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第一章 「偽りの弦 ~少年ヴァイオリニストの決断~」

 ヴェネツィアの朝の静けさを破るように、サン・マルコ広場の大時計が六時を告げた。暁の光がラグーナの水面に銀色の道を描き始めるころ、十六歳のマルコ・リナルディは自分の運命が大きく変わろうとしていることをまだ知らなかった。


 彼は薄暗い自宅の二階にある小さな部屋で目を覚ました。窓から差し込む微かな光が、壁に架けられた一挺のヴァイオリンを照らしていた。それは祖父からの形見で、家の中で最も価値ある宝物だった。マルコは布団から飛び起き、ヴァイオリンの弦に軽く触れた。弦の震えは彼の指先から体全体に伝わり、一日の始まりを告げるようだった。


 階下からは咳の音が聞こえてきた。マルコは急いで階段を下りた。病床にいる母親、アンジェリカが苦しげに横たわっていた。彼女の頬はこけ、かつての美しさは病によって影を落としていた。


「おはよう、マルコ」


 母は微笑んだが、その笑顔は力なく、すぐに咳に変わった。マルコは急いで水の入った杯を母に差し出した。


「お薬の時間です、母上」


 マルコは医師から処方された苦い薬草を水に溶かし、母に飲ませた。アンジェリカは苦しげに顔をしかめたが、素直に薬を飲み干した。


「ありがとう。あなたがいてくれて本当に感謝しているわ」


 マルコは母の手を取り、その冷たさに胸が締め付けられる思いだった。かつて温かく、彼のヴァイオリンに合わせて美しいチェンバロを奏でていた手は、今では青白く、血の気が失われていた。


 彼が母の手を握っているとき、工房からの物音が聞こえた。父のアントニオが仕事を始めたのだろう。マルコはそっと母の手を置き、工房へと向かった。


 工房では、アントニオが古いヴァイオリンの修理に取り組んでいた。かつては腕の良い楽器職人だった父だが、数年前の事故で右手の自由を失い、以前のように優れた楽器を作ることができなくなっていた。今は修理や調律だけで何とか家族を養っていたが、それも母の病気が長引くにつれ、難しくなっていた。


「おはよう、父上」


 アントニオは息子の声に顔を上げ、疲れた目で微笑んだ。彼の顔には深いしわが刻まれ、黒かった髪にも白いものが目立ち始めていた。しかし、その眼差しには今もなお職人としての誇りが宿っていた。


「おはよう、マルコ。今日は大切な話がある」


 アントニオは手元の楽器を置き、息子に向き直った。マルコは父の真剣な表情に、何か重要なことが起きたのだと直感した。


「何でしょうか?」


「お前が行かねばならぬのだ」


 アントニオの声は疲れていたが、決意に満ちていた。


「どこへですか?」


「オスペダーレ・デッラ・ピエタだ」


 マルコは驚いて目を見開いた。オスペダーレ・デッラ・ピエタは、ヴェネツィアで最も名高い音楽施設の一つで、捨てられた女児や恵まれない少女たちに音楽教育を施す場所だった。そこから育った音楽家たちは、その卓越した技術で知られていた。


「しかし、父上……ピエタは女子のための施設です。男子は入れません」


 アントニオはためらいがちに言った。


「だからこそ、お前には……」


 言葉を探すように、アントニオは一瞬黙った。


「お前には女装してもらわねばならぬ」


 マルコは父の言葉に言葉を失った。


「冗談ではありませんね? そんなことが……」


「冗談ではない。お前の母の治療費、この家を維持するため、そして何より、お前の才能を活かすためだ」


 アントニオは立ち上がり、工房の奥から古い木箱を取り出した。埃を払い、ゆっくりと蓋を開けると、中からは絹のドレスと、小さな宝石箱が現れた。


「お前の母が若かったころのものだ。彼女は貴族の家の令嬢だった。音楽の才能に恵まれ、それが縁で私と出会った。だが、彼女の家族は私との結婚に反対し、彼女は家を捨てて私のもとに来たのだ」


 マルコは箱の中の美しいドレスを見つめた。優雅な水色の絹地に、繊細な銀糸の刺繍が施されていた。


「マリア・リナルディとして生きるのだ。お前の繊細な顔立ちと声なら……できるはずだ」


 マルコは無言で父の顔を見つめた。狂気の沙汰としか思えなかった。自分が女装して女子のための施設に入るなど、どう考えても不可能だ。しかし、父の疲れ切った顔と、隣室で苦しむ母の姿を思うと、拒絶の言葉が喉から出てこなかった。


