第四章 「舞踏会の告白 ~仮面が明かす本当の私~」
ヴェネツィアの夜は、秘密と謎に満ちていた。古い建物の影、迷路のような路地、そして運河の暗い水面。それらはすべて、多くの物語を秘めていた。マリア(マルコ)もまた、自分の秘密と向き合う時が来たと感じていた。
カーニバルの時期が近づいており、街はすでにその準備で賑わい始めていた。ピエタでも、祝祭のためのコンサートの練習が本格化していた。ヴィヴァルディは新作の協奏曲を完成させ、ピエタの少女たちは熱心にそれを練習していた。
マリアはベアトリーチェに真実を告げる機会を探していたが、忙しい日々の中でそれは難しかった。二人は音楽の練習に追われ、一緒に過ごす時間はあっても、他の少女たちと共にいることが多かった。
そして、その機会は思いがけない形でやってきた。
ある日、ヴィヴァルディは特別なお知らせをした。
「来週のカーニバルでは、特別な演奏会を開きます。そして、その後には仮面舞踏会が開かれます。市の重要人物たちが訪れる重要な機会です」
少女たちの間に興奮の波が広がった。仮面舞踏会は、普段は厳格な規律の中で生活している彼女たちにとって、珍しい娯楽の機会だった。
「仮面を着けるのね!」
ベアトリーチェはマリアの腕を取り、目を輝かせた。彼女は今日、淡いラベンダー色のドレスを着ていた。首元には小さなアメジストのチョーカーが巻かれ、髪には同じ色の花のモチーフのコームが挿されていた。
「私たち、一緒に衣装を選びましょう」
マリアは微笑んだが、内心は複雑だった。仮面の下で、彼女は更に別の仮面を被ることになる。しかし同時に、仮面舞踏会は彼女にとって絶好の機会かもしれなかった。仮面の下では、誰もが自分の本当の姿を隠し、新しい自分を演じることができる。その混沌の中で、彼女は真実を明かすチャンスを見出せるかもしれない。
「そうしましょう」
マリアは答えた。彼女の声には、これまでにない決意が宿っていた。
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準備の日々は慌ただしく過ぎていった。少女たちはレッスンの合間に衣装や仮面について話し合い、時には互いの髪型を試したりメイクを手伝ったりしていた。
ヴィヴァルディの新曲は、春の訪れを祝う内容だった。マリアのソロ部分は特に美しく、繊細な技術を要求された。彼女は一心不乱に練習し、心の混乱を音楽に昇華させようとしていた。
「あなたの音色は日に日に美しくなっています」
ある日のレッスン後、ヴィヴァルディはマリアに声をかけた。彼の赤毛は窓からの光に照らされて輝き、その鋭い目には優しさが宿っていた。
「ありがとうございます、神父様」
「何か心に変化があったようですね。それが音に表れています」
マリアは顔を赤らめた。ヴィヴァルディはそれ以上何も言わず、微笑むだけだった。彼の眼差しには理解と共感が宿っていた。それは、彼もまた人生の複雑さを理解している者の眼差しだった。
マリアはヴィヴァルディの言葉に励まされた。彼女の演奏が成長しているという事実は、彼女が正しい道を歩んでいることの証だった。しかし同時に、彼女の心の奥底では、真実を明かさずにこれ以上成長することは難しいという思いも強くなっていた。
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カーニバル前夜、マリアとベアトリーチェは秘密の庭で会った。二人は明日の衣装について話し合っていた。ベアトリーチェは青と銀の装飾が施された仮面を持っていた。それは彼女の瞳の色を際立たせるような、洗練されたデザインだった。
「これをつけるつもりよ。父が送ってくれたの」
彼女は嬉しそうに仮面を見せた。マリアは緑と金の仮面を選んでいた。それは彼女の瞳の色を引き立てるものだった。
庭には静かな空気が流れていた。周囲の花々は満開で、その香りが二人を包み込んでいた。遠くからは、カーニバルの準備をする街の喧騒が微かに聞こえてきた。
「マリア、明日の夜、あなたに話したいことがあるの」
ベアトリーチェは突然真剣な表情になった。彼女の目には決意と、少しの不安が浮かんでいた。
「私も……あなたに話すべきことがあります」
二人は沈黙の中で見つめ合った。その瞬間、二人の間に流れる感情は言葉を必要としなかった。両者の心の中には、何か大きな変化の予感が漂っていた。
「約束よ、明日の夜、舞踏会の後に」
ベアトリーチェは小指を立てた。マリアも小指を絡ませ、約束を交わした。その単純な仕草には、二人の間の信頼と愛情が込められていた。
