりか、四万人にのぼる住民が虐殺されたからだ。命からがらに逃げ延びた者の数は、二千人に満たないという話で、その一部はユルゲニスにも辿り着いていた。
ウェルティスは生存者を手厚くもてなすように指示を出したが、それきり館の奥に閉じこもり、もうかれこれ半日ほどになる。その態度が臣民を不安にさせることは分かっていたが、どうでも自制できない動揺を悟られるよりは幾分かましだと思わざるを得なかった。
うずくまる王の側には、精緻な金細工の宝物が一抱えも放置されていた。それらは神への捧げ物であり、戦勝の祈願を行うので、何人たりとも踏み入ってはならぬと厳命している。しかし、実際には祈祷を行う神官さえ寄せ付けず、ウェルティスが館に引き籠るための方便に過ぎなかった。
「エルトリアの魔女め」
呟いた声が静寂の中を陰々と渡り、ウェルティスは鼓膜にざらりと触る自らの声に眉をしかめた。
ゴルニア属州総督を名乗るエルトリア人のことは伝え聞いていた。それは二十歳にもならない少女ということで、決起したゴルニア人は嘲笑の対象としていた。いよいよエルトリアにも人材がいないと見える。あるいは、そんな小娘に使役される軍団というのは、女子供のようなナヨナヨとした連中に違いないと。
ところが、実際にはエシュシュ、スタニウムと立て続けに要所を攻略して、破竹の勢いでゴルニア征服を実現しようとしている。伝え聞くところでは、その少女は異郷の魔術を使い、敵の士気をくじき、味方を勝利に導くのだと言う。ウェルティスはそれを迷信と退けていたが、ある意味で、その少女は魔女に違いなかった。
エルトリア軍の快進撃は、ウェルティスの描いた青写真に大きな修正を要求していた。
いや、敗戦と言うなら、それは構わない。五万人が全滅したと伝えられ、民は悲憤しても、王の心は動かない。その程度の犠牲は、すでに覚悟していたからだ。
全ゴルニアを解放する。その反乱の歴史の中で、すでに十数万のゴルニア人が殺されていた。以前の反乱に加担した小部族が根絶やしにされたと言う話も、二つ、三つと聞かされている。だから今度も覚悟しておくべきだと、最初から心に刻んでいる。
それでもウェルティスが動揺したのは、表面上の犠牲や有利不利と言った些事ではなかった。
時間が――時間が足りない。ゴルニア王と幕僚は、深刻な焦りを覚え始めている。初手となったエシュシュの攻略にしても、決起を勢いづけるという表面上の目的とは別に、時間を稼がなければならないという切実な理由があった。ゆえに信頼できる自らの手勢を駐留させた。ロンダリア族との協議においても、エルトリア軍の進撃を遅滞させる協力を取り付けていた。
が、結果はウェルティスの思惑を裏切っていた。エシュシュは即座に奪い返され、天然の要害スタニウムとて、わずか十四日で陥落した。にしても、エルトリア軍が着実にゴルニアの奥地に迫りつつあると言う、その一事が何よりも重要だった。
とにかく、一日でも二日でも、ウェルティスには時間が必要だった。ゴルニア諸族による総決起を促すための工作が十全ではなかったからだ。
ウェルティスは若すぎた。実績もない若者は、他部族への人脈が十分ではなく、それを有していた長老たちはことごとく処刑してしまった。それは潜在的な造反者を抱えぬために、やむを得ない処置ではあったのだが、結果を受けた他部族の長老たちの態度を硬化させることになった。
それを腹心サンジェナトスの交渉力ばかりか、神官たちの交流まで利用し、時に脅し、時に懐柔して、何とか最終的な形が見え始めていた時期だった。
なのに、エルトリアの魔女はすべてを御破算にしようとしていた。このままでは総決起に至らぬまま、燎原の大火となる前にボヤとして火を消されてしまう。
「あいつらは、これまでのエルトリア軍とは違う」
ウェルティスは認めざるを得なかった。例年に増して早い冬の訪れは天祐であったのだが、スタニウムの攻略に満足して、そこで越冬してくれればいいものを、今度はユルゲニスに向けてメサ川沿いを北上していた。
二年前のゴルニア遠征軍をさんざんに打ち負かせたのは、連中がもたもたと拠点作りに必死になっていたからだ。足元の安定化を計って時間を浪費したがために、諸部族は結束するための談合を悠々と行う事が出来た。もちろん、それも万全ではないがためにエシュシュをエルトリアの拠点とされてしまったわけだが。
しかし、それはこの俺が居なかったからだ。若い自信とともにうそぶいて、ウェルティスは今度こそ完全なエルトリア軍の撃退を成し遂げるつもりだった。だと言うのに、魔女に率いられたエルトリア軍は、毎回、こちらの想定を上回る速度で動いてくる。
ゴルニアを縦断する大河の橋は全て落としていたが、それとて悪あがきに過ぎない。土木工事に長けたエルトリア軍はたちまち架橋してしまうだろう。メサ川を越えられると、あとはユルゲニスまで数日の距離だった。
戸惑いつつも、ユルゲニスでは籠城に向けた準備が始まっている。住民たちが戸惑うのも無理はなかった。ユルゲニスが戦場になるのが、いつ以来になるのか、だれも覚えていないくらいだからだ。
