チートの勇者に子供が生まれたが育て方が分からないので、前世が保育士だったから普通の保育で英雄の子供を育てることにした
一 卒園式
3月の朝だった。
体育館に、花が飾ってある。紙で作った桜。天井から吊るしたガーランド。壁に貼られた「そつえんおめでとう」の文字——子供たちが一文字ずつ書いたものだ。「お」の字が裏返っている。直さなかった。裏返った「お」のほうが、あの子らしいから。
坂本美樹、42歳。保育士、20年目。
今日が、20回目の卒園式だ。
「せんせい!」
年長クラスの子供たちが走ってくる。全員、胸に花をつけている。髪を結んでもらった子。新しい靴を履いてきた子。——昨日まで泥だらけで園庭を転げ回っていた子供たちが、今日だけは少しだけ大人びて見える。
「せんせい、ないてるの?」
「泣いてないよ。——花粉症」
「3月はスギだもんね!」
「……よく知ってるね」
一人の男の子が、美樹の手を握った。リュウタ。入園した時は、毎朝泣いていた。お母さんと離れるのが嫌で、門の前で30分泣き続けた。抱っこして、背中をさすって、「大丈夫だよ」と100回言った。
そのリュウタが、今日、卒園する。
「せんせい。ぼく、しょうがっこう、いけるかな」
「行ける行ける。リュウタは強い子だから」
「つよくないよ」
「強いよ。——だって、泣きながらでも毎朝来たでしょう。泣いても来るのは、すごく強いことなんだよ」
リュウタが笑った。前歯が一本抜けている。
式が始まった。園長の挨拶。来賓の祝辞。——そして、子供たちの歌。
「さよならぼくたちのほいくえん」。
10小節目で、美樹の涙腺が決壊した。20回目なのに。毎年同じ歌なのに。毎年泣く。プロ失格だと思う。でも泣く。
式が終わって、保護者が迎えに来て、子供たちが一人ずつ手を振って帰っていく。
「せんせい、ありがとう!」
「せんせい、またね!」
「またね」は——来ない。卒園したら、もう来ない。分かっている。20年間、毎年分かっている。
最後の一人が帰った。
体育館に、美樹だけが残った。
椅子を片付けなければ。花を外さなければ。ガーランドを外さなければ。
——明日から、新しい年度が始まる。新しい子供たちが来る。また0歳児のおむつを替えて、1歳児の離乳食を作って、2歳児のイヤイヤ期と戦って、3歳児に手遊びを教えて、4歳児の喧嘩を仲裁して、5歳児を卒園まで送る。
——あと1年やろう。
毎年そう思って、20年経った。
片付けを終えて、園の前の横断歩道に立った時だった。
信号が青に変わる。卒園式帰りの親子が渡り始める。——その時、一人の子供が走り出した。卒園児の弟だろう。真新しい服を着た、春からの新入園児だ。手を振りほどいて、車道に飛び出した。
身体が動いた。考える前に。20年間の反射が、脳より先に足を動かした。
子供を抱きかかえた。押し出した。——車のブレーキ音が聞こえた。間に合ったかどうかは、分からない。少なくとも、子供は無事だ。自分の身体に衝撃が来た。
アスファルトが冷たい。——あの子の泣き声が聞こえる。よかった、無事みたいだ。……ああ、でも、明日の新年度の準備、まだ終わってないのに。新入園児のアレルギーの確認、給食室に伝えなきゃ——
意識が消えた。
* * *
二 転生前面談
目が覚めたら、白い部屋にいた。
頭痛がない。首の後ろの張りもない。——両手を見る。42歳にしては古びた手だ。消毒液で荒れて、絵の具が爪の間に入って取れなくなっている。でもこの手は——知っている手だ。20年間、子供の背中をさすり続けた手だ。
死んだはずなのに、身体がある。
「坂本美樹さん。保育士、二十年。——交通事故、ですね。園児を庇って」
カウンターの向こうに、とんがり帽子に星柄マントの青年がいた。穏やかな顔をしている。
「……あの、私が突き飛ばした子は」
「無事です。かすり傷ひとつありません。あなたのおかげです」
「……そうですか。よかった」
長い沈黙。
「…………卒園式は。式は終わりましたか」
「はい。無事に終わりました。——お子さんたちは全員、保護者のもとに帰っています」
「……そう」
「……リュウタくんは」
「お母さんと手を繋いで帰りました。泣いていませんでした」
「……そう。——強い子になったね」
目を閉じた。開いた。