「何があっても、私たちは友達でいましょう」
ベアトリーチェの言葉には、何か悲しげな響きがあった。マリアはそれが何を意味するのか分からなかったが、心の奥底で、明日が二人の関係の転機になることを感じていた。
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カーニバルの日、ピエタは朝から祝祭の雰囲気に包まれていた。廊下には色とりどりの装飾が施され、普段は厳格な修道女たちも少し緩んだ表情を見せていた。コンサートは午後に予定されており、少女たちは朝から最後の練習に励んでいた。
マリアは自分の部屋で準備をしていた。彼女は今日のために特別に用意した衣装を着ていた。それは深い緑色のドレスで、胸元と袖口には金糸の刺繍が施されていた。髪は普段よりも丁寧に整え、小さな金の髪飾りをつけていた。薄く化粧を施し、唇には淡いバラ色の口紅を塗った。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、マリアは考えた。この姿は偽りなのか? それとも、これも自分の一部なのか? 女性として過ごした数ヶ月の間に、彼女は自分の中の女性性をより深く理解するようになっていた。マルコとしての自分、マリアとしての自分、両方が彼女の一部だったのかもしれない。
「本当に美しいわ」
ベアトリーチェが部屋に入ってきた。彼女は青い絹のドレスを着ていた。胸元には銀の刺繍が施され、腰には同じく銀のリボンが結ばれていた。髪は上品に巻き上げられ、小さな銀の星のヘアピンが光っていた。首には青いサファイアのペンダントが揺れていた。
「あなたこそ…」
マリアは言葉を失った。ベアトリーチェの美しさに圧倒されていた。彼女の姿は、天上の星々のように輝いて見えた。
二人は互いに見つめ合い、微笑んだ。その瞬間、言葉は必要なかった。二人の目に映る感情が、すべてを物語っていた。
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コンサートは大成功だった。ヴィヴァルディの新曲は聴衆を魅了し、特にマリアのソロ部分は感動的だった。彼女はすべての感情を音色に込め、魂の奥底から演奏した。その音色は会場全体を包み込み、聴衆の心を直接捉えた。
演奏が終わると、大きな拍手が会場に響き渡った。ヴィヴァルディは満足げな表情で彼女の肩に手を置き、静かに頷いた。
「あなたは素晴らしかった」
ベアトリーチェはマリアの手を握りしめた。彼女の目は感動の涙で潤んでいた。
「あなたも」
コンサートの後、少女たちは仮面舞踏会の準備に取り掛かった。会場は大広間に設けられ、天井からは色とりどりのリボンが垂れ下がり、壁には花が飾られていた。小さなオーケストラが軽快な舞曲を奏で、人々は談笑し、踊り始めていた。
マリアとベアトリーチェは仮面をつけ、会場に足を踏み入れた。仮面の下で、マリアは少し安心感を覚えた。この仮面の下なら、彼女は少しだけ本当の自分に近づけるような気がした。
会場には、ピエタの少女たちだけでなく、招待された貴族の若者たちも混ざっていた。もちろん、すべて厳格な監視の下だったが、通常よりもずっと自由な雰囲気があった。
「踊りましょう」
ベアトリーチェはマリアの手を取った。二人は音楽に合わせて踊り始めた。マリアは父から男性の舞踏のステップを習っていたが、今は女性としての動きを意識していた。しかし、ベアトリーチェの温かい手に導かれ、彼女は自然と流れるように踊ることができた。
二人は何曲も踊り続けた。周囲の人々も二人の調和のとれた踊りに目を留めていた。マリアは仮面の下で微笑み、この瞬間の幸せを噛みしめた。
「少し休みましょう」
ベアトリーチェはマリアを庭へと誘った。夜のヴェネツィアの空気は清々しく、星が瞬いていた。二人は人気のない小さなテラスに腰を下ろした。
「マリア…」
ベアトリーチェはマリアの手を取った。月明かりに照らされた彼女の顔は、仮面の下でも美しく輝いていた。
「あなたに話したいことがあるの」
マリアは深く息を吸い、覚悟を決めた。今夜、すべてを打ち明けるべき時だった。
「私も…あなたに話さなければならないことがあります」
「私から先に言わせて」ベアトリーチェは静かに言った。「私、あなたのことを…特別な感情を抱いているの」
彼女の声は震えていた。しかし、その青い瞳には決意の光が宿っていた。
「初めてあなたの演奏を聴いた時から、私の心はあなたに捕らわれたの。それは友情を超えた何か…」
彼女は言葉を探すように一瞬躊躇した。
