Ⅱ気勢
「奇襲?」
エストリカは愕然としながら、工事途中の接城土手を凝視していた。丘陵に築いた本営からは、エルトリア軍団兵を示すチュニックの赤色が前方と側面から半包囲されているのがよく見えた。いったい、あの敵はどこから湧いて来たのか。
「どうやら、市内から崖下に出る抜け道があったようですな」
トゥリアスが苦々しく答えた。おそらく、敵は前夜の内に目立たぬように移動して、散開して伏せていたのだろう。矢で注意を城壁に引きつけた隙に、接城土手によじ登り、そのまま半包囲で工事に当たっていた部隊を殲滅しに掛かった――と言った所か。
自ら築いた土手ではあるが、防戦するには地勢が良くない。人間は下り坂を後ろ向きに歩けるようには出来ていない。攻撃を受けると簡単に転ぶ状況では、エルトリア軍得意の密集隊形は簡単に崩壊してしまう。となると、散開して乱戦にもつれ込む事になるが、訓練の不足は如何ともしがたい。
加えて、戦力比が問題だった。見える範囲から推測しても、ロンダリア族は戦力のほとんどを投入したようだった。応戦しているエルトリア軍の四倍から五倍近く見える。当然、このままでは壊滅を免れないが、トゥリアスとて座して状況を見守っていたわけではない。すでに城門側の工事に回していた部隊を救援に向かわせるように指示を下していた。周辺警戒に当たっている補助軍団を動員するかについては、現状では判断できなかった。ウェルティスが率いているはずのゴルニア軍の動きが不透明だったからだ。
前線を預かる将校たちも、後方で休憩していた部隊を投入して、何とか持ちこたえようとしているはずだった。
エストリカの視線に気づいて、トゥリアスは歪んでいた口元を引き締めた。口にこそ出さないが、総督は事態の打開策を問うている。このまま防戦を維持するのか、一度後退させて体勢を整えるのか。
経験豊富な将軍にとっても、それは難題だった。
中年男の分別が後退の判断に傾く。この状況での後退は難しい。後退すればたちまち敵の逆落としを食らって、相当の被害が出る。だが、このまま部隊を順次投入した所で混乱が拡大するだけではないのか?
指揮官にとって最悪なのは、収拾のつかない殺し合いだった。引くも進むも出来ないまま、徹底的な消耗戦になる。それが決戦と言うなら、状況次第では「あり」だが、エルトリア軍はここで消耗しきることを容認できない。
スタニウムの背後に、ルーヴェニア族の本拠地ユルゲニスを残しているからだ。
ならば、いっそ被害を覚悟で後退して体勢を立て直し、戦列を組んで迎撃する方が確実だ。なにしろ、軍団の半数以上が新兵同然なのだ。乱戦では蛮勇を美徳とするゴルニア戦士には敵わない。
仕方あるまい。意を決したトゥリアスが号令を伝えるラッパ手を探して振り返ると、そこには派手な兜飾りのついた兜をかぶって、戦闘準備を整えた主席百人隊長フィリポスが立っていた。
「閣下、我らにお任せください」
思わぬ進言に、トゥリアスは渋面を隠せなかった。
百人隊長と言うが、その主席だけは別格で、実際には大隊長クラスの役職である。幹部のみを召集する総督府の戦術会議にも出席できる。通常は平民出身者の最高到達点なので、一段劣る百人隊長と規定されているだけだった。翻せば、叩き上げの最古参である。それに相応しく、麾下大隊も特別だった。最古参を集中的に集めた――それゆえに定員の少ない――虎の子の第三大隊を預かっている。第三戦列で待機して、最終局面で敵を潰走させるために投入される精鋭部隊だった。
そのために工事には投入せず、本営近くに留まらせて温存して来た精鋭部隊をここで投入しろと、そういう意味だった。
バカな、あんな状況に投入して、切り札を消耗させるなど、あってはならん事だ。トゥリアスは主席百人隊長のいかめしい顔をぎろりと睨んだ。が、容易に否定はできない。第三大隊の投入で一気に押し返すと言うのも、考えないではなかったからだ。慎重論を決していたはずのトゥリアスの心がぐらりと揺れて、容易に決断を下せなかった。
