ベランダで一人(桔梗視点)
「どんな理由があっても、氷室先生に連絡することは出来たはずでしょ」
「命を賭ければ、それほど難しいことではなかったかもしれないわね」
「その努力を怠った美月先生のようには、ならないから」
「何があっても?」
「当然でしょ」
「自らの命と引き換えにしても、氷室に安心して貰う道を選ぶのね」
それの何が悪いのだろう。
桔梗は美月のことを思い続けるあまり、涙を流す氷室の姿を見ている。
行方不明になった美月が、氷室に無事を伝える手段が別れの手紙でなければ、それよりも前に美月が氷室と連絡を取っていれば──桔梗は好きになって貰えなかったかもしれないが、少なくとも氷室が美月を思って泣くことはなかっただろう。
氷室に連絡を取ろうとした結果、命を落としたとしても。
桔梗は氷室と未来を歩むことはできなくなってしまうが、運命の赤い糸は命を落とした桔梗の薬指に巻き付いたままだ。
「美月先生だって、最初はそのつもりだったでしょ」
命を賭けて氷室に無事を伝えた結果命を落としたとしても、氷室が桔梗を思い続けることは美月が証明してくれた。
「あたしは無事を伝えたくて、氷室に連絡をしたわけではないわ」
美月は階段から落ちる直前、氷室に連絡をしている。
『天門総合病院の闇を暴く証拠を手に入れた』
その結果、氷室は何年も美月を思い続けたのだ。
一度誰かを愛すると決めたならば、何があっても愛し続ける。
氷室が考えを改めない限り、命の危機に瀕した桔梗が取るべき行動は五体満足で氷室の元へ戻ることではなく、一刻も早く氷室へ無事を伝えることだ。
「氷室が何よりも優先するのは、愛する人がその瞬間無事であるかどうかよりも、生涯無事で居続けることよ。一瞬だけ氷室を安心させた所で、桔梗ちゃんの命が絶たれるのであれば意味がないわ」
「意味があるかどうかは、氷室先生が決めること」
「……桔梗ちゃんには、まだ早かったかしら」
「子ども扱いしないで……!」
桔梗は美月から視線を反らしていたが、この瞬間に眼光鋭く再び美月を睨みつけた。
美月は桔梗を子ども扱いした覚えはないのだが、桔梗を心配する美月の声音は、桔梗にとって馬鹿にしたようにしか聞こえなかったようだ。
「私は氷室先生に泣いてほしくない。ずっと側で同じ時を過ごし続けたいけれど、愛して貰えないなら意味がないでしょ!?」
「桔梗ちゃん……」
「氷室先生は、目の前にいる愛する人よりも、手の届かない所にいる人の方が好きだもの!私が氷室先生と一緒に暮らすようになったら、私は氷室先生に愛して貰えない……っ!」
「違うわ。氷室は……」
「美月先生と分かり合うなんて、絶対無理だから!」
桔梗は涙目で美月を睨み付けると、彼女に背を向ける。
しばらく美月の顔など見たくもなかった。
(こうやってすぐに怒ったり泣いたりするから、子どもだと舐められる)
1DKマンションでは逃げ場がない。
部屋が一つしかないからだ。
美月の顔を見ないで済む場所は、トイレや浴室、ベランダの三択しかない。
トイレと浴室は玄関側近くにあるため、美月に背を向けた桔梗は美月の方へと振り返って歩みを進めなければならなかった。
ともなれば、桔梗が逃げる場所はベランダしかない。
桔梗は無言で施錠されていた窓の鍵を開けると、ベランダに出て後ろ手で窓を完全に閉めたことを確認することなく、右端に腰を下ろす。
(……冷たい……)
夏の終わり、ベランダに腰を下ろせば冷たさが身体に染みる。
体育座りの状態で顔を埋めて丸まると、桔梗の瞳からは堪えていたはずの涙がぽろぽろと流れ出ていった。
(氷室先生の理解者は、美月先生だ。私は氷室先生のことを全然理解できていない……)
