表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/6

第二章 「赤毛の神父と響きあう魂 ~才能の目覚め~」

 翌朝、マリアはピエタの日課に従って起床した。晴れわたった朝の光が窓から差し込み、新しい一日の始まりを告げていた。彼女は慎重に身支度を整えた。髪は後ろで簡素に結び、顔には極わずかな白粉を施し、唇には控えめなバラ色の口紅を塗った。この施設の女性たちは虚飾を避けるよう教えられているが、完全に素顔というわけにもいかなかった。


 小さな鏡に映る自分の姿を見つめながら、マリアは考えた。この姿は本当の自分なのか? それとも仮面に過ぎないのか? 偽りの自分として生きることの罪悪感が胸をよぎったが、同時に、女性として過ごす日々が、思ったよりも自然に感じられることに戸惑いもあった。


 チャペルでの朝の祈りを終えると、マリアは他の少女たちと共に朝食を取った。食堂は清潔で明るく、長いテーブルに少女たちが並んで座っていた。朝食は質素だったが、栄養バランスが考えられており、パンと果物、そして温かいミルクが出された。


 彼女の視線は自然と昨夜ヴァイオリンを奏でていた部屋の方向へと向かった。誰だろう、あの演奏者は。その美しい音色は、プロの演奏家のそれだった。


 朝食を終えた少女たちは、それぞれの授業へと向かった。マリアも案内された教室へと足を運んだ。午前中の授業では、ラテン語や宗教学、文学を学んだ。マリアは父親から基礎教育を受けていたため、授業についていくことは難しくなかった。しかし、女性としての立ち振る舞いには常に注意を払わねばならなかった。座り方、話し方、視線の向け方、すべてが男性とは異なっていた。


 一つの失敗が、彼女の秘密を暴露することになりかねない。マリアは常に緊張していた。


「新しい生徒さんね」


 昼食時、隣に座った少女が声をかけてきた。彼女は細い指で自分の金色の巻き毛を指に巻きつけながら、微笑んでいた。肌は大理石のように白く、瞳は深い青だった。首元にはシンプルなサファイアのペンダントが揺れていた。


「私はベアトリーチェ。ベアトリーチェ・ダッラ・トーレよ」


 彼女は上品な口調で自己紹介した。名前から、彼女が名家の出であることが窺えた。ダッラ・トーレ家はヴェネツィアの古い貴族の家系だった。


「マリア・リナルディです。よろしくお願いします」


 マリアは少し頭を下げた。ベアトリーチェは貴族の娘のような優雅さを持っていた。ピエタには孤児だけでなく、音楽教育を求めて入ってくる裕福な家庭の娘たちも少なくなかった。


「あなた、何の楽器を?」


「ヴァイオリンです」


「まあ、素敵! 私はチェロよ。ヴィヴァルディ神父のお気に入りなの」


 ベアトリーチェは得意げに微笑んだ。彼女の話し方には自信と温かみがあり、マリアは瞬時に彼女に好感を抱いた。


「ヴィヴァルディ神父が教えてくださるのですか?」


「ええ、彼はピエタの音楽監督よ。厳しいけれど、素晴らしい先生なの」


 ベアトリーチェは顔を近づけ、小声で付け加えた。


「彼の赤毛を『赤い司祭』って呼ぶ人もいるわ。でも、決して彼の前では言わないように」


 マリアは微笑み、うなずいた。彼女はヴィヴァルディについて多くのことを聞いていた。彼の作品「四季」は、ヴェネツィア中で演奏されていた。


「昨夜、隣の部屋から美しいヴァイオリンの音色が聞こえました。もしかして……」


「ああ、それは私よ!」ベアトリーチェは嬉しそうに言った。「あなたの部屋が隣なの? 素敵ね!」


「素晴らしい演奏でした。私も少し合わせさせていただきました」


「聞こえたわ! あなたの演奏も素晴らしかったわ。これからもっと一緒に練習しましょう」


 ベアトリーチェの明るさと親しみやすさに、マリアは心が温かくなるのを感じた。この施設で最初の友人ができたことに、彼女は安堵した。


 午後、マリアは音楽室へと向かった。ピエタの音楽室は、その名声に恥じない豪華さだった。高い天井には天使たちの演奏する様子が描かれ、窓からは暖かな光が差し込んでいた。部屋の中央には様々な楽器が置かれ、壁際には楽譜棚が並んでいた。


