Ⅰ包囲戦
麾下第十二軍団に補助軍団を加え、計一万名弱となったゴルニア属州軍は、即座にエシュシュを進発して東に向かった。目的地はスタニウム。およそ六十メイル(約百キロメートル)の道程を踏破するために、強行軍で七日を擁した。
ここが文明未踏の地であることを示すかのように、進むにつれて森は深く、道は細くなった。地形の高低差も無視できるものではなく、むしろ迷わない方が不思議なほどだったが、測量こそ最大の仕事とするエルトリア軍士官たちにとって、方位と位置の算出は大した労苦とは言えなかった。
「にしても、こんな所によくもまあ住み着いていられるものだ」
と言うのが、奥地に分け入りつつある将兵の口癖のようになっていた。昼だと言うのに薄暗いのは、頭上に伸びた枝葉が陽光を遮るためだった。夜は狼の遠吠えが木々の向こうから木霊する。
鬱蒼と茂る木々の隙間から、ゴルニア人がこちらを窺っているのではないかと疑ったが、その姿を見つけられないがために、かえって感じられた視線の主が何だったのかが不安を煽った。
これがゴルニア奥地の原風景だった。ゴルニア人が築いた城市や集落というのは、深緑の海に浮かぶ小島のようなもので、最低限の連絡線しか確保されていない。それはエルトリア帝国が執拗に属州を結ぶ幹線道路を整備している様とは対極的だった。
それらのか細いネットワークを維持していたルーヴェニア帝国が崩壊すると、交流関係が小さな範囲に留まり、大小の部族集団が各地を割拠するのも自明と言える。
深い森は、むしろ砂漠に等しいと言った方が、将兵の不安を的確に表現できたかもしれない。とすれば、随所の城市はオアシスに等しい。そこだけは自然の脅威から逃れられる避難所なのだから。
とはいえ、軍勢を覆う不安をよそに、行軍じたいは順調に消化された。いざスタニウムに対して包囲陣を敷いても、懸念されたゴルニア軍による襲撃はなかった。緒戦での手痛い反撃を受けて、早くも意気を喪失したのではないかと、楽観的な憶測が流れないではなかったが、その一方で、包囲されたスタニウムは降伏する兆しを見せなかった。
「早まったかもしれん」
トゥリアスは苦い思いとともに、眼前に広がるパノラマを眺めていた。
切り立った崖の上に築かれた城市こそ、攻略目標に据えたスタニウムである。籠城しているのはスタニウムの住民と本拠地を守るロンダリア族の戦士団で、総数はおよそ五万。そのうち戦力は一万前後と推測されたが、戦力よりも厄介なのは、他でもなく地勢を利した天然の要害だった。
唯一の市門に続く坂道は傾斜がきつすぎて、大型の破城槌を投入できず、かと言って外周を取り囲む城壁の頂上は崖の高低差を利しておよそ八ウナス(約十四メートル)の彼方である。第十二軍団を主体に補助軍団を加えたゴルニア属州軍は、戦う前にまず土木工事から始めなくてはならなかった。
トゥリアスを中心にまとめた計画は、二方向からの攻略だった。
一方は城門に続く道を土砂で延長して傾斜を緩やかにし、破城槌を投入する。もう一方は反対側の崖下から、こちらも土砂で登坂路――接城土手と呼ばれる――を造成する。いずれも大工事であるとは事前に分かっていたが、それにしても包囲を開始してから十日で、まだ土手の造営を続けている状況だった。
本来なら、すでに実際に刃を交える段階に入っていたはずだが、その目論見は甘かったと言わざるを得ない。
第十二軍団の四千名ほどを八つのグループに分けて、それぞれ二カ所の工事に四交代制で突貫作業を行わせていたが、それでも工事は難航していた。ゴルニア軍の増援を警戒して周囲を有刺鉄線と馬防柵で封鎖しており、補助軍団はその警備に振り向けているから工事に増員するわけにはいかない。
工事が大幅に遅れている理由は鈍色の空にあった。ここ数日、大きく天候が崩れて、工事を遅延させていた。エステルの月四十日――確かにもう晩秋も過ぎた初冬には違いなかったが、多少の降雪も予測の内ではあった。それにしても酷いのは、雪になりきらない氷雨だった。
