第73話 クラーケンの襲来 ~私の昼寝の邪魔をするなら、波のプール担当として雇いますよ~
極上のマッサージを受け、私の肉体から一切の疲労は消え去っていた。
冷たいココナッツジュースを片手に、私は再びヤシの木陰のデッキチェアに身を沈める。
手には読みかけの小説。耳に届くのは、穏やかな潮騒と、遠くでビーチバレーに興じる社員たちの微かな歓声だけだ。
完璧だ。
供給網は最適化され、村の経済は潤滑に回り、私のためのゴッドハンドも育成した。
これでようやく、私の一ヶ月に及ぶ有給休暇が、真の意味でスタートする。
私はサングラスの奥で目を閉じ、心地よい微睡みの世界へ落ちようとした。
ザパァァァンッ!!
突如、浜辺を打ち据えるようなけたたましい水音が響き、私の顔に生ぬるい海水が降り注いだ。
……。
私は無言で顔を拭い、小説のページが濡れていないかを確認した。幸い無事だ。
だが、先ほどまでの穏やかな波音は消え失せ、海面が不自然に波立ち、荒れ狂っている。
何事かとサングラスを外して海に目を向けると、エメラルドグリーンの水面が大きく盛り上がり、巨大な影が姿を現した。
ヌオォォォォォン……!
家屋ほどもある巨大な頭足類。太くぬめり気のある無数の触手が、太陽の光を浴びて不気味にうねっている。
伝説の海魔、クラーケンだ。
「ニャアアア! 海の守り神、クラーケン様が怒っているニャ!」
村長の傍らにいたニャルが、頭を抱えて砂浜にひれ伏した。
どうやら、我々の巨大な空中要塞の着水音や、数万人の社員によるビーチでのどんちゃん騒ぎが、海底で眠っていた主の安眠を妨げてしまったらしい。
クラーケンが太い触手を振り下ろすたびに、巨大な波が発生し、私のデッキチェアを容赦なく揺らした。
「ガハハハ! 見ろガント、巨大なイカのお化けだぞ!」
海で泳いでいたゼノン様が、まったく怯むことなく腰の魔剣を引き抜いた。
「ちょうど小腹が空いていたところだ! 余の次元崩壊斬で、あやつを極上のイカ焼きにしてくれよう!」
「おうよ社長! 俺の盾で触手をぶっ叩いて、柔らかくしてやらぁ!」
ガントもやる気満々で巨大なハンマーと盾を構える。
二人の物理最強コンビが、波打ち際で迎撃の体勢に入った。
「待ちなさい」
私は本を置き、冷徹な声で二人を制止した。
「なんだクリフ? 下がっておれ、すぐに美味いツマミにしてやるからな!」
「討伐は却下です。直ちに武器を収めてください」
私はため息をつき、波打ち際へと歩み寄った。
「いいですか、お二人とも。あんな巨大な生物をこの美しいビーチで解体してみなさい。白い砂浜は墨と血でドロドロに汚染され、内臓の腐敗臭が島中に立ち込めることになります」
「そんな劣悪な環境で、どうやって私が快適な昼寝を満喫できるというのですか。それに、生態系の頂点である守り神を身勝手に殺戮すれば、ESG投資の観点からも我が社のブランドイメージに悪影響を及ぼします」
ガントがぽかんと口を開けた。
「じゃ、じゃあどうすんだよ大将。あいつ、めちゃくちゃ怒って波を起こしてるぜ? このままじゃビーチが水没しちまう」
「交渉します」
私は魔導計算機を取り出し、音声翻訳の術式を起動した。
クラーケンほどの高位魔物であれば、知能は高く、意思疎通は十分に可能なはずだ。
私は拡声魔法を使い、暴れる巨大イカに向かって呼びかけた。
「そこの巨大な頭足類の方。少々お時間をいただけますか。株式会社デーモン・ホールディングスのCFO、クリフ・オーデルと申します」
ヌオォォ……?