 そこにいたのは、炎のような赤い髪を持つ神父だった。アントニオ・ヴィヴァルディ。彼は少女たちにヴァイオリンの持ち方を指導していた。ベアトリーチェも部屋の隅でチェロを抱え、練習していた。


 マリアの心臓は高鳴った。伝説の作曲家と対面する瞬間だった。彼は中年を過ぎた男性で、痩せた体躯と鋭い眼差しを持っていた。赤毛は彼の特徴で、その情熱的な外見は彼の音楽性をそのまま表しているようだった。


 ヴィヴァルディはしばらくして新入生に気づき、レッスンを一時中断して彼女の方に向かってきた。


「あなたが新しい生徒ですね」


 ヴィヴァルディがマリアに目を向けた。彼の鋭い眼差しは、まるで彼女の魂を見透かすようだった。マリアは緊張で手が震えた。


「はい、マリア・リナルディです」


「聞かせてみなさい、あなたの演奏を」


 マリアは楽器を手に取り、深呼吸した。彼女は父から教わった曲を演奏し始めた。最初は緊張で指が震えたが、音楽に身を委ねるにつれ、その不安は消えていった。彼女の指が弦の上を踊るように動き、部屋全体に美しい旋律が広がった。


 彼女が演奏したのは、ヴィヴァルディの「四季」から「春」の一部だった。そこには彼女自身の解釈も加えられており、伝統的な演奏とは少し異なる個性的な表現になっていた。


 演奏が終わると、一瞬の静寂が訪れた。ヴィヴァルディは無表情で彼女を見つめていた。部屋にいた少女たちも息を呑んで見守っていた。


「興味深い……」彼はついに口を開いた。「基礎はしっかりしていますが、技術はまだ荒い。しかし、そこにある魂の輝きは……」


 彼は言葉を選ぶように一瞬躊躇した。


「あなたには特別なレッスンを行いましょう。他の生徒たちと一緒にレッスンを受けた後、毎日一時間、個人指導をします」


 マリアは驚きと喜びで言葉を失った。周囲の少女たちからは羨望と好奇心の視線が向けられていた。ベアトリーチェも驚いた様子でマリアを見つめていたが、その表情には純粋な喜びも浮かんでいた。


「ありがとうございます、神父様」


 マリアは深々と頭を下げた。ヴィヴァルディの個人指導を受けられることは、この施設でも特別な栄誉だった。彼は微かに頷くと、他の生徒たちのレッスンを再開した。


 その日の夕方、マリアが自室に戻ると、ベアトリーチェが待っていた。彼女は薄い緑色のドレスを着て、髪には小さな真珠のヘアピンを飾っていた。窓からの夕日の光が彼女の金髪を輝かせ、まるで天使のような姿に見えた。


「聞いたわ! ヴィヴァルディ神父があなたに個人レッスンを!」


 ベアトリーチェの声には驚きと興味が混ざっていた。彼女は小さなテーブルに座り、マリアを招いた。テーブルの上には小さな菓子が置かれていた。


「私も驚いています」マリアは正直に答えた。彼女はベアトリーチェの温かさに心を開き始めていた。この環境の中で、友人がいることは何よりの支えだった。


「あなた、本当に恵まれているわ」ベアトリーチェは彼女の手を取った。「私たちでオルケストラを作りましょう、少人数の。神父様の新作を演奏するの」


 マリアは笑顔で頷いた。ベアトリーチェの温かさと情熱は、彼女の緊張を解きほぐしてくれた。二人は窓辺に座り、夕暮れのヴェネツィアを眺めながら、音楽と夢について語り合った。


「私、いつかヴェネツィアを離れてみたいの。パリやウィーンで演奏したい」


 ベアトリーチェは遠くを見つめながら言った。「あなたは?」


 マリアは少し考えた。彼女にとっての夢は、単純に家族を幸せにすることだった。しかし、ここでの生活が始まり、新たな可能性が開けてきたことで、もっと大きな夢を持ってもいいのかもしれないと感じ始めていた。