地面はぬかるんで仕事を増やし、さらに雨に打たれて作業する兵隊には体調を崩す者が続出していた。工事に動員した兵士の半分が体調を崩し、その内のさらに半分は風土病の感染が疑われる状況だった。
これでは戦う以前に軍団が壊滅しかねない。
険しい表情で総指揮に当たるトゥリアスにしたところで、連日の疲労が顔に濃い影を落とし、鉄鋲を打った頑丈なサンダルばかりか脛当てまで泥に塗れている。現場を歩きまわって工事を視察して回っているからだ。それでも実際の肉体労働を負担しないだけ、その疲労も軽いと言えた。
悠々としているのは、原生林で獲物に困らないフレースぐらいのものだ。この軍神の御使いは、すっかりお気に入りになったらしい司令部の軍旗の上に留まって、しきりに獲物を探している。
それにしても問題なのは――本営の中を振り返って、トゥリアスは溜息をこらえた。床几に座ったまま、青い顔でうつむいているアリウスの姿が見えた。
森林地帯の行軍だけで疲れ果てていた文学青年が、体調を崩さないはずがなかった。行軍の五日目辺りで騎乗もできず、荷馬車に積み込まれていたほどだったのだから、なおさらだった。
あまりの体力のなさに将兵も閉口気味で、
「死んでないだけ余計に質が悪い」
と、手のかかる総督副官の陰口を叩いている始末だった。
「もういいから、休んでいなさい」
むしろ小柄な割によほど元気なエストリカが鬱陶しそうに言うのだが、アリウスは座ったまま動こうとしない。あれも意外に頑固な男だ。トゥリアスは何とも形容しがたい表情でそちらに歩み寄り、青年の尖った肩に手を置いた。
「閣下のおっしゃる通りにしなさい。とりあえずスタニウムを落とすまでは、君の仕事はないのだ」
子供でもあやすような口調で言った将軍の言葉にうなずきはしたが、青い顔をしたアリウスはまだ動こうとはしない。動けないほど弱っているわけではない。その茶色い瞳はしっかりとスタニウムの方に向けられていた。
「いいから、さっさと引っ込みなさい。そんな陰気な顔で居座られたら、士気に関わるわ!」
とうとうエストリカが怒鳴りつけた。さすがにそれは効果があった。自分がどれほど酷い状態なのか、疲弊しすぎていて自覚症状がなかったらしい。
「シノン、連れて行って」
「承知いたしました、姫様。さ、アリウス様、参りましょう」
仕方なくアリウスはうなずいて、立ち上がった。軽く咳き込み、悪寒に身を震わせる姿は、どこからどう見ても病人である。
「軍隊生活がこれほどしんどいとは思わなかった」
シノンに寄り添われて天幕に戻る道すがら、アリウスはぼそぼそと呟いた。歴史の勉強の一環として、古代の英雄たちの業績を扱った本もかなり読んだのだが、あれは嘘ではないにせよ、真実ではないな、と思う。
行軍するだけでも疲れは溜まるし、ゆっくりと休んでいる暇もない。ようやく野営地に身を落ち着けても、いつ敵の襲撃があるか分からない中で、神経は尖るばかりで気が休まらない。
偉大な英雄や屈強な兵士たちは疲れ知らずだったのかもしれないが、普通の人間はそうではないのだ。どこそこから数日で移動して、敵を撃破した――たったこれだけの記述の裏で、どれだけの兵士が疲労困憊していたとか、風土病で何人が命を落としたかなどは書かれない。
結局、歴史の記述というのは、事の大小を見比べて、小を切り捨てる作業だ。それを悪いとは言わない。紙幅には限りがあるのだから、仕方ない。だが、こうして現場を経験したからには、アリウスには書かずに済まそうという気にはならなかった。
とは言え、そうした部分は大衆受けしないのだろうな、などとぼんやり考える。いや、弱気になるな。姫君によるゴルニア征服戦争の実録記と言うだけで十分に話題性がある。売れる、売れるはずだ。少しぐらい自己主張しても問題はない。
