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ねむり魔女




「………ん、ふゎ?」


 大きな呼吸。それに続けてうっすらと目を開く少女。


 天蓋のついたベッドに身を任せている彼女は、余りに広い部屋の中央で目覚めの時を向かえた。


 ゆっくりと半身起き上がる。


「もう、起きなきゃいけないのか………」


 ぼそり。と、少女は誰に言うでもない言葉を漏らす。それと動きを合わせる様にハラリと流れ落ちたブロンドの艶やかな髪。その綺麗な長い髪に劣らない顔立ちがまた髪の美しさを際立たせて、美人である事を部屋に一枚ある大きな姿見の鏡に映している。


 ここは人里とはかけ離れた山間に作られた屋敷。山と森に囲まれた屋敷には下界へと通じる道は無く、自然の中にまるで他の木々と同じように生えているかの様。いつからここに建っているのか、誰が建てたのかは分からない。ただ一つ分かること、それは、この屋敷に住んでいるのがまだ幼い少女一人という事だけ。魔法を使う少女が。


「せっかくいいところだったものを………。何もデザートを目の前にした所で目が覚めなくてもいいのにな。間が悪い」


 膨れっ面を作って床を踏む。


 窓からチラリと覗ける空は透き通るくらいの蒼で、太陽が恵の光を大地へと与えていた。


「嫌な天気………。眩しいし、肌焼けそうじゃない。確か前回もこんな晴れ晴れとした日だった気がする。せめて雨が降りそうな程に暗い曇りの日にしてくれればいいものを………」


 少女はそう愚痴を溢すと、もう一瞥空にくれてやった。


 しかしそこで、ふと、ある事に気付いた。空がとても高いことに。


 その空は部屋の奥へと消えようとしていた少女を引き止め、窓へと寄せた。


 ガチャリ。


 窓が開く。そこからふわりと、秋の柔らかい涼風が入り込んでくる。


「秋か………久々だな」


 少女の顔から寝ぼけた眼が消え去っていた。




 少女の名前は【クレア=ロッド=ミラージュ】。一見、十歳に満ちて間もない程に幼く見えるのだが、この世に生まれ出でて、すでに百万年は経っていた。


 彼女は魔女である。


 しかし、魔女であっても百万という途方も無い年月を生きる者はいない。それでも永劫とも取れる時共に在り続けているのは、【呪い】の為である。


この辺りはいつになっても変わることはないんだな。


 外行きのブラウスの上に黒いマントを羽織って、箒に腰を預け空を飛ぶ。久方ぶりの箒と風を切るスピードを感じながら、眼下に広がる黒い森を見下ろしてクレアはそう思った。


 彼女は百万年も生きている。ただし、自由気ままに生き続けてこられたわけではない。百年間、寝続ける、という呪いに縛られているのだ。老いることも無く、死ぬことも許されず。


 今年は丁度その百年の区切りの年に当たり、今日が一日だけ目覚められるという解放の日というわけである。


 秋に目覚めるなんて五万年ぶりかしら? 最近はずっと夏ばかりで、たまに春の時があるくらいだったものな。


 下界に近づくにつれ、色めき出す木々の葉。リアルな紅葉を目にするのは本当に久しぶりの事で、新鮮な感じがクレアの気持ちに染み入ってきていた。


 クレアが屋敷の外へと出るのは、実に三万年ぶりの事である。呪いをかけられた当初は、解放の年が来る度に解呪の研究をしていた。しかし、一日しか起きていられないという制限は研究の大きな妨げとなり、いつまでも成果を実らせることはなかった。


 十万年程経ってからは好きな事にのみ注力してきた。時は無限にあるので、百年毎にやってくる目覚めの時を待ち焦がれ、その日一日に伸ばせるだけ羽を伸ばして過ごした。しかし、この行為も五、六十万年も経つとしたい事は尽きてしまい、全てがつまらなくなってしまった。世界を滅ぼしてやろうとしたこともクレアは思いついたが、やはり一日で成す事は出来ず、国を三つ潰す程度しか出来ないでいた。


 次第に彼女は解放の日の為に起きること自体が面倒になってきていた。現実の世界で何か出来なくても、夢の中で行う事が出来れば彼女には十分になっていたのだ。しかし、眠りの呪いは解放の日に眠ることもまた許してはくれない。その為に彼女は、この三万年間は目覚める度に、屋敷の地下にある書庫で、何度読み返したか分からない読み物を漁る事を続けていた。


 そんな中で、久しぶりに表へと出たのは、秋という季節が久しぶりという以上に、クレアにとって思い入れのある季節だからであったのだろう。


 数十分程箒の旅をした所でふと彼女は思った。


「おかしい。たしかそろそろ人里が見えてくるはずなんだが………」


 数万年前の記憶を辿れば確かに今見下ろしている森の辺りは、見渡す限りの人工建造物が広がっているはずだった。


 いつまで経っても現れない人工物にクレアは一つの思いが浮かぶ。


 また文明が滅んだか?