「……で、ここはどこですか。私は——死んだんですよね」
「はい。ここは転生管理局です。私はツクヨ、案内係です。異世界への転生をご案内します」
「異世界……。——すみません、異世界転生って何ですか。年長さんが好きだった漫画に出てきたような」
「ご存知ですか」
「園児たちがごっこ遊びしてました。『おれはゆうしゃだ! まおうをたおす!』って。——可愛かったです」
「……はい。その『勇者が魔王を倒す世界』に、新しい身体で送り込まれます」
「……私が?」
「はい」
「……剣を振って、魔王を倒すとか……ちょっと苦手なんですけど」
「ご安心ください。坂本さんに剣は——たぶん、似合わないと思います」
「ですよね。包丁も危なっかしいって同僚に言われてました。——給食のにんじんを切るのがやっとです」
ツクヨが資料を広げた。
「転生先の状況を説明しますね。——魔王は討伐済みです。世界は平和です。ただ、問題がありまして」
「何ですか」
「大勇者の3歳の息子が手のつけられない状態で、王宮が半壊しています」
「…………3歳?」
「はい。生まれながらのチートスキル持ちで、癇癪を起こすと聖剣を召喚します。教育係が14人辞めました。理由は全員『死にたくない』。——ちなみに、王宮の改修費が魔王討伐の報酬を超えたそうです」
「…………」
美樹の目が変わった。——42歳の保育士の目に、20年分の経験が灯った。
「癇癪で聖剣が出る、ということは——その子、不安なんですね」
「……え?」
「3歳児が暴れるのは、不安だからです。自分の気持ちを言葉にできないから、身体で表現するんです。——聖剣が出るのが特殊なだけで、やってることは普通の癇癪と同じです」
「…………すごい。初めて聞く分析です。14人の教育係は全員、『スキルを制御する方法』を聞いてきたのに」
「スキルの制御は保育士の仕事じゃありません。——子供の心を安定させるのが、保育士の仕事です。心が安定すれば、スキルは暴発しません。たぶん」
「……たぶん」
「すみません、聖剣が出る子は初めてなので『たぶん』です。——でも、20年で500人見てきて、手遊びと絵本で落ち着かなかった子はいません」
「……手遊びと、絵本」
「はい」
ツクヨが少し考え込んだ。
「あの、坂本さん。通常、転生者にはチートスキルを付与するんですが——」
「いりません」
「……早いですね」
「チートってよく分かりませんけど、すごい力のことですよね。——保育に力は要りません。必要なのは、根気と、笑顔と、膝です」
「膝?」
「絵本を読む時に、子供を膝に乗せるんです。——あの重さが、保育士の武器です」
ツクヨがメモを取った。
「あ、もう一つだけ。——その3歳児のお父さんは、元気ですか」
「大勇者アレク・ヴァルディアさんですね。元気ですが、息子の扱いに完全に疲弊しています」
「……そうですか。——お父さんのケアも必要ですね。初めての子育ては、誰でも不安ですから。勇者でも」
「……お父さんのケアまで」
「はい。保育士の仕事は、子供を育てることだけじゃないんです。保護者を支えることも、仕事の半分です」
ツクヨが姿勢を正した。
「身体調整、完了です。32歳、10歳若返りですね」
「32歳……。——保育士10年目の中堅の頃ですね。体力はある。腰はまだ壊れてない。声もよく出る。……ありがたいです」
「全盛期の身体です。保育活動に体力が必要だと判断しまして——特に、聖剣を持つ3歳児の場合」
「大丈夫です。聖剣が出ようがドラゴンが出ようが、3歳は3歳です。——癇癪全開の3歳児より怖いものは、この世にありません。……あ、ありました。運動会の準備です」
(……凡人枠の皆さん、全員「チートいらない」って言うんですよね。「武器は膝」「運動会が怖い」。……保育士さんだけは、他の凡人枠と怪しさの方向が違う)
白い部屋が溶けていく。
最後にツクヨの声が聞こえた。
「——いってらっしゃい。ミキ先生」
子供の泣き声が聞こえた。遠くから。——身体が、反射で動いた。
* * *
三 世界最強の3歳児
大勇者アレク・ヴァルディアは、王宮の玉座の間で頭を抱えていた。
玉座の右半分がない。斬り落とされている。壁にも天井にも、巨大な刀傷が走っている。柱は3本折れ、ステンドグラスは粉々、大理石の床には亀裂が入り、王家の紋章が織り込まれた絨毯は真っ二つだ。