この期に及んでもそんな事を考えているのは、作家としての成功こそ捨てられない夢だったからだ。でなければ、もう数年で三十になる大の男が貧乏を甘受してまでしがみついたりしない。そういう夢がなければ、ここまで行軍に喰らいついて来るだけの気力もとうに尽きていただろう。もっとも、一日の終わりに筆を取る作業が休憩時間を削って、余計にアリウスを弱らせているのだから、夢という名の麻薬を摂取しているようなものだ。
「にしても、作戦に同意した僕は迂闊だった。こんなに厳しい状況になるとは思わなかった」
熱に浮かされているのか、アリウスはぶつぶつと後ろ向きな独り言をやめようとしない。それを見て、シノンは姫様のおっしゃる通りだと納得した。こんな景気の悪い総督副官が本営に陣取っていては、たちまち首脳部の士気を下げてしまうだろう。その次は将校が伝染し、下士官、軍団兵と瞬く間にやる気をなくしてしまう。
と言うか、周りが頑張って働いているのに、ひとり何もせずに後ろ向きな発言を続けるアリウスに腹立たしさが湧いて来る。ちくりと皮肉を言わずにはおけなかった。
「どちらかと言うと、アリウス様の体力がなさすぎるのだと思いますが」
「む……」
慇懃無礼なシノンの言葉に、アリウスは大きく顔をしかめた。
屈強な兵士ならともかく、シノンに指摘されると痛い。なんだかんだで、ここに居ると言う事は、彼女も行軍に付いて来たのだ。さすがに歩かせるのは酷だと、エストリカからロバをあてがわれていたし、甲冑も荷物も身に着けてはいなかったにしても。
「百人隊長以下は雨に打たれながら泥まみれで作業していますし、騎兵隊はひっきりなしに周辺警戒で動き回っています。なのに、あなたときたら、行軍だけで死にそうな顔をして、その上、見苦しい愚痴ばかり……とても副官に値する方とは思えません」
「頼んで副官にしてもらったわけじゃない」
「そう言えばそうですね」
悪びれずもせずに答えたシノンに、アリウスは歯ぎしりしたが、傍目には悪寒に歯を鳴らしているだけに見えた。
「君らが、我が従兄弟殿の無責任な放言とハルニウスの家門に勝手に当て込んでいただけで、僕はもともと軍人向きなんかじゃないんだ」
「エシュシュ奪還の功績は少なくないものであったと思いますが?」
「む、おだてても僕は木には登らないぞ」
「別に褒めているわけではありませんわ。むしろ、やる気のないあなたにしては、なぜ積極的に献策をなさったのか、それが分かりません。当初のトゥリアス将軍の方針であれば、アリウス様は少しも苦労されることはなかったでしょうに」
「それは、その……やる気がないわけじゃない。副官としての責務もある」
「なるほど、いちおう自覚はお持ちのようですね。少し安心いたしました」
失礼な。僕とて貴族なんだぞ。容赦のないシノンに言いように憮然としたものの、文句は胸の内だけにとどめた。迂闊に文句を付ければ鋭く切り返されるのは目に見えている。相手は高等教育を受けた才女なのだ。
「にしても、自身の適性を分かっていながら、なぜ本営に留まろうとしたのですか?」
「……後方の天幕からでは、戦況が見えない」
「わたくしは軍隊に詳しくはありませんが、将軍がおっしゃった通り、スタニウムを落とさない限り、アリウス様に仕事があるとは思えませんけれど」
「それは……そうだが」
実戦経験のなさに加えて、アリウスには通常は一兵の指揮権もない。あるのはエストリカに助言する役目だけで、戦術面における技術的な問題は、実戦経験豊富なトゥリアスに一任していれば問題ない。実際、エシュシュ奪還はトゥリアスの優れた手腕がなければ机上の空論に過ぎなかった。
やむなく、文学青年は秘密にしていた野望を口にした。
「僕は……この征服戦争を書物に著すつもりだ。きっと大いに売れるだろう。資料となる日記も付けているんだ。だから、一部始終を見届けておきたい」
「……なるほど、それがアリウス様の目的ですか」
「三文文士の夢だと笑うかい? どうせ君は僕の本が出版された事がないと知っているんだろう?」
「はい。ですが、自分で見もしない物を笑うほど、品性がないわけではありません。それに素晴らしい事だと思いますよ」
「本当に?」
