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両手に花

 氷室が美月とまだ交際しているつもりであると知った彼女は、どこで桔梗との件を聞いたのだろう。

 桔梗と氷室の関係性を「浮気」と称して批難した。

 氷室と美月の関係を白黒はっきりつける前に、美月と桔梗の2人で話すことが重要だと伝えらた氷室は、美月の尻に敷かれるのが板につきすぎているせいで、無条件で頷いてしまったことを酷く後悔している。


(大人になっても、美月に逆らえない状態はまずいだろ……)


 氷室にとって美月は、崇拝(すうはい)の対象であり、憧れで、道標だった。

 氷室がペットの犬ならば、美月は御主人様だ。

 桔梗に出会うまでは逆らおうとも思わなかったし、氷室にとって美月以外など女に見えなかった。

 けれど。

 美月が側にいない7年の間に……氷室は桔梗のお陰で、一人の男として真っ当な人生を取り戻しつつある。

 氷室の世界には美月しかいなかった。

 美月以外他の誰も存在しないのだから、美月が一番なのは明らかだ。

 美月が氷室の世界からいなくなると、桔梗を筆頭に那須宮、鈴瑚、吉更や神奈川焔華が顔を出す。

 知人から愛する人、家族――氷室の世界は少しだけ広がり、美月至上主義の世界や思考回路が変化しつつあった。


(この状況で、美月と桔梗を会わせていいのか……?)


 診察室に天門紗雪を一人残しておくのが心配だと氷室が告げれば、美月は()()()()と氷室の手を取る。


「紗雪ちゃんは深緑に任せればいいわ。いいわよね、深緑」

「お、お任せください……!」


 那須宮も美月には逆らえないのか、当然のように紗雪の面倒を泊まり込みで見ると告げ、氷室と美月の背中を見送る。


「おい、美月。那須宮に天門紗雪を任せるのはどうかと思うぞ。セキュリティ面は……」

「問題ないわ」

「女二人で、どうやって身を守るつもりだ」

「優秀なボディガードがいるのよ」

「ボディガード……?」


 美月は詳細を語らなかったが、車の中にまだ見ぬ謎のボディガードが同席しているのかもしれない。

 はっきり氷室へ紹介して来ないあたり、大っぴらに存在を公表できない人物なのだろう。

 氷室は美月にボディガードの件を深く問いかけることはせず、外灯に照らされた海沿いの道を美月と並んで歩く。


「波音がうるさいくらいね」

「……そうだな」

「どうして、沖縄だったの?」


 美月になぜ沖縄なのかと聞かれた氷室は、言葉を(にご)す。


(大した理由はない。強いて理由を話すなら、大先生が沖縄で開業医として小さな病院を経営していたことくらいか)


 氷室は海が近い病院が良かったわけではない。

 天門総合病院に務めていた院長を警察に突き出した以上、都内の病院で働くのが難しかっただけだ。

 危険分子と見なされた氷室が、まともな病院で働けるなど思っていない。

 そうして(つて)を辿り、辺境の地までやってきた。


「医者ならわかるだろ」

「医局に嫌われたら、どれほど優秀な医者でも出世は(おろ)か、医師として働くことすらも難しい」

「……俺も美月と一緒だ。まともな病院では働けなくなった」

「あたしの代わりに悪事を暴けと、何もかも放り出して行方を(くら)ましたせいね。それは悪いことをしたわ」

「悪いと思っているなら、その顔をどうにかしろ」

「ふふ。氷室は笑っているあたしのことが、好きだったことを思い出したのよ。これはサービス」


 一体どんなサービスだと、氷室は顔を(しか)める。

 美月はいつも余裕そうな態度を崩さない、大人の女性だった。

 7年近く離れていたのが嘘のように、肩の力を抜いて軽口を叩き合っている。

 氷室は難しい顔をしながら、胸元で腕を組んだ。


(おいおい、ちょっと待て。俺は桔梗が好きなはずだぞ)


 美月と話をしていて、()()()()()()()()がいることを知った氷室は、頭がどうにかなりそうだった。

 美月のことは、最初から愛してなどいない。

 そう桔梗に教え込まれたはずなのに。

 美月の包容力は氷室にとって心地のいいもので、彼女を前にすると一人で立っていることすら放棄して、みっともなく(すが)ってしまいそうになる。

 美月に対する裏切りと感じるか、桔梗にとっての裏切りと感じるかは、意見が別れそうだった。


(美月に別れを告げるなんて嫌だと、躊躇(ためら)ってる場合か。人並みの幸せを得るには、桔梗の思いを受け入れ、桔梗を愛するべきだろ)


