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青竜刀を担いだ伊達男  朝鮮人ボクサー 植村竜郎

作者: 滝 城太郎

戦前の日本のボクシング界の繁栄には半島出身者の存在は欠かせなかった。アメリカ武者修行で名をあげた徐廷権と玄海男は本場仕込みのスピードとテクニックで満場の観客を唸らせる一方で、植村は19世紀のベアナックルファイトのような原始的なボクシングで近代的なテクニシャンをなで斬りにしていった。ボクシングスタイルは両極端ながら、彼らはいずれも海外生活経験が豊富な国際人であり、日本ボクシング界が世界への扉を開く大きな原動力になったことを見過ごしてはならない。

 オールバックに三つ揃えの高級スーツで身を固めた植村は、日、韓、中、露、仏など六ヶ国語を自由に操る国際人で、ボクサーらしからぬ洒落男だった。

 リング上では闘争本能剥き出しの凄惨なファイトを繰り広げながら、一たびリングを降りるとファッショナブルで凛々しいジェントルマンに早変わりする。もっとも、顔に凄みがあるのでギャングスターに見えなくもないが。

 植村竜郎こと本名李竜植は北朝鮮の咸鏡南道元山府に生れた。十三歳の時、元山港からタンカーでアメリカへの密航を企てたが、途中で発覚し上海で下船させられた。国民党、共産党、軍閥が三つ巴の争いを繰り広げる中国で、孫文の思想に共鳴し革命家を志した植村は、保石学院(軍人学校)に入学。一時期は爆撃機の操縦士として実戦にも参加したが、やがてボクシングに魅せられ、東洋のボクシングのメッカだった上海でプロデビューを果たしている。

 ヤング・アンビションの名でリングに上がり、昭和三年にはダン・サクラメント(比)に判定勝ち、ボビー・ランド(英)に八ラウンドにKO勝ちした記録があるが、その他の戦績は不明である。

 日本の植民地になっていた朝鮮独立運動を画策したかどで、官憲に追われ、満州の大連に姿をくらませた後、昭和五年に帝拳の荻野貞行師範を頼って来日した。

 身体がなまっていたのか、日本のリングではいきなり四連敗と冴えないデビューだったが、昭和六年三月、渋谷東京ボクシング倶楽部の発会式でフェザー級の第一人者である原靖を四ラウンドにKOしてからは波に乗った。

 植村のボクシングは左右のスイングをビュンビュン振り回すだけの単調なものだったため、スピードのあるテクニシャンにかかってはひとたまりもなかったが、打ち合いとなると滅法強かった。

 打たれ強さもさることながら、「千回振り続けても疲れない」と本人が豪語するだけあって、最終ラウンドまでフルスイングを続けられるタフネスは尋常ではなく、顎をかすっただけでも相手をぐらつかせるほどのパンチ力があった。あまりの威力に、植村は拳に太い鉄線を巻いている、という噂が飛び交ったほどだ。

 敗色濃厚でもスイング一撃で逆転してしまうスリリングな試合ぶりに人気が集まり、その切れ味抜群の左右のスイングは「青竜刀」と命名された。昭和六年に二十八度もリングに上がっているのはその人気の証といえよう。


 植村を語る上で欠かせないのが、戦前の日本ボクシング界きってのKOキング、中村金雄との四連戦である。

 日本のボクシングの父と言われる渡辺勇次郎門下の中村は、伝家の宝刀であるカウンターを武器に、昭和二年から三年にかけてアメリカ西海岸を中心に二十五勝一敗(二十一KO)一引分けという驚異的な戦績を残し、一躍「ナックアウト・アーチスト」の異名を取る日系人のアイドルとなった。

 昭和六年八月、三度目のアメリカ遠征から戻った中村は、これまでダウンの経験すらなかったタフガイ、フランシスコ・ララ(フィリピン)をKOしてその健在ぶりを示すと、二週間後の九月三日には売り出し中の植村との対戦が組まれた。

 この時点での植村の戦績は六勝六敗(五KO)五引分けに過ぎず、その不器用なボクシングスタイルからして、鉄壁のディフェンスを誇る中村の敵ではないだろう、というのが一般的な見方だった。事実、第一ラウンドは中村の狙いすました左ストレートのカウンターでダウンを喫した植村が明らかに劣勢だった。

 ところが二ラウンド開始早々、植村は怒涛のラッシュで中村をコーナーに詰めると、左側頭部目がけて青竜刀をつるべ打ちし、ダウンを奪い返す。すでに意識を失っていた中村はそのままカウントアウトされ、二ラウンド一分でKO負けに退いた。

 「拳闘の試合で相手のパンチをくらった瞬間に、痛いと感じてダウンしたのは後にも先にもこの時だけ」と中村が述懐するほど強烈な一撃だった。

 日本人には一度も負けたことのない中村を倒した植村の人気は急上昇し、十一月には元日本フェザー級チャンピオン久場清を七ラウンドKOするなど、日本の一線級を総なめにした感があった。

