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第五章 「祈りの旋律 ~運命の岐路に立つ二人~」

 カーニバルの興奮が去った後、ピエタは通常の日常に戻った。しかし、マリア(マルコ)とベアトリーチェにとって、世界は一変していた。


 マルコは今、男性としての姿で自宅から通っていた。朝早く家を出て、人目につかない場所でマリアに変身し、ピエタに入るという毎日だった。夕方には再び男性の姿に戻り、家に帰る。この二重生活は肉体的にも精神的にも負担だったが、彼は家族の世話と音楽の学びを両立させるために頑張っていた。


 二人は表面上は以前と変わらない友人として振る舞いながらも、秘密の庭や人目につかない場所では、心の内を打ち明け合った。マルコは自分の過去や家族のこと、ピエタに来ることになった経緯をすべてベアトリーチェに話した。


「家族を救うためだったのね」


 ベアトリーチェは理解を示した。彼女は今日、淡いピンクのドレスを着ていた。襟元には薔薇のモチーフのレースが飾られ、髪には同じ色合いの小さな花の髪飾りがつけられていた。彼女の頬は春の陽光に照らされて桜色に染まっていた。


「でも、いつかは真実が明らかになる」


 マルコは不安げに言った。彼は日々、自分の秘密が露見することへの恐怖と闘っていた。ピエタ内で修道女長とヴィヴァルディ以外に知る者はいなかったが、常に緊張を強いられる状況だった。


「その時は一緒に立ち向かいましょう」


 ベアトリーチェは彼の手を握りしめた。彼女の瞳には揺るぎない決意が宿っていた。二人は互いの支えとなり、日々の困難を乗り越えていった。


---


 春から夏へと季節が移り変わる中、二人の絆は深まっていった。音楽を通じても、彼らの感情は表現されていた。マルコのヴァイオリンとベアトリーチェのチェロが奏でる二重奏は、聴く者の心を揺さぶるほど美しかった。


 ヴィヴァルディもその変化に気づいていた。彼は二人のために特別な二重協奏曲を作曲し、次の祝祭での演奏を任せた。


「あなたの音色が変わりました、マリア」


 個人レッスンの後、赤毛の神父は静かに言った。


「心に安らぎが宿ったようですね」


 マルコは微笑むだけだった。ヴィヴァルディの鋭い目は、多くを見抜いているように思えた。彼は直接的に二人の関係について言及することはなかったが、彼らを見守り、支えていることは明らかだった。


「次の祝祭では、あなたとベアトリーチェで二重奏を演奏してもらいたい」


 神父の提案に、マルコの心は躍った。ベアトリーチェと共演する機会は、彼にとって最高の喜びだった。


 しかし、彼の喜びは長くは続かなかった。数日後、家に帰ると、父が重大なニュースを持っていた。


「ダッラ・トーレ伯爵が訪ねてきた」


 アントニオの表情は深刻だった。マルコは息を飲んだ。ベアトリーチェの父親が彼の家を訪れるとは。


「何を?」


「彼はお前について質問してきた。マリア・リナルディという少女について」


 マルコは椅子に座り込んだ。最悪の事態が迫っているように感じた。


「彼は何か知っているのでしょうか?」


「明言はしなかったが、娘とマリアの関係に強い関心を持っているようだった」


 アントニオは息子の肩に手を置いた。


「注意するんだ、息子よ。ダッラ・トーレ家は力のある家柄だ。敵に回すべきではない」


 マルコはうなずいた。彼は今週の終わりに、すべてをベアトリーチェに伝えなければならないと決心した。


---


 その週末、マルコとベアトリーチェは秘密の庭で会った。マルコは父親からの報告をすべて彼女に話した。


「お父様が?」ベアトリーチェは驚いた様子だった。「どうして…」


「彼はすでに何か知っているのかもしれない。僕たちの関係について」


 ベアトリーチェは思案げに庭の花を見つめた。彼女は今日、淡い紫のドレスを着ており、髪は簡素に結われていた。その姿は落ち着きと成熟さを感じさせた。


「お父様は私の結婚について話し始めているの」彼女は静かに言った。「良い家柄の若者との縁談を考えているみたい」


 マルコは胸が締め付けられる思いがした。ベアトリーチェが他の人と結婚する。その考えは耐え難いものだった。


「どうするつもりですか?」


「断るわ、もちろん」ベアトリーチェは決然と言った。「私の心はあなただけのものよ、マルコ」


 彼女の言葉には強い決意が込められていたが、同時に不安も漂っていた。貴族の娘として、家の意向に完全に逆らうことがどれほど難しいか、彼女は理解していた。


「でも、それは簡単なことではないでしょう」


「そうね」彼女は深いため息をついた。「でも、私たちには時間がある。そして、何より音楽がある」


 ベアトリーチェはマルコの手を取り、優しく握った。


「来週の祝祭で、私たちの音楽を通して、すべてを伝えましょう。言葉ではなく、音色で」


 マルコはうなずいた。音楽こそが彼らの真実の言語だった。音色を通して、彼らは心の深層を表現することができる。それは言葉よりも雄弁に、彼らの愛と決意を伝えるだろう。


---


 祝祭の日が近づくにつれ、マルコとベアトリーチェは熱心に練習を重ねた。ヴィヴァルディの指導の下、彼らは二重協奏曲を完璧に仕上げていった。二人の音色は互いに呼応し、時に対立し、時に融合しながら、感動的な物語を紡いでいった。


