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欲望に負けた男

「……占い、信じる方だろ」

「私の両親が占い師の言葉を真に受けて、私ときーちゃんを天使と悪魔に見立てて家庭が崩壊した話。氷室先生だって知っているでしょ。信じるわけがない。占いなんて、都合のいい作り話」


 運命の赤い糸も大概都合のいい作り話にしか思えないが──


(占いは未来予知や願望。運命の赤い糸は恋愛成就のお守りみたいなもんと考えれば……全く別のものなのか……?)


 この話を深掘りすれば、桔梗の顔がどんどん険しくなって行くだろう。


「……悪かった。占いにハマるとろくなことがないことを知っていればわかるだろうが……のめり込むなよ」

「うん。あのね、本当は……わかっているの。赤い糸だって、眉唾話だと……」


 桔梗はテーブルの上へ突っ伏すと、赤い糸を人差し指で弾いて語り出す。


「眉唾話でもいいから、運命の赤い糸にでも縋らないと。美月先生から氷室先生を奪うのは難しい」


 赤い紐を取り出すのと同時に、ショルダーバッグから持ち運べるハサミをカーディガンのポケットに入れていた桔梗は、無表情で互いの小指に結ばれていた赤い紐の中央を目掛けてハサミを動かした。


 チョキン、と。


 音を立てはらりと落ちていく赤い紐を見つめた桔梗は、切れた紐が括り付けられた人差し指をくるくると回して氷室に見せびらかしている。


「氷室先生は一途だから……。私の方が若くて魅力的だとしても。浮気を持ち掛けてた所で、頷いてくれるはずがない……」


 美月から奪い取る為には、氷室へ気持ちを伝える必要があった。

 6年前、桔梗は14歳。

 一目惚れで好きになったのだと告白した所で、氷室は桔梗の思いを真に受けることはしなかっただろう。

 浮気を持ち掛けられたからこそ、氷室は桔梗に興味を示した。

 桔梗が自らの意思で赤い紐を切断したから、氷室のことを諦めるわけではない。


「美月先生と交際する前に、出会いたかった……」


 美月と交際する前ならば、氷室はまだ大学生だ。

 氷室が大学1年生の時、桔梗はまだ7歳。

 小学生になったばかりの少女が、大学生の氷室を好きになった所で。

 二人が結ばれるのは大人になった今よりも難しい。

 どちらにせよ、氷室は美月と一度交際する必要があったのだろう。


(当時桔梗と出会っていた所で、俺に恋をするとは到底思えない)


 美月と交際しない世界線を生きる氷室と、今の白雪氷室は考え方からして違うのだから。

 これで良かったのだ。

 氷室は心の中で結論づけると、ハサミによって切断された赤い紐を手に取った。


「運命の赤い糸は、何度でも結び直せる」


 切断された赤い糸を繋ぎ直そうと結んでも、長続きしない。

 説明を聞いていなかったのかと顔を上げた桔梗が氷室の様子を窺っているうちに、氷室はお互いの薬指に結び付けられ、中央で切断された赤い紐を解けないように固く結びなおす。

 切断された二本の赤い紐が、一本の赤い紐に戻る。

 薬指を引いて桔梗の薬指と繋がる一本の紐が解けないことを確認した氷室は、紐が一本の紐に戻ったと桔梗が気づくまで、薬指を何度も引き続けていた。


「氷室先生は、美月先生ではなく……私と運命の赤い糸を結びたいの……?」


 氷室は薬指に赤い紐が括り付けられていない反対側の手で缶ビールを取ると、半分ほど残っていた液体を身体へ流し込んでいく。

 シュワシュワとした発泡酒独特の感触を感じた氷室は、今まで絶対に口から飛び出すことのなかった言葉を、酒の力を借りて声に出す。


「そうだ」


 たった三文字を口に出すことは、美月に対しての裏切りにほかならない。

 美月と正式に言葉を交わし、話し合ってから桔梗へ答えを出すと決めていた数ヶ月前の自分を裏切ってでも酒の力を借りて声に出したのは、知人以上友人以下の状況では、泣いている桔梗を慰めるのに手を握るのがやっとであると気づいてしまったからだった。

