十一月の彼女
自宅のある船橋から、涼介が勤めるYN商事への出勤は京成本線のホームから始まる。
涼介はいつも、上り番線に到着する列車の二両目か三両目に乗り込む。乗客を掻き分けて奥へ行き、座席には目もくれず、北側のドアの前に張り付く。いわば涼介の指定席のような場所だった。さすがに車内は、朝の上り列車となればほぼ満員となり、薄ら寒い十一月の外気を忘れさせるには 十分な熱気が籠っていた。涼介は車内の喧騒から逃れるようにイヤフォンから流れる音原の音量を上げ、深く目を閉じた。
涼介を乗せた電車は国府台駅を過ぎるとすぐ橋架に進入し、江戸川を渡る。橋の上では走る電車の揺れや車輪が響かせる振動が微妙な変化を生み、目を閉じ、耳を塞いでいても今、川を渡っている事を涼介に知らせてくれる。涼介はふっと目を開き、張り付いていたドアの窓から橋架下の景色に目を遣った。悠々と流れる川の水面に朝日が照り返し、水紋が織りなす複雑な光の屈折が、朝の気だるさをほんの一瞬忘れさせてくれた。川の両岸には河川敷が広がり、少し枯れた芝と未だ誰も居ないグランドが、時間と季節の移ろいを演出していた。
会社に到着し、社屋のゲートを入ってコートを脱ぎ、ロッカーに入れる。そこでネクタイを締め直し、スーツの皺を少し気にして、所属している販売一課のあるフロアーを進んでいった。涼介はデスクに向いながら、ちらりと二課の方を一瞥した。彼女は書類の束をまとめながら熱心にパソコンの画面を覗き込んでいる。
目を合わす事もなければ言葉を交わす事もない。しかし、出勤一番に見る彼女の横顔が、涼介に些かの癒しと、そして緊張を与えていた。彼女の横を通り過ぎても、涼介はもう一度スーツの皺を確認した。
杉村悠月は、涼介とほぼ同時期に入社していた。取り分け彼女の物腰の柔らかさや、仕事の大小に拠らない繊細さは社内でも有名な所で、涼介など他の同期からは畏敬される程の存在だった。それに加え、彼女の評判を良きものと足らしめんとする所は他でもなく、彼女の容貌であった。すらりと伸びた長い手足を振りながら颯爽と社内を歩くその姿は、男性社員の羨望の的となり、挨拶の時など見せる笑顔はどこか高貴な匂やかささえ漂わせていた。涼介も多分に洩れず、彼女を意識している輩の一人であった。
昼休憩に入り、社員食堂は営業などで出払っている者を除いて、殆どの社員でごった返していた。涼介はつい、朝の通勤電車の車内を思い起こしてしまう。気を取り直して同僚の山田達と席に付き、ポタージュを啜りながら午後の会議について話し始めた。
ふと他の社員の肩越しに悠月の姿が目に入った。
数米先に座る悠月は、女性社員と談笑しながらパニーノを頬張っていた。
相変わらずいい笑顔だな、と涼介が視線を留めていると横からポン、と肩を小突かれた。
「見過ぎだよ。涼介!」
同期の高橋が冷やかすように言った。
「何だよ。ちょっと目が行っただけだよ」
涼介は慌てて視線をポタージュに落として、照れを隠すように何杯もそれを口に運んだ。すると高橋は涼介の隣りにどっかり腰を下して、不意に洩らした。
「なあ、涼介。杉村ってさ、彼氏いんのかな?」
「知るかよ。俺の知る事じゃないよ」
涼介は、こんな場所で飄々と話す高橋に少し苛立った。
「ははは。なーに言ってんだよ。お前だって気になってるくせに。でも杉村にはほんと、その手の噂聞こえてこないんだよなあ」
「あんまり大きい声出すと、彼女に聞こえるぞ!」
涼介は態と、掠れがかった小声で高橋を諭した。
「でもまあ、杉村くらいの女を誰も放っておく訳ないよなあ」
高橋はまだ続けていた。涼介は自棄に、前にいる悠月の視線が気になっていた。
「そうだ、涼介!俺さあ、この前二課に行った時、杉村のスケジュールちょっと覗いたんだよな。彼女さ、滅多に有休なんて取らないのによお……確か……来週に三連休取ってんだよな。三連休だぜ!?これは何かあるよ。……男だな。これは」
既に高橋の話は涼介の耳に入っていなかった。涼介はその間、悠月の方を見る事なく、ポテトサラダをつついていた。
食事を済ませ席を立つ時、ふっと悠月の方に目を遣った。さっきまで席で談笑していた筈の悠月は食堂の西側一面にある大きな窓から外を見ていた。
景色でも見ているのか?いやここから見える景色など見慣れた物だろう。よく窺うと、悠月の視線は遠くの空へ向いていた。まるで雲の流れを確かめるかの様だった。そのまま鼻歌でも歌い出すかのような雰囲気で、彼女は空を見つめている。
横顔がまた、美しかった。
十一月も下旬に入り、俄に冬の気配が感じられた。