 これまでにも何度も人間の築き上げてきた文明の生き死にをクレアは見てきた。そんな彼女には一文明が滅んだことは珍しい事には感じない。


 三万年も経てば二、三度文明が生まれ滅ぶのも当たり前か………。


 そう納得すると、彼女は箒の推進をスッと止め、その場に浮かび留まった。


 せっかく久々に人間界を見て回ろうと思ったのに。仕方ない、もう少し南の方に出てみるかな。


 箒に弧を描かせて方向を変える。柄の先端を南に向けると、箒に魔力を送って、再度推進力とした。


 目的を達すことが出来なかったクレアであったが、さほど落胆の色は強く出てはいない。体で感じる秋の空気と紅葉の賑わいが彼女をそうさせていた。


 彼女の人生の大半を占めている夢の中でも、何度も秋を体験しているが、五感で感じる秋と比べると余りに薄い。色濃く体に入ってくるリアルの感覚はとても夢の中では感じることの出来ないものであると、クレアは改めて思った。


 しかし、そこでにわかに彼女の表情に影が差す。


 それでも、夢の中の秋で不自由はしないさ………。


 目の色がすっと薄らぐ。いくらリアルがよくても、自分には決して手には入らない。その事を体の隅々の細胞でまで悟っている彼女は、リアルにすがる虚しさもまた、悪い意味で良く理解していた。


 リアルへと執着する心を理性が冷酷に圧しこめていった。


 暫く、その虚しさを心に残したままクレアが飛行を続けていると、ふと、目に止まるものが一つ。


 人か?