思わぬ相手に賛同されて、アリウスは体調不良を忘れて、少年のように目を輝かせた。捨てられない夢にしがみつくままに生きて来た男は、ある意味で少年のままだった。シノンは真面目腐ってうなずいた。
「だって、征服戦争の業績となれば、姫様の功績です。それがベストセラーになれば、姫様の名声が高まります」
そう言う事か、と妙に納得しつつも、アリウスはうろたえた。
「え? いや、まだ勝つとは決まっていないわけで……」
すると、シノンが柳眉をしかめた。
「まさか、負けても公表するおつもりですか?」
「僕はただ征服戦争の事実を広く伝えるために――」
「許しません。姫様の恥を上塗りするような真似は、どうでもさせませんので、そのつもりで」
「ぼ、僕には言論の自由が……」
「どのみち、皇帝陛下がお許しにはなりません。陛下は姫様をたいそう可愛がっておいでですから」
アリウスの口元が引きつった。とかく親馬鹿というのは限度を知らない。エストリカがかぶっている黄金の月桂冠が、それをよく示している。さすがに枢密院の企みを阻止できなかったとは言え、アリウスなど家門を差し引くと何も残らない一青年であって、その生殺与奪は皇帝の権力の範疇だ。出版の差し止めだけでは済むまい。島流しどころか敗戦の責任を押し付けられて磔刑に処されてもおかしくはない。
「と言うわけですので、文壇に上がるためには、何としても姫様を勝たせて差し上げてください」
「…………」
結局、これまで以上に職務に精励しろと、そう言う事であるらしかった。そのためにも、こんな所で倒れてもらっては困ると、シノンの理屈はどこまでもエストリカが中心にある。
「奴隷にしても大した忠誠心だよ……」
「当然です。姫様はたいへん可愛らしいお方ですから」
見た目はともかく、性格的には可愛いという言葉に抵抗があったが、それを言うと酷い目に遭いそうなので、アリウスは黙っていた。それぐらいは理屈っぽい理想主義者も学習するのだ。
「戦況はちゃんとお知らせしますので、しっかり休んでいてください」
アリウスの天幕の前に来たところで、シノンはそう言い置いて引き返そうとした。
その時、低く垂れこめる曇天を切り裂くような大音響が鳴り響いた。
ウァリクムでの徴募で軍団兵に登録されたゴルニア人の若者たちは、ほとんどが軍団の第一大隊に配属されていた。第一大隊は第一戦列とも呼ばれる。陣形を組む際に最前列に立たされるからだ。要は敵の突撃を最初に受け止める、危険な位置である。
そこで経験を積み、いずれは欠員の出た第二大隊へ、そして古参兵で構成される第三大隊に異動となる。それまで生き残っていられれば、だが。
エシュシュを攻撃したのが、実戦経験者の多い第二、第三大隊だったから、ぴかぴかの新兵にとって、このスタニウム攻略線が最初の試練だった。そして、新兵の多くが最初の試練で斃れる事になる。
「ひっ」
若い兵士が引きつった悲鳴を上げた。どさりと力なく倒れたのは、彼の隣に居た味方の兵士だった。その喉に冗談のように矢が突き刺さっている。倒れた兵士はまだ生きていたが、助かるとは思えなかった。
「こんな、こんな……」
薄い唇をわななかせながら、上ずった声で繰り返す。こんな事って……。
直前までまったく予兆はなかった。攻城戦と言いながら、実際の所、エルトリア軍団の敵は籠城したロンダリア族ではなく、ぬかるんだ泥濘と、かじかむ寒さだった。用心のために先頭の作業グループは車輪の付いた移動式の防壁――障壁車の影に入っていたが、ろくな攻撃も受けないまま、軍団兵は疲れた体を酷使して土と木材を運び、押し固めて、土手を作っていた。
怯える若者の属する第八中隊は、崖下から接城土手を築く部隊に割り振られていた。五百名が百人隊ごとに作業を割り振られ、さらに班長の下で十人ずつのグループを作って延々と工事を続けていた。
これじゃあ、戦いに来たのか工事に来たのか分からない、と言うのが兵士たちの実感で、敵も案外に臆病だと小馬鹿にする気分さえあった。