魔王との決戦の跡——ではない。
3歳児の癇癪の跡だ。
「……パパ、いや」
玉座の残骸の前に、小さな男の子が立っていた。金髪に碧眼。頬にまだ赤ちゃんの丸みが残っている。右手に——身の丈の3倍はある光の剣を握っている。聖剣エクスカリア。かつて父親が魔王を斬った、世界最強の武器だ。
それを、3歳児が振り回している。
「ソラ、剣をしまいなさい」
「いやっ!」
斬撃が飛んだ。天井の一部が崩落する。
「うわっ——!」
アレクは身をかわした。SSランクの身体能力があるから回避できたが、普通の人間なら即死だ。
玉座の間は見る影もない。魔王を倒して王になったはずなのに、周りには瓦礫しかない。玉座は半壊、壁には穴、天井からは空が見える。——魔王討伐の旅でやった野宿のほうが、まだマシだった。
ソラ・ヴァルディア。3歳。大勇者の一人息子。生まれながらにして父と同じ「聖剣召喚」のスキルを持つ、文字通り世界最強の3歳児。
——問題は、本人にスキルの制御ができないことだ。
癇癪を起こすと聖剣が出る。嫌いな食べ物を出されると斬撃が飛ぶ。お風呂に入れようとすると浴室を両断する。寝かしつけに失敗すると、泣き声と一緒に衝撃波が出る。
王宮はこの1年で4回改修された。改修費用は魔王討伐の報酬を超えた。大蔵大臣が毎月辞表を出すのが最早風物詩だった。
民間では怪しい占い師が「真の魔王は、勇者の息子だった」とまことしやかに吹聴し始めた。笑えない。
「アレク様!」
側近のハインツが駆け込んできた。瓦礫を踏みながら。
「今月の教育係、また辞めました」
「何人目だ」
「14人目です」
「……理由は」
「全員同じです。『死にたくない』」
アレクは天井の穴を見上げた。空が見える。
魔王を倒した。姫と結婚した。平和な世界を手に入れた。——妻は戦後復興の公務で各地を飛び回っている。王宮に戻るのは月に数日だ。実質、ワンオペ育児だ。
平和な世界の中で最も危険なのが自分の息子だとは、チートスキルのステータス画面には書いてなかった。まさか、こんな危険な「育児」を他人に任せるわけにもいかない。——自分の息子だ。自分でなんとかしなければ。なんとかできないから、困っている。
——ステータス画面に「育児スキル」の項目があればよかった。きっと「Lv.0」と表示されていただろう。
* * *
四 15人目の教育係
15人目の教育係が来たのは、翌日のことだった。
アレクは期待していなかった。もう騎士も魔法使いも宮廷教師も全滅した。防御魔法の専門家すら「防御の上から斬られた」と泣いて辞めた。結界魔法士は結界ごと両断されて大怪我を負い、今も療養中だ。テイマーは「私は動物専門です。人間の子供は無理です」と言い残して去った。
だが、ギルド経由で紹介された女は、最初から様子が違った。
「ミキ・サカモトです。教育係として参りました」
小柄な女だった。30代前半。武器はない。魔法の気配もない。ギルドからの紹介状に添えられたステータスを見ると——戦闘力、測定不能(低すぎて)。スキル欄には「読み聞かせ」「手遊び」「寝かしつけ」。担当者のメモに「受付スタッフがスキル欄を三度見しました」とあった。
紹介状の特記事項に「転生者」とある。——アレク自身も転生者だ。
「……あなたも転生者か」
「はい。前世は日本で保育士をしていました」
「日本! 俺もだ。——前世は日本の普通のサラリーマンだった。こっちに来てチートスキルをもらって、魔王を倒して……まさかこんなことになるとは思わなかったが」
「あら、先輩転生者ですね」
アレクの表情が少し緩んだ。転生者同士だ。前世の話が通じる。それだけで、どこか安心する。
「……失礼だが、戦闘経験は」
「ありません」
「魔法は」
「使えません」
「チートスキルは?」
「ないです。凡人枠だそうで」
「……凡人枠?」
アレクは驚いた。自分は転生時にSSランクのチートスキルをもらった。この女は——何もない。
「何ができる?」
ミキは手提げ鞄から一冊の絵本を取り出した。
「絵本の読み聞かせと、手遊び歌と、お昼寝の寝かしつけと、嫌いな野菜を食べてもらうことです」
「……それだけ?」
「はい。前の仕事で20年やっていました」
