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桔梗に与えた、最後の逃げ道

「氷室先生が私に伝えたかった、残酷な真実ってなに?」


 業務終了後。

 共に帰宅した桔梗は、夜食を終え落ち着いた頃になり、氷室へと問いかけてきた。

 氷室はこのまま有耶無耶になることを望んでいたが、氷室の見せた隙を見逃すほど、桔梗の目は節穴ではない。


(桔梗への思いを墓まで持っていくつもりならば、軽率な言葉を紡ぐべきではなかった)


 氷室は何度目かにもなる後悔を胸に抱きながら、静かに立ち上がる。


「氷室先生?」


 不思議そうな桔梗が氷室の背中を見守る中。

 氷室は冷蔵庫から缶ビールと麦茶を取り出し、リビングに戻ってきた。


「美月が来る前に、腹を割って話がしたい」


 テーブルの上には缶ビールが2本とグラスが2つ置かれている。

 麦茶のペットボトルは1本だけ置かれた状態で、桔梗がどちらを選択しても問題ないよう配慮がなされていた。


「むう。美月先生に浮気を疑われたくないから、今すぐ出ていけと私を追い出すのはなしにして」

「追い出すようなことはしない」

「私の顔を2度と見たくないと告げるのもなし」

「ああ」

「あとは……」


 桔梗は理由をつけて、氷室が腹を割って話そうとするのを邪魔したいのだろうか。

 様々なケチをつけてくる桔梗の話をいちいち鵜呑(うの)みにできないと考えたのだろう。

 どちらにせよ、素面では話せない内容の話をするのだ。

 氷室はビールのプルタブを勢いよく開けると口へ含み、本題へと入った。


「桔梗の前では否応(いやおう)にも、大人であろうとする」

「氷室先生と私は大人よ。18歳を迎えれば、誰だって子どもでいたいと願っても……子どものままではいられない」

「俺が桔梗の前で大人としての振る舞うのは、よく見られたいからだ。それは桔梗も同じだな」


 氷室がアルコールの力を借りて、桔梗の瞳をまっすぐ見つめれば。

 彼女は氷室の指摘が嬉しくてたまらないようだ。

 桔梗は麦茶が入ったペットボトルの蓋を捻り、コップに注ぐ。

 鼻歌でも歌い出しそうなほどの明るい声を出すと、グラスの中で揺れる麦茶を眺めながら問いかけに答えた。


「私は氷室先生の瞳に映りたかった。私がありのままの自分を曝け出した所で、氷室先生は私を好きになってはくれないでしょ。作戦は大成功。私の勝ち」


 氷室は桔梗と勝ち負けを決めるためにこの話を話題に出したわけではない。

 だが……氷室が桔梗を好きになるかならないかの勝負ならば、この時点で氷室の負けは確定している。


 ずっと認めたくなかった。


 面と向かって告白されても、受け入れる勇気がなくて。

 間接的に美月へ判断を委ねたのだ。

 一度は美月と連絡が取れたことをきっかけに、桔梗との縁を断ち切ったつもりでいた氷室は、ついに覚悟を決めた。

 これから恐ろしい修羅場が待ち受けようとも。

 氷室は――


「桔梗の好きになった俺は、美月の面影を求め、美月のようになろうとした白雪氷室だ」

「違うよ。私は白雪氷室が好きなの。美月先生は関係ない」

「……俺にとって美月は、俺を形成するすべてだった。関係ないはずはないだろ。いいか、桔梗」


 腹を割って話すと決めた氷室は、缶ビールをテーブルの上に一度置いてから重苦しい口を開く。


「戻るなら、今だぞ」


 お互いに傷つくことなく、関係を終える最後のチャンス。

 言い換えればこれは、一回りも年の離れた男と縁を断ち切る、桔梗にとって最後のチャンスなのだ。

 氷室との縁をより強固にしたがっている桔梗には、氷室が用意した逃げ道など、見向きもしないだろうが……。

 後で悪い大人に騙されたと悪者にされてはたまらない。

 桔梗の為に逃げ道を用意してやった氷室の眼差しは、真剣そのものだ。

 氷室は本気で桔梗を心配し、そして自分を守るために、桔梗を諭そうとしている。


(戻るならば今だと言われて、俺への思いを捨てるような人間ならば……俺に浮気を持ちかけたりしなかったはずだ)