少し、少し待て。よく考えなくてはならない。トゥリアスは焦りによって頭髪の薄くなった額に汗をかきながら、自分を落ち着けようと「よく考えろ」と心に繰り返す。
その横を、すっと小柄な人影が通り過ぎる。それまでじっと事態の推移を見守っていたエストリカだった。
「行くぞ、主席百人隊長!」
その姿は颯爽たるものだった。
「お任せを」
意見を容れられたフィリポスは当たり前のように応じて、エストリカの後を負う。
トゥリアスは一瞬だけ自失して、すぐに足早に総督の後を追いかけた。将軍を通さず、エストリカが命令を下したのは、これが初めてだった。いや、能動的に下した命令そのものが初めてだ。が、指揮系統を無視された事より、その内容にトゥリアスは驚愕した。
「閣下、行くとは……最前線にお出になるつもりですか!?」
その声には困惑と、そして迷惑げな響きがあった。後方でじっとしている分には問題ないが、万が一にも戦死されたりしたら、トゥリアスは地位どころか命さえ失うことになるだろう。累が一族に及ぶこともありうる。だが、エストリカは中年男の事情を斟酌したりしなかった。
「当然だ。他にどこに行く? 親衛隊も我に続け!」
甲高い少女の声に、咄嗟の事で役目を忘れていた親衛隊がばらばらと駆け寄って来て、素早く少女の周囲に壁を作った。その親衛隊員を押しのけながら、トゥリアスは叫んだ。
「危険です!」
「当たり前だ! ここは戦場だぞ」
「そうではなくて……」
言い募ろうとしたトゥリアスを無視して、エストリカは手近な連絡士官に命じた。
「私より後ろに下がった者はすべて処刑すると、前線の将兵に伝えておけ」
「すぐに!」
応じてパッと走り出した士官を呆然と見送りながら、トゥリアスはいつの間にか足を止めていた。エストリカに率いられて、第三大隊と親衛隊が小走りに前線に向かう。
総司令官みずから、劣勢の前線に立つなど正気の沙汰ではない。万一の事があったらどうするのだ。そう思いながら、トゥリアスには止められなかった。
止められるはずがない。何しろ、数百人の屈強な男たちが「その気」になっている。つまり、エストリカと一緒に戦って敵を追い払うのだと、意気込んでいる。
「流されおって、バカ者どもが!」
叫んだところで後の祭りだった。
ひとり本営に取り残されるまま、トゥリアスは溜息をついた。
ほとんど空になった本営は、まるで嵐が去ったようだった。不意に吹きつけた風が薄くなった頭髪を巻き上げた。広くなった額に寒さを感じて、中年の将軍はハッと気付いた。最前までそこにあった熱気を、ようやくトゥリアスは悟ったのだ。
つまり、それこそが若さと言うものだった。部下は宿将の慎重さに同調しこそすれ、心酔はしない。醒めるばかりで酔えるはずもない。とすれば、彼らを酔わせるのは、頑なに勝利に向けて邁進する若さに他ならない。
「これは、俺も行かねばなるまい」
戦場とは、元来がそういうものだ。冷静な計算もいいだろう。的確な指揮も必要だろう。だが、戦場の熱気に身を焦がすまま、皆が一体の奔流となって走り出した時、それは容易に止められぬ力となる。
それは負けないための力ではなく、勝つための力だった。だから、戦いとはそういうものなのだ。暴力によって強引に相手をねじ伏せる。抵抗さえ許さぬ暴力こそ、勝者の条件だった。あらゆる行為が無駄だと悟る時、人は敗者として打ちひしがれるのだ。
「なれば、軍神ジグラトの加護もあろうよ」
戸惑う従者から兜を奪うように受け取ると、兜の緒を締めながら自棄気味に呟いたトゥリアスは泥を蹴立てて走り始めた。走り出した途端に、カッと燃え上がる熱さが血管を駆け巡るように感じられた。
エルトリア人は、属州化を拒むゴルニア人を蛮族と蔑む。未開の森林地帯に住み着いた原始人だと嘲ってはばからない。その正しさの程を、戦う兵士たちは知らなかったが、少なくともその蛮勇だけは教え込まれた、命という高すぎる教育費と引き換えに。