「保育士って……あの保育園か。俺は独身で仕事ばかりだったから縁がなかったが、たしか0歳から預かるんだよな?」
「前世では、うちの近所にもあったよ。毎朝、子供たちの声が聞こえてた」
「はい。0歳児の世話ができる人間は、騎士より希少です」
それは——確かにそうかもしれない。
アレクは聖剣でドラゴンを斬れるが、おむつの替え方は知らない。一度やってみたら、おむつが逆さまだった。ソラは泣いた。アレクも泣きたかった。前世でサラリーマンをしていた頃、子育ての大変さなんて想像もしなかった。
* * *
五 初日
ミキがソラに初めて会ったのは、中庭だった。
中庭は半分が更地になっている。前任の教育係が逃げ出した時にソラが暴れた跡だ。
ソラは噴水のそばに座っていた。不機嫌な顔。右手が淡く光っている——聖剣の召喚が始まりかけている。
騎士たちが距離を取って見守っている。全員が盾を構えていた。——一人が盾を裏返しに持っていた。手が震えすぎて裏返しになったのだ。誰も指摘しなかった。指摘する余裕がなかった。
ミキは、盾も持たず、まっすぐソラに歩いて行った。
「——止めろ! 近づくな!」
アレクが叫ぶ。ミキは振り返らなかった。
ソラの前にしゃがんだ。視線の高さを合わせた。
「こんにちは。ミキ先生だよ。よろしくね」
ソラが睨む。右手の光が強くなる。
ミキは動かなかった。
「……怒ってるんだね。——何が嫌だった?」
「……」
「言いたくない? いいよ。言いたくなったら教えてね」
ソラの目が、わずかに揺れた。右手の光が——少しだけ弱くなった。
ミキはそれを見逃さなかった。
「ねえ、ソラくん。先生、一つだけお願いがあるの」
「……なに」
「お手て、見せてくれる?」
ソラが右手を差し出した。光はまだ残っている。ミキはその手を取った。小さくて、温かくて、指が短い。どこにでもいる3歳児の手だ。世界最強の聖剣を召喚する手も、3歳児の手は3歳児の手だ。
「いい手だね。——これでグーにして? パーにして? グーにして?」
手遊びだ。グーとパーを交互に。ソラが不思議そうにやる。
「上手。——じゃあ、今度はチョキにして?」
ソラが一生懸命チョキを作ろうとする。指が上手く曲がらない。薬指が立ってしまう。
「……できない」
「大丈夫。3歳でチョキができる子は少ないよ。——でも、練習したらできるようになるよ」
ソラの右手の光が、完全に消えた。
聖剣は、消えていた。
アレクが呆然としている。騎士たちも固まっている。14人の教育係が命がけでできなかったことを——この女は、手遊びでやった。
ミキは振り返って、アレクに言った。
「3歳児の手の発達は、『握る』から『開く』への移行期です。グーとパーを交互に繰り返すことで、手指の屈筋・伸筋の切り替えを練習できます。——それは同時に、『握りしめているものを手放す』練習でもあります。聖剣も、『握りしめているもの』です」
「……手遊びで、聖剣を手放させたのか」
「チートスキルの制御? 必要ありません。——この子に必要なのは、手遊びとお昼寝と、嫌いな野菜を一口だけ食べてもらうことです」
* * *
六 保育の基本
翌日から、ミキの「保育」が始まった。
まず、生活リズムを整えた。
ソラの1日は——起床:不定(眠いと暴れる)、朝食:パンだけ(他は拒否)、午前中:放置(誰も近づけない)、昼食:パンだけ、午後:放置、夕食:パンだけ、就寝:不定(眠くなるまで暴れる)。
ミキはこれを容赦なく改善した。
起床:7時。朝食:8時。午前活動(外遊び):9時〜11時。昼食:12時。お昼寝:13時〜14時半。午後活動(室内遊び・手遊び・絵本):15時〜17時。夕食:18時。入浴:19時。就寝:20時。
「これは——保育園のスケジュールか?」
アレクが呆れる。
「はい。3歳児に必要なのは、チートスキルの制御ではなく、規則正しい生活です」
「しかし、嫌がるだろう。嫌がったら聖剣が——」
「出ますね。出たらまず安全な距離を取って、剣が消えたらやり直します。——保育学では『危険行動には反応せず、安全行動に注目する』と教わります。聖剣を出した時に叫ぶと、『聖剣を出せば注目される』と学習させてしまう。逆に、剣をしまった時に褒める。そうすれば、『しまうほうがいいことがある』と自分で気づきます」
