自称彼女VS自然消滅した彼女
氷室は美月の前で、桔梗の背中に手を回せるはずもなく、両手を横にくっつけたまま、微動だにできない。
未だかつて、これほど嬉しくないサンドがあっただろうか。
(いや、ないだろ……)
前に娘ほどの年の差がある浮気相手、後ろに自然消滅したはずの彼女から抱きしめられた氷室は、男ならば誰もが憧れるシチュエーションの中──美月の言葉に同意をするのも憚られ、にっちもさっちも行かない2人の様子を無言で眺めていた。
「氷室先生!」
「あら、氷室。浮気相手と本命彼女が同時に現れたら、本命彼女を優先するべきなのに……。私を優先してくれないなんてひどいわ。よくもまぁ、まだあたしと付き合っていると言えたものね?」
「氷室先生の心は、私のものだから!7年近くも経って、心変わりしないほうがおかしいでしょ。美月先生だって、氷室先生へ一方的に別れを告げたくせに!」
「あら。あたしとの秘密すらも、桔梗ちゃんと共有済なのね。あたし以外の女を好きになったことを喜べばいいのか、悲しめばいいのか……困ったわね」
美月は困った声を出し、氷室の耳元で囁いた。
右耳の裏側に息を吹き掛けられた氷室は、思わず美月の方へ振り返ろうしたが、それを許すような桔梗ではない。
「悲しむなら勝手に一人で悲しめば!?氷室先生と私は相思相愛なの!やっと思いを通じ合わせたのに……っ」
「あら、泣くの?いいわね、若い子は。泣けば何でも許されて……」
「泣かない」
まるで吉更が目の前にいて、桔梗と言い争っているかのように。
年相応の反応を見せる桔梗は、今にも泣き出しそうに潤ませた瞳から涙を拭い去ると、氷室の左耳に唇を寄せた。
「ね、氷室先生は……。美月先生よりも……。私が好きでしょ……?」
前後に抱きしめられ、右耳と左耳に別れて囁かれた氷室は、一度天を仰ぎながら深く息を吸い込む。
(冷静になれ。焦って答えを出そうものなら、こいつらの思うつぼだ)
この場でどちらか1人の肩を持とうものなら収拾がつかなくなる。
そう判断した氷室は、両手を使い、ベリベリと同時に桔梗と美月を自身と引き剥がし──
「リビングに座れ。話はそれからだ」
このまま玄関先でずっと抱きしめられ続けていれば、夜食を食いっぱぐれてしまう。
桔梗は料理を始めたばかりで、美月は料理がからきしだ。
(女が2人もいるのに、どっちの手料理も宛になんねぇとか……)
女性陣が当てにならないなら、氷室が3人分の食事をどうにかしなければならない。
いつまでも玄関で押し問答を繰り広げている場合ではないのだ。
「むぅ。やっぱり、美月先生のことは追い出そうよ……」
桔梗と美月を引き剥がし、自身の靴を脱いだ氷室は、不満そうな桔梗の背中をリビングへと押しやり、強引に座らせた。
「随分と狭い部屋で暮らしているのね」
「寝に帰るだけだ。広い部屋は必要ないだろ」
「裕福な家庭で育ったのに、変な所貧乏性よね」
美月は氷室が寝に帰るだけの部屋をわざわざ借りる必要がないと嫌がり、実家暮らしであったことを知っている。
「桔梗ちゃんは氷室がどんな所に住んでいたか知らないでしょう?」
「むぅ……」
妹にお義姉様と呼ばれるほど仲のいい美月は、さり気なく桔梗にマウントを取っていた。
(火に油を注いでどうする)
氷室のことを何でも知りたがる桔梗は、聞いたことのない話をを聞いて、不思議そうに隣へ座る美月を見つめる。
「裕福……?氷室先生、お金持ち……?」
「親が資産家なだけだ」
「医者は金持ちにしかなれないのよ」
「私、芸能活動で稼いだお金は一部を除いてたんまり貯金してあるの。子どもが10人生まれたとしても、子どもたちを全員お医者さんにするくらいの貯金はあるから!」
「10人って……」
「毎年ポコポコ産んだ所で、育てるのが大変よ。白雪家は放任主義。育児を親任せにできないもの」
「ハイリスク出産になる美月先生よりも、毎年コンスタントにポコポコ産める私の方がいいに決まっている」
子どもが10人ほしいから産んでくれと、お願いしていることを前提に話が進んでいるが……。
氷室は桔梗に子どもを産んでほしいと告げたことはなかった。