密集隊形を解いて乱戦に入るが早いか、奇声を上げて襲いかかって来るゴルニア戦士の前に、第一大隊の四個中隊は、瞬く間に自らの戦友で死体の山を築きつつあった。
ロンダリア族の突撃は凄まじかった。
エルトリア軍の戦闘スタイルは、盾で攻撃を防ぎながら、剣で反撃すると言うものだ。まず受け止め、押し返して反撃を加える。その基本は集団戦でも個人戦でも大して変わらない。
が、ゴルニア兵は剣や手斧が盾に止められてもおかまいなしに体ごとぶつかって来る。それでエルトリア兵がぐらりと体勢を崩そうものなら、蹴り飛ばし、あるいは柄を握ったままの拳を叩き込んで押し倒す。そしてベルトから短剣を抜きとって、もがく敵の急所に突き立てるのだ。
まったく洗練されていない、まるで喧嘩だったが、喧嘩と言うなら、相手を呑んだ者が勝つ。圧倒的な気勢を前に、エルトリア兵はじりじりと後退して、徐々に一箇所に集まり始めていた。するとゴルニア兵もそちらに押し掛け、互いに押し合いへし合うばかりの敵に襲いかかる。
ゴルニア兵は派手な戦化粧を施していたが、今やその上に返り血で模様が描かれて、壮絶な迫力となっていた。
防戦もままならぬほど劣勢に立たされていた前線の将兵は、その苦境の中にあってぎょっとした。視界の端に閃く黄金色と緋色を認めて、思わず二度見した者とて少なくはなかった。あるいは突然の襲撃と合わせて、白昼夢でも見ているのかと疑った者も一人や二人ではなかった。
月桂樹の金冠を頂き、緋色のマントを翻した小さな姿は、見間違えようもない彼らの総司令官だったからだ。
もっとも驚いたのはロンダリア族の戦士団とて同じだった。子供、それも小娘が立派な鎧を身に着けて、前線に駈け込んで来たのだ。あれは、何だ?
互いに呆気に取られて、思わず斬り合いを中断している連中まで居る始末だった。
しかし、エストリカはそんな前線の様子には頓着せず、言いたい事を言い放った。
「下がるな! 押し返せ! それでも我が最強軍団の軍人か!」
鋭く叱咤した声に、第一大隊の将兵は身を竦めた。
「総督より後ろに下がった者は処刑する」
伝令が先に触れまわっているのは聞こえていた。が、それは潰走を許さないと、本営まで下がるなと、そう言う命令に違いないと思い込んでいたのだ。それが、まさか総督の方が前に出て来るなど、思ってもみなかった。
なぜなら、彼らの総督はまだ十六歳の少女なのだ。歴史に燦然と輝く名将でも猛将でもなかった。そこでふと、総督の就任演説を思い出した。
帝国の歴史は綺羅星のごとき英雄によって作られたのではない。いつ、どこにあっても、エルトリア軍団が最強だったからだ。総督はそう言ったのだ。だから、か。エルトリア軍団は最強だから、幼い総督に危険はないと言う事か。
閃いた瞬間、将兵はカッと燃え上がった。総督は俺たちを信じているのだ。いかなる苦境にあっても、必ず最後は勝利を得るのだと、それを為し得る男たちだと見込まれたという事か。
「第十二軍団!」
誰かが叫び、それに多くが唱和した。壊滅の予感に背中を濡らしていた冷たい汗が消えた。代わりに噴き出すのは、狂おしいほどの熱気だった。身体が熱い。盾の後ろに縮こまって、じっとなどしていられない。
「第十二軍団!」
奇襲を受け、気迫で押されていた第一大隊が必死に敵を押し返し始める。軍団兵とて元を質せばゴルニア人であり、体格で劣るわけではない。ろくに剣を扱えなくても、盾ごと敵にぶつかって、押し合いへしあいしながら揉み合うことは出来る。気合いで負けなければ、押し負けたりしない。
「第十二軍団!」
逆にゴルニア兵は意気を削がれていた。いきなり目の前の弱兵が勢いづいていた。やけくそと言うのではない。瞳に闘志を燃やして、肌から湯気を立ち昇らせて、みなぎる気力を全身で表現している。こいつらは勝つ気だ。最前までの情けない顔の腰抜けはいない。あの小娘が登場して、一気に場の空気が変わっていた。
あれは魔女か? 何か魔術を使ったのか? それともあれは、異教の神の化身なのか?