初日。朝食にパン以外を出した。スープと、小さく切ったにんじん。
ソラが見た瞬間、聖剣が出た。にんじんが斬撃で消滅した。テーブルも半壊した。
ミキは怖がる騎士たちに指示してテーブルの残骸を端に片付けさせ、持参した予備のにんじんを出した。——あらかじめ小さく切って柔らかく茶でたものを、小皿で5回分用意してある。保育士は準備が9割だ。
2日目。また聖剣。テーブル2台目が壊れた。ハインツが「テーブルの予算が……」と呟いた。
3日目。聖剣。テーブル3台目。ハインツが泣いた。
4日目。聖剣——は出なかった。ソラがにんじんを睨んだ。
「……いや」
「いやだよね。——でも、一口だけ食べてみて? 一口食べたら、あとはパンでいいよ」
「……いっこだけ?」
「一口だけ」
ソラがにんじんを口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。
「……まずい」
「そう。——でも食べられたね。すごいね」
ミキが拍手した。ソラが、少しだけ——笑った。
聖剣は出なかった。
アレクがテーブルの陰から見ていた。——世界を救った大勇者が、テーブルの陰に隠れて3歳児の食事を覗いている。絵面としては最悪だが、気持ちとしては最善だった。自分がどんなに頼んでも、脅しても、なだめても食べなかったにんじんを、この女は4日とテーブル3台で食べさせた。——前世でサラリーマンをしていた時の営業成績より、よほど難しい交渉だった。
「……どうやったんだ」
「別に。『一口だけ』というのがコツです。全部食べなくていい。一口だけ。——3歳児に必要なのは達成感です。『全部食べなさい』は大人の都合。『一口食べられた、すごいね』が、子供の栄養です」
* * *
七 お昼寝の技術
最大の難関は「お昼寝」だった。
ソラは眠くなると機嫌が悪くなる。機嫌が悪くなると聖剣が出る。聖剣が出ると興奮する。興奮するともっと眠れなくなる。悪循環だ。
これまでの対策は「ソラが力尽きて倒れるまで待つ」だった。王宮の騎士が交代で見張り、ソラが力尽きた瞬間に毛布をかける。——それを「寝かしつけ」と呼んでいた。
「それは寝かしつけではありません。力尽きるのを待っているだけです」
ミキが断言した。
「本当の寝かしつけを見せましょう」
昼食後、ソラの目がトロンとしてきた。眠い。でも眠りたくない。——3歳児の永遠のジレンマ。大人になっても解決しないが、3歳児のほうが抵抗が過激だ。しかも武装している。
ミキはソラの背中をゆっくりさすった。トントン、ではなく、手のひら全体でゆーっくりと円を描く。
「……なにしてるの」
「背中さすってるの。気持ちいいでしょう?」
「……べつに」
「そう。——ソラくん、先生がお話してあげるね」
ミキが話し始めた。子守歌ではない。低い声で、ゆっくりと、リズムもなく、ただ穏やかに。——保育士が寝かしつけの時に使う、「眠りを誘う語り」だ。
「むかしむかし、あるところに、小さな男の子がいました。その子はとっても強くて、みんなが怖がりました。でも、となりに座ってくれる人が一人だけいました。その人は怖がりませんでした。なぜかというと——」
「……なぜ」
「その人は、強いとか弱いとか、関係なかったからです。その子が、ただの男の子に見えたからです」
「……ただの?」
「うん。ただの。——つよくなくても、よわくなくても、ただのソラくんがいいなって」
「…………」
ソラの目が閉じた。右手の光は、微塵もなかった。背中をさする手のひらの下で、小さな寝息が始まった。
5分。
5分で眠った。
アレクが入口から覗いていた。声が出なかった。
——この子が、こんなに穏やかに眠るのを初めて見た。
ミキが小声で言った。
「3歳児の寝かしつけにチートは要りません。必要なのは、安心です」
ミキが、眠っているソラの髪をそっと撫でた。
「この子は、怖がられてるんです。自分が怖がられてることを、分かってるんです。だから余計に暴れる。暴れると余計に怖がられる。——誰かが『怖くないよ』と隣にいるだけで、子供は眠れます」
* * *
八 聖剣と絵本
1ヶ月が経った。
ソラの変化は劇的だった。