「時間をください……考えさせてください」


 マルコはそれだけ言うと、部屋を出て、ヴェネツィアの街へと足を向けた。


 朝のヴェネツィアは、まだ観光客も少なく、静かだった。狭い路地を抜け、小さな橋を渡りながら、マルコは父の提案について考えた。女として生きること。それは自分の本質を否定することではないか。しかし、家族を救うためならば……。


 サン・マルコ広場に到着したマルコは、大聖堂の壮麗な姿を見上げた。空に向かって伸びる塔と輝く黄金のモザイクは、この街の永遠の繁栄と信仰を象徴していた。広場では早朝から商人たちが店を開き始め、鳩たちが石畳の上を歩き回っていた。


 マルコはふと足を止め、大聖堂の壁に刻まれた聖人たちの姿を見つめた。彼らもまた、信仰のため、使命のために自らを捧げたのではなかったか。


 そして彼は決意した。家族のため、そして自分の音楽の才能のために、一時的にせよ、この役を演じるのだ。マリア・リナルディとして生きるのだ。


 帰宅すると、父はまだ工房で作業をしていた。マルコは深呼吸し、父の前に立った。


「わかりました、父上。やります」


 アントニオの目に、安堵の色が浮かんだ。


「明日から準備を始める。お前は二週間後にピエタの試験を受ける。そして……」


 アントニオは息子の肩に手を置いた。


「お前はヴァイオリンの腕前だけで評価されるべきだ。性別など関係ない。世界はお前の才能を必要としている」


 マルコはうなずいた。彼はまだ恐れと不安を感じていたが、同時に、新たな冒険への期待も芽生え始めていた。


---


 それから二週間、マルコは毎日、女性としての振る舞いを学んだ。母のアンジェリカは最初、夫の計画に驚いたが、すぐにそれが家族のためであり、息子の才能を開花させる唯一の道だと理解した。彼女はベッドから起き上がる力もないにもかかわらず、マルコに女性としての立ち居振る舞いを丁寧に教えた。


「歩き方よ、マルコ。小さな一歩で、優雅に。そう……もう少し肩の力を抜いて」


 病の床から弱々しい声で指示を出す母の熱心さに、マルコは何度も涙を堪えた。彼の母は若い頃、ヴェネツィアの貴族社会で育った女性だった。その洗練された立ち居振る舞いは、今でも彼女の中に生きていた。


 父は市場で手に入れた安価な布を使って、マルコのための質素だが上品なドレスを数着作った。かつて楽器を作っていた繊細な指先は、針と糸を扱うのも巧みだった。


 マルコは鏡の前で何度も練習した。女性らしい話し方、仕草、表情。時には友人のカルロに協力してもらい、街で女性として歩く練習もした。カルロは最初、マルコの計画に呆れたが、状況を理解すると、真剣に協力してくれた。


「冗談じゃないぞ、マルコ。絶対にバレるぞ」


「でも、やるしかないんだ。家族のために」


「……わかった。俺も手伝う」


 カルロは街で、「従姉妹のマリア」として紹介されるマルコをエスコートした。二人は市場を歩き、時には小さなカフェに入り、マルコは人前で女性として振る舞う練習をした。何度か怪しまれそうになったが、カルロの機転でその場を切り抜けた。


 そして、試験の日が来た。


 マルコは母のドレスを着け、髪は肩まで伸ばし、薄く化粧を施した。鏡に映る自分の姿は、確かに少女のようだった。繊細な顔立ちと大きな瞳、まだあどけなさの残る柔らかな表情。


「完璧よ、マルコ。いえ、今日からはマリアね」


 母は弱々しく微笑んだ。マルコは彼女の手を取り、優しくキスをした。


「必ず成功させます、母上」


 マルコはヴァイオリンケースを手に取り、父と共に家を出た。


 ヴェネツィアの春の日差しは柔らかく、サン・マルコ広場から運河沿いを歩くマリア(マルコ)の頬を優しく照らしていた。彼女が選んだドレスは水色の絹製で、胸元には繊細なレースの縁取りがあり、袖口にはフランス風の刺繍が施されていた。首には母の形見の真珠のペンダントが光っていた。


 ピエタへの道のりは、彼女の新しい人生への通過儀礼のようだった。街の人々は彼女を見ても特に注目することなく、ただ上品な若い娘が父親と歩いているとしか思わなかった。その事実に、マリアは少し安心した。


 オスペダーレ・デッラ・ピエタは、大理石の壁が運河の水面に映る壮麗な建物だった。その正面には、慈善と音楽の守護聖人の彫像が立ち、訪れる者を迎えていた。マリアが到着すると、黒と白の厳格な修道女の服を着た年配の女性が彼女を迎えた。