 自然の中で浮いた色の服装が、クレアの目にその青年を捉えさせた。


 人が出てきたってことは、里が近くなってきたってことか。ちょうどいい。あいつに人里の場所を尋ねよう。

 箒のスピードを落として、ゆっくりと下降していく。地面スレスレまで近づいたところで、クレアは箒から飛び降りた。


「おい、そこの人間。尋ねたいことがあるんだけど」


 青年の後方に降りたクレアは、そう声をかけながら近づいていく。


「え? 僕、ですか? なんでしょう?」


 突然に声をかけられたからか、戸惑いながら声のした方、クレアの方へと顔を向ける青年。


「この近くの人里を知りたぃ………え?」


 背筋を電撃が走り抜ける。


 振り向いた青年の顔を確認した瞬間、クレアにもまた戸惑いが生じたのだった。


「………ハリス?」


 思わずクレアの口からその名前がこぼれた。


 頭の奥底から噴水の様に記憶が湧き上がってくる。クレアにとって、その記憶は最も古く、そして最も強く残る記憶だった。


「あの………? どうしたんですか?」


 急に固まってしまった少女に青年は、覗き込むようにして声をかける。


「………お前、まさか………ハリス………なのか?」


 記憶の中の男と、今目の前にいる青年がクレアの中で重なっていた。


 しかし、その記憶の男は遙か古の存在。今の時代に生きているはずがない事はクレアも理解していた。しかし、この青年にその正否を聞かずにはいられなかった。


 青年は暫くして、少女の言葉が自分を指している事をやっと理解して、一層慌てた。


「あの、違います! すみません、突然だったもので混乱してしまって………僕はアジェといいます」


 青年からの返答を待ちわびていたクレアは、その答えに顔を曇らせる。


 分かっていたことではあったが、それをはっきりと告げられると、明るい気持ちにはなれなかった。


「えっと、町をお探しでしたよね。もう少し降った所に、僕の住んでる町があるんです。丁度帰るところでしたし、よかったら案内しますよ」


 アジェと言った青年は、静かに佇むクレアに笑顔で接した。


 クレアはすでに人間界の事はどうでもよくなってしまっていた。が、アジェのあまりの笑顔に、もう少し外の空気を吸うこととした。




「今、お茶煎れますね」


 アジェはそう言うと、奥のキッチンへと姿を消した。


 あれから歩いて三十分程で、それなりに賑わった町へと着いた。そこでアジェから、せっかくなのでお茶でもご馳走します。と言われ、クレアは今彼の家にいる。


 別にお茶をしに人間界を目指していたわけではない。しかし、アジェの笑顔の誘いに断る事が出来ないでいた。


 部屋を見渡していると、棚に一枚の写真が立てられている事に気付く。アジェが友人と撮ったものだった。


 やっぱり似ているな、ハリスと………。


 クレアはハリスの事を忘れた事は無い。だが、これほどまでに大きく頭の中を占めた事は久しく無かった。分かっていても、この青年とハリスを重ねて見てしまう。


「アジェは、森で何をしていたんだ?」


 部屋の中を見る限り、猟師ではないことが分かる。猟銃や獣の皮などは無いし、火薬の匂いもしない。となれば木の実か茸でも採っていた事が想像できるが、何か話のキッカケが欲しかったクレアは、それを話題に選んだ。

 

「クレアさんはミルク入れますか?」


 トレイにポットと二つのカップを乗せて、帰ってきたアジェ。クレアの座っているテーブルにカップを移してから、琥珀色のお茶を注いで自分も椅子に腰を下ろした。


「私はこのままでいい」


 クレアはそう言って、アジェが手にしたミルクを制すると、カップを口に運ぶ。ダージリンの香りがした。


 ………紅茶の煎れ方も同じか。


「僕は木の実を採りに行ってたんですよ」


 アジェも一口飲んでから、先のクレアの話に返事を付ける。


「季節だものな。収穫はあったのか?」


「え〜っと………それが………」


 あさっての方向に視線を当てながら、頬をかくアジェ。その仕草はクレアにどれほどの収穫だったかを教えていた。しかし、それ以上にクレアは感じてしまう。


 この誤魔化す時の仕草も………ハリスと………。


「あ、クレアさんは森で何をしていたんですか?」


 うまい誤魔化しが見つからなかったのか、アジェは話題をクレアの事へと向かわせようとした。


 急な話の変更にクレアは思考が一瞬停止させられてしまう。しかし、口に含んでいた紅茶をゆっくりと飲み込んで、窓から見える木々の紅葉に目を向けた。


「散歩だ。秋は好きだから」


 視線はそのままに、返事を返した。


 頭の中にまたハリスが強く浮かび上がる。クレアがハリスと出会った季節も今と同じ、紅葉が鮮やかな深い秋の日だった。


 視線をアジェに戻す。その時、アジェが一瞬だけ記憶の中のハリスの姿に見えた。


 ハリス………!?