 祝祭前日、ベアトリーチェが重大なニュースを持ってきた。


「お父様が明日来るわ。多くの貴族たちと一緒に」


 彼女の声には緊張が滲んでいた。


「そして、彼は私に婚約者候補を紹介するつもりよ」


 マルコは言葉を失った。事態は彼らが想像していたよりも急速に展開していた。


「でも、心配しないで」ベアトリーチェは彼の手を握りしめた。「私の決意は変わらないわ。明日の演奏で、すべてを伝えるの」


 彼女の瞳には固い決意が宿っていた。マルコもその決意に応えようと心に誓った。


---


 祝祭の日、ピエタは華やかに飾られ、多くの来賓で賑わっていた。ヴェネツィアの貴族たちが次々と到着し、最高の装いで音楽会に臨んでいた。ダッラ・トーレ伯爵も、若い貴族の男性を伴って現れた。その男性は明らかにベアトリーチェの婚約者候補だった。


 演奏会が始まり、様々な曲が披露された後、ついにマルコとベアトリーチェの出番が来た。彼らは舞台の中央に立ち、互いに目を合わせて微笑んだ。


 マルコは今日、特別な衣装を着ていた。深緑色のドレスに金の刺繍が施され、髪には小さな金のヘアピンが飾られていた。彼女の姿は高貴で美しく、多くの視線を集めた。


 ベアトリーチェも同様に美しかった。彼女は鮮やかな青のドレスを身につけ、胸元には小さなサファイアのブローチが輝いていた。髪は優雅に結い上げられ、青い花の髪飾りが添えられていた。


 二人は深呼吸し、弓を構えた。最初の音が響き渡った瞬間、会場は静まり返った。


 それは魂の対話だった。マルコのヴァイオリンが語りかけ、ベアトリーチェのチェロが応える。喜びと悲しみ、希望と不安、そして何より深い愛が、音色を通して表現された。二人の楽器が奏でる旋律は、時に対立し、時に絡み合い、最後には完全な調和のうちに一つになった。


 演奏が終わると、一瞬の沈黙の後、会場は熱狂的な拍手に包まれた。多くの人々が立ち上がり、二人の才能を称えた。


 ベアトリーチェの父親も、感動した様子で拍手を送っていた。しかし、彼の目には複雑な感情が宿っていた。彼は娘の演奏に誇りを感じる一方で、その中に込められた本当のメッセージを感じ取ったのだろうか。


 舞台を降りた二人は、互いに抱擁を交わした。その瞬間、彼らの心は完全に一つになった。言葉は必要なかった。彼らは音楽を通じて、すべてを語り尽くしていた。


「素晴らしかったわ」


 ヴィヴァルディが近づいてきて、二人を祝福した。彼の目には理解と共感の光が宿っていた。


「あなたたちの音色は、魂そのものでした」


 しかし、その喜びの瞬間も長くは続かなかった。ベアトリーチェの父親が彼らに近づいてきたのだ。


「素晴らしい演奏だった、娘よ」


 伯爵は微笑んだが、その目は冷静に状況を観察していた。


「そして、マリア・リナルディ。あなたの才能は本当に特別だ」


 彼はマルコを見つめ、その視線は何かを見透かしているようだった。


「あなたのご両親は今日いらっしゃらないのですか?」


 彼は先日と同じ質問をした。まるでその時のことをまったく覚えていないかのように。


「……父は仕事で……母は病気で寝たきりなのです」


 マルコは警戒しつつも、静かに答えた。彼はベアトリーチェの父の意図を察し、緊張が高まるのを感じた。


「そうですか。いつか、ぜひお会いしたいものです」


 伯爵は意味深に言うと、婚約者候補の若い貴族を呼び寄せた。


「ベアトリーチェ、こちらはアントニオ・モロシーニ伯爵の息子、フランチェスコだ」


 若い貴族は優雅に頭を下げ、ベアトリーチェに微笑みかけた。彼は確かに魅力的で礼儀正しい若者だったが、ベアトリーチェの心は既に別の場所にあった。


「お会いできて光栄です」


 彼女は儀礼的に応じたが、その声には熱がなかった。


「あなたの演奏は素晴らしかった」フランチェスコは真摯に言った。「特に、マリアさんとの二重奏は感動的でした」


 彼の態度には好感が持てたが、マルコの胸は痛みで満ちていた。ベアトリーチェは彼のものになるべきではない。しかし、今の状況では、彼にはそれを阻止する力がなかった。


 その夜、マルコは自宅で悩み続けた。演奏は成功し、彼らの愛を音色に託すことはできた。しかし、それだけでは現実を変えることはできない。ベアトリーチェは貴族の娘であり、彼女の人生には多くの制約がある。一方、マルコは楽器職人の息子であり、しかも女性として偽っている身だ。二人の間には越えられない壁があるように思えた。