桔梗はまだ、氷室に好意を抱いて貰ったばかりだ。
氷室の理解者として初心者マークが輝いている桔梗と、7年近く前の話とはいえ、何年も氷室の彼女として隣を歩いてきた美月では理解度など比べ物にならないだろう。
(やっぱり、私じゃ駄目なのかな……)
天門総合病院の事件から開放された桔梗は、その事件以来、氷室を自分のものにするためだけに生きてきた。
アイドルになると決意をしたのは、有名にさえなれば殺害される危険性が薄れると思ったからだ。
命の危機が去ったのならば、桔梗はアイドルとして輝く必要などない。
氷室と出会わなければ。桔梗は今頃アイドルを卒業し、芸能界からも足を洗って吉更とのんびり新たな人生を歩んでいるはずだった。
(氷室先生が私から逃げなければ……)
氷室が桔梗の前から姿を消したのは大きな誤算だ。
アイドル卒業を宣言する前に氷室が桔梗の前から姿を消したことが、奇しくもターニングポイントになった。
桔梗は自身が芸能人であることを盾にして、氷室との運命の赤い糸を引き寄せ、薬指へ巻き付けたのだ。
芸能人でなければ、探偵を雇うなり金銭と引き換えにして地道に情報提供を呼びかけるしかなかっただろう。
(芸能人のままだから、氷室先生は私を大切にしてくれるけど……。芸能人ではなくなったら、氷室先生は私を大事にしてくれなくなる……?)
それは絶対に嫌だと考えた桔梗は、人知れず首を左右に振る。
芸能人は一度辞めたら、復帰が難しい。
人脈を辿り地道にコツコツとはじめからやり直す根性があれば全く問題ないが、桔梗は1からリセットしてやり直そうとはとても思えなかった。
(適当に偉い人を見つけて媚を売っておけば、いくらでも仕事は舞い込んでくる)
楽して大金が稼げるから、芸能人として舞い込む仕事をこなしているだけ。
芸能界に、未練など存在しない桔梗は今すぐ仕事を辞めて氷室とずっと一緒に暮らしたかったが、残念ながら桔梗のスケジュールは半年先まで埋まっている。
今すぐ辞めて氷室と同棲をはじめれば、たくさんの人に迷惑が掛かってしまう。
氷室は家庭に入って主婦として支えて欲しそうにする一方で、輝かしい栄光を自ら手放す必要はないのではないかと、桔梗が芸能界から足を洗うことをあまりよく思っていないようだった。
(どうしたらいいのかな……)
パーカーのポケットに入れていたスマートフォンを取り出し操作した桔梗は、耳に当てて呟く。
「嫌い。嫌い。美月先生なんて大嫌い」
美月に対する率直な気持ちを小さな声で吐き出した桔梗は、電話越しに聞こえてくる声に安堵して泣きつく。
『桔梗?』
「どうしよう、きーちゃん……氷室先生、取られちゃう……」
吉更は東京、桔梗は沖縄に居るのだから、泣き付かれた吉更は話を聞いてやることしかできない。
桔梗と吉更は双子だが、ずっと一緒に暮らしていた期間はそれほど長くなかった。
幼少期は病院と自宅。
天門総合病院の件が片付いても、アイドル活動や芸能活動に明け暮れ、吉更と揃う機会は数えるほどしかなかった。
それでもここぞと言うときにだけ桔梗が吉更を頼るのは、やはり数分違いで同じ日に生まれた半身であることが大きい。
離れていても。
性別が異なり、考え方や経験してきたことが全く同じでない吉更だからこそ。
桔梗は本音を口にできるのだ。
『桔梗が無理矢理、奪い取ろうとしてんだろ』
桔梗は悲しいことや辛いことがあっても、よほどのことがない限り吉更に助けを求めない。
天門総合病院の件に関してだけは、吉更にも相談することなく生きてきた。
その桔梗が、吉更に泣きついている。
電話越しの呆れを含んだ桔梗の責める声を聞いても気にすることなく、ぽつりぽつりと自身の気持ちを吐露した。




