トリトニアの伝説 外伝2 告白の練習曲(エチュード)
この作品は「トリトニアの伝説」の外伝です。
第四部 アトランティック協奏曲 の中のワンシーン、一平とパールがトリトニアに着いてパールの家を探す場面を中心に、パール目線で書いてみました。
これまでのあらすじ
地上で生まれた海人との混血児一平は人魚のパールを故郷に帰すべく二人で旅を続けてきた。
互いの身を守るため、武道を身につけて襲い来る敵を排除する一平と、そのため生じる怪我を癒しの力で回復させるパールとは、強く深い絆で結ばれつつあった。
日本を出て三年、艱難辛苦を乗り越えてようやくトリトニアに足を踏み入れるが、病弱のため殆ど外出したことのないパールには、自分の家への道案内すら難しいのだった。
そしてもうひとつ、パールには一平に言わなければならないことがあったのだ。
(帰って来ちゃった…)
ヘンプの森を通り過ぎ、トリトニアの領海に足を踏み入れたところで、パールは思った。
日本を出て三年、一平と二人で諸海を旅してきた。
様々な経験をして、ようやっと目指すトリトニアに辿り着いた。ここまでくれば、もうパールの家は目と鼻の先である。
目に入る景色そのものに見覚えはない。この場所にパールは来た事はない。
が、パールの鼻はとうに故郷の海の匂いを感じ取っていた。ひと掻きするごとに、それは如実に強くなる。
傍らの一平を見上げる。
彼にも確信がある。ここがトリトニアだということに。
もちろん一平にとっては初めての地だ。だが、出会った人々が教えてくれたトリトニアまでの方角や距離、目印の場所の特徴などと、この場所は一致している。海の中での距離感も方向感覚も、ついでに言えば時間の経過や海上の気候なども、計器がなくても肌で実感できるようになっている。
日本を出る時、十年かかったっていい、と思った憧れの地に、その三分の一の年月で辿り着くことができたのだ。トリトニアがどこにあるのか、当時全くわからなかったというのに。感慨深いというのはこういう感情のことを言うのかと、一平は自分の気持ちを噛み締めていた。
(一平ちゃん、嬉しそう…)
パールは思う。
パールとて同じ気持ちだ。
ほぼついてきただけ、と言うのに等しいパールの心持ちと、責任感の塊の一平のそれとはかなりの開きがあるにはある。
けれど、パールとて、トリトニアに帰りたかったのだ。わけもわからず知らぬ土地に飛ばされて、帰りたいと思わない者がいるだろうか。
さすがに初めは泣いた。自分が一人ぼっちになってしまったことを知って、パールは泣くことしかできなかった。だが、泣いて泣いて泣き疲れて眠ってしまったパールを一平が見つけてくれてからは、ただの一度も故郷恋しさに涙を流すことはなかった。
それよりも遥かに大きな感情がパールの身の内に芽生えたからである。
パールは病弱だった。
未熟児で生まれ、生まれてすぐに生死の境を彷徨い、何とかそこを脱してからも、普通の生活がままならない子どもだった。
熱を出して寝込むことが殆どで、友達どころか弟とさえもろくに遊ぶこともできない虚弱すぎる体質を、克服できずにいた。
勉学に通うはずの年齢を迎えても、それも叶わない。
家庭教師は来てくれたが、そもそもが起き上がって活動する時間が制限される身では、大した知識も授けられない。
父母は愛してくれるが、パールは実につまらない幼少期を過ごしていたのだ。
珍しく体調がいいので少し外へ連れ出してやろうと企画された遊泳中に、パールは忽然と姿を消した。
パール自身にもわからない。未知なる力でパールは数万キロの距離を跳躍した。
一瞬前とは異なる場所に出て、パールは面食らった。だが同時にぱっと顔を輝かせた。
眩しいほどの明るさの中、目の前には揺蕩う波があった。見上げれば吸い込まれそうなほど青い空。海はそれよりも暗い色をしているが、天空高く、見定められないほど眩しく輝く白い光の塊がある。
―海上だ―
パールは悟った。ここは海の上。子どもは決して一人では行ってはいけないと、硬く戒められている場所だ。話に聞くしかなかった場所、到底行くことが叶わなかった場所に自分は今いるのだと。
パールは歓喜した。
理由はわからないが、これを喜ばずして、何を喜びと言うのか。
そんな心持ちだった。手を翳して太陽を遮りながらも、パールは太陽を眺めずにはいられない。想像することしかできなかった太陽を、まさかその目に収めることができる日が来ようとは!
