濡れた指を見つめても
氷室の作ったチャーハンは、白熱した話し合いの間にすっかり冷めてしまった。
無理矢理口の中に流し込み、食事を終えていた氷室以外の女性陣二人は、電子レンジで温め直してから自分たちのペースで食事を始める。
「恨みがましく見つめても、あたしは消えてなくならないわよ」
「目線だけで、殺害できたらよかったのに……」
「あたしを始末しても、氷室に嫌われたら意味がないでしょう。氷室は人殺しなど好きにならないわよ」
「氷室先生は愛知桔梗が好きなの。美月先生を邪魔に思って殺害したとしても……。私を愛してくれるもの……」
桔梗が犯罪者になっても愛せるかについて、頷こうものなら。
狂気に駆られた桔梗が、美月を殺害しかねない。
桔梗は、マスコミに知られたら困る秘密を抱える芸能人だ。
本気で美月を始末しようと思うなら、秘密が露呈しないよう、桔梗は完全犯罪を目指すことになる。
美月のアシストを受けた氷室は、この場は全力で桔梗の殺戮衝動を抑えるため否定することにした。
「犯罪者を好きになるようなことがあれば、天門総合病院の件に首を突っ込む必要がない」
「あら。氷室はあたしの行方を探る為に、医院の罪を暴いたのではなかったの?」
「私が犯罪者になっても愛してくれるかどうかは、事件には関係ないよ」
氷室が天門総合病院の件を持ち出し、漬け置きしておいた調理器具を洗い始めた所、女性陣から辛辣な言葉が飛んでくる。
(なんだよこいつら。息ピッタリじゃねぇか)
氷室を奪い合っていたかと思えば、氷室の言葉を全否定する連携プレーを見せ、仲の良さをアピールするような姿を目にしてしまえば、氷室はたじろぎ口を閉ざすしかない。
「あたしたち、案外息はぴったりと合うようね」
「私は思ったことを口にしただけ。真似しないで」
「真似しているのはどちらかしら」
「……むぅ」
「ふふふ……」
この二人を一緒にしておくと、くだらない言い争いばかりが絶えず続く。
(桔梗はともかく……美月は大人なんだから、適当にあしらっておけばいいだろ……)
大人げない美月の様子をうんざりしながら見つめた氷室は、調理器具を洗い終えてから一人ずつ風呂へ入るよう促した。
「氷室、服を借りてもいいかしら」
「好きにしろ」
「氷室先生のお洋服を美月先生が着るの?」
「……脱いだ服が乾くまでの間だけな」
「私も着たい」
「桔梗は着替えがあるだろ……」
桔梗は彼シャツは彼女の特権だと声を上げ、美月を羨ましがる。
(同じものを買い与えないと喧嘩する双子かよ……)
桔梗と吉更の双子を育て上げた愛知夫妻は、さぞかし大変だっただろう。
(桔梗がわがままだったせいで、吉更だけを可愛がっていたわけではないだろうが……)
双子の片方だけを贔屓して、もう片方をいないものとして扱ってきた愛知夫妻の子育て方法に思うことがあった氷室は、美月と桔梗が大騒ぎする姿を見ていると、仕方がないことだったのかもしれないと考えるようになる。
相手の気持ちに立って物事を考えることは、とても恐ろしい。
氷室は遠い目をしながら、美月と桔梗へクローゼットの引き出しに収納された服を自由に着ろと指示を出す。
「そのスーツケースの中身が、桔梗ちゃんの私物入れ?」
「そうだけど……」
「衣装タンスの中には入れていないのね。三段目、空なのに」
可愛らしいピンク色のスーツケースから寝巻きを一瞬取り出して、美月の着替え問題が上がったことによりすぐにしまい直した桔梗の姿を目ざとく確認した美月は、いやらしく桔梗へ指摘してみせた。
美月は氷室が桔梗と思いを通じ合わせ、同棲していると勘違いしている。
この場で氷室から「桔梗の滞在は2週間だけだ」と、美月に告げてもいいだろうか。
(またこっちに火の粉が飛んできてもな……)
考えた末に、氷室は美月の疑問に口を閉ざすことにしたようだ。
「桔梗ちゃんは、氷室の浮気相手なのよね。本命彼女であるあたしに黙って、同棲までしている……」
「……言ったでしょ。美月先生は元カノ。氷室先生と心を通じ合わせ、本命彼女を名乗れるは私」
「関係の相違については、機会があれば二人きりでゆっくり話しましょう」
「ゆっくり話し合う機会など必要ない」
二人は一触触発の様子で睨み合う。
氷室が割って入っても割って入らなくても睨み合うなら、好きなだけやり合えばいい。
何もかも諦めた氷室は、いつまで経っても一人ずつ入浴を済ませるのを待っている時間が惜しいとばかりに、ふらりとキッチンからリビングを経由して廊下に出る。
(俺が出ていったことにすら気づかないのかよ……)
女性陣の真横を通って堂々と脱衣所に向かっても、氷室に声を掛けて来るわけでもなく互いを睨み続けるのだから、おかしな話だ。
すでに二人の中では氷室のことなど、どうでもよくなっているのだろう。
互いに目の前の敵を、屈服させることだけを目標としているのが窺い知れて、氷室は難しい顔をしながら脱衣所のドアを閉めた。
(俺が美月を選んでいれば、無駄な言い争いをする必要などなかったはずだ)
手早く服を脱ぎ風呂場でシャワーを浴びる氷室は、頭から水を被り、頭をフル回転させる。
美月に抱く思いが、憧れであると受け入れることなく。好きだと勘違いしたままでいたなら──娘と呼べるほど年の離れた桔梗から「氷室先生は私のもの」と喧嘩を売られた所で、受けて立つようなことはしなかっただろう。
美月は氷室と交際している事実があれば、桔梗にマウントを取る必要はなかったのだ。
氷室が娘ほどの年の差がある桔梗を愛するわけがないと、氷室を信じていたから。
けれど。
氷室は桔梗を愛してしまった。
(手の届かない、憧れの背中を永遠に追い続けることよりも……)
愛を返し、氷室を支え。時には優しく受け入れてくれる桔梗に手を伸ばして、二人の小指は運命の赤い糸で結ばれたのだ。
(桔梗は、俺と交際することは運命付けられていると宣言した)
運命の赤い糸は可視化できない。
片方が「この恋は運命である」と囁き、互いの薬指に結びついていると認識したならばそれだけで成立する。
所詮眉唾話であり、信憑性はない。
(桔梗だって本気で信じているわけではない。俺だって信じてなどいない……)
氷室と桔梗が惹かれ合ったのが運命であると声高らかに宣言し続けなければ、氷室が美月に揺らぎ、桔梗を捨ててしまうのではないかと不安で仕方がないのだろう。
氷室は水に濡れた右手の小指に視線を集中させ、目を凝らしながら見つめる。
どんなに目を凝らしても。
薬指に赤い糸が結びついているかどうかは、判別できなかった。