得体の知れない超常の力としか思えない。そういう力を使う戦神の化身は、ゴルニアの伝承にも知られていた。となれば、エルトリア軍は神の加護を得ていると言う事だった。信心深さを戦化粧に表すゴルニアの戦士にとって、それは死活問題だった。
部族の神官に祈祷を捧げてもらわなければならないと本気で考える者もいた。神官の教えに拠れば、日常はおおむね人の領分だが、戦や祭事という非日常は神の領分だからだ。戦場に少女が出て来るというのは、極め付きの非日常に違いなかった。
でなくとも、ロンダリア軍の多くは城市を包囲された緊急時に武器を取った平民に過ぎなかった。質においてはエルトリア軍団の新兵となんら変わらないのだ。勢いがある内は狂乱のままに敵を圧倒できたが、攻勢を支える体力が息切れを始めた今、不意の反撃に狂乱の酔いが醒めると、もう最前までのように大胆な戦いは出来なかった。
そこへ、第三大隊の五百余名が加勢した。駆け上がって来た勢いをそのままに、大盾の縁を使ってゴルニア兵を殴りつけ、あるいは剣を巧みに操って腕を斬り飛ばし、胴を貫く。さんざんゴルニア動乱で修羅場を経験して来ただけに、その働きは目覚ましい。浮足立ったロンダリア族を一方的に蹴散らしていく。
だが、その中を親衛隊に守られながら、大股にエストリカが歩いて行くのだから、古参兵たちとてうかうかしてはいられない。総督より前に、前にと、強引なほどに前進していく。
総大将の叱咤と精鋭大隊の加勢を受けて、これまでの劣勢が嘘のような反撃が始まった。
だが、エストリカはそのような合理的な計算で突き進んだわけではなかった。極論すれば、それは単に喧嘩をしに来ただけだった。相手が殴りつけて来たのなら、遠慮なく殴り返すべきだ。そんな単純明快な理屈も忘れたのか、トゥリアス以下の軍人たちがまごついているので、発破をかけに来た。それだけだった。
「やればできるじゃない」
すっかり委縮した敵を蹴散らす軍団兵の姿を見ながら、エストリカは満足げに呟いた。勘違いして気勢を上げる軍団兵をバカ者だと言うのなら、この戦場で一番の大バカは彼らを率いる総督に他ならなかった。
「なんて事だ!」
病身の寒気に冷たい汗を滴らせながら、この世の終わりかと思うような絶望の滲む声を上げたのは、急いで本営に引き返して来たアリウスだった。
眼前に広がるパノラマの一角では、敵味方が入り乱れて激しく戦っている。山々に怒号が木霊して、雷鳴にも似た轟きとなってここまで届いていた。アリウスたちを呼び寄せたのは、その音だった。
「決定的な瞬間を見逃してしまうなんて!」
身を蝕む疲労も忘れて叫んだアリウスは派手に咳き込んだ。
「そんな事より、姫様は!?」
自称作家の苦悩を突き飛ばして、シノンが悲鳴に近い声を上げる。当然、そこに居るべき総督の姿はなく、どころかトゥリアス将軍や幕僚の姿も見当たらない。まさか、まさかと唇を震わせて、曇天の下で繰り広げられている戦いの光景を凝視した奴隷は、今度こそ悲鳴を上げた。
さほど目をこらさなくても、傾斜路の上端近くで戦っている両軍の中央に大きな空白が見えた。その中央に、遠目にも鮮やかな緋色の長いマントを見て取るのは難しくなかった。どころか、ひときわ贅をこらした装飾の軍旗が突き出されて、総大将の存在をアピールしている。とどめとばかりに、その上空に円を描いて舞うのはフレースに違いなかった。
「なんで姫様が!」
仰天してうろたえるシノンの横で、アリウスはダークブラウンの瞳をきらきらと輝かせていた。それはつまり、苦境にあって総司令官みずからが前線に出馬したのだと、書物で読んだ知識を刷り合わせた青年は、事情も分からぬままに興奮していた。
これこそ大衆好みのヒロイズムというものだ。十六歳の少女に叱咤され、一丸となって敵の猛攻に反撃を加える軍団兵。勝利を記念する凱旋門や列柱のレリーフにも刻まれそうな光景だった。
興奮するままにアリウスは懐から丸めていた羊皮紙を取り出して、ぬかりなく携行していた鉄ペンを携帯用のインク壺に浸していた。先の事情は分からないが、とにもかくにも今は落雷のごとく全身を打った霊感――と彼は信じた――に命じられるままに筆を走らせずにはおけなかった。