「マリア・リナルディですね。推薦状を拝見しました。ようこそ、ピエタへ」


 修道女長のソル・アンジェリカは、マリアを上から下まで厳しい目で観察した。マリアは息を呑んだ。彼女の視線は鋭く、見透かされそうで怖かった。


「はい、マリア・リナルディです。どうぞよろしくお願いいたします」


 マリアは練習通りの柔らかい声で応え、お辞儀をした。その仕草は何度も鏡の前で練習した優雅さを帯びていた。


「あなたの才能については聞き及んでおります。実際に演奏をお聞かせいただけますか?」


 マリアはうなずき、ヴァイオリンケースを開けた。中には彼女の祖父の形見の楽器が収められていた。それは古いながらも丁寧に手入れされており、その品質の高さは一目で分かるものだった。


 マリアは深呼吸し、ヴァイオリンを構えた。彼女が選んだのは、ヴィヴァルディの作品だった。音楽監督がヴィヴァルディだと聞いていたからこそ、あえて彼の曲を選んだのだ。


 最初の音が響いた瞬間、マリアは自分が女性として演じていることを忘れた。あるのは音楽だけ。彼女の指が弦の上を踊り、弓が空気を切り裂く。繊細でありながら力強く、情熱的でありながら統制された音色が、部屋全体を満たした。


 演奏が終わると、ソル・アンジェリカは無表情のまま沈黙していた。マリアは不安で心臓が早鐘を打った。父親のアントニオも緊張した面持ちで待っている。


 やがて、修道女長はゆっくりと頷いた。


「素晴らしい才能です。あなたを受け入れましょう。明日から寄宿生として、ここで学んでいただきます」


 マリアと父は顔を見合わせ、喜びと安堵の表情を交わした。第一関門を無事通過したのだ。


「ありがとうございます」二人は声を揃えて言った。


 アントニオは修道女長と必要な手続きを済ませた後、娘として扱われるマルコと二人きりになった。


「うまくいったな」アントニオは小声で言った。


「はい……でも、これからが本当の試練です」


「強く生きろ、マルコ。そして時々は家に戻って来い。お前の母は、お前の成長を見るのを楽しみにしている」


 マルコはうなずき、父を抱きしめた。二人の目には涙が浮かんでいた。


 アントニオが去った後、ソル・アンジェリカはマリアをピエタの内部へと案内した。大理石の廊下、高い天井、そして至る所に芸術が息づいていた。壁には聖書の物語を描いた絵画が飾られ、廊下の小さなニッチには聖人の像が置かれていた。窓からは運河の光景が見え、水面に反射する光が壁に揺らめいていた。


 ソル・アンジェリカはマリアを寮へと案内した。そこは一人一人に小さな個室が与えられる場所だった。部屋は質素ながらも清潔で、小さな窓からはヴェネツィアの運河と向かいの建物が見えた。ベッド、小さな机と椅子、そして簡素なタンスがあるだけだった。


「こちらがあなたの部屋です。朝の祈りは五時半、その後朝食。午前中は一般教養の授業、午後は音楽の練習。夕べの祈りの後は自由時間ですが、就寝は九時です」


 マリアはうなずいた。規則正しい生活は彼女にとって困難ではなかった。家でも早起きして母の看病をし、父の仕事を手伝い、それから練習をする日々だった。


「明日からレッスンが始まります。休息を取りなさい」


 ソル・アンジェリカが去ると、マリアは扉を閉め、深く息を吐いた。初めての試練を乗り越えたことに安堵しながらも、これからの生活への不安が胸を締め付けた。女性として生活することの複雑さ、秘密がばれる恐怖、そして何より、このような偽りの姿で音楽を学ぶことへの罪悪感。


 彼女は窓辺に立ち、ヴェネツィアの夕景を眺めながら、自分の選んだ運命に思いを馳せた。夕陽に染まるラグーナの水面、遠くに見えるサン・マルコ大聖堂の輪郭、そして行き交うゴンドラの姿。この美しい街で、彼女は新たな人生を始めるのだ。


 その時、隣室から微かに聞こえてきたのは、ヴィヴァルディの「四季」の一節だった。繊細で情熱的なヴァイオリンの音色が、マリアの不安を優しく包み込むように響いていた。


 マリアはベッドに腰掛け、自分のヴァイオリンを取り出した。彼女も静かに弓を動かし、隣室の旋律に合わせ始めた。二つの音色が溶け合う瞬間、彼女は自分がここにいる理由を思い出した。音楽のために。純粋に、音楽のために。


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