 胸の奥が疼いた。


 クレアは目の色を薄める。その疼きを圧し込める。


「あ、そういえば僕、クッキー焼くのが趣味なんですよ。木の実を採りに行ったのも、クッキーに使うからなんです。今、持ってきますね」


 急ぎ、台所に駆け込んでいくアジェの背中をクレアは見つめていた。


 アジェはハリスじゃない。ハリスはもういない。分かってることじゃないか。


 言い聞かせる。心の中の弱い自分にしっかりと。


 クレアはこれ以上ここにいては、抑えこんでいた様々な思いが溢れてきそうだった。だから、クッキーを食べたらすぐに去ろうと決めた。


 その思いの直後にアジェが顔を見せる。


「おまたせしました。これは今朝焼いた物なんですけど、結構な自信作なんです。この紅茶とよく合うんですよ」


 差し出された縁が可愛い皿にはクッキーが綺麗に並べられている。丸く狐色に焼かれたクッキーは見た目にも食欲をそそったが、バターの香りがそれを更に増していた。


 美味そうじゃないか。自信作というだけの事はあるか。


 クレアはアジェの力作に感心しながらそれを口に運んだ。


 二度、三度、砕かれたクッキーはクレアの口の中全体にその味を広げていく。


 と、そこでクレアの動きがピタリと止まった。


「どうですか? 胡桃を砕いたものを混ぜてるんです。さっき言ってた木の実がそれです。お口に合えばいいんですけど」


 自信のクッキーの製法を種明かしするアジェにしかし、クレアは下を俯いたまま、微動だにしていなかった。


 その様子にアジェは顔を曇らせる。


「あの………もしかして、美味しくありませんでした?」


 声をかけられてもクレアはそれに返事をしない。


 変わらず顔は下を向いて、前髪で目が隠れている。


 流れる沈黙。


 窓の外では空風が色付いた葉を舞い上げていた。


 クレアのだんまりに合わせていたアジェだったが、沈黙をどうにかしようと、口を開いた。


「あの、」


 その時だった。


「どうして………?」


 クレアがぽつりと。小さな気泡が割れたかのような声を出した。


「どうしてここまで………このクッキーの味まで一緒なんだ!」


 突然声を上げたクレアにアジェは戸惑ってしまう。しかし、クレアはそんなことは気にせずといった様子で、今の言葉を続けた。


「私の………私の良く知っている奴も同じ味のクッキーをよく私に食べさせてくれた。胡桃のクッキーだ。クッキーだけじゃない。この紅茶も同じ! そして仕草も………顔も………。だけど、そいつはもういないんだ! お前は違う人間なんだ! なのになんで同じなんだ!?」


 溢れていた。記憶と想いが抑えきれなくなっていた。心の中で自分に言い聞かせていたことを、口にまで出して必死に自分を抑えようとしていたが、出来ないでいた。


「クレアさん、何を言って、」


「ハリスなんだよ! どう見たって、見ないようにしたって、ハリスが出てくるんだ! 百万年前、出会って、優しくしてくれて、好きになって、でもそれで神の怒りを買って、私は呪いをかけられて、こんなにも私は生かされて、だけど、ハリスは生きているはずがない! ハリスと現実で会えるだなんて事があるわけがない!! こんなにも目で、耳で、手で、心で、感じられるはずがない!!」


 クレアの叫ぶ声の後、部屋を支配したのは彼女の荒い息だった。


 百万という年月の間、少しずつ抑え込んできた、愛した者がいない牢獄のような世界に身を置かなければならないという現実の、絶望、空虚、悲愴がゴボリと湧き出し、にわかに暴れだした。その心の闇と理性が対抗していて、クレアは狂気の淵に立っていた。


 クレアの言葉をアジェは静かに聞いていた。そして、そっと少女の背中に手を添える。


「クレアさん、心を縛ると、その分だけ辛いことが滲み出て来ちゃいますよ。素直に、心の思うままにしていれば、安らぎが生まれます。もし、そのハリスさんを感じたいなら感じればいいじゃないですか」


 笑顔。背中に生まれた温かさと、その柔らかい言葉に顔を上げるとそこにはアジェの微笑んだ顔があった。クレアの目にはハリスの笑顔が映っていた。


「ハリス………」


 アジェの言葉がクレアの乱れた心をゆっくりと、静めていった。


 ………感じてもいい………ハリスを………目で、耳で………心で。


 ハリスへの想いを溜め込んだ心の扉。それに巻きついていた鎖がじゃらりじゃらりと解けていく。


 夢の中のような薄いハリスじゃなくて、現実の鮮明な彼を感じても………いい!


 ガチャリと心の扉の鍵がおちる。


 ハリスと………ハリスと一緒にいてもいいんだ!!


 扉が開く。想いを閉じ込めていた重い扉がゆっくりと口を開けていく。


 ハリス!!


「僕がそのハリスという人に似ているなら、僕を透してでもハリスさんを感じてください。それでクレアさんが楽になるなら、毎日遊びに来てくれてもいいです」


 アジェがそう言ってニコリと笑う。


 と、そこでしかし、開きかけていたクレアの心の扉がピタリと止まった。


 ………毎日。


 アジェの言葉の一部分が、クレアの静まった心に波紋を作った。その波紋はうねり、波となり、クレアの心の中を駆け走った。


 ………私には呪いがかかっている………毎日なんて………。


 大きな波と化した絶望が唸り声を上げながら、開きかけた心のドアを目掛けていく。


 次に朝を迎えた時は………また百年経っているじゃないか!!