「私も……色々な場所で演奏してみたいです。でも、最終的にはヴェネツィアに戻ってきたい。ここは私の故郷ですから」


 彼女の言葉には、家族への思いが込められていた。毎日、病床の母と仕事に追われる父を想い、彼らのために少しでも貢献したいという気持ちが強かった。


「素敵ね。私たち、一緒に旅をしましょう。ヨーロッパ中で演奏して、そして最後はヴェネツィアに帰ってくるの」


 ベアトリーチェは夢見るように言った。彼女の青い瞳には希望が輝いていた。マリアはその瞳に見とれ、ふと我を忘れそうになった。彼女の優しさと美しさは、マリアの心に不思議な感情を呼び起こしていた。


「もうすぐ夕べの祈りの時間ね」ベアトリーチェは立ち上がった。「一緒に行きましょう」


 二人はチャペルへと向かった。夕暮れの光が色鮮やかなステンドグラスを通して差し込み、神聖な空間を幻想的に彩っていた。マリアは初めて、自分が女性として生きることの複雑さと美しさを感じ始めていた。


---


 翌日からマリアの本格的な学びが始まった。午前中は一般教養の授業、午後は音楽の練習。そして夕方には、ヴィヴァルディとの個人レッスンが行われた。


 神父は厳格な指導者だった。彼は細部まで完璧を求め、少しのミスも許さなかった。しかし、その厳しさの裏には、真の才能を育てたいという情熱があった。


「違う、違う! その部分はもっと情感を込めて。音符を演奏するのではなく、物語を語るのです」


 ヴィヴァルディはしばしばこう言って、マリアの演奏を中断した。彼自身が楽器を取り、模範演奏を見せることもあった。彼の演奏は情熱的で、聴く者の心を直接捉えるような力強さがあった。


「感情を封じ込めてはいけません。音楽は魂の表現なのです」


 マリアはこの言葉に深く考えさせられた。彼女は日々、自分の本当の姿を隠して生きていた。感情を表に出すことを恐れ、常に自分を抑制していた。しかし、音楽においては、その抑制が彼女の演奏の妨げになっていた。


 ヴィヴァルディは彼女の内面を見抜いているかのように言った。


「あなたの中に何かがある。それを解き放つ必要があります」


 マリアはうなずき、再び楽器を構えた。彼女は目を閉じ、自分の内なる感情に意識を向けた。家族への愛、友達への感謝、そして自分自身の葛藤。彼女はそれらの感情を音に変え、弓を弦に走らせた。


 部屋に響く音色は、これまでとは明らかに違っていた。より深く、より豊かで、より生命力に溢れていた。


 演奏を終えると、ヴィヴァルディの目に驚きの色が浮かんだ。


「それです。その感情、その魂。それを忘れないでください」


 マリアは心から微笑んだ。何かが変わった瞬間だった。彼女は音楽を通じて、自分自身を表現する道を見つけたのだ。偽りの姿で生きていても、音楽においては彼女は真実であることができた。


 その日から、マリアの演奏は日に日に成長していった。彼女のヴァイオリンの音色は施設中で評判となり、多くの生徒がレッスンの合間に彼女の演奏を聴きに来るようになった。


 ベアトリーチェとの友情も深まり、二人は休日になるとピエタの中庭で一緒に演奏することが多くなった。彼らのデュオは完璧な調和を生み出し、聴く者を魅了した。チェロの深い響きとヴァイオリンの明るい音色が織りなす世界は、まるで二人の魂の対話のようだった。


「あなたとの演奏は特別よ、マリア」


 ある日、二人で練習を終えた後、ベアトリーチェはそう言った。彼女は今日、淡いブルーのドレスを着ていて、それは彼女の青い瞳をより一層輝かせていた。髪には同じく青い小さな花を飾り、首には細いシルバーのチェーンが揺れていた。


「私もそう感じています」マリアは心から答えた。「あなたのチェロは私のヴァイオリンを支え、導いてくれる」


 ベアトリーチェは微笑み、マリアの頬に軽く触れた。その接触に、マリアは小さな震えを感じた。彼女の心に芽生え始めていた感情は、友情を超えたものかもしれなかった。しかし、それは彼女にとって新しく、そして複雑なものだった。自分が女性として振る舞っている以上、女性に惹かれることは……。マリアは混乱した気持ちを抱えながらも、ベアトリーチェの温かさに心地よさを感じていた。


