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最終章 「水都に響く二重奏 ~透明な愛の調べ~」

 一年後のヴェネツィア。初夏の陽光がラグーナの水面に踊り、街全体が黄金色に包まれていた。


 オスペダーレ・デッラ・ピエタでは、特別なコンサートの準備が進められていた。ヴィヴァルディの新作『四季』の初演である。エクサンプロヴァンスから戻ってきたヴィヴァルディは、この作品に自らの経験と感性のすべてを注ぎ込んでいた。


 その準備の中、ピエタに一通の手紙が届いた。それは遠いウィーンから送られてきたもので、差出人はマルコ・リナルディとベアトリーチェ・ダッラ・トーレだった。


 ヴィヴァルディは静かに手紙を開き、二人の近況に目を通した。彼らはウィーンで音楽活動を続け、その才能は広く認められるようになっていた。マルコは本名で男性として生き、ベアトリーチェと共に活躍していた。二人はまだ正式には結婚していなかったが、事実上のパートナーとして共に暮らし、音楽を創り続けていた。


 手紙には楽譜も同封されていた。それは二人が共作した協奏曲で、ヴィヴァルディとピエタに捧げられたものだった。神父はその楽譜に目を通し、微笑んだ。二人の成長は明らかで、その音楽には新たな深みと輝きがあった。


「彼らは幸せなようです」


 ヴィヴァルディは修道女長のソル・アンジェリカに手紙を見せた。彼女も静かにうなずいた。


「神の御心のままに」


 それは彼女なりの祝福の言葉だった。


---


 その頃、ウィーンの小さなアパートメントでは、マルコとベアトリーチェが朝の練習を終えたところだった。窓から差し込む光が、部屋を明るく照らしていた。


 マルコは今日も優れた演奏をするため、早朝からヴァイオリンの練習に打ち込んでいた。彼の髪は短く、男性らしい装いだったが、その指先の繊細さと表現力は、ピエタで学んだ女性としての感性を失っていなかった。


 ベアトリーチェはテーブルに座り、新しい曲の作曲に没頭していた。彼女は今日、シンプルな白いドレスを着ており、髪は自然に肩に流れていた。首元には小さなサファイアのペンダントが光っていた。


「ヴィヴァルディ神父からの返事が来るといいわね」


 彼女は筆を置き、マルコに微笑みかけた。二人はヴェネツィアを離れてから、定期的に神父に手紙を送り、その導きと支援に感謝していた。


「きっと来るよ」マルコは楽器を置き、彼女の隣に座った。「神父は私たちの幸せを願ってくれている」


 ウィーンでの生活は、最初は困難だった。新しい土地、新しい言語、そして何より、二人の不確かな身分。しかし、音楽の力は国境を越え、彼らの才能は次第に認められるようになっていった。マルコは男性として生きることで、新たな自由と可能性を見出し、ベアトリーチェは伝統的な制約から解放され、自分の音楽的才能を存分に発揮できるようになった。


 二人は現在、宮廷音楽家の補佐として働きながら、自分たちの作品を発表する機会も増えていた。特に、二人のための二重協奏曲は高く評価され、各地で演奏する招待を受けるようになっていた。


「次の演奏会のプログラムを考えなくては」


 ベアトリーチェは新しい楽譜に目を通しながら言った。彼女の創造力は日々磨かれ、今では作曲家としても認められるようになっていた。


「ヴィヴァルディの新作も含めましょう」


 マルコはうなずき、窓辺に立った。ウィーンの街並みはヴェネツィアとは全く異なっていたが、どちらも彼にとって大切な場所だった。ヴェネツィアは彼の過去であり、ウィーンは現在と未来。そして、両方の経験が彼を形作っていた。


 彼は時折、ヴェネツィアでの日々を懐かしく思い出した。マリアとして生きた日々、ピエタでの学び、秘密の庭でのベアトリーチェとの時間。それらの経験は彼の心の中に色あせることなく残っていた。


「マルコ、これを聴いて」


 ベアトリーチェはチェロを手に取り、新しい旋律を奏でた。それは穏やかで、どこか郷愁を誘う調べだった。


「美しい」マルコは心から言った。「何と名付けるの?」


「『ヴェネツィアの記憶』」


 彼女は微笑んだ。マルコもヴァイオリンを取り、即興で彼女の旋律に応えた。二つの楽器が織りなす音色は、過去と現在、男性と女性、強さと繊細さが完全に調和した世界を創り出していた。


 演奏が終わると、ベアトリーチェはチェロを置き、マルコに近づいた。彼女は彼の頬に優しく触れ、静かに言った。


「お父様から手紙が来たわ」


 マルコは驚いて彼女を見つめた。ベアトリーチェの父親は、彼らの出奔以来、一度も連絡を取ってこなかった。


「何と?」


「私たちを許すと」彼女は微笑んだ。「そして、ヴェネツィアに戻ってくるよう招いている」


 マルコは言葉を失った。それは予想外の展開だった。


「帰るべきかな?」


「いつかは。でも今はまだ、私たちの音楽を広める使命があるわ」


 ベアトリーチェは窓の外を見つめた。「いつかヴェネツィアに戻り、すべての人に私たちの音楽を聴かせたい。もう隠れることなく、ありのままで」


 マルコはうなずき、彼女を抱きしめた。彼もまた、故郷に戻る日を心のどこかで待ち望んでいた。両親に会い、ピエタを訪れ、ヴィヴァルディに感謝を伝えたい。そして何より、ヴェネツィアの美しい光と水の中で、再びベアトリーチェと音楽を奏でたい。


