元カノに翻弄されて
「氷室先生を誘惑するのはやめて」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
女同士の睨み合いが続く。
氷室は目頭を覆い、怒りを無理矢理心の奥底に押しやると、美月へ問いかけた。
「美月。お前は何がしたい」
怒りを心の奥底に深く沈めても。
気持ちの整理がつかない今の氷室では、美月の一言により、白雪氷室ではいられなくなってしまう可能性があった。
桔梗の前で、これ以上みっともない姿を見せるわけにはいかない。
氷室は美月を睨みつけると、彼女の口から紡がれる言葉を待つ。
「桔梗ちゃんが氷室に相応しい女であるかどうかを、テストしたいわ」
緊張の面持ちで美月の言葉を待っていた氷室は、意外な言葉に拍子抜けしてしまった。
美月に対する怒りが薄れていくのを感じながら、氷室は再び問いかける。
「なんの権限あって」
「人の彼氏を奪うのよ?本命彼女の太鼓判があるとないとでは、世間の反応が違うわ。桔梗ちゃんは芸能人。愛知桔梗に彼氏を奪われたと、週刊誌文冬に駆け込んでもいいのだけれど」
美月は桔梗の件を週刊誌に売り込んでもいいと、脅し始めた。
氷室には美月の気持ちが、1ミリも理解できない。
行方不明中の7年近く、どこで何をしていたかすら不明なままでは、理解のしようがないだろう。
美月の話す内容は無茶苦茶だ。
氷室に別れを告げる手紙は、階段から突き落とされた男に書かされたもの。
自分の意思で破局を申し出たわけではないと口にしながら、氷室が交際中であると思いこんでいる件に関してはまだ交際しているつもりなのかと不満そう。
氷室と交際しているつもりはないが、桔梗が氷室に相応しい女であるかをテストするなどと言い出し、氷室の幸せを願っているような言動をするのだから手に負えない。
(美月は、これほど隠し事が多い人間だっただろうか?)
美月と氷室の間には、何一つ隠し事などなかったはずだ。
美月の目的や考えが理解できないと氷室が心の中で音を上げている時点で、二人の関係が元に戻るはずがないのに……。
氷室はこの期に及んでもまだ、美月と復縁の可能性を探し出そうとしている自分に愕然とした。
「氷室先生」
桔梗は氷室を、心配そうに覗き込む。
(もう遅いんだよ……)
氷室は手を繋いでいない反対の手で、安心させるように桔梗の髪へ触れた。
美月ではなく桔梗を安心させようと行動する辺りが、深層心理の現れだ。
そう認識した氷室は、美月に対して重苦しい口を開く。
「何もかもが、遅すぎる。7年近く経って……意味わかんねぇ……」
「意味がわからないのはあたしの方よ。氷室。あなたはどうしたいの」
氷室がどうしたいかなど、聞かれるまでもなく答えが出ている。
(俺がしっかりと、口にすればいいだけのことだ)
美月に問いかけられた氷室がテーブルの上で拳を握りしめると、桔梗が不安そうに両手を重ねてくる。
その手のぬくもりを、より強く感じる為に。
一度握りしめていた手を開いて裏返すと、美月に悟られぬよう手を繋ぐ。
繋いだ手が離れぬように。
互いの薬指に見えない運命の赤い糸を結びつけた二人には、恐れるものなど何もない。
「俺はずっと、美月のことが好きではなかった」
「……そう。あたしを好きではなかったのね」
「美月と再会するまで、桔梗には待ってもらっていた。美月と正式に破局するまで、俺の気持ちを伝えることはできないと」
「……私のことなど、好きではなかった。それが氷室の答えなのね」
氷室は額に脂汗を滲ませながら、美月に自らの気持ちを伝えた。
本来であれば、氷室の前から姿を消した約7年間の出来事を美月から聞き出してから、美月に伝えるべきはずの言葉だ。