 ファン待望の中村とのリターンマッチは昭和七年一月七日に実現した。

 前回の敗戦から三連勝(二KO)と意気上がる中村は、ガードの甘い植村の顔面に細かいパンチを見舞いながら、低いダッキングとクリンチでスイングをかわすヒット・アンド・アウェイ戦法で完全に翻弄。 

 二ラウンドこそ右フックを避け損ねてカウント6のダウンを喫し、一瞬ひやりとさせたものの、パンチが浅かったため大事には至らず、その後はパンチを見切って確実にポイントを稼いでいった。

 四ラウンド、中村の右フックが植村の卵大に腫れ上がった左瞼を直撃すると、皮膚が裂けて鮮血がほとばしった。中村が返り血を浴びるほど傷は深く、ここでレフェリーストップが入った。

 両者が一勝一敗で迎えた三月十五日のラバーマッチは、植村のスイングスピードがいちだんと速くなっていたため中村は容易に踏み込めず、カウンターもことごとく空を切った。

 五ラウンドに入ると、弱腰になった中村の心中を見透かしたように植村がワイルドな右スイングで勝負を賭けると、中村は成す術もなくキャンバスに崩れ落ちた。一度ならず二度までも大豪中村をKOしたことで、植村の青竜刀は、今や恐怖の代名詞となった。

 両者によるKO合戦は巷でも大きな話題となり、これまで日本では認知度の低かったボクシングを野球や相撲に次ぐ人気スポーツの座に押し上げた。

 強打者同士の複数回のライバル対決というと、真っ先に浮かぶのが『世紀の一戦』と銘打たれた堀口対笹崎戦だが、対戦成績は堀口の二勝一敗(一KO)二引き分けで、KO決着がついたのは一度だけである。昭和三十年代の黄金カード、高山対勝又戦でも勝又の三勝一敗(一KO)で、互いに警戒しすぎなのか派手な打撃戦は少ない。

 それに引き換え中村対植村戦は、三戦目まで全てKO決着である。判定にもつれ込むことをよしとしない両者のプライドが火花を散らした死闘は、観ている者に勝敗を超えた感動をもたらし、ファンは四度目の対決を熱望した。

 第四戦はこれまでの日比谷公会堂から両国国技館に場所を移した昭和八年二月二日に実現した。

 進退を懸けた中村は、気力、体力ともに充実しており、凄まじい闘志で植村に襲いかかった。一ラウンドから右ストレートをびしびしと出鼻に決められた植村は早くも鼻から出血したが、二ラウンドにはお返しとばかりに必殺の右スイングで中村の目尻を切り裂き、三ラウンド以降は両者血まみれの凄惨な攻防を繰り広げた。

 六ラウンドに入ると、スイングを振り回しすぎたか、すでに疲労困憊の植村は、中村のパンチをクリーンヒットされるたびにリングをふらふらとさまよう有様だった。

 見るに見かねたセコンドがもはやこれまでとリングにタオルを投げ入れた瞬間、何と植村は前のめりになりながらそのタオルをつかむや、ロープの外に放り投げてしまった。場内騒然となる中、ファイトが再開されると、恐るべき植村の執念に圧倒されたか、さすがの中村もとどめを刺せないまま試合は終了。中村が文句なしの八ラウンド判定勝ちで、対戦成績を五分に戻した。

 現在であればいくらファンの熱い要望があったとしても、人気絶頂期にあるボクサー同士をかくも短期間のうちに四度も戦わせるということは、常識的にありえない。こんな消耗戦を繰り返せば、お互いが潰れてしまいかねないからだ。それほどのリスクを承知で全力ファイトを演じた中村と植村のプロ根性が、日本ボクシング界の黎明期を築き上げたと言っても過言ではないだろう。

 四試合ともに会場は超満員で、場内の異様なまでの熱狂ぶりは今も語り継がれているほどだ。


 植村と中村が壮絶な打撃戦を繰り広げているのと同じ頃、渡米して本場でメインエベンターとなり、日本のジム所属選手としては初めて世界ランキングトップテンにランクされた(世界6位)同胞がいた。四歳年下の徐廷権である。

 後の世界チャンピオン、スモール・モンタナや世界一位のスピーディー・ダドにも勝利した徐は“朝鮮の虎”の異名を取り、バンタム級では実力世界一と評価されたこともある。

 ただし、全盛時代の昭和七年後半から十年にかけてはアメリカ西海岸が主戦場だったため、日本には徐の海外での活躍ぶりが伝えられるのみで、十一年に帰朝して大歓迎を受けた頃はすでにボクサーとしては老境を迎えていた。