 その夜、マリアは初めて家族に手紙を書いた。ピエタでの生活や学びについて、そしてヴィヴァルディとの特別なレッスンについても。しかし、ベアトリーチェへの複雑な感情については触れなかった。それは彼女自身がまだ理解できていないものだった。


---


 一ヶ月が過ぎた頃、マリアは短い休暇をもらって家に帰ることができた。家族との再会は感動的だった。母の状態は少し良くなっており、顔色も良くなっていた。父も以前よりも元気そうに見えた。


「おかえり、マルコ」


 母は弱々しくも温かい笑顔で息子を迎えた。マリアはまだドレスを着たままだったが、家の中では再びマルコとして振る舞うことができた。彼は母に抱きつき、涙を流した。


「元気にしていましたか、母上?」


「ええ、少しずつだけど良くなっているわ。あなたが送ってくれたお金で、良い薬を買うことができたのよ」


 マルコは安堵した。彼の努力が無駄ではなかったのだ。ピエタでの彼の才能は認められ、小さな報酬も得られるようになっていた。それは決して大きな額ではなかったが、家族にとっては大きな助けとなっていた。


 父とも多くの話をした。楽器の修理の仕事は増えているようで、特にピエタからの仕事も来るようになっていたという。マルコの存在が、間接的に家業にも良い影響を与えていたのだ。


 二日間の滞在の後、マルコは再びマリアとなって、ピエタに戻った。家族との別れは辛かったが、彼の新しい生活にも戻るべき理由があった。素晴らしい先生との学び、音楽への情熱、そして……ベアトリーチェ。


 ピエタに戻ると、ベアトリーチェが門で彼女を待っていた。彼女は鮮やかな赤のドレスを着ていた。その姿は情熱そのもののようで、マリアの心臓は高鳴った。


「おかえり! 寂しかったわ」


 ベアトリーチェはマリアを抱きしめた。その温かさと香りに、マリアは一瞬息が詰まる思いがした。


「ただいま。私も寂しかったです」


 二人は腕を組んで施設内を歩きながら、この数日間の出来事を語り合った。ベアトリーチェの父が訪ねてきたこと、新しい曲の練習が始まったこと、そして何より、ヴィヴァルディが新しい協奏曲を作曲中であることを。


「あなたに聞かせたいことがあるの」


 ベアトリーチェは秘密めかして言った。彼女はマリアを音楽室へと導き、チェロを取り出した。


「これは私の新しい曲。まだ誰にも聴かせていないの」


 彼女は演奏を始めた。深く、情熱的で、どこか切ない旋律が部屋を満たした。マリアはその美しさに息を呑んだ。ベアトリーチェの作曲の才能も、演奏の才能と同じく素晴らしいものだった。


 演奏が終わると、マリアは言葉を失うほど感動していた。


「素晴らしい……本当に美しい」


「ありがとう」ベアトリーチェは頬を赤らめた。「実は、あなたに捧げた曲なの」


 マリアは驚いて目を見開いた。


「私に?」


「ええ。あなたが来てから、私の音楽は変わったの。もっと……生き生きとして」


 ベアトリーチェの青い瞳には、言葉にできない感情が宿っていた。マリアは胸がドキドキするのを感じた。この状況が彼女を混乱させた。女性として生きるという偽りの中で、真実の感情が芽生えることの複雑さ。


「私も……あなたのおかげで変わりました」


 マリアは正直に答えた。確かに、ベアトリーチェとの出会いは彼女の音楽と人生を変えていた。彼女の温かさと情熱は、マリアの心の壁を少しずつ溶かしていた。


 二人は互いの目を見つめ、そこにはただの友情を超えた何かが流れていた。しかし、それが何なのか、どう向き合えばいいのか、二人ともまだ明確には理解していなかった。


 その夜、マリアは眠れなかった。彼女の心はベアトリーチェへの感情と、自分の秘密の重さで混乱していた。彼女は月明かりの下で、自分の選んだ道の先にある未来を思い描いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