(気持ちを伝える前に、美月が行方不明の間。何をしていたのか聞けば、桔梗と繋いだ手を離してしまう)
美月と桔梗。
どちらか一人としか未来を歩めず、傷つけることになるならば――氷室は、これから共に未来を歩む可能性の低い美月を傷つける道を選んだ。
「……すまない。美月……。俺は、美月を裏切った……。最低な人間だ……」
氷室は美月と目を合わせ続けられず、ついには俯いてしまった。
桔梗と手を握り合っていなければ、申し訳ない気持ちに押しつぶされ、耐えきれずに泣き出してしまったかもしれない。
桔梗は俯く氷室を心配そうに見つめながらも声を出すことはせず、美月もまた氷室と桔梗の姿を見守っている。
「謝る必要などないわ」
誰もが口を開くことなく、長い沈黙が降りる中。
沈黙を破ったのは、優しい声で氷室の名を呼ぶ美月だった。
「桔梗ちゃんが、氷室に相応しい彼女であると認めるまで。あたしは氷室の彼女をやめるつもりはないもの」
あっけらかんと言い放つ美月は、罪の告白を受けても全く気にした様子もない。
あたしが本命彼女だと宣言しかねないほど、楽しそうに微笑む。
常識外れの反応を見せた美月に対し氷室が絶句している隙に、美月は自身の気持ちを吐露する。
「ずっと自分のことよりも、他人を優先するべきだと思っていた。あたしの命でたくさんの人が助かるならば、あたしの幸せを差し出してでも困っている人を助けたい。助けてみせると覚悟を決めてきたわ」
それが無意味な行いであることに、美月は気づいてしまったらしい。
階段から突き落とされた美月は、氷室と歩む未来を諦めざる負えなくなってしまった。
「よく、言うわよね。正直者が馬鹿を見ると。あたしは自身や愛する人よりも、傷ついている縁も縁もない人々を優先し続けた結果……氷室を桔梗ちゃんに奪われそうになっている」
天門総合病院の闇を暴こうとしなければ──氷室と美月は、添い遂げていたはずだ。
その事実は、美月の信念すらも捻じ曲げる。
「あたしは愛する人よりも、困っている他人を優先してしまったけれど。桔梗ちゃんは困っている他人よりも……愛する人を優先する子だったのでしょう。氷室に選ばれたと思えば、合点がいくわ」
「美月、それは違う。俺は美月の愛する人よりも他人を優先するその姿勢に憧れ、お前の背中を追い続けると決めた」
美月が桔梗のような思考を持った所で、氷室が美月を愛することなどないのに――美月は氷室の愛を得るため、間違った方向へ歩き始める。
「あたしも、これからは困っている他人よりも、愛する人を優先することにするわ」
美月は氷室と桔梗に向かって、屈託のない笑顔を向けた。
(愛する人を優先する桔梗と美月を比較検討し、どちらと未来を歩むべきか考えればいいだと?冗談じゃない)
もう遅いのだ。
今更、氷室が美月への気持ちを憧れから恋に変化させることは難しい。
桔梗を愛する氷室には、美月の言葉など心に響くはずがないのに──氷室は心の奥底で、美月から必要とされていることを喜ぶ自分がいることに気づいてしまった。
(バレないように二股を掛ければ、二人を幸せにしてやれる?馬鹿言うな)
氷室がともに未来を歩める伴侶は、たった一人だけだ。
美月の気持ちがどうであれ。
氷室が桔梗に惹かれてしまったのは事実だ。
何があろうとも、美月に憧れるこの思いが、恋心に変化することはない。
「桔梗ちゃんが、氷室の伴侶に相応しい女に成長したか。お手並み拝見と行きましょうか」
「……すぐに、認めさせてあげる。氷室先生を愛する気持ちは、世界で一番私が強いこと……!」
桔梗が氷室に相応しい伴侶であるかどうかを見極める為、1Kマンションへ一時的に、3人目の住人である美月が住むことになった。