にんじんが食べられるようになった。ブロッコリーはまだ嫌い。お風呂は「先生と一緒なら」入れるようになった。お昼寝は毎日13時に眠る。起きたら機嫌がいい。
——浴室の修理は3回で済んだ。大蔵大臣は「テーブルと浴室のどちらが高いか」という不毛な比較資料を作成した。浴室だった。
聖剣の暴発は——週に1回程度にまで減った。以前は日に3〜4回だ。
「どうやっているんだ」
アレクがミキに聞いた。
「何も特別なことはしていません。普通の保育です」
「普通? 聖剣を制御しているのに?」
「制御はしていません。——ソラくんが、自分で出さなくなったんです」
「……何が違うんだ」
ミキが少し考えた。
「聖剣が出るのは、ソラくんが不安な時です。嫌なこと、怖いこと、分からないことがあると、心が揺れる。揺れた心がスキルを発動させる。——つまり、心が安定すれば、スキルは暴発しません」
「心を安定させる? そんな魔法が——」
「魔法じゃないです。生活リズムと、遊びと、絵本です」
「……絵本?」
「はい。絵本は——子供の心を整える道具です。物語の中で、怖いこと、悲しいこと、嬉しいことを『安全に体験できる』。自分が体験する前に、絵本の中のキャラクターが代わりに体験してくれる。——3歳児にとって、絵本は『心の予行演習』です」
ミキはソラに毎日絵本を読んでいた。
最初は簡単な絵本。動物の絵本。食べ物の絵本。——だんだん、少しだけ「怖い」絵本を混ぜた。暗闇の話。迷子の話。友達と喧嘩する話。
ソラは怖い場面でミキの服の袖を掴んだ。でも、聖剣は出なかった。怖い——でも、隣に先生がいる。だから大丈夫。
「——聖剣は、寂しさのアラームだったんです。この子には力がありすぎて、誰も隣にいてくれなかった。力があっても、3歳は3歳です。一人は寂しいし、暗いのは怖いし、知らない食べ物は不安です。——誰かが隣にいれば、アラームは鳴りません」
アレクは黙った。
自分は——息子の隣にいたか?
聖剣が出るたびに「やめなさい!」と叫んでいた。距離を取って、盾を構えて、「危険だから近づくな」と騎士に言っていた。——自分が。世界を救った大勇者が。自分の息子を、怖がっていた。
「……俺は、父親失格だな」
「失格じゃありません。初めての子育てですから」
「20年保育をしてきた君とは違う」
「いいえ。——保育士だって最初は分からないんです。子供の泣き声が怖かった時期もあるし、何をしても泣き止まなくて一緒に泣いたこともあります。——大事なのは、怖くても隣にいることです。それに——お父さんにしかできないこともたくさんありますよ。嵐の夜に抱きしめてくれるのは、先生じゃなくて、パパがいいんです」
* * *
九 嵐の夜
ある夜、嵐が来た。
異世界の嵐は規模が違う。魔力を含んだ雷が空を走り、城壁を揺らす轟音が響く。——ソラが雷を怖がることは、ミキが最初の週に把握していた。暗闇の絵本を読んだ時の反応で分かった。
ソラが泣き始めた。
ミキは王宮の敷地内にある離れの宿舎にいた。居住棟とは中庭を挟んだ反対側だ。中庭は泥沼と化し、大人でも吹き飛ばされそうな暴風が荒れ狂っている。渡れない。
ソラの部屋には、アレクだけがいた。
「パパ! こわい!」
ソラが泣く。右手が光り始めた。聖剣が召喚されかける。——このまま暴発したら、居住棟が崩壊する。また改修だ。大蔵大臣の辞表がまた来る。
アレクの本能が「距離を取れ」と叫ぶ。
——だが。
ミキの声が聞こえた気がした。「怖くても隣にいること」。
アレクはソラの前にしゃがんだ。視線の高さを合わせた。——ミキがやっていたのと同じように。
「ソラ」
「こわいっ! こわいよ!」
「……パパも怖い」
ソラが泣き止まないまま、父親を見た。
「パパも雷は怖い。——でも、ソラの隣にいる。だから大丈夫」
「……パパも、こわいの?」
「怖い。魔王より怖い」
嘘だ。魔王のほうが怖かった。少なくとも魔王は癇癪でテーブルを壊さなかった。——でも、たぶん、こういう嘘は許される。父親の嘘の中で、これは一番優しい種類の嘘だ。
アレクがソラを抱き上げた。背中をさすった。ミキがやっていたように、手のひら全体でゆーっくりと円を描いた。慣れない手つきで、不器用に。
「……パパ、へた」
「うるさい。初めてやってるんだ」
「ミキせんせいのほうが、じょうず」