 そんな彼の思いを知ってか、翌日、ベアトリーチェが彼の家を訪れた。彼女は質素な服装で、付き添いもなく一人で来ていた。


「ベアトリーチェ!」


 マルコは驚いて彼女を迎えた。彼は男性の姿をしており、二人が公の場で会うことはリスクが高かった。


「私、決めたの」


 ベアトリーチェは家に入るなり、決然と言った。彼女の目には強い決意が宿っていた。


「何を?」


「私たち、ヴェネツィアを離れましょう」


 マルコは彼女の言葉に驚いた。


「どういうこと?」


「お父様は私の結婚を急いでいる。モロシーニ家との縁組を進めようとしているわ。でも、私は従うつもりはない。あなたと一緒に生きたい」


 彼女の声には揺るぎない決意があった。


「でも、どうやって? どこへ行くの?」


「ボローニャ、フィレンツェ、あるいはもっと遠くへ。私たちの音楽があれば、どこでも生きていける。ヴィヴァルディ神父の推薦状もある」


 マルコは深く考え込んだ。ベアトリーチェの提案は大胆で危険なものだったが、同時に、彼らの愛を守る唯一の方法かもしれなかった。


「両親は? 彼らを置いていけるの?」


「辛いわ」ベアトリーチェは正直に答えた。「でも、私は自分の人生を生きる権利がある。お父様には手紙を残すつもり。いつか理解してくれると信じてる」


 マルコは自分の家族のことを考えた。母の容態は安定しており、父の仕事も少しずつ好転していた。彼らを置いていくことは辛いが、ベアトリーチェと共に新しい人生を始める可能性に、彼の心は惹かれていた。


「僕も両親と相談してみる」


 マルコが言うと、部屋の入り口から声がした。


「相談することは何もないよ、息子よ」


 そこには父のアントニオが立っていた。彼はベアトリーチェに向かって丁寧にお辞儀をした。


「ダッラ・トーレ家の令嬢、ようこそ。息子のことをこれほど想ってくださり、感謝します」


 ベアトリーチェは少し驚いたが、すぐに落ち着いた様子で返礼した。


「こちらこそ。マルコさんのご家族にお会いできて光栄です」


 アントニオは二人に近づき、椅子に座った。


「お二人の計画は大胆ですね。しかし、時には大胆さが必要な時もある」


「父さん…」


「息子よ、私とお前の母は、お前の幸せを何よりも願っている。そして、この若い女性がお前の幸せであるなら、私たちはそれを祝福したい」


 アントニオの言葉にマルコは言葉を失った。彼は父の理解の深さに感動した。


「でも、母さんは?」


「お前の母も同じ気持ちだ。彼女もかつて、家族の反対を押し切って、愛する人と駆け落ちしたのだから」


 アントニオは微笑んだ。その表情には、若かりし日の冒険を思い出す懐かしさがあった。


「ベアトリーチェ嬢、私の息子をよろしくお願いします。彼は頑固で、時には不器用ですが、心の底から誠実な男です」


 ベアトリーチェは深々と頭を下げた。彼女の目には涙が光っていた。


「必ずお幸せにします。そして、いつか必ず、ご両親にご挨拶に戻ってきます」


 その日から、二人は急いで旅立ちの準備を始めた。マルコは母に別れを告げ、彼女からの祝福を受けた。ベアトリーチェはヴィヴァルディに事情を話し、神父からは理解と支援を得ることができた。


「音楽は国境を越えます」彼は言った。「あなたたちの才能があれば、どこでも道は開けるでしょう」


 彼は二人に推薦状とともに、自身の新作の楽譜を手渡した。それは特別に二人のために作曲された二重協奏曲だった。


「これを世界に広めてください。あなたたちの音色で」


 出発の前日、マルコはピエタを訪れ、修道女長のソル・アンジェリカに別れの挨拶をした。彼女はいつもの厳格な表情で彼を見つめたが、その目には微かな温かさも垣間見えた。


「あなたは多くの困難を乗り越えてきました」彼女は言った。「これからも神の導きがありますように」


 マルコは深く頭を下げた。ピエタでの日々は、彼の人生を根本から変えた。ここで学んだこと、出会った人々、そして何より、自分自身について発見したことは、これからの人生の貴重な糧となるだろう。


 そして、出発の日がやってきた。二人は早朝、ヴェネツィアの霧の中を静かに船に乗り込んだ。ベアトリーチェは父親に宛てた長い手紙を残し、いつか必ず戻ってくると約束していた。


 船がラグーナを離れていく時、二人は後ろを振り返らなかった。彼らの目は前方、新しい人生が待つ地平線に向けられていた。ベアトリーチェはマルコの手を握り、静かに微笑んだ。


「始まりね」


「ああ、僕たちの新しい人生の」


 霧の中、ヴェネツィアの塔が徐々に小さくなっていった。しかし、二人の心の中では、新しい音楽が静かに奏で始められていた。それは愛と希望の調べ、そして自由を謳歌する魂の旋律だった。


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