 2つの思いが、心の中で交錯する。

 氷室は優柔不断な気持ちに答えを出すことは諦め、美月に合わせていた歩幅を、自分の歩きやすい歩幅に直し始める。

 美月に合わせているから、おかしくなるのだ。

 氷室は美月を先導するように、歩き出した。


「ふふ。あたしが氷室の後ろを歩くなんて。滅多になかったわよね」

「……初めてじゃないか」

「氷室はあたしについてくるのが、やっとだったもの」

「俺だって頼りがいのある男に……」

「なれないでしょ」

「……馬鹿にしたな。後で後悔させてやる」


 こうして氷室が軽口を叩き合える相手は、美月だけだった。

 氷室が心から信頼していた、唯一無二のパートナー。

 それが、空島美月だ。

 今となっては、美月が唯一無二とは考えられなくなってしまったが――


「氷室は頼りになる人を探していたのよね。いつの間に、頼りにしてもらえるような女を探し始めたのかしら」

「いつから、だろうな」

「7年近く経てば、変わるものね」


 呟いた美月は、昔を懐かしむように、潮風に(あお)られる長い髪を押さえつけた。

 氷室は美月の前では口にしなかったが、明確な時期は明らかだ。


(桔梗に出会い、アプローチを仕掛けられてから……徐々に気持ちが変化していた)


 あと1年早ければ、紗雪が銃撃被害に合わなければ、美月が行方不明にならなければ──氷室は美月と別れる選択を取ろうと思いもしなければ、桔梗を愛することはなかった。


(ボタンの掛け違い……その一言で済めばいいが)


 このまま行けば桔梗の作戦勝ちだが、美月が桔梗に会わせろと粘るなら、そう簡単に話が終わるわけもないだろう。

 あと数分もすれば、目の前で修羅場が繰り広げられる。

 1Kに男女3人集まって、痴情(ちじょう)(もつ)れについて話し合うことになるとは、氷室も想像していない。


(隣近所に聞こえるような声で大騒ぎだけはしないでくれよ……)


 祈りを込めた氷室は、ついに自室の鍵と扉を開け放つ。


「お帰りなさい!氷室先生!」


 紫を貴重とした、桔梗の花弁が右下にデカデカと刺繍の施された見覚えのないエプロンをつけた桔梗が、何故か大根を一本片手に出迎えてくる。

 この時点で桔梗は、氷室のすぐ後ろにいる美月の存在に気づいていなかった。

 その後氷室を押しのけて美月が玄関の中に入ってきたことにより、桔梗にも美月の姿がはっきりと知覚できるようになってしまったらしい。


「あら。新婚気取り?」


 マウントとも取れるその言葉を受けた桔梗は、受けて立つとばかりに大根を剣に見立て、美月へ突きつけた。


「気取り、ではなくて、新婚!私はこれから氷室先生と夫婦になるの!」

「おい、桔梗……」

「さーちゃんは!?」

「紗雪ちゃんなら、一命は取り留めたわよ」

「むぅ。美月先生には聞いていないもの!」


 美月先生は黙っていて、と。

 今すぐに大騒ぎしそうな勢いで叫ぶ桔梗を氷室が(たしな)めれば、靴を履いたままの氷室に勢いよく桔梗が胸へ飛び込んでくる。

 背後に美月がいなければ、微笑ましい光景だが……。

 今は生きた心地がしなかった。


「私の前で氷室に抱きつくなど……いい度胸ね」

「おばさんになど負けないから!」

「ふふっ。そう……お姉さんではなく、おばさん……なら、氷室もおじさんの年になるわよ」

「もうすぐ33歳の氷室先生は、まだお兄さん!」

「2歳差ならまだお姉さんの範疇よ。ねぇ、氷室?」


 美月は桔梗から()()()()と呼ばれるのを避けたいようで、氷室の胸元へ抱きつく桔梗に対抗したのだろう。

 氷室の背中にピトリと自らの胸を押し当てた美月と、氷室の胸元に真正面から飛び込んで抱きしめる桔梗に挟まれてしまった。

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