 桔梗はスキンシップが激しく、氷室との関係が恋人でなくても関係なくボディタッチに忙しいが──大人になってから20年近く経った氷室は、自分の正直な気持ちを胸に秘め続けているのが耐えられなかったのだ。


 曖昧な関係では、泣いている桔梗を慰めてやれない。

 けれど素直に桔梗への好意を認めれば、晴れて二人は両思い。

 抱き合っても、おかしなことはないだろう。


「俺は欲望に負けたんだよ」


 普段仕事着として羽織っている白衣を着るだけなら、まだ耐えられた。

 だが……職場である診療所にやってきて、ベッドの上で泣く桔梗を見た時──心の底から、桔梗を守ってやりたいと思ってしまったのだ。

 美月の件があると自分を律し、手を握るまでに留めたが──本当は、抱きしめてやりたかった。桔梗が美月と復縁するのではないかと泣くなら、早く安心させてやりたかったのだ。


「氷室先生……。私のこと、好き……?」


 好きだと認めて、俺のものだと見せびらかせればどんなにいいことか。

 喉まで出かかっている言葉は、酒の力を借りてもそこから先へ進むことはない。

 美月と正式に破局するまで、桔梗の気持ちに答えられないと一度告白を断っている以上、はっきりと好きだと気持ちを吐露することはできなかった。


「俺が今言えるのは、お前に好意を持っていることまでだ。それ以上は言えない」

「美月先生との決着が、ついていないから……?」


 桔梗は泣きそうな顔で氷室を見つめた。

 そうだと言うのは簡単だが、このままでは桔梗が泣いてしまう。

 氷室は桔梗を泣かせたいわけではないのだが……桔梗ははっきりと愛の言葉を紡げる状況ではなかった氷室は、桔梗を慰める術を持ち合わせてはいなかった。


「美月が天門紗雪を連れて診療所に顔を出すなら、そこで決着をつける。だから泣くな」

「氷室先生……慰め方が、浮気相手に優しい言葉を掛けて、キープするクズ男みたい……」


 氷室がその気になれば、すぐこれだ。

 こうなるのが嫌だったから、氷室は桔梗を嫌いだと思い込んでいた。

 潤んだ瞳から、涙が流れることがなくホッとしたのもつかの間。その視線はすぐに疑いの眼差しへと変わっていく。


「怪しい……。氷室先生、4股しているの……?」

「今の言葉、取り消してやってもいいんだぞ」

「それは駄目。一度口から出た言葉は戻せないはずよ。私はしっかりこの耳で聞いた。氷室先生は、私のことが好き。運命の赤い糸は、氷室先生の薬指に結ばれていると」


 薬指に括り付けられた赤い紐を見つめた桔梗は、今にも踊りだしそうなほどご機嫌な様子で微笑んでいる。


(俺はまだ桔梗のことが好きだとは一言も言ってはいないが……)


 好意を持っていると告げた時点で、好きだと告白しているようなものだ。

 曖昧な関係がはっきりするわけではない。

 桔梗と氷室は、まだ知人以上友達未満だ。

 桔梗はそれでも構わないのだろう。

 重要なのは、彼氏彼女の関係になれなくとも、氷室が桔梗に好意を抱いている。

 その一点だけなのだから。


(今すぐには無理でもいずれ俺と婚姻できたらそれでいいと考える桔梗のポジティブな思考回路は、見習うべきだな……)


 好きな女が嬉しそうにしていれば、自然と氷のように冷たく、表情筋が悪い感情の方にしか動かない氷室も笑顔になる。


「……氷室先生っ!もう一回!笑って!」


 氷室が自然に笑う姿を見た桔梗は面食らい、反応が遅れてしまった。


「頼まれたって笑わない」


 いつもと変わらぬ不機嫌そうな顔に戻ってしまった氷室の胸へ縋り付いては、騒ぐ桔梗を抱きしめてやりながら、氷室はしばらく笑顔を封印すると決めた。

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