むしろ氷室はこのまま、子どもを産むことなく芸能人として輝き続けてほしいと考えている。
(桔梗の夢がお嫁さんなら……結婚したら子どもを産むのはイコールで結ばれているのかもしれないが……)
10人はない。
氷室は呆れながら2人に背を向け、夕飯を作り始めた。
「出産を何度も繰り返せば、老けるのが早くなるわよ」
「氷室先生との子どもを産む為なら、若さなど犠牲にしても構わない」
「あら、そう?あたしをおばさん扱いして、若さを売りにしているくせに……。自分があたしと同年代に見えるほど老け込むのは気にしないの?」
「老け込んでも、元々の美貌があれば美月先生なんかと比べ物にならないほどの美人妻になれるはず」
戦線離脱をした氷室は、冷蔵庫から野菜や予め炊飯した後小分けにし、冷凍しておいた冷凍ご飯を3つ取り出す。
フライパンで調理を始めている間も、美月と桔梗は言い争いを繰り広げている。
「それは桔梗ちゃんの願望でしょう」
「美月先生だって。なんでもいいから氷室先生にふさわしくないと、認めさせたいくせに」
油を敷いたフライパンが、水分を含んだ野菜を炒める間――パチパチと音を立てるように。
美月と桔梗も、火花を散らしている。
「私は氷室の彼女よ?」
「手紙で別れを告げたのだから、元、彼女のはず」
「氷室はまだ私と交際しているつもりよ。桔梗ちゃんも氷室の彼女だと名乗るなら、浮気相手は桔梗ちゃんで、本命は私」
「話を最後まで聞いて。美月先生が手紙で別れを告げなければ、私は手も足も出なかった。それは認めてあげてもいい」
「認めるも何も、事実でしょう」
氷室は不穏な女性陣の話し合いが自分に飛び火してこないことを祈った。
(関わりたくないな……)
美月と桔梗は氷室を奪い合っているのだが、気分はすっかり傍観者だ。
ある程度野菜に火が通ったことを確認して、氷室は冷凍ご飯をフライパンへ投げ込む。
「むぅ……」
桔梗は美月から言い逃れできない浮気相手と称され、不満そうだった。
決着がついたかと氷室は一瞬期待したが、桔梗はすぐに反撃を開始する。
「美月先生が氷室先生と交際中、行方不明になったりしたせいで、ややこしいことになっているの。美月先生が手紙で一方的に別れを告げた時点で、氷室先生はフリー」
「氷室も破局に納得していたのなら、そうね」
「氷室先生は破局に納得しなかった。美月先生と再会して、二人がこれから今まで通り恋人に戻れるかどうかは、これから二人が話し合って決めること」
「その決定に、桔梗ちゃんは文句を言う筋合いはないと。覚えておくとなお、いいかしら」
「──氷室先生は、美月先生を選ばない」
元を正せば、美月が手紙で氷室へ一方的に別れを告げたのが悪い。
あの手紙さえなければ、氷室は桔梗に揺らぐことなどなかった。
直接美月に言えたらいいのだが──
(何考えてるのか、さっぱりわかんねぇ)
氷室に手紙で別れを告げた美月は、氷室へ破局している認識だったと告げていたのに。
桔梗と顔を合わせた途端、美月は氷室の彼女であると胸を張って堂々と主張し始めたのだから、氷室が困惑するのも無理はない。
(俺との破局は問題なくとも、桔梗に取られるのは嫌なのか?)
誰だっておばさん呼ばわりしてくるような、生意気なメスガキに奪われて堪るかと、思うことはあるだろうが──美月は他人に執着しない。
1つしか存在しない品物を、複数人が同時に欲しいと手を上げた場合、喜んで相手に譲るのが空島美月だ。
自己犠牲の塊である彼女が、氷室を欲しいと告げた桔梗へ譲らないのは、おかしい。
桔梗へ氷室を譲りたくない理由でも、あるのだろうか……?
「それは一度、破局を了承していた場合よね。氷室は私と別れたつもりはないわ。それと──」
「それと、なに」
氷室がチャーハンを3人分皿に盛り付け、お盆に乗せてリビングのテーブルにレンゲを3本一緒に音を立て置いた時だった。
「氷室に宛てた、別れを告げる手紙。あれは無理矢理書かされたのよ。私を階段から突き落とした人間に」
美月の衝撃的な発言により――氷室は自分の選択を、強く後悔することになる。