筆は驚くほど滑らかに進む。素晴らしい表現も思いのままに書き出す事が出来た。それと同時に、清書の際にはここをこうして、これを少し前の部分と関連付けてと、そんな構想さえ次々と湧き上がって来る。
売れない素人作家にとって、それは神々の祝福さえ彷彿とさせる至福の時間だった。
「いいぞ、いいぞ!」
立ったまま目にした情景を走り書きしながら、思わず口走ったアリウスは、唐突に背後から蹴飛ばされた。
予想もしなかった不意打ちに、アリウスは「わっ」と一声上げて、頭から足元の泥濘に突っ込んだ。ぐちゃっ、と顔面で湿った音をさせながら、跳ねた泥が鎧やチュニックを遠慮なく汚した。
「あ、ああ、ああぁ……」
だが、アリウスの口をわななかせたのは、怒りでも屈辱でもなく、絶望的な悲嘆だった。霊感に導かれるまま、これまでの執筆活動の中でも最高の集中力によって書きつづった傑作の下書きが泥まみれになっていたからだ。
「ああ、い、インクが……」
震える手で拾い上げた羊皮紙の上で、乾いてもいなかったインクは滲んで、泥と見分けがつかなかった。あれほど湧き上がった思索は、今や泥に溶けたインクのように意識の中から溶け崩れて跡形もない。残ったのは口の中に入った泥の苦さだけだった。
泥まみれの青年は、失われた宝物の残滓を抱いて、みっともなくぽろぽろと涙までこぼしていた。その姿はいじめられっ子そのものだった。そこに加害者が斬りつけるような声で怒鳴りつけた。
「バカですか!? いいわけがないでしょう! さっさと立って!」
金切声を上げたのはシノンだった。大切な姫が乱戦のただ中に立っていると言うのに、呑気に書き物を始めた副官を蹴り飛ばしたのも、もちろん彼女である。奴隷にあるまじき暴挙であるが、そんな建前は微塵も斟酌していない。いつも余裕を手放さないシノンが、この時ばかりは動転していた。
そして、大切な霊感を失ったアリウスもすっかり動転して、ほとんど自失していた。
「た、立つよ……」
宝物を打ち壊されたいじめられっ子がのろのろと立ち上がると、シノンは続けざまに命じた。
「走りなさい!」
「は、走る……? どこへ?」
「決まっているでしょう!? 姫様を連れ戻しに行くんです!」
「…………」
アリウスは意味が分からず、「僕が?」と言うように自分を指差した。
「他に誰が居るんです!? いいから、さっさと、姫様を連れ戻しなさい!!」
相手が病人だろうが半死人だろうが、あるいはたとえ死体だろうが、今のシノンには関係なかった。また蹴飛ばしかねない彼女の叱責に背中を押され、泥まみれの総督副官はふらふらと走り出した。この日の出来事を振り返って、アリウスは後にこのように記した。
『……慣れぬ異郷の風土に体調を崩していたアリウスは、大変な事態に直面した。それと言うのも、異変を察知した彼が本営に戻ると、エストリカの姿が見当たらなかったからである。総督は劣勢に立たされていた兵士たちを激励するため、危険を顧みずに最前線へと躍り出て、陣頭指揮を取っていた。
総督の身に万一の事があってはならぬと、アリウスは病身を押して前線へと向かったが、彼の心配は杞憂に終わった。なぜなら、彼が駆け付けた時には、軍団兵が勝鬨を上げていたからだ。
ロンダリア族の奇襲攻撃は実に巧妙であったが、エストリカの勇気に奮い立った第十二軍団は見事にこれを撃退した。その日の戦闘で第一大隊の百名ほどが失われたが、敵はその五十倍にも及ぶ死骸を山と積み上げることになった。
四日後、戦力の大半を失った城市は、奮戦むなしく陥落した。』
何度となく書き直して、ようやく纏めた記述はごく簡素なものとなった。消えてしまった素晴らしい文章に匹敵すると思えるだけの名文は生み出せず、やむなく簡潔さを求めた物にならざるを得なかった。
スタニウムを巡る大事の前にあって、シノンに蹴飛ばされて泥まみれになった小事は省略されて然るべきであった事は言うまでもない。