「……そうだろうな」
ソラが父の肩に顔を埋めた。右手の光が消えた。聖剣は出なかった。
雷は続いていた。だが、ソラは泣き止んでいた。父親の腕の中で、目を閉じていた。初めて——父親の腕の中で眠った。
アレクはそのまま動かなかった。腕が痺れた。魔王と三時間戦っても痺れなかった腕が、息子を抱いて一晩で痺れた。——子育てが魔王より大変だという証拠が、また一つ増えた。
翌朝、嵐が収まった。ミキが中庭を走って駆けつけた。
「ソラくん、大丈夫でしたか!?」
アレクが答えた。腕の中のソラは、まだ眠っていた。アレクの右腕が微かに震えていたが、それは聖剣のせいではなく、一晩中同じ姿勢で抱き続けたせいだった。
「……寝かしつけ、できた。——たぶん。腕は死んだけど」
ミキが笑った。
「お上手ですね。——初日にしては。……ちなみに、それが保育士の日常です。お昼寝の間、子供が起きないように動けないの。毎日」
「……毎日? 俺は前世でサラリーマンをやってたが、満員電車のほうがまだ動けたぞ」
「満員電車が懐かしいですね。——あちらは、子供が膝の上で寝てるので動けないんです。満員電車は駅で降りられますが、お昼寝中の子供は降りられません」
* * *
十 卒園式はまだ先
3ヶ月が経った。
ソラの聖剣暴発は、ほぼゼロになった。
にんじんもブロッコリーも食べる。ピーマンはまだ嫌い。チョキができるようになった。お昼寝は自分で布団に入る。
チョキができた日、見守っていた騎士が3人泣いた。彼らは、ソラの「グー」が「聖剣召喚」ではなく「じゃんけん」のグーであることに感動したのだ。——その後、王宮騎士団の間で「じゃんけん」が密かに流行した。全員チョキが下手だった。
「おやすみなさい」が言えるようになった。「ありがとう」も言えるようになった。
——最初に「ありがとう」を言った相手は、ミキではなかった。毎日新しいテーブルを運び、壊れたテーブルを片付け、にんじんの予備を補充し続けたハインツだった。
ハインツは柱の影で号泣した。——最初の3日間で3台壊されて以来、彼は万が一に備えて毎回の食事に予備のテーブルを大広間の裏に待機させ続けた。この3ヶ月で手配した予備のテーブルは合計20台。だが結局、聖剣で粉砕されたのは最初の3台だけだった。彼なりの勝率だ。
王宮の修復費がゼロになった月。大蔵大臣が初めて辞表を出さなかった。代わりに出したのは、感謝状だった。宛名は「ミキ・サカモト殿」。
アレクがミキに聞いた。
「いつまでいてくれる?」
「ソラくんが卒園するまで——と言いたいところですが、この世界に保育園はありませんからね。6歳になったら、学校に行くでしょう。それまでは」
「……3年も?」
「3年は短いですよ。——お父さんが一番聞く台詞を教えましょうか」
「何だ」
「『もう卒園? 早かったな』」
アレクが笑った。——息子の前で笑ったのは、いつぶりだろう。
「……どうかこれからも、よろしく頼む。ミキ先生」
大勇者が、初めて「先生」と呼んだ。ミキが一瞬、目を見開いて——それから、静かに笑った。
ミキが、最後に一つだけ付け加えた。
「アレク様。一つだけお伝えしたいことがあります」
「何だ」
「ソラくんのチートスキルは、世界最強かもしれません。——でも、あの子にとっての最強は、嵐の夜にパパが隣にいてくれたことです。聖剣より強い武器を、あなたはもう持っています」
「武器?」
「背中をさする手です」
アレクは自分の右手を見た。魔王を斬った手。聖剣を握った手。——息子の背中をさすった、不器用な手。
たぶん。
一番大事な使い方は、最後に覚えた。
* * *
十一 保育士の仕事
ミキが保育士になったのは、22歳の時だった。
前世——日本の保育園。手取り18万円。残業代なし。持ち帰り仕事あり。行事の準備は休日返上。保護者からのクレーム対応。書類の山。——「子供が好きならできる仕事」と言われるたびに、歯を食いしばった。好きだけでは食えない。好きだけでは体がもたない。好きだけで済むなら、労働基準法はいらない。
それでも20年続けた。
理由は簡単だ。
卒園式で、あの子たちが「せんせい、ありがとう」と泣きながら言うのを聞くと——あと1年やろう、と思えたからだ。毎年、あと1年。それを20回繰り返した。
