美月に対する氷室の叫び
「……無理やり書かされた?本心ではなかったのか」
氷室は思わず、2人の会話に割って入った。
美月が氷室に宛てた手紙の内容が本心でないとすれば――氷室は美月の気持ちを計り知ることなく、自分本位に手頃な女へ手を出した最低クソ野郎だ。
(そんなの、指摘される前からわかっていたことだろ……)
今更気づいた所で、桔梗に告げた思いがどこかに消えてなくなるわけでもなければ、美月を愛する気持ちが氷室に芽生えるわけでもない。
どうしようもならないことを悔いても、時間を無駄にするだけだ。
氷室は桔梗の手を取った時から、過去は振り返らないと決めている。
今更美月から手紙の内容は本心ではないと告白された所で、氷室は桔梗を裏切れない。
氷室にとって桔梗は、既に欠かせない存在だから。
「あのまま別れるつもりになっても、仕方ないとは思っていたわ。私は自らの命を差し出してまで、氷室と交際を続けたいわけではなかった……」
「いい年したおばさんが悲劇のヒロインぶるの、やめてよ。すごく不愉快」
話を聞いていた桔梗の声音が、恐ろしいほどに低くなる。
吉更が成長期を終え、声変わりを迎えてから。
判別不可能なほどによく似ていた二人の声には、明確な違いが出た。
吉更が裏声を使って桔梗の声を出すことはできても、吉更の声を桔梗が模倣することは不可能のはずだったが――美月に厳しい声を掛けた桔梗の声は、電話越しに聞く吉更の声とよく似ている。
(同一視できないほどに、変化したと思っていたが……)
やはり双子には、切っても切り離せない繋がりがあるのだろう。
氷室は何が起きてもいいように、機嫌を急降下させた桔梗の様子を覗う。
「だからこそ、あたしはこうして生きて氷室と会話ができるのよ」
「生きることを諦めてまで、氷室先生への思いを抱き続けられなかったから……美月先生は手紙を書き記して、廃墟に置いた」
「そうね」
「氷室先生に未練がないなら、私との関係を祝福するべきでしょ。私は美月先生と同じ立場になれば、氷室先生への愛を貫く。別れの手紙など認めたりしない」
「命を落とすのよ」
「構わない。氷室先生と交際している状態で死ねば、氷室先生の心は生涯私のもの……」
桔梗は氷室の為なら、命を投げ売ってでも愛を貫き続けると宣言した。
その考えに薄ら寒い思いをするか、愛の重さに感動して桔梗をもっと好きになるかどうかは人によるだろう。
氷室は前者──生きた心地がしないまま、無言でレンゲを使いチャーハンを口の中へかき込んでいる。
「逆の立場でなくてよかったわね。愛が重すぎて、死んだあと化けて出そうだわ」
行方不明になったのが美月でよかったなど、氷室が思えるはずもない。
無言でチャーハンを口に入れては咀嚼し飲み込んでいた氷室は、鬼の形相で美月を睨みつけた。
その言葉は、たとえ美月であろうとも許せない。
聞き捨てならない言葉を耳にした氷室は、低い声で唸るように美月を非難した。
「美月、お前……行方不明になってよかったとでも……?」
「そうね。氷室と別れることになってしまったのは残念だけれど……。行方不明になったお陰で、生涯出会えるはずのない仲間にも出会えたのよ」
「仲間だと」
「仲間の話は、おいおいしていけばいいでしょう」
「……俺と鈴瑚が、どれほど心配したと思っている。美月がいなくなった当初、俺たちは生きるのすらやっとで、未来が見通せず、不安で仕方なかった!」
「氷室先生……」
氷室はチャーハンを食べ終え、空になった丼の上に、レンゲを置く。
カランと、食器同士がぶつかり合う金属音で冷静になれたらよかったのだが――氷室にとってそれは、戦いのゴングが鳴り響いたようにしか聞こえない。
テーブルを両手で強く叩いた氷室は、勢いよく立ち上がる。
感情を爆発させた氷室を目にしたことのない桔梗は目を丸くしているが、美月はいつものことだとまったく気にした様子もなく、微笑んでいた。
「俺たちはずっと、美月が知らぬところで倒れていたら、すでに命を落としていたらどうしようかと考えて、夜も眠れないほど思い詰めていたんだぞ!?」
「それほどあたしのことを愛してくれていたのに、浮気相手がいる辺りがリアルよね」
「ふざけるな!」
「あたしはふざけてなどいないわ」
余裕綽々な美月の表情に苛立ちを募らせた氷室は、今まで隠していた思いの丈を美月へぶつける。
白雪兄妹がこの7年近い時間を、どれほど苦しい思いを抱きながら生きてきたか聞いても、美月は一切顔色を変えずに淡々と言葉を紡ぐ。
一度こうと決めたら、最後まで貫くのが美月だと理解していても。
氷室は胸の奥に秘めていた怒りを一度吐き出したら、止められなかった。
「行方不明になってよかった?ありえない!行方不明にならなければ俺と美月は今頃……っ。予定通り結婚し、子どもが生まれ、家族として東京で一つの家庭を築き上げていたはずだ!」
「仕方ないじゃない。過去には戻れない。幸せな家庭を思い描いても、今更あたしが氷室の子どもを産んで育てるのはかなりのリスクが伴うわ」
「俺は一つの幸せな可能性を口にしただけだ!子どもなんて必要ねぇ。俺は、俺はただ!美月だけがいればっ。他には何もいらなかった……!」
美月と破局するまで交際できないと告げられていた桔梗は、氷室の叫びを聞いて心穏やかではいられないのだろう。
話し合いに口出しすれば、氷室の矛先が桔梗に向かってくる。
桔梗は硬い表情で成り行きを見守りながら、氷室と重ね合わせた手に力を込めた。
「あたしだけがいればいいと言っていたくせに。結局あたしの帰りを待ち焦がれて、若い子に手を出したのだから手に負えないわね」
「……俺と交際を続けるつもりがあるなら、なぜもっと早くに顔を出さなかった」
「7年近く時が流れたならば、人は変わるわ」
「美月!」
「早く顔を出したいと思っても、顔を出せなかった理由があるのよ」
納得できるわけがない。
7年近くも行方不明になっていたその理由を問いかけた所で、美月は一向に口を割ろうとしないのだからどうしょうもないだろう。
氷室には氷室の考えがあるように、美月にも美月の考えがある。
氷室は美月と共に歩く未来を捨てた。
このまま桔梗の手を振り払い、美月と復縁の話へ持っていくのは難しい。
氷室は声が震えないように細心の注意を払いながら、美月に語りかける。
「元の関係になんざ、戻れるわけがねぇ……。俺は前を向いて歩く。過去を振り返り、お前に縋るのはやめる」
「……あたしに縋ることなく、自分の足で立ち──桔梗ちゃんの目標になるような道標を目指すとでも言うの?」
「……そうだ」
「ふふ。変わったわね、氷室。桔梗ちゃんに押されて、無理矢理変わったように見せかけているのかしら……」
美月は氷室が心の奥底ではまだ、自分のことが好きだと絶対的な自信を持っているようだ。
二人の間に、どうあがいても引き裂けない絆があることを目にした桔梗は、黙っていられずに声を上げた。




