第68話 旅のしおりはコンプライアンス ~休日まで私の仕事を増やさないでください~
魔改造された超巨大空中要塞「デーモン・エアライン」の展望デッキ。
心地よい上空の風が吹き抜ける中、私は完璧なポジションに設置したデッキチェアに深く腰掛け、最高級のサングラスをかけていた。
手元にはよく冷えたトロピカルドリンク。
有給休暇1日目。ここまでは計画通り、完璧な滑り出しだ。
「ヒャッハー! 肉だ肉だ! オーク肉の丸焼きだァ!」
「おい、もっと火力を上げろ! ファイアボール!」
「ぎゃああ! パラソルに引火したッス!」
私の完璧な滑り出しは、開始わずか五分で粉砕された。
デッキの反対側では、浮かれた魔物社員たちが早速ドンチャン騒ぎを始め、バーベキューの煙が私の視界を真っ白に覆い尽くそうとしている。
私は無言でドリンクをテーブルに置き、眉間を揉んだ。
「……ガント」
「お、おう大将。どうした? 肉食うか?」
串刺しの肉を持った警備部長のガントが、能天気に笑いかけてくる。
「火気厳禁です。ここは高度一万メートルの機内ですよ。それと、そこのスライム社員がプール代わりにしている飲料水タンクから彼を引きずり出してください。衛生管理上、最悪です」
「あ、ああっ! わりぃ! おいお前ら、ちょっと静かにしろ!」
ガントが怒鳴り散らして火を消し止めるが、数万人規模の社員旅行だ。あちこちで小競り合いや羽目外した騒ぎが起きている。
ゼノン様などは、両手を広げて船首に立ち「おお、風が気持ちいいぞクリフ!」などと叫んでいる始末だ。
私は深く、深くため息をついた。
このままではいけない。彼らがこのテンションのまま未開の南洋リゾートに降り立てば、確実に現地住民との間でトラブルを起こす。
トラブルが起きればどうなるか。
現地の警備兵などとの折衝。
器物破損の賠償交渉。
悪評が立った場合の、株価下落への対応。
……つまり、CFOである私が休日出勤をする羽目になる。
それだけは、何があっても阻止しなければならない。
私の温かい食事と定時退社を脅かすノイズは、事前にすべて排除する。
私は立ち上がり、艦内放送用のマイクを握った。
「社員の皆さん。少し静かに」
冷徹に魔力を乗せた私の声が、全艦に響き渡る。
楽しげな宴会騒ぎがピタリと止み、数万の魔物たちが一斉にこちらを向いた。
「皆さんの手元に、一冊の冊子が配られているはずです。開いてください」
社員たちが、各自の座席やテーブルに置かれていた分厚い本を手に取る。
それは鈍器と見紛うほどの厚さを持った、聖法全書サイズの冊子だった。
「ク、クリフ……なんだいこれは? 辞書か?」
ゼノン様が震える手でそれを持ち上げる。
「旅のしおりです」
私は涼しい顔で答えた。
「これから一ヶ月間、我々は人間界の未開の島でバカンスを過ごします。そこで皆さんに守っていただきたいささやかなルールをまとめました」
アリスがパラパラとめくり、顔を引きつらせた。
「クリフ……これ、目次だけで50ページあるんだけど……。『第1章:現地住民との適切な距離感について』『第4章:不当な価格提示を受けた際の法的対応マニュアル』……なんか難しくない?」
「簡単ですよ」
私はマイク越しに、社員全員へ向けて宣告した。
「皆さんに守っていただく最大のルールはただ一つ。……絶対に、私の仕事を増やさないことです」
ゴクリと、誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた。
「現地で喧嘩をして、器物破損の示談交渉を私にさせないこと。
ナンパなどの迷惑行為をして、クレーム処理を私にさせないこと。
環境破壊をして、我が社が掲げるESG投資の理念を汚し、株価対応のプレスリリースを私に書かせないこと。
……わかりましたね?」
私はサングラスの奥の瞳を光らせ、背後に控えていた紫色のスーツの男に目配せした。
「CLO(最高法務責任者)のヴァイパーさん。もし彼らがこのしおり(コンプライアンス)に違反した場合、法的にはどうなりますか?」
ヴァイパーは手元の聖法全書を撫でながら、不気味に笑った。
「そうですねぇ。就業規則および今回の特別誓約に基づき、即刻懲戒解雇。
さらに、先日皆さんに付与したストックオプション(株式購入権)は全額没収となります。
もちろん、帰りの便への搭乗も拒否しますから……自力で海を泳いで帰っていただくことになりますね。ククク……」
「ヒィィィィッ!?」
「か、株が没収される!? 俺の老後の資金が!」
「サメのいる海を泳いで帰るなんて無理ッス!」
魔物たちが恐怖に顔を引きつらせ、しおりを胸に抱きしめて震え上がった。
彼らは上場を経て、自社の株価と自らの資産価値を気にする立派な資本主義の犬に成長している。
ストックオプションの没収は、物理的な攻撃よりも遥かに効くのだ。
「フフッ、素晴らしい抑止力ですね、クリフさん。これで私の休日も守られました」
ヴァイパーが満足げに頷く。
「ええ。我々は上場企業です。反社のような振る舞いは許されません。
……ガント、風紀委員長として彼らの監視を頼みますよ」
「お、おう……任せとけ。誰も指一本触れさせねぇよ……」
ガントまで少し引いているが、これでいい。
「さて、ルール説明は以上です。
これより、株式会社デーモン・ホールディングスは完全なオフに入ります。
存分に羽を伸ばし、英気を養いなさい」
私はマイクを置き、再びデッキチェアに寝そべった。
周囲は水を打ったように静まり返り、社員たちはマナーを守って小声で歓談を始めている。
バーベキューの火も安全な魔導コンロに切り替えられていた。
私はアイマスクを装着し、トロピカルドリンクのストローを咥えた。
完璧だ。
これで、私のバカンスを脅かす要素はすべて排除された。
あとは島に着いて、波の音を聞きながら惰眠を貪るだけ。
……この時の私は、これから上陸する島そのものが巨大な非効率の塊であり、私の職業病を極限まで刺激する場所であることに、まだ気づいていなかった。
[System Notification] NEXT_PREVIEW
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数時間のフライトを経て、一行はついに南洋のリゾート・アイランドへ上陸する。
透き通る海、白い砂浜。まさに地上の楽園。
クリフは早速デッキチェアで読書を始めようとするが、喉が渇いて頼んだココナッツジュースが一向に出てこない。
「……注文から2時間。一体どこにジュースを絞りに行っているんですか?」
次回、第69話『未開の南洋リゾート上陸』
最高のビーチに潜む、最悪なオペレーション。