 植村と徐が相いまみえたのは、アマチュアの雄だった徐が、プロ入り直後から連戦連勝によって、植村と中村の後に続く軽量級期待の新人としてクローズアップされていた頃だった。徐は世界に通用するスピーディーな身のこなしもさることながら、デビュー戦で元日本フライ級チャンピオン柏村五郎を一ラウンド一分でKOしたクラウチングスタイルからのボディ連打も侮れない威力を秘めていた(柏村の生涯のKO負けはこれ一度きりだった)。


 昭和七年十二月十二日、植村はデビューから十二勝〇敗(二KO)三引分けと未だ無敗の徐を日比谷公会堂で迎え撃った。

 双方が好戦的なファイターということもあって、試合は序盤から打撃戦となった。植村が豪快なフルスイングで徐に迫れば、徐は左右の細かいコンビネーションで植村の前進を阻もうとするが、植村のタフネスは想定外だった。

 中村との第一戦と同じく、徐のパンチは植村を的確に捉え、植村は大振りを繰り返すだけだったが、徐のパンチは中村のカウンターほどの切れはなかったので、打ち勝っているように見えて徐の方が植村の圧力で追い詰められてゆき、ついに三ラウンド、青竜刀を直撃されもんどりうってキャンバスに倒れこんだ。

 幸いダメージが浅く、すぐに立ち上がった徐は逆ギレしたかのように猛反撃に転じ、会場は一気に盛り上がった。有効打は明らかにスピードに勝る徐の方が多く、常に連打で圧倒して植村をコーナーに追い込んでいたが、植村の青竜刀はダテではなく、中村よりはるかに打たれ強いはずの徐を、ピンポイントを外した一発でもキャンバスに這いつくばらせるだけの威力があった。

 結果、徐は試合のイニシアチブを取りながら、計四度ものダウンを奪われたのが響いて、十ラウンド引き分けでかろうじて無敗を守っている。

 引き分けたとはいえ、観客は植村の青竜刀の切れ味に目が釘付けになったことは間違いなく、先輩の意地を見せた格好になった。

 

 植村の青竜刀伝説はなおも続く。これほどの激闘の翌月、植村はフィリピンの強豪、ファイティング・ヤバとの一戦に臨んだ。ヤバは日本ボクシング界きっての強打者である中村と植村を過去に二度ずつKOで退けている日本人キラーで、植村にとっては中村以上に手強い相手である。

 こんな過酷な試合スケジュールを組んだ帝拳も帝拳だが、それに応じる植村も植村である。しかも、過去の対戦では全く歯が立たなかったヤバを青竜刀で一刀両断、わずか一ラウンドで沈めているのだ。

 朝鮮人に対する差別意識がまかり通っていた時代だったにもかかわらず、日本で植村人気が沸騰したのは、ボクサーとしての絶対的な強さというよりも、数々の逆転劇を演じてきた青竜刀が発する妖しい魅力に他ならない。

 太平洋戦争中にメインエベンターとして活躍した韓国籍の福田寿郎は、デビューから二十八連勝という無敵ぶりだったにもかかわらず、植村のような派手なフィニッシュブローを持たなかったせいか、それほど大きな話題になることはなかった。


 宿敵ヤバを葬り、まだまだ植村の時代が続くかと思われた昭和八年十月、中村金雄に続いて、植村も突然の引退を発表した。新時代のヒーロー、堀口恒男に四ラウンドTKOで屈した直後のことだった。

 最大のライバル中村が三ラウンドでストップ負けしたのに対し、植村は四ラウンド終了後の棄権であり、中村よりタフなところを見せつけたあたり、負けず嫌いの植村の意地が感じられる。

 中村を番狂わせのKOに下した堀口は、同時代最高のタフガイまで血祭りにあげると、返す刀で徐までストップし、無敵街道を歩み続けてゆく。

 植村の突然の引退表明は、「この男には勝てない」と悟ってのことだろう。実に潔い引き際だった。


 引退をした植村は日本を去り、ソウルでジムを開いたが長続きはしなかった。ソウルでは自らもカムバックのリングに上がり、祖国のファンの前でKO勝利を収めはしたものの(昭和九年四月)、これが正真正銘の引退試合となった。

 日中戦争の頃には、植村が北京でジムを開いたというニュースが伝わってきたが、戦争が終わると日本軍が撤退した生まれ故郷の北朝鮮に戻ったらしい。その後、両親が暮らすウラジオストックに渡ったそうだが、以後の消息は北朝鮮に帰国した多くの在日ボクサー同様、全くわかっていない。


 生涯戦績(判明分)二〇勝二一敗(十二KO)十一引分け



デビューから連勝中の徐に勝てた日本人ボクサーは一人もおらず、植村以外で引き分けに持ち込んだ二人もリターンマッチでは徐に敗れている。しかも徐の生涯唯一のKO負けは引退前年に堀口恒男に喫したものであることを考えると、植村は全盛期の徐をKO負け寸前に追い詰めた唯一のボクサーだったということになる。

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