氷室の大切が、上書きされた瞬間
「し、白雪先生!だ、大丈夫でしたか……?」
「問題ない」
「着いていてあげた方がいいんじゃ……?」
「患者が待っているんだぞ。休診にするのか」
「そ、それは……」
那須宮だけでどうにか対応可能な患者だけならいいが、そんな患者の方が稀だ。
隠居している大先生をわざわざ呼び出してまで、桔梗の側にいる必要などないと判断した氷室は、冷静に普段通りの診療を行う。
「し、心配ではないのですか……?」
「……心配だと口にした所で、俺があいつにできることはない」
「で、できることはあります!い、え。むしろ、白雪先生にしかできないような……?」
那須宮は氷室が側にいるだけで桔梗は元気になると力説したが、そんなことは氷室だって考えなくてもわかっている。
氷室は医者で、桔梗は氷室の患者ではない。
身体が傷ついているならともかく、精神的な面で体調を崩しているのならば、内科医として眠っている桔梗にしてやれることはなかった。
「生死をさ迷う程の重症なら、最後まで面倒を見てやってもいいが……」
「ええっ!?そ、それは洒落にならないですけど……な、なにか……わ、悪いものでも……食べました……?」
那須宮が告げた洒落にならないとは、生死をさ迷うほどの重症と告げた言葉に掛かっているのだろう。
桔梗がこの会話を聞いていれば、自ら進んで生死をさ迷う危機に飛び込んでいきかねない。
氷室は那須宮に指摘されることによって自身の軽率さに気づいたが、那須宮に心配されるほどの変化とは思わなかった。
「悪いものを口にする暇などなかったはずだが」
「そ、そうです……けど……。し、白雪先生は……。あの子が生死をさ迷うことになったら、見捨てそうな勢いだったじゃないですか……!」
「見捨てた方がいいなら、喜んで見捨ててやるが」
「こ、困ります!わ、わたしが見捨てるべきだと白雪先生にお願いしたわけではありませんから……っ!」
那須宮は過去に、桔梗を冷たくあしらっていた氷室に対して可哀想だと庇うこともあったほどだ。
氷室の態度に驚いているのは確かだが、桔梗に冷たく当たる氷室よりも、桔梗に優しくする氷室の方が好ましいのだろう。
(桔梗に睨まれるのを、避けたいだけかもしれないが……)
氷室は那須宮と軽口を叩き合いながら、患者に長時間待たせてしまったことを詫び、どうにか午前の診療を終えた。
「し、白雪先生!待っていますよ……!」
那須宮は患者が診察室から出てすぐに、氷室に休憩室へ向かうようにせっついた。
桔梗の名を出せば、ドアの外で会計を待つ患者が驚きかねない。
那須宮が気を使ってくれていることに気づいた氷室は、後で彼女を労るべく、甘いものでも買ってやろうと決めて椅子から立ち上がる。
(寝ていればいいんだが……)
昼休憩の1時間を桔梗の寝顔を見ながら取るなど──嫌で嫌で堪らなかった気持ちは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。氷室は桔梗の寝顔を見るのが楽しみだった。
寝顔などいつでも見れると思いきや、氷室が目を覚ました時にはすでに桔梗が目を覚ましていることがほとんどだ。
桔梗の寝顔を氷室がじっと見つめる機会は、数えるほどしかなかった。
(寝顔など見て、何が楽しいのかと疑問で仕方なかったが──)
愛する人の寝顔ほど、愛おしいと感じる姿はないことに気づいてしまったのだ。
氷室を見つめる愛知桔梗は、テレビの中で光り輝く愛知桔梗とは違う。
最年少で国民的アイドルグループの新メンバーとして加入し、神奈川焔華に愛されて育った影響が大きいのだろう。
テレビの中で光り輝く愛知桔梗は、Imitation Queenを脱退してからもドラマを通じて大御所俳優に気に入られ、娘や妹のように愛される。
そうした姿が愛知桔梗の嘘偽りない姿であると認識しているファンは、桔梗がロック調の曲を歌唱していたり浮気をテーマにしたドラマに出演すると、驚きの声を上げるのだろう。
(俺の前にいる愛知桔梗は、本当にあの愛知桔梗なのか……)
氷室はずっと疑問に思っていた。
桔梗は氷室の前だけでは、必死に大人へなろうとしている。
背伸びをしているのだ。