「愛しているわ、マリア」
マリアの心は激しく鼓動した。喜びと恐れが入り混じる中、彼女は決心した。
「ベアトリーチェ、あなたに嘘をついていました。本当は…」
マリアは周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、小さな声で続けた。
「私は男なんです。本当の名前はマルコ・リナルディ。家族を救うために、ここに来たのです」
一瞬の沈黙が流れた。ベアトリーチェの表情が凍りついた。彼女の目が驚きと疑惑で見開かれた。
「冗談よね?」
「真実です」マリアは静かに言った。「あなたに嘘をついていて、本当に申し訳ない。でも、あなたへの気持ちだけは偽りではありません」
ベアトリーチェは立ち上がり、テラスの手すりに寄りかかった。彼女の背中は小刻みに震えていた。マリアは彼女が怒っているのか、悲しんでいるのか、判断できなかった。
「信じられないわ…」
マリアは絶望的な気持ちで立ち尽くした。すべてが終わったのだと思った。彼女は仮面を外し、ベアトリーチェの反応を待った。
しかし、ベアトリーチェが振り返ったとき、その顔には涙と共に微笑みが浮かんでいた。
「でも不思議ね…なぜか納得できるの」
彼女はゆっくりとマリアに近づいた。
「あなたの演奏には常に何か特別なものがあった。それが何なのか、今なら分かるわ。男だろうが、女だろうが、関係ない」
「怒っていないの?」
「驚いたわ、もちろん。でも…」ベアトリーチェは頬を赤らめた。「私の気持ちは変わらないわ。マルコでもマリアでも、あなたはあなた」
マリアの目に涙が溢れた。彼女は静かにベアトリーチェの手を取った。その手の温もりが、すべての不安を溶かすかのようだった。
「これからどうすれば…」
「まずは今夜を生きましょう」ベアトリーチェは微笑んだ。「明日のことは明日考えるわ」
二人は月明かりの下で静かに寄り添い、複雑な未来への不安と、確かな愛情を分かち合った。ベアトリーチェはマリアの仮面を取り、その代わりに優しいキスを頬に落とした。
「あなたはもう、仮面をつける必要はないわ。少なくとも、私の前では」
マリアは感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。彼女の秘密を受け入れ、理解してくれる人がいる。それだけで、彼女の心は軽くなった。
二人は再び舞踏会に戻った。新たな秘密を共有し、より強い絆で結ばれた二人の姿は、以前にも増して美しく輝いていた。夜が更けていく中、彼らは心の内側では解放され、自由に踊り続けた。
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翌朝、マリアとベアトリーチェは秘密の庭で会った。二人の間には新しい親密さがあり、言葉なしでも理解し合える深い絆が生まれていた。
「詳しく教えてくれる? どうしてそうなったの?」
ベアトリーチェはマリアの隣に座り、彼女の手を取った。マリアは深呼吸し、すべての真実を語り始めた。病床の母、仕事に苦しむ父、そしてピエタへの入学を決意するまでの葛藤。すべてを隠すことなく打ち明けた。
ベアトリーチェは静かに聞いていた。時折、驚きや同情の表情を見せながらも、批判することなく、マリアの話に耳を傾けた。
「あなたは家族のためにそこまでするなんて、本当に勇敢ね」
ベアトリーチェの目には敬意の光が宿っていた。
「勇敢というより、必死だったんです」マリアは正直に答えた。「でも、ここに来て、あなたに出会えたことを、心から感謝しています」
「私も同じよ」ベアトリーチェは微笑んだ。「でも、これからどうするの? いつまでもマリアとして生き続けるわけにはいかないでしょう?」
マリアは頷いた。それが最大の問題だった。彼女は家族を助けるためにここに来たが、永遠に女性として生きることは不可能だった。いつかは真実が明らかになり、ピエタを去らなければならない日が来るだろう。
「わからないんです。ただ…もう少しだけ、ここにいたい。音楽を学び、あなたと一緒に過ごしたい」
「私たちは何か方法を見つけましょう」ベアトリーチェは決意を込めて言った。「二人一緒に」
二人は未来について語り合った。不確かさと希望が入り混じる中で、彼らは互いの存在に支えられていた。
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数日後、マリアは再び家族を訪ねる機会を得た。彼女はまだマリアとして装っていたが、家の中ではマルコに戻り、母と父に最近の出来事を語った。特に、ベアトリーチェに真実を打ち明けたことを。