 ドアが勢い良く閉じた。


「どうしました? クレアさん?」


 口を閉じ、俯いたクレアを覗き込むようするアジェ。


 それに対して、少女は静かに席を立った。


「クッキー美味かった。礼を言うぞ」


 それだけ言って、クレアは部屋の出入り口に爪先を合わせた。


「ちょ、ちょっと、どこへ………?」


 クレアを呼び止めるように、伸ばした手が宙をかいた。


 クレアは止まらない。そのままズンズンとドアへと向かっていく。


 そして、ドアをガチャリと開けた。


 秋の風がクレアを包み、アジェの部屋の中に迷い込んだ。


「私は………お前と同じ時は過ごせない。この時が私にとっては幻のような夢の世界なんだ。だから、この世界の事を感じることは出来ない。特に、お前等人間の事を感じる事は。もし感じてしまったら………」


 そこまで言って言葉が詰まった。


 喉から声が出なくなっていた。代わりに目から涙が溢れて頬を伝った。


 急いで箒を掴んで、空に飛び込む。


「クレアさん!」


 アジェの声が耳に届いた時、クレアがもう家の屋根の遙か上にいた。そのまま、自らがいるべき屋敷へと逃げるように飛んで行く。


 空に出ても涙は止まらなかった。


 分かっていた事だった。この世界の事を、五感で感じる事が出来る鮮明なこの感覚を心に入れてはいけないという事を。


 自分にはこの世界のものは手には入らない。ハリスと一緒にはいられなかった。それをまた手に入れようとしたから、こんなにも胸が苦しくて仕方が無い。クレアはそう後悔しながら涙を流し続けた。


 もっと、心の扉に鎖を巻こう。現実のものを欲する事の虚しさを刻んで、硬く硬く。


 しかし、クレアがそう心を閉ざそうとすればするほど、苦しみが滲み出て来て仕方なかった。


 アジェの言う通りじゃないか………。


 心を閉ざすほど湧き出てくる涙に、アジェの言葉が頭を過ぎった。そしてハリスの事も思い出してしまう。


 どうして………どうして私はこんな辛い目にあわなくてはいけないんだ………どうして………!


 一度解いてしまった心は、簡単には戻らず、古に味わった、何度となく心を支配していた負の感情が、何十万年ぶりに蘇っていた。


 秋の風には冬の息が少し混ざっていた。


 クレアが今日という解放の日に手に入れたものは、胡桃のクッキーの味とハリスの気持ちと一緒に圧し込んでいた、現実世界への執着だった。


 彼女はこの思いを抱いたまま、また百年眠りへとついたのだった。




「ご苦労様〜」


 アジェの部屋にその声が響いたのは、クレアが飛び出してから間も無くだった。


「これでよかったんですか?」


 部屋の中にはアジェ以外は誰も居ない。しかし、彼の言葉のすぐ後に、部屋の一部の空間が歪みだした。


 刹那、そこから人影が生まれ出る。長い黒髪で、長身の若い女だった。


「上出来よ。陰から見ていて、とっても愉快だったわ」


 左の手の甲で、笑う口を隠す女。その笑みは厭らしく陰湿で、整っている目鼻立ちを台無しにしていた。


 その女には腰を低くしたアジェが近づいていく。


「あの、それじゃあ早速、約束の物をいただけますか?」


「そうね、ちゃんと働いてくれたものね。ほら、これでいいんでしょう?」


 女がパチンと指を鳴らす。すると、テーブルをコン、コンと二つの光るものが落ちて鳴らした。金貨だった。


 アジェはすぐさまその黄金に輝くコインに飛びついた。


「へへ、ありがとうございます。でもあのクレアって魔女泣いてましたよ? あそこまでしなくてもよかったんじゃないですかね」


 別にアジェは女に反論したつもりはなかった。ただ、金貨が貰えて調子に乗っていただけだった。ところが、女は今まで上げていた口の端を下げて、アジェを睨むような目つきになった。


「何も知らずに人間風情が。あの魔女はね、あたしの男を寝取ったのよ!? チャームか何か使ったんでしょうけど、許されるわけ無いじゃない! だから呪いをかけてやったのよ! なのに、たった百万年程度でケロっとしちゃって………だから、色々と思い出させてやったのよ。辛くない呪いなんて、呪いじゃないじゃない」


 女は再度笑った。しかし、その目は醜い情念に支配された黒い光を放っていた。


 アジェはそのおぞましい表情に息を呑み、今まで浮かれていた気持ちが一気に冷え込んだ。


 これがかつて一人の男を愛した女の成れの果てか。


「神様というのは、怖いぐらいに嫉妬深いのですね」


 口では神という言葉を使ったアジェだったが、しかし、心の中では目の前の神が醜い心を持った人間以外に見えなかった。


 神といっても所詮は女か。


 アジェは絶対的な力を前に怯えながらも、不信心な考えに苦笑してしまった。




終。


2007年 作

2010年 加筆・修正

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