その日は一件目の得意先を周った後、急に先方の都合で次に向かう商社の担当者との約束が反古になっていた。涼介はこのまま帰社しようと思ったが、デスクに置かれた報告書の山がちらついて、少しだけ気晴らしをしてみる事にした。
何故か無性に外の空気が吸いたかった。
一件目の担当者と西小岩で別れた後、ぷらぷらと江戸川駅の方へ歩いていった。時計は午後三時を回り、幾分冷え込んできたようだ。涼介は手に抱えていたコートを羽織り、立ち寄った書店で適当に選んだ文庫本を読みながら、歩を進めた。いつしか読書に集中する余り、随分と東へ進んでいた。
気が付くと駅は過ぎ、河川敷の近くまで来ていた。涼介は堤防を上がり、コンクリートの始まりに立って、そこから覗く河川敷一帯を眺めた。
川がこんなに近い、と思った。朝、通勤電車の橋架から望む景色とは、また違った趣きが感じられる。よく子供の頃、草野球だのサッカーだのして遊んだ記憶がそうさせるのか。
河川敷は人も疎らで、犬の散歩をする人や、ジョギング途中に腰を休める人など、片手に納まる程度の人しか居なかった。
涼介が呆とした表情で河川敷を眺めていると、千葉方面から列車がやって来た。ガタガタと鈍い音を立てながら、涼介の頭の上の橋架を走り抜けていく。
電車の中の人からは、今、自分はどうのように見えるのだろう、などと耽っていた時、涼介の視界に対岸の異質な光景が飛び込んできた。
一瞬涼介は瞬き繰り返した。それは都心から離れた、この名もない河川敷にはおよそ似つかわしくない物だった……。
一人の女性が大きな荷物を運んで、敷の真ん中で何やら組み立ている。女性は厚手のロングのダウンジャケットに、襟まで隠れる様な大きめのニットキャップ、ネックウォーマーを纏い、些か真冬の極寒地帯にいるような出立ちでいた。唯一女性が女性であることを示してくれるのは、ダウンジャケットの鮮やかなピンク色だった。
確かに十一月も中旬を過ぎれば肌寒いが、真冬というにはまだ早い気がする。
女性の手には袋に大事そうに包まれている細長い物体が抱えられていた。彼女は手に抱えていた荷物を一旦足元に置き、一緒に持ち込んだのであろう、キャンピングチェアを広げ腰を下ろした。そして、被っていたニットキャップを徐に外した。
その時、涼介の目に女性の面貌一体が、初めて入った。涼介は自分の目を疑った。
――杉村悠月だ。
まさか、どうして彼女が此処に?しかもあんな恰好で、あんな荷物を持って……。
一瞬では涼介には理解出来なかった。普段会社で見る杉村悠月と、今、自分の眼前にいる女性がどうしても重ならなかった。
そう言えば、ここ一日二日、会社で彼女の姿を見ていない。今日の朝もフロアーに入って例の如く、二課の方へ目を遣ったが、彼女の姿は無かった。一週間位前、昼休みに高橋が喋っていた内容が朧気に蘇ってきた。
涼介はよっぽど声を掛けようと思ったが、もしかすると彼女の方も休みを取って此処にいることを知られたくはないのでは、とか自分は彼女の秘密を目撃してしまったのではないか、などと余計な詮索を廻らし、終ぞ、涼介は一言も発する事なく、何故か自分が逃げるようにそこから離れた。
涼介が帰社し、報告書の山を半分程度片付け退社しようとする頃には、とっくに七時を回っていた。普段より幾分遅い時間であったが、上野駅の下り番線のホームから、帰宅ラッシュの乗客達と一緒に、また電車に揺られた。電車は何回か橋架を渡り、江戸川駅を過ぎて、また橋架に差し掛かった。涼介は今日の事を思い起こしながら、ぼやっと窓の外に視線を移した。午後訪れた河川敷が眼下に広がる。辺りはすっかり夜陰に包まれ、河川敷の脇を通る市道の外灯だけがぽつり、ぽつりと芝生を照らしていた。涼介はまさか、と思いながらも、対岸の河川敷へ目を凝らし、杉村悠月を探した。
――彼女は居た。
小さくてはっきり見えないが、確かに数時間前彼女を見かけた同じ場所に、大きな荷物に囲まれたピンクのダウンジャケットが、そこに居た。
涼介は急いで次の停車駅で降り、河川敷へ続く道路を駆けた。何かを考えていたのでは無かった。体が自然にそこへ向かっていたのだ。涼介は夢中で堤防を駆け上がり、彼女を確認する。斜面に敷き詰められたコンクリートの隙間から伸びる草花を掻き分け、飛び降りるように彼女へ向かって駆け出していった。
広大な芝生の上にぽつんと座る悠月の姿が段々大きくなる。彼女に近づくにつれ、彼女が此処にいる違和感が薄らいできた。涼介は河川敷を包むその夜気と、静けさと、僅かな外灯の灯りが、何だかこの場所に神聖な空間を作り出しているような気がしていた。
「杉村さん!!」
涼介が声を掛ける。
悠月は一瞬驚いたように声の出た方向を振り返って、辺りを見回した。