「彼女は受け入れてくれたの?」母は驚いた様子で尋ねた。彼女の状態は少し良くなっており、短い時間なら起き上がることもできるようになっていた。
「はい、母上。彼女は素晴らしい人です」
「その娘さんに会ってみたいものだね」父は微笑んだ。「うちの息子の心を奪った娘だ」
マルコは顔を赤らめた。彼は家族に、ベアトリーチェへの感情についても正直に話していた。
「いつか、機会があれば…」
父と母は互いに視線を交わし、息子の成長を誇らしく思っているようだった。
「マルコ、お前は正しい道を歩んでいる」父は静かに言った。「女性として生きることは、最初は方便だったかもしれない。しかし、それによってお前は自分自身をより深く理解するようになった。そして、真の愛を見つけた。それは祝福すべきことだ」
マルコはうなずいた。確かに、彼はマリアとして生きる中で、以前は気づかなかった自分の一面を発見していた。感受性、繊細さ、そして深い共感能力。それらは彼の音楽にも表れ、より豊かな表現を可能にしていた。
「でも、いつかは決断しなければならないわね」母は優しく言った。「マルコとして生きるのか、マリアとして生きるのか」
「今はまだ、わかりません」マルコは正直に答えた。「ただ、音楽を続けたい。そして、ベアトリーチェと一緒にいたい」
家族との再会は、マルコに多くの勇気と安心感を与えた。彼らの無条件の愛と支えがあれば、どんな困難も乗り越えられるような気がした。
ピエタに戻ったマリアは、新たな決意を胸に、音楽の練習に打ち込んだ。ヴィヴァルディとのレッスンでは、彼女の演奏がさらに深みを増していることが明らかだった。
「あなたの音色が変わりました」ヴィヴァルディは感心した様子で言った。「何か、重要な真実に触れたようですね」
マリアは微笑むだけだった。神父の鋭い直感は、彼女の内面の変化を見抜いていた。
「来月のコンサートで、あなたに特別な役割を任せたいと思います」
ヴィヴァルディは彼女に新しい楽譜を手渡した。それは彼の新作協奏曲で、ソロヴァイオリンの部分が特に難しく、挑戦的なものだった。
「自信を持って演奏してください。あなたならできます」
マリアはうなずき、楽譜を受け取った。神父の信頼に応えたい、そして自分の音楽を通じて、自分自身の真実を表現したいという思いが強まった。
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春から夏へと季節が移り変わる中、マリアとベアトリーチェの関係はより深く、より複雑になっていった。二人だけの時間には、彼らはマルコとベアトリーチェとして向き合い、互いの気持ちを確かめ合った。しかし、公の場ではマリアとベアトリーチェとして、親密な友人として振る舞わなければならなかった。
秘密の庭は彼らの聖域となり、そこでは自由に語り合い、時には音楽を奏で、未来の夢を共有した。ベアトリーチェはマルコの正体を受け入れただけでなく、彼の複雑な性質を理解し、尊重するようになっていた。
「あなたは特別よ、マルコ」ある日、彼女はそう言った。「男性と女性の両方の感性を持ち、それが音楽に表れている」
マルコ(マリア)は微笑んだ。ベアトリーチェの言葉は、彼の中の葛藤を和らげた。彼は自分がどちらかを選ぶ必要はなく、両方の側面を受け入れることで、より真の自分に近づけるのかもしれないと感じ始めていた。
二人の音楽的な絆も深まり、彼らのデュオ演奏はピエタで最も評価されるものとなっていた。ヴィヴァルディも彼らの成長を喜び、二人のために特別な二重協奏曲を作曲し始めた。
「あなたたちの調和は完璧です」彼は二人に言った。「それを音楽で表現したいのです」
しかし、幸福な日々は長くは続かなかった。ある日、マリアが自室で髪を整えていると、突然ドアが開いた。そこには修道女長のソル・アンジェリカが立っていた。
「マリア・リナルディ、説明してもらいたいことがある」
彼女の厳しい声に、マリアの血が凍りついた。修道女長の手には一通の手紙があった。それはマルコの父からのものだった。
「この手紙が届いた。あなたの父親からのようだが、奇妙なことに『息子』と書かれている」
マリアはすべてが終わったと感じた。父は彼女のことをマリアと呼ぶことに慣れていなかったのだろう。その小さなミスが、すべてを台無しにしてしまった。
しかし、彼女は覚悟を決めて真実を語った。家族の窮状、父の病気、そして彼らを助けるために女装してピエタに入った経緯を。すべてを正直に、隠すことなく打ち明けた。