芸能人としての愛知桔梗は妹キャラで、娘として愛されている。
子ども扱いされることだって受け入れ、気にした様子もなくにこにこ笑顔で笑っていた。
『氷室先生。子ども扱いしないで』
氷室の前で、桔梗は子ども扱いされることを嫌う。
『私はもう大人よ』
露出の激しい派手な服を着て誘惑を試みては、同じ布団に入り込み、無断で唇を奪った。
(本当に大人なら、人前で泣いたりしないだろ……)
桔梗はまだ、大人の階段を登り始めたばかりだ。
今すぐに大人として立ち振る舞えと命令した所で、自分の感情をコントロールするのは難しいだろう。
(精神的に成熟した女の方が、後腐れなくていいと思っていたはずなんだが……)
精神的に未熟な女だから、守りたいと思い始めているのか。
愛知桔梗だからこそ惹かれるのかは――答えが出ていなかった。
(見て見ぬふりをしているだけだろ)
氷室は自分の心に問いかけると、休憩室へと足を踏み入れる──桔梗は、ベッドの上で瞳を閉じていた。
思惑通り桔梗が眠っていることを確認した氷室は、音を立てぬように扉を閉めると、ベッドの横に置かれた丸椅子に腰を下ろして眠る桔梗の姿を見下した。
(寝ていれば、無害なんだが……)
6年前は、どんなに浮気を持ちかけられた所で、桔梗が魅力的な女であることに気づけなかった。けれど今なら、氷室は心の中だけなら胸を張って言える。
(愛知桔梗は、魅力的な女だ)
生まれた年代が少しでも氷室に近ければ、彼女の誘惑に負けて関係を結ぶこともあっただろう。
(魅力的な女だからこそ……)
氷室は、桔梗に手が出せなかった。
大人になれば年の差は関係ない、自分たちの幸せを追い求めるならば仕方ないと納得した所で、桔梗は芸能人だ。
氷室から桔梗を唆し、手籠めにしたことが詳らかになれば、ファンは嘆き悲しみ、報道された瞬間にアンチへと変貌を遂げかねない。
桔梗を応援していたファンが、アンチに変わればどうなるか。
桔梗は心無い言葉を投げ掛けられ、芸能界を追われてしまうだろう。
(桔梗には墓まで持っていかなければならない秘密が多すぎる)
弟とアイドル時代入れ代わっていたこと、天門総合病院の生体ドナーとなり、ゆくゆくは口封じのため殺害される運命であったこと。
氷室のことを愛していることや、美月と言う恋人がいることを知りながら略奪愛……自然消滅の状況に近い氷室に当てはまるかは微妙な所ではあるが──浮気を試みていること。
天門紗雪と交流があることまで──人には言えない秘密を抱えた桔梗と共に歩むのは、簡単なことではない。
(誰も傷つけることなく、桔梗と未来を歩むのは……無理だろ……)
7年近い時間離れていた美月と、「離れていた時間は関係ない」とばかりに双方納得し、予定通り婚姻を結ぶよりも難しいだろう。
自分の幸せを選び取る為ならば、誰が傷つこうが不幸になろうとも構わない。
桔梗は大切な人間さえ傷つくことがなければ、自分中心に物事を考える。
氷室だって本質は、自分中心の自己中野郎だ。
自分さえ良ければ、どうでもいい。
他には何もいらないと切り捨てた結果、氷室に大切なものなど存在しなかった。
『氷室』
美月の氷室を呼ぶ声が。
『氷室先生』
桔梗に変化したのは、いつからだろうか。
考えたくもないほど昔のようにも思えるし、思い出す必要もないほどに最近な気がする。
(……早く、元気出せよ)
桔梗が泣いている姿は、心臓に悪い。
寝ている桔梗を起こすのは悪いと、口に出すことなく心の中で桔梗に告げた氷室は、自らの意思で桔梗を元気づけるために手を握った。
「……っ!」
──得られるはずのない手のぬくもりを感じた桔梗は、ぱっと目を開くと声にならない悲鳴を上げ、怯えている。
「落ち着け。俺だ」
「……あ……」
手を握る人物が誰であるかに気づいた桔梗は、手を離そうとした氷室の手が離れぬように強く握り締めると、先程までの怯えた表情はどこへ置いて来たのだろう。
迷子の子どものような表情で、氷室に助けを求めた。
「たすけて、氷室先生」
助けてと言われても。
何から助けてほしいのかが分からなければ、対処のしようがない。
「……俺にどうしてほしい」
してほしいことを聞いた氷室は、握り締めた手の抜くもりを感じながら、呆然と桔梗を見つめていた。