波が時折パールの体を洗うようにぶつかってくる。
この感じも新鮮だ。海の中とはまるきり違う。
そして、遠くに引かれた海と空とを隔てる長い線。水平線と言う、地球が丸いために現れる境界線なのだと、パールが知る由もない。
目を転じれば大きな岩の塊がいろんな大きさと形で並んでいる。岩の上にはいろんなものが乗っかっている。
初めて見る景色に、パールは我を忘れてうっとりと見入っていた。
いくら見ていても飽きないが、天候が変わらぬ限り、その姿が大きく変わる事はない。さして変化の起こらない状況にはたと気がつくと、周りには誰もいない。
今まで一緒にいた父は、母は、一体どこだろう?
―もしかして、パール迷子になっちゃった?こんな海の上になんていることがわかったら叱られちゃう―
パールは慌てて身を翻し、海中へ潜った。
海の中も見覚えのない所だった。
見慣れない種類の生き物ばかりが目につく。
パールは焦った。
―早くパパとママを見つけなくちゃ。帰らなくちゃ―
しかし、いくら泳いでも、目を凝らして探しても、一向に父母のいる気配はない。体力にも限りがある。
疲れ果てたパールは慰めを求めて再び海上へ戻った。
「ママ…パパ…」
―どこにいるの?パール迷子になっちゃった。どうやったらおうちに帰れるの?―
次第に事の重大さが心にのしかかってきて、パールは泣き始めた。疲れた体に、嗚咽が拍車をかける。
静かに打ち寄せる波の音が子守唄となり、パールはいつしか寝入っていた。
夢の中でパールはある匂いを嗅ぎつけた。
いつも近くにあった懐かしい匂い。
―パパだ!―
パールは鼻をひくひくさせ、パチっと目を開いた。
すぐそばにいた匂いの元にいきなり飛びつく。
「わわっ‼︎」
父だと思ったその存在は父ではなかった。
髪も父のような燃えるようなオレンジではない。真っ黒だ。目も黒い。
その目をまん丸く見開いて、驚いたような困ったような表情をしている。
「トリトン…じゃないの?」パールは尋ねた。「パパとおんなじ匂いするのに、トリトン族じゃないの?」
目の前の人はパールの言葉を聞いてさらに驚いた顔になった。
「おまえ…迷子か?」
言語が違うのか、パールには何と言われたのかわからなかった。
でも、その人の口調は優しかった。口調だけではない。その表情も優しかった。パールは安心した。この人は信頼できる、と。
思った通り、その人はとても頼りになる若者だった。
なぜか服を着ていないが、男の子にはあるはずの足鰭がない。
では大人だ。成人している。だったらパールよりはいろんなことを知っているし、何とかしてくれるはずだ。パールはそう思った。
名前はイッペイと言うのだと教えてくれた。
それと、「おいで」と言う言葉だけはすぐ理解できた。
パールは一平の言葉がわからないが、一平はパールの言葉を正確に理解してくれる。
本当に助かった。
あのままずっと一人ぼっちでいたら、ひ弱なパールはいくらもしないうちに、他の動物の糧となっていただろう。
一平に誘われた洞窟での暮らしは楽しかった。
友達も二人増えた。
一平と早く意思を通じ合わせたくて、パールは必死に一平の言葉に耳を傾けた。
一平も、パールの言葉を理解はしても、口にするのが難しかったので、お互いに言葉を教え合った。
パールには目新しいことだらけで、それを吸収するのが自然に面白かったから、自分が迷子になったことを思い煩うことなど忘れていた。
新しいことばかりに目がいって、パールは自分の生い立ちを一平に告げることをしなかった。そんなことが必要だとも思わなかった。
そしてそのまま、パールは口を噤んでいる。
―パールの家はトリリトンにあるの。王宮がパールのおうちで、パールはトリトニアの国王の子なの―
たったそれだけのことを、パールは今まで言わずに来た。
これほど信頼し、敬愛しているただ一人の人に、こんな大事なことを黙っていた。
忘れていた。
必要がなかった。
それより大事なことがいっぱいあった。
けれど、トリトニアに足を踏み入れた今、もう言わなければいけないことだった。
王宮を指し、あそこがパールの家だといきなり言われたら、一平はどう思うだろう。
多かれ少なかれショックを受けるに違いない。
いや、それよりも、今までパールが黙っていたことで、パールを嘘つきだと思ってしまうのではないだろうか。パールのことが嫌いになってしまわないだろうか。
パールは何よりそれが恐ろしい。
だから、帰ってきたんだと喜ぶよりも、帰って来ちゃったと残念がる気持ちが勝ってしまう。
パールは一平が好きだ。大人になったら一平のお嫁さんになりたい。
一平も多分パールの事は好きだ。何度もそう言われたし、大切だとも宝だとも、妹だとも言われた。
パールの為なら何でもしてくれた。たとえ自分の命を引き換えにしてでも、一平はパールを守ろうとした。
だから嫌われている事はあり得ない。
でも、これから嫌われる事はあり得ることだ。