ソル・アンジェリカは無言で聞いていた。マリアが話し終えると、彼女は深いため息をついた。
「神の家に嘘をついてきたのだね」
「はい…申し訳ありません」
マリアは頭を垂れた。彼女は自分の行動が罪深いものであることを理解していた。しかし、それは家族を救うための唯一の方法だったのだ。
「荷物をまとめなさい。明日までに去ってもらう」
修道女長はそれだけ言うと、部屋を出て行った。その背中は厳格で、一切の妥協を許さないようだった。
マリアは茫然と立ち尽くした。ついに来るべき時が来たのだ。彼女はベアトリーチェに会いに行かなければならなかった。この運命の変転を、最愛の人に伝えなければならない。
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ベアトリーチェは音楽室でチェロの練習をしていた。マリアが入ってくると、彼女は微笑んだが、すぐに彼の表情の暗さに気づいた。
「どうしたの?」
マリアはすべてを話した。手紙のこと、修道女長との対面、そして明日までにピエタを去らなければならないという事実を。ベアトリーチェの顔から血の気が引いていくのが見えた。
「どうすればいいの…」
彼女の声は震えていた。二人は沈黙の中で見つめ合った。
「ヴィヴァルディ神父に相談しましょう」
ベアトリーチェが突然言った。「彼なら何か方法を…」
二人はヴィヴァルディの部屋に向かった。神父は楽譜に向かって作曲をしていた。二人の姿を見ると、彼は筆を置いた。
「何があったのですか?」
マリアはすべてを打ち明けた。自分が男であること、家族のために嘘をついてきたこと、そして今、追放されようとしていることを。
ヴィヴァルディは黙って聞いていた。彼の表情からは何も読み取れなかった。彼の鋭い目は時折マリアとベアトリーチェの間を行き来し、二人の関係を見抜いているようだった。
「理解できます」マリアは言った。「私は罪を犯しました。ただ、去る前に…最後に一曲、演奏させていただけないでしょうか。ベアトリーチェと共に」
ヴィヴァルディはしばらく考え込んでいた。赤毛の神父の顔には複雑な表情が浮かび、彼もまた何らかの決断を迫られているようだった。そして、突然立ち上がった。
「来なさい、二人とも」
彼は二人を連れて、修道女長の部屋に向かった。その足取りには決意が感じられた。
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ソル・アンジェリカは厳しい表情で三人を見つめた。彼女の顔には一切の妥協を許さない厳格さがあった。
「彼の話は聞きました」ヴィヴァルディは静かに言った。「確かに彼は嘘をつきました。しかし、それは家族への愛ゆえのこと。そして、彼の音楽の才能は真実です」
「規則は規則です、神父様」修道女長は冷たく言った。
「ピエタの目的は何でしょう」ヴィヴァルディは問いかけた。「捨てられた子供たちに愛と教育を与えること。そして音楽を通じて神に栄光を帰すること。彼は確かに性別を偽りましたが、その才能と心は純粋です」
「しかし…」
「彼の音楽を聴いたことがあるでしょう。あの音色は嘘から生まれるものではありません」
修道女長は沈黙した。彼女もまた、マリアの才能を高く評価していたことは明らかだった。
「提案があります」ヴィヴァルディは続けた。「彼をピエタに住まわせるのではなく、外部から通わせてはどうでしょう。彼の才能を無駄にするべきではない」
長い沈黙の後、修道女長はついに口を開いた。
「一つだけ条件がある。彼の正体は公にはしない。マリアとしてのレッスンを続け、演奏も同様に。そして、神に真摯に仕えること」
マリアは驚きと喜びで言葉を失った。彼女は追放されるのではなく、条件付きで残ることを許されたのだ。
「ありがとうございます」
マリアは深々と頭を下げた。彼女の心は感謝の気持ちで溢れていた。ヴィヴァルディの支援と、修道女長の慈悲。そして何より、ベアトリーチェと離れずに済むことへの安堵。
部屋を出た後、三人は静かに廊下を歩いた。ヴィヴァルディは二人に振り返り、微笑んだ。
「音楽には性別はありません。あるのは魂だけです。あなたたちの魂は美しい。それを大切にしなさい」
彼はそれだけ言うと、自分の部屋へと戻っていった。マリアとベアトリーチェは互いを見つめ、安堵の笑顔を交わした。
最悪の危機は去った。しかし、これからは新たな生活が始まる。マルコとして自宅から通い、マリアとしてピエタで学ぶ。二重の生活の難しさと、常に秘密を抱える緊張。それでも、二人はその未来に希望を見出していた。