そして、自分に駆けてくる涼介を確認した。
「どうしたの!?」
悠月が目を丸くして涼介に訊く。
「どうしたって……、杉村さんこそ、こんな所で何やってるの?」
涼介は彼女の前まで来ると息を切らしながら、薄ら掻いた汗を拭った。
悠月の方も何故涼介が今、この場所に、自分の前に居るのかを理解できずにいるようだったが、直ぐに涼介を見つめて、目元を緩ませた。
「よく私だって分かったね。びっくりしたよ!」
意外にも笑顔で応えた悠月に涼介はほっとした。
「いや……今日さ、得意先回った後、この河川敷……、あっち側だけど……ぷらっと寄ったんだよ。そしたら杉村さんが居るの見えて……」
「ほんとに?すっごい偶然だね! 一瞬、今日の見に来んじゃないかって思ったよ!」
悠月は笑いながら応えた。
「今日の……って?」
涼介が悠月に質問をするのと同時に、彼女は前方を指さした。
「ふふん。これだよ」
悠月が指さす場所には、すらっと長い三本の脚を広げたスタンドに悠然と設置された望遠鏡があった。しかもそれはかなり本格的で、テレビや雑誌でたまに見かける物より遥かに立派で、高価な物に見えた。
「望遠鏡……?」
涼介は、呟く様に言った。少しだけ沈黙が流れた。
しかし、直ぐに彼の頭の中で全ての事が繋がった。
昼休み空を眺めていた悠月の横顔、……河川敷、……悠月の防寒着、……望遠鏡、……そして、今日……十一月……。
涼介は大きく息を吸い込んで、笑った。
「そっか!!」
悠月も涼介の表情を見てにんまりした。
――獅子座流星群!!
思わず二人の息が揃った。
「そうだよん。予報では今日が一番綺麗に見えるみたいなの」
悠月が得意気に言った。
「へえ――。杉村さん、天体観測やるんだ。その望遠鏡も結構いい奴じゃない?」
「大学のサークルで始めたんだよ。もともと星見るの好きだったから。この望遠鏡は去年から少しづつ貯めて、今日の為に先月買ったんだ」
悠月の前に立つその望遠鏡は、涼介には宇宙のその端っこまで見通せそうな、そんな高尚な雰囲気を持っているように見えた。
涼介は今日の出来事を整理するかの様に悠月に訊いた。
「ずっと此処にいたの?」
「ここは穴場なんだよ。家からも比較的近いし、光害も少ないからよく見えるんじゃないかって。場所取りは重要なのよ。昨日と明日は予備日にしておいたんだ」
「すっごい。準備万端だね」
涼介が感心していると、悠月が付け加える。
「大切なのはこれからよ。予報だと深夜から明け方に一番見えるらしいんだけど、何が起こるか分からないからね。基本的に観測は一晩中してなくちゃ!」
涼介は、まともに悠月と会話をするのは今が初めてだった事に気付いた。しかし、もうそんな事は気にならない。
彼女の笑顔と彼女との会話に一頻りの違和感さえ、感じ得なかったからだ。
涼介は悠月の横に寝転がり、天空を仰いだ。
まだ流星は顔を出していないが、それでも夜空の星は地上の何もかも飲み込んでしまう程の輝きを放っていた。
「今日は、お供していいかな?」
自然に言えた。涼介は至極、自然に、悠月に言った。
悠月は笑顔で応えた。
「もちろん!でも、その恰好じゃ、さっむいんじゃない?」
「だね。やっぱり、ダウン着てなくちゃ」
涼介が笑って返すと、悠月も笑いながら、そっと足に掛けていた毛布を涼介に渡した。
「ありがと」
「うん。風邪ひかないでね。長期戦だよ」
「了解です。先生!」
涼介と悠月は声を上げて笑った。二人の距離が少しだけ近づいた気がした。
夜空に瞬く無数の星達が、小さく寄り添う涼介と悠月を照らしていた。
十一月十八日午前六時。
東京の夜空に、流星が舞った。
「ほら、起きてよ!今、今すっごい綺麗だよ!」
涼介はいつの間にか寝ていた。重たい眼を擦り、どうにか瞼を開くと、そこに悠月の顔が見えた。
「もう。せっかくここまで来たのに。起こしても起きないんだから!流星、終わっちゃったよ!」
悠月が涼介の体を揺さぶる。
「うん……?……え?流星は!?」
涼介がうつらうつらしていると、悠月が少し呆れた表情で言った。
「ほらあ。まったく……!でも私はしっかり見れたもんね!」
涼介は一瞬しまったな、と思った。が、同時に右手に暖かい温もりを感じた。
涼介と悠月の手はしっかり握られていた。
そして隣には、確かに悠月の横顔があった。
――次の獅子座流星群はいつやってくるだろう。
繋いだこの手はその時までは、決して離す事はないだろう。
涼介は、そう思った。
その日も通勤客を乗せた電車が、橋架を走っていく。河川敷の二人を見下ろしながら。
読み終わった後、元気になって頂ければ幸いです。
十一月は特別な月だと思います。