それはゴルニア最奥部の都だった。かつての帝国の都でもあり、その守りは厚い。
しかし、それでも勝てるのかと、要害スタニウムの惨状を引き合いに出して不安を覚える者も少なくはない。難民はスタニウムのロンダリア族ばかりではなく、エルトリア軍の進路上にある集落の住民たちは続々と保護を求めてユルゲニスに殺到していた。その様は戦争に敗れた民族の姿そのもので、先行きの暗さを示唆するものだった。今やエルトリア軍の進撃を阻むのは、古の帝国の都をおいて他になかった。
そのような時にこそ王が民心を鎮めるべきなのだが、誰よりも不安と焦りを強く感じていたのが、ゴルニア王その人に他ならなかった。今は、今だけは群衆の前に無様な姿を晒すわけにはいかない。
ウェルティスは戦争の天才だった。東方では盛んに戦術論が戦わされ、ひとつの体系化を見ようとしていた時期であるが、ウェルティスの感性はその先にあった。もっと大局的な、後世に戦略として知られる概念である。一勝一敗に拘って術理を尽くすのは秀才のやることで、天才は勝って当然の体制作りにこそ拘る。
その天才が拘ったのが、ゴルニア総決起に他ならなかった。全部族が揃って立てば、もはやエルトリア軍とてボーレア山脈を越える事は敵わない。たとえ多少の勝ちを拾ったところで、至る所に敵が潜む場所では、兵站が維持できないからだ。どころか、ウァリア属州においても、同胞の偉業に感化されたゴルニア人がエルトリア帝国から離反する事態が十分に期待できた。
結局のところ、ゴルニア征服の阻止は、総決起の成否によって決まる。その実現が危ぶまれた時、肌で危機感を覚えたのは構想を練り上げた天才に他ならなかった。
そして、天才の感性が、エルトリア軍の動きの中に、鋭い意思の存在を感覚させていた。それを歴戦のトゥリアス将軍のものだと思っていたが、どうも違うとウェルティスは考えを改めていた。
この向こう見ずで、常識はずれな行動は、幼いほどに鮮烈な若さを感じさせた。これは中年男のやる事ではない。すると――これは魔女と呼ばれる総督の采配なのか。
だとすれば、新しい総督は天才に違いない。あるいは、それこそエルトリアの神の寵愛を受けた英雄なのかもしれない。だが、俺とて英雄となるべき男だ。ウェルティスの中で反骨が鎌首をもたげる。全ゴルニアを統治する、帝国の王となるべく生まれた男なのだ。
「だが……」
認めよう。ウェルティスは苦さと共に、ある種の高揚を覚える。見も知らぬエルトリアの少女に思いを馳せる。この俺の戦略を反故にしようとする圧倒的な勢いを持つ女とは、どんな奴なのか。しかし、どうであろうとその器さえ飲み干して、俺こそが不世出の大器であると証明してみせる。
若者の熱っぽい決意は、勢いに乗りきれぬまま、急速に冷えてしぼんだ。どのように決意したところで、現状の不利は覆すことができないからだ。
「このままでは……」
ゴルニアは自由を奪われる。エルトリア人は過酷な搾取を秩序と呼び、もたらした荒廃を平和と呼ぶような連中だ。ウェルティスがスタニウムの虐殺を平然とやり過ごせるのも、この戦争の敗北によって、同等の悲劇があまねくゴルニア人の頭上に降りかかる事が分かり切っているからだった。
だから、何としても、いかなる犠牲を払っても、勝たなくてはならない。でなくては、ゴルニアの子孫たちは搾取され、虐殺されながら、家畜同然に生きるしかなくなってしまう。
超然とし、時に冷酷に見えるゴルニア王は、その実、情熱的な理想に突き動かされる、ありていな若者だった。言ってみれば、それは頭でっかちなインテリだった。このままではいけないと焦慮に突き動かされる時、その行動は過激で、容赦を忘れる。古い習慣の枠を壊すことにためらいがない。
今は無理だが、いずれ長老会議などという害毒にしかならない制度は壊す。反対する者は皆殺しにする。エルトリア軍を撃退したと言う絶対的な実績を背景に、ウェルティスは断固として改革を実行するつもりでいた。そうして絶対の支配権を確立し、新しいルーヴェニア帝国を築くのだ。
あるいは――その人情味のない過激さだけが、古い因習に縛られたゴルニア社会の弊害を打ち壊し、新生させることが出来るのだとすれば――ウェルティスこそは真実、ゴルニアの神の化身であるのかも知れなかった。生贄を対価に民に祝福をもたらす神だ。
不意に、バタバタと慌ただしい音が寝静まった屋敷に響いた。神経質になっていた天才肌の王は、その騒々しさに不快気な表情を見せる。
足音は、ウェルティスの部屋の入り口でぴたりと止まった。その闇の中に、月光の照り返しを受けたサンジェナトスの顔を見出して、ウェルティスはようやく口元を緩める事が出来た。
なんとなれば、青白い月光にさらされながらも、年嵩の従兄弟の顔は紅潮して、緩む口元を意識的に引き締めているのが見えたからだ。もたらされるのが吉報だと、その表情が何よりも語っていたからだ。
「やったぞ、ウェルティス」
口を開いたサンジェナトスは、端的にそれだけを言った。その報告だけを心待ちにしていたウェルティスにとって、それで十分だった。