——今になって思えば、正しかったとは言えない。
「あと1年」を繰り返すうちに、心と身体をすり減らし続けた。慢性的な疲労で反射神経が鈍っていなければ、あの子を庇った後、自分も避けられたかもしれないのに。そして——後輩たちも「そうあるべきだ」と思い込ませてしまった。無理をして当たり前という空気を作って、次々と去っていく後輩を見送った。
まずは、自分を大事にするべきだったのかもしれない。
この世界に来て、時間にゆとりが生まれた。持ち帰り仕事もない。書類の山もない。——純粋に、子供と向き合う時間だけがある。
前世ではできなかった「本当の保育」を、この世界で初めてやれている気がする。自分も、ここで、少しだけ成長できたのかもしれない。
異世界に転生して、チートスキルはもらえなかった。
だが——「子供を育てる」という、どの世界でも通用するスキルは持っていた。
ソラが昼寝から起きて、ミキの手を引っ張った。
「せんせい、えほん」
「はいはい。何がいい?」
「きのうのつづき」
「昨日の? くまさんが迷子になるやつ?」
「うん。くまさん、おうちに帰れたの?」
「どうだろうね。——読んでみようか」
ミキが絵本を開いた。ソラが膝の上に乗った。
3歳児の重さ。
——前世でも、この世界でも、同じだ。軽すぎず、重すぎず。ちょうどいい。泣き虫だったリュウタとも、これまで見送ってきた500人の子供たちとも、同じ重さだ。
世界最強の子供も、膝の上に乗ればどこにでもいる子供と同じ重さだった。
窓から光が差し込んでいる。絵本のページが暖かい色に染まる。ソラが絵本の中のくまさんを指さして言った。
「くまさん、おうちに帰れるよ。だって、みんなまってるもん」
ミキの目から、涙がこぼれた。
——そうだね。待っていてくれる人がいること。それが「おうち」というものの意味だ。前世でも、この世界でも。
強い子の前に、優しい子を。
優しい子の前に、安心できる子供時代を。
そして——子供の隣に、ただ、いることを。
それが——保育士の仕事だ。
(完)
お読みいただきありがとうございます。「凡人枠」シリーズ最新作です。
チートスキルで世界を救った大勇者なのに、3歳児の癇癪に勝てない。——考えてみれば当たり前です。子育ては、魔王討伐とは全く別のスキルセットが必要な、まったく別の冒険です。
保育士さんの仕事を「子供と遊んでるだけでしょ」と思っている人がいたら、ぜひ近くの保育園の先生に謝ってください。あの人たちは、毎日、聖剣は出ないけど癇癪は出る子供たちと向き合っています。テーブルは壊れませんが、腰は壊れます。手取り18万円で。
一口だけ。嫌いな野菜を一口だけ食べてくれたら、それでいい。100点じゃなくていい。一口の「できた」が、子供にとっての世界最強の成功体験です。
強い子の前に、優しい子を。
それが、この世界でも、あの世界でも、変わらない真実だと信じています。
本作の執筆にあたり、多くの方から貴重な助言をいただきました。保育の専門知識から物語の細部まで、丁寧に磨いていただいたおかげで、この作品は完成しました。心から感謝いたします。
——この物語を、嵐の夜も昨日も今日も、子供の隣にいるすべてのお父さん、お母さんに捧げます。あなたの手は、聖剣より強い。
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「凡人枠」シリーズ:
→「チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので——」
→「悪役令嬢、断罪されたので謝罪します」
→「チートで終わらせた戦争の後始末に赴任したら、前世が外交官だったので——」
→「チートで救われた世界の歴史が間違いだらけだったので、前世が図書館司書だったから——」
→「チートの回復魔法で治せない病が流行ったので、前世が小児科医だったから——」
→「異世界に転生したが、前世が保険外交員だったので——」
→「チートの攻撃魔法で焼け野原にされた街の火が消えないので、前世が消防士だったから——」
→「チートの勇者に子供が生まれたが育て方が分からないので、前世が保育士だったから——」★本作
よろしければそちらもぜひ!