それと同時にきつい土木工事に不平不満を漏らしていた兵士たちも、ここ二、三日は無駄口を叩く労力も惜しむほどに疲れ切っていた。これなら戦っている方がよほど楽じゃないかと、実戦経験のない新兵たちは辟易していた頃合いだった。
ロンダリア族は敵の疲労と、緊張の弛緩を待っていたのだろう。しかし、エルトリア兵からすると何の前触れもなく状況が一変していた。
それまで全く影も形も見えなかったゴルニア人たちが城壁の上に並んで矢を射かけて来た。
運の良かった者は、すぐに障壁車の影に身を潜めることができたのだが、引っ切り無しに降り注ぐ矢のために撤退もままならず、そうこうしている内に、投石機によって油壺が投げつけられ、火矢によって障壁車が燃え上がっていた。
燃え盛る勢いに驚いてばらばらと障壁車の影から飛び出した兵士たちを、降り注ぐ矢と投槍の雨が襲う。
「盾を並べろ! 亀甲隊形! 隊列を組め!」
百人隊長が指示を出し、それを班長がやかましく繰り返して、最前線に居た兵士たちが盾を並べ始める。最前列が目の前に、二列目がその頭上に、という具合で、盾で隙間なく前と頭上を覆った隊形だ。
が、その対応が遅い。ろくな訓練を受けていない兵士は突然の攻撃と火に混乱して、どうしていいのか分からないままに矢を受けて倒れた者も多かった。
その不幸な兵士たちの仲間入りだけは避ける事が出来た者は、自分の班かどうかも分からないまま、近くの隊伍に分け行って、亀甲隊形の中に閉じこもる。盾の傘の中は暗く、汗臭かった。直前まで土木工事に汗を流していた男たちが寄り集まっているのだから当然だ。そして、盾で視界を遮られて、状況が見えないためにひどく息苦しかった。
頭上の盾にガン、ガンとぶつかる音は、矢が弾かれた音か。幾つかがカッと突き立つ鋭い音を立てて、新兵たちの心臓を縮こまらせた。この中に居れば安全だと、自分に言い聞かせていなければ、逃げ出してしまいそうだった。
亀甲隊形の中のあちこちで、友人の安否を問う声が聞こえた。なぜか誰もが囁くような声だった。あるいは、大声を上げると敵に狙われそうだというような、思い込みのようなものがあったのかもしれない。それを迷信と笑い飛ばせる者は、戦場では長生きできない。
絶叫が噴き上がった。亀甲隊形の一つが炎に包まれ、ばらばらと逃げ出した兵士が次々と矢を浴びて倒れて行く。投石機の油壺をぶつけられたのだろう。火を消そうと必死でのたうち回る姿がいくつも見えた。別の隊は石弾の直撃を受けて、盾の甲羅に大きく穴を開けていた。
身を竦めた新兵の気配を察して、兵長が隊列を崩すなと厳命した。投石機の狙いなどいい加減なものだ。それよりも離散した所に矢を受ける可能性の方が高い。
「な、なんだって言うんだ?」
若い兵士たちは突然の凶事に怯えきっていた。もちろん、兵士として戦場にまで来たのだから、戦う覚悟はあったのだが、こうも一方的に攻撃されることなど考えていなかった。それに、彼らの勝手な思い込みでは、敵と戦うのはもっと先の事だった。
土手は城壁までまだ遠かった。矢で釘づけにしたところで、そこまでだ。亀甲隊形を組めば、矢は怖くない――はずだ。この状態ではエルトリア軍は反撃できないが、逆にゴルニア軍も決め手がなかった。
工事を遅延させるための嫌がらせにしては、本格的な攻撃だ。そう思うのは、新兵の弱気などではなく、本能的な直感だった。敵の気勢、と言った、曖昧だが確かに肌に感じ、本能を刺激する雰囲気があった。古参兵に至っては、それが総力を挙げた反撃の始まりだと早くも感じ取っている。
「抜剣! 総員、抜剣!」
次々と指揮官たちが怒鳴る声が連鎖した。兵士たちが亀甲隊形の中で顔を見合わせた。剣を抜け? それはつまり、白兵戦が始まると言う事だった。
「散開! 応戦しろ!」
命令が聞こえた。いつの間にか矢の連射は途切れている。クモの子を散らすように、密集していた兵士が散開した。盾の覆いが外れた瞬間、新兵たちは「ひっ」としゃくり上げるような声を上げた。
開けた視界いっぱいに派手な戦化粧を施したゴルニア兵が溢れ返っていた。