「きっとその日は来る」


 彼は静かに言った。ベアトリーチェは彼の腕の中で微笑み、うなずいた。


---


 数年後、マルコとベアトリーチェはついにヴェネツィアに戻った。二人はヨーロッパ各地で名を馳せた音楽家として、今や故郷でも歓迎される存在となっていた。


 サン・マルコ広場でのコンサートは大盛況だった。ヴェネツィアの人々は、かつて彼らの中から羽ばたいた二人の才能を、誇りと喜びをもって迎えた。観客の中には、マルコの両親も、そしてベアトリーチェの父親も座っていた。


 演奏会の最後に、マルコは観衆に向かって語りかけた。


「私はかつて、マリア・リナルディとしてこの街で学びました。女性として生きることで、音楽の新たな側面を知り、自分自身の本質を発見することができました。今日、マルコ・リナルディとして戻ってきましたが、マリアの心も持ち続けています。その二つの側面が、私の音楽を形作っているのです」


 会場は静まり返り、すべての目が彼に向けられていた。彼は続けた。


「音楽に性別はありません。あるのは魂だけです。私たちの魂が奏でる旋律が、皆さんの心に響くことを願っています」


 そして、マルコとベアトリーチェは、彼らの代表作「玻璃の旋律」を演奏し始めた。その透明で繊細な、しかし力強い音色は、ヴェネツィアの夕暮れの空気を震わせ、聴く者の心を深く揺さぶった。


 演奏が終わると、会場は熱狂的な拍手に包まれた。人々は立ち上がり、二人の帰還と成功を祝福した。


 コンサートの後、マルコとベアトリーチェはピエタを訪れた。ヴィヴァルディはすでにこの世を去っていたが、彼の精神はこの場所に今も生き続けていた。二人は新しい音楽監督と修道女長に迎えられ、かつての秘密の庭で静かな時間を過ごした。


 マルコは満開の花々に囲まれた古いオリーブの木の下に立ち、深く息を吸い込んだ。この場所で彼は自分自身を発見し、真の愛を見つけた。そして今、完全な自由と共にここに戻ってきたのだ。


「懐かしいわね」


 ベアトリーチェは彼の隣に立った。彼女は今日、青い絹のドレスを着ており、それは彼らが初めて出会った日のものを思わせた。


「すべてはここから始まった」マルコは静かに言った。「そして、また新しい始まりがある」


 彼はポケットから小さな箱を取り出し、ベアトリーチェに差し出した。中には美しいサファイアの指輪が収められていた。


「正式に結婚してください。もう隠れることなく、すべての人の前で」


 ベアトリーチェの目に涙が溢れた。彼女は無言でうなずき、マルコを抱きしめた。


 その晩、二人はサン・マルコ大聖堂のそばの小さなテラスで、夕暮れのラグーナを眺めていた。ヴェネツィアの街は、彼らが去った時と同じように美しく、しかし今は新たな希望と可能性に満ちて見えた。


「これからどうする?」ベアトリーチェは彼の手を握りながら尋ねた。


「音楽を続ける。世界中を旅して、私たちの音色を響かせる」マルコは答えた。「そして時々、ここに戻ってくる。私たちの原点に」


 ベアトリーチェは微笑み、彼の肩に頭を預けた。彼らの前には、無限の可能性が広がっていた。異なる性別、異なる階級、異なる経験。しかし、それらのすべてが二人の音楽を豊かにし、独自の調和を生み出していた。


 マルコはヴァイオリンを取り出し、静かに弾き始めた。それは彼が初めてピエタで演奏した曲、春を告げる喜びに満ちた旋律だった。ベアトリーチェもまたチェロを手に取り、彼の旋律に寄り添った。二つの楽器の音色が夕暮れの空に溶け込み、水面に映る星々のように輝いた。


 遠くで教会の鐘が鳴り、時の流れを告げる。しかし、二人の音楽は時を超え、永遠の瞬間を創り出していた。それは男性と女性、過去と未来、真実と幻想が完全に調和した世界。玻璃のように透明で繊細でありながら、強く、美しい旋律だった。


 マルコとベアトリーチェの物語は、多くの試練と発見に満ちていた。しかし最終的に、彼らは自分たちの本質を見つけ、真の自由を手に入れたのだ。そして何より、彼らの音楽は、すべての束縛を超えて、純粋な魂の表現として世界に響き続けるだろう。


 月明かりがラグーナを銀色に染める中、二人の奏でる玻璃の旋律は、ヴェネツィアの夜空に溶け込み、永遠の調べとなって響き渡っていった。


(了)



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