それがこの秘密を暴露することで発生するなら、慎重にならなければならない。
パールは葛藤していた。
いつ言おう、いつ言おう、なんて言おう…。
考えているうちにどんどん王宮は近くなり、時間の猶予がなくなる。
「ちょっとこの森は疲れたな。せっかくトリトニアに着いたところだけど、今日はこの辺で休んでおこうか。明日からはいろいろ聞き込みをしながら探さなくちゃならないし」
一平の提案にパールは即答する。
「うん…」
決断の時が伸びたことで、取り敢えずパールはほっとした。
朝はすぐにやってくる。寝付きのいいパールには夜は長いという感覚はあまりない。寝ている間は考えていられないので、目覚めた時には何の解決策も見つかっていないことになる。
どうしようか迷っていると、一平の一言一言が胸に刺さる。下手なことを言えないと思うが故に、やたら饒舌になって一平を振り回すことになる。
「…いい加減にしろよ。しょうがないなぁ」
ここは見たことがあるような気がする。あっちかも…。
あやふやな証言ばかり言うものだから、一平も呆れている。
これはまずい。嫌われそうだ。パールの一番来て欲しくない状況だ。
「ごめんね。…パール、あんまり王宮の外に出たことなかったから…」
申し訳なさで思わず謝罪の言葉が出る。ぽろっと『王宮』と言う言葉を使ってしまった。
「え?王宮?」
一平は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「うん。ほら、病気ばっかりしてたから、外出させてもらえなかったの」
―言ってしまった―
こんなふうに伝えるつもりじゃなかったのに。
一平は目を瞠いて絶句している。今まで見聞きしたことと、パールの言葉の意味を繋ぎ合わせている。そして当然のことながら、一平は真実を言い当てた。
「おまえはトリトニアの王女なのか⁈」
頷くしかなかった。でも口を滑らせたことで伝える術を考えなくてよくなり、パールの気は楽になった。
一平はその後しばらく惚けたように、あらぬところを見つめ、パールと話していることを忘れてしまったように見えた。
「ねぇ、…一平ちゃん、どうしたの⁈」
尋ねるパールに、一平はもたもたと声を発する。いつもの彼らしくなく、言葉を探しながら、何かを躊躇しているかのように。
一平の口から『パール王女さま』とか『姫さま』とか言う言葉が発せられ、パールは愕然とした。
一平に嫌われることをこそ一番恐れていたのに、これは思ってもみない展開だった。
一平がこの自分に対し、遜っている。パールにとって一平は何でもできるスーパーマンだ。それなのに、どうしてパールの方が上に見られなければならないのか。自分は大人でもないし、特に取り柄もない、一平のお荷物に過ぎないのに。
ただ、王女に生まれたというだけなのに、それがわかった途端にパールに対する態度が豹変したことが、どうしようもなく悲しかった。
一平だけは、パールのことを何の色眼鏡もかけずに見てくれていると思っていたのに。どんなに未熟でも見捨てず、どんなに悪い子でもいい子だと肯定してくれた。パールのいいところも悪いところも、全部ひっくるめて優しく包み込んでくれていたのだ。
それなのに…。
パールには、一平が急に遠いところへ遠ざかってしまったように思えた。
パールは憤った。
―一平ちゃんは姫さまなんて言わないでよ!―
―一平ちゃんは一平ちゃん、パールはパールだよ―
―パール…王女のパールティアじゃなくて、ただのパールでいたかったの―
パールの心からの叫びを耳にして、一平の動揺はなりを潜めた。
ほどもなく、一平の口調はいつものものに戻った。
おまえの言う通りだ。びっくりしただけだ。王宮なら誰に聞いてもすぐわかるはずだから、パパとママに会えるのはもうすぐだぞ。と、いつもの笑みで言われ、パールは心底胸を撫で下ろした。
トリトニアの首都トリリトンの王宮のある方角を、二人は笑顔で見つめ直した。
パールはもう、帰って来ちゃった、とは思わない。
やっと帰って来れたんだ。これで一平ちゃんに本当のおうちをプレゼントしてあげられる。と、パールはわくわくしていた。
(トリトニアの伝説 外伝2 告白の練習曲 完)
保護者の庇護が必要な年齢で見知らぬ場所でひとりぼっちになったパール。
どれほど不安で寂しく、心が潰れそうになったことでしょう。
そこに現れた一平は一条の光、パールを苦境から救う救世主にも等しかったのでしょうね。
小さな胸を痛めていても、楽観的で変わり身の早いのはパールの強味です。
この原動力に一平は翻弄されっぱなし。
後ろ向きになってしまった一平の気持ちはどの方向へ進むのか。
二人のラブストーリー本格始動です。
次回からは「第五部 トリトニア交響曲」を連載いたします。
準備期間をいただいた後、11月より投稿を始めたいと思っております。
またページを訪れていただけますように。