クラーケンが動きを止め、巨大なギョロリとした眼球を私に向けた。
「我々の騒音であなたの睡眠を妨害してしまったことについては、遺憾に思います。ですが、あなたが感情に任せて波を荒らげれば、私の読書と昼寝が妨害され、お互いにとって非常に非生産的な結果を生むことになります」
「そこで、一つビジネスの提案があるのですが」
クラーケンは警戒するように触手をうねらせたが、翻訳機越しにその不満の念が伝わってきた。
『我ハ眠リタイ……ウルサイ……腹ガ減ッタ……』
なるほど。空腹と睡眠不足で不機嫌になっているわけですね。極めて人間的な欲求で安心しました。
私はニヤリと笑い、背後の社員たちに指示を出した。
「アリス、魔王城の冷凍庫から最高級のオーク肉と、バグラム産の霜降り牛を転送してください」
「えー、またクリフの病気が始まった。はいはい、お肉ね」
空間が歪み、巨大な肉の塊が砂浜にドサリと現れた。
私はそれを指差した。
「これをあなたに差し上げましょう。現物支給の給与です」
『ギュウヨ……?』
「ええ。あなたがただ海で暴れるだけなら、我々は防衛のためにあなたを討伐せざるを得ません。それはあなたにとってもリスクでしょう。ですが、我々と雇用契約を結べば、毎日この最高級の肉を提供することをお約束します」
クラーケンの眼球が、霜降り牛に釘付けになっている。
『肉……美味ソウ……。シカシ、我ニ何ヲサセル気ダ?』
「簡単な仕事ですよ」
私は美しいエメラルドグリーンの海を指差した。
「あなたのその巨大な触手を使って、このビーチに規則的で心地よい波を起こしなさい。社員たちがサーフィンを楽しめる程度の波と、私が昼寝をするための穏やかな潮騒のBGM。それをシフト制で担当していただく。いわば、当リゾートの波のプール責任者兼マリンアトラクションの目玉として、我が社にジョインしませんか?」
クラーケンは少しの間、沈黙した。
野生のプライドと、目の前の最高級霜降り牛を天秤にかけているのだろう。
やがて、彼は太い触手で霜降り牛の塊を器用に掴み取り、巨大な口へと放り込んだ。
『……悪クナイ条件ダ。契約シヨウ。シカシ、週休二日ハ譲レンゾ』
「素晴らしい労働意識です。我が社は完全なるホワイト企業ですから、有給休暇も保証しますよ」
交渉は成立した。
クラーケンは満足げに海中へ沈んでいき、やがて、ザザァ……という規則正しく心地よい波が浜辺に打ち寄せ始めた。
「おお! いい波が来たぞ! サーフィンというやつをやってみるか!」
ゼノン様が浮き輪からサーフボードに乗り換え、クラーケンの起こす人工波に乗って歓声を上げている。
他の社員たちも、安全で完璧に管理された波のプールを大いに楽しんでいた。
私は深く息を吐き、再びデッキチェアに腰を下ろした。
これで、海の環境も守られ、社員のアクティビティも充実し、そして何より……私の昼寝を邪魔する不規則な波音が消え去った。
冷たいジュース、極上のマッサージ、そして規則正しい潮騒のBGM。
役者は揃った。
今度こそ、誰にも邪魔されない私の有給休暇が完成したのだ。
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クラーケンをアトラクション責任者として雇い、村のインフラを完全に掌握したクリフ。
完璧なリゾートが完成し、ついに安息の時が訪れたかと思いきや……。
ヴァイパーが、厄介な火種を背負ってやってきた。
「おやおや、くつろいでいる所を申し訳ありません。王国海軍がこの島の領有権を主張して接近中です」
次回、第74話『ヴァイパーのワーケーション』
領有権を主張する王国海軍は、国際法で追い返してください。