 桔梗が今この場で、氷室の思いを捨て去ると宣言するなどありえないとわかっていても。

 氷室が一つの区切りをつけるために、この問いかけは必要なのだ。

 自分本位で、自己中心的で、誰も彼もが惚れるような。

 氷室は魅力的で、立派な大人ではない。

 気づいてほしい、気づかないでほしいと考える気持ちを胸の奥底へ押しやりながら、氷室は静かに桔梗に選ぶべき答えを提案し続ける。


「……私、氷室先生と美月先生の幸せを願って、身を引く女だと思われているの……?」

「俺は人を傷つける言葉を平気で言う男だ。桔梗の想像する人間とは程遠い存在。それが白雪氷室なんだよ。幻滅する前に、俺を好きになるのをやめるのは今しかない」

「……氷室先生は、私に幻滅されたくないの?」


 なぜなにどうして、と。

 桔梗は小さな子どものように氷室へ問いかけてくるので、たちが悪い。

 氷室が理由を口にしたくない言葉を無視しようとすれば、傷口を抉るように剛速球(ごうそっきゅう)が投げられる。


「いちいち説明しなくたってわかるだろ」

「私は氷室先生の口から聞きたいの」


 一度は桔梗に察しろと諭したが、さすがに二度目は通じないだろう。

 氷室はできれば自分の口から認めたくはなかったが、ため息を一つ溢すと、仕方なく桔梗が望む言葉を口にした。


「桔梗が傷つけば、悲しむやつがいるだろ。俺とは違って、桔梗はたくさんの人から愛されている。弟、神奈川焔華、ファン、天門紗雪……」

「氷室先生のことが大好きなのは私だけで、私のことを愛してくれるのも氷室先生だけならよかったのに」

「……お前を愛してくれる奴らに面と向かって言うなよ。何を吹き込んだのかと怒られるのは俺だからな。勘弁してくれ」


 桔梗にとっての一番は、氷室なのだろう。

 桔梗を愛する人々のことを、彼女が嫌っているわけではない。

 桔梗にとって弟の吉更は半身であり、神奈川焔華は氷室に横恋慕する桔梗を応援している。紗雪とは友人だ。

 大切の中で、氷室がトップに君臨するだけ。


「俺と桔梗は住む世界が違う。芸能人と一般人、大人と子どもほど離れている年の差。俺たちが手を取り合い歩いていく未来など存在してはいけない」

「……それは世間が勝手に決めつけたルールだよ。私達が幸せなら、誰に文句を言われる筋合いなどない。私は氷室先生としか幸せになれないの。氷室先生だって、私としか幸せになれない。運命の赤い糸で結ばれているから」


 氷室の小指に結ばれた運命の赤い糸は、美月に繋がっていると信じていた。

 氷室にとって、美月が最愛の時間が長すぎたのだ。

 天門総合病院で働くようになった氷室は、愛知桔梗と出会い──自分の薬指に見慣れぬ赤い糸が結ばれていることに気づく。

 美月の薬指に繋がっていたはずの赤い糸は、別れを告げる時に千切れてしまった。

 氷室の薬指に絡みついた運命の赤い糸は、桔梗に繋がる一本だけしか残されていない。


「俺の薬指へ、強引に赤い糸を結びつけたんだろ」

「運命の赤い糸は、上書きできないから運命なのよ」

「……桔梗と出会わなければ、俺は美月と運命の赤い糸で結ばれていると信じて疑わなかった……」


 薬指だけを立て、じっと見つめた氷室の姿を見た桔梗は、素早い動きでハンドバッグを弄り、赤い紐を取り出した。

 いつでもこの話題を氷室と話せるように、わざわざ用意していたらしい。

 桔梗は一纏めにしていた紐を解けば、橋と端を手繰り寄せて双方の紐を薬指へ結びつけた。


「見て、氷室先生。運命の赤い糸よ」

「運命の赤い糸を可視化してどうする……」


 桔梗はお互いの薬指へ結ばれた運命の赤い糸を嬉しそうに見つめては、ピンと張る紐を人差し指で突き弄んでいた。


「氷室先生は、美月先生との赤い糸を切断しているから、もう2度と美月先生と結ばれることはない」

「結び直そうと思えば、一本の紐に戻せないこともないだろ」

「そうかもしれないけど、一度切れた紐を手繰り寄せて一本に戻しても、すぐに結び目から解けてうまく行かないの。氷室先生の赤い糸は、私と結ばれている。このままお付き合いすれば、私達は幸せになるのよ」


 桔梗は離婚した夫婦を例に例えて力説した。

 離婚した夫婦が再婚してもうまくいくはずがない。

 それは運命の赤い糸がすでに千切れてしまっているからと氷室に熱く語る桔梗は、思い込みが激しいタイプなのかもしれなかった。

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