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桔梗の涙と肯定できない告白

 待合室の方から、大音量の天国と地獄が絶え間なく流れている。診療をしながら不機嫌そうにその音を聞き、患者の対応に当たっていた氷室が、那須宮へ指示を出して確認に行かせてから暫く経った後。


「し、白雪先生……!た、大変です……!」


 血相を変えて診察室に入ってきた那須宮は、氷室の耳元で思ってもみない言葉を囁いた。


「き、桔梗ちゃんが……!待合室で倒れています……!」


 那須宮の言葉だけでは、状況が飲み込めない。

 氷室は思わず椅子から立ち上がり、待合室に急いだ。

 氷室が待合室に顔を出せば。桔梗はちょうど、身体を起き上がらせようと必死になっている所だった。

 息が上がっており、顔色はかなり悪い。

 氷室は桔梗を抱き抱えると、彼女を休憩所に運ぶことにした。


(俺が桔梗を横抱きにすることになるとは……)


 6年前の氷室に告げた所で、信じるわけがないだろう。

 美月へ恋心を抱いていると勘違いしていた氷室ならば、たとえどんなに桔梗の具合が悪くとも、おんぶ程度に留めたはずだ。

 表情にこそださないが、当然のように桔梗を横抱きにして休憩室まで運ぼうとしている自分がいることを、信じられない気持ちでいた。


「何があった」


 桔梗のぬくもりを感じながら、氷室は「天国と地獄」の着信音を流し続けるスマートフォンが床に落ちていることに気付く。

 スマートフォンの持ち主が桔梗であることを知っている氷室は、無断で手に取ると耳に当てる直前、画面を確認した。

 画面には「きーちゃん」から着信中であると表示されている。

 すぐに電話を掛けてきた相手が吉更であると認識した氷室は、当然のように電話に応対すると、静かに問いかけた。


『……仕事は?どうしたんだよ』

「仕事中に診療所へ飛び込んできて、休憩室で倒れた。持病はないはずだろ」

『……あー。俺から言ったら、桔梗は怒る。あんたと桔梗が、無事ならいいや』


 氷室と桔梗が無事ならいいと吉更は自己完結したらしい。


『詳しいことは桔梗に聞け』


 氷室へ告げてから、彼は一方的に通話を終えてしまう。桔梗を横抱きにして、歩きながらスマートフォンを肩で支えて通話をしていた氷室が休憩室に連れ込むのと、吉更と通話を終えるのはほぼ同時だった。

 休憩室に備え付けられたベッドの上に、桔梗を下ろしてやれば──氷室はベッドの縁に腰掛けた桔梗が、静かに涙を流していることに気づく。


「泣くほど辛いことでもあったのか」

「ひ、むろ……っ、せんせぇ……っ」


 氷室が彼女を責めるように問いかければ、桔梗は堪えきれずに声を上げて大泣きし始めた。

 何が何だかわからない氷室が困惑していると、桔梗は身体を離そうとした氷室の首元に両手をしっかりと回し、顔を埋めて抱きつく腕の力を強める。


(何が起きている……)


 桔梗が泣いている所を見るのは、はじめてではない。

 桔梗と吉更が入れ替わり、天門総合病院の元院長に手術室へ連れ込まれ、合意なく移植手術が行われそうになったのを氷室が未然に防いだ際、桔梗は吉更が無事だと聞いて涙を流していたはずだ。


(吉更とは、電話で話をした。会話はしっかりと成立していたし、録音ではない)

 

 桔梗がどうして大泣きしているのか、どんな言葉を掛けてやれば落ち着くのかすらも、見当がつかない。

 具合が悪いならば原因を突き止め、病気を治療してやるのが医者としての勤めだが、吉更が理由を話すことを嫌がっている辺り、泣いている理由は精神面なのだろう。

 氷室は大雑把に答えを導き出し、桔梗へ囁く。


「落ち着くまで寝ていろ。診療時間が終われば、相手をしてやれる」


 口調こそぶっきらぼうではあるが、その声音は6年前には考えられないほど穏やかだった。


 (理由すらよく分からぬままに涙を流す桔梗に、付き合ってやるほど暇ではない)


 桔梗を嫌っていた6年前の氷室であれば。

 泣いていようが怪我をしていようが、氷室の気を引くための演技だろうと付け入る隙も与えず、桔梗に手を差し伸べることなどしなかったはずだ。


(泣いている桔梗が魅力的に感じているなど……本人に面と向かって伝えようものなら、大変なことになるぞ)


 悲しみに暮れ美しい涙を流す桔梗が、氷室の普段とは異なる点に気付いたら。

 泣いていたのが嘘のようにケロッと笑顔になって、誘惑してくるのではないかと内心怯えている。


 ――自分でも。

 桔梗に対する態度が、6年前に比べると軟化した自覚はあった。

 那須宮が抱き合う二人の一部始終を目にしていれば、氷室のことを信じられないものを見る目で見つめていたことだろう。

 恋人に向けるような優しい声音を、桔梗に向けるなど。

 今まで氷室が見せていた態度からは、想像もつかないはずだから。

 普段の氷のように冷たく低い声で唸ることはなく、桔梗を泣き止ませるために優しく語りかけようとするその声は、普段の氷室を知る人物であれば信じられないと感想を抱くのは無理もない。

 氷室は徐々に、桔梗への思いを隠しきれずに態度へ表し始めていた。


「氷室先生……。美月先生よりも……私のこと、すき……?」


 愛知桔梗が白雪氷室に頼ったならば、彼女が氷室に掛けて欲しい言葉など一つしかない。

 桔梗は氷室の胸元から顔を上げると、氷室が今すぐには紡げない言葉を強請った。

 桔梗の瞳からは、はらはらと静かに涙が零れ落ちている。

 桔梗をじっと心配そうに見つめていた氷室は、我に返った。


(美月の件が片付くまでは、桔梗の気持ちに答えるわけにはいかないと。告白を、断ったばかりだろ……)


 舌の根も乾かぬうちに、素直な気持ちを打ち明けるわけにはいかなかった。

 たとえ心の奥底では、すでに桔梗がなくてはならない存在であると自覚していたとしても。

 美月の件が有耶無耶(うやむや)になっているままでは、素直な気持ちを桔梗へ告げるわけにはいかなかったのだ。

 氷室は数十秒ほど固まってから、重苦しい口を開く。


「そう遠くないうちに、その答えは改める。今は時間がない。許してくれないか」


 真正面から真剣な眼差しで見つめ、氷室らしからぬ言葉を紡がれたなら、流石の桔梗も否定できないのだろう。

 彼女は小さく頷くと、氷室の首筋から両手を離し、背中からベッドへと倒れ込んだ。


「……氷室先生が、手の早い男の人だったらよかったのに……」

「タダでは済まない方がよかったなど、誰が聞いているかわからない場所で言うな。襲われるぞ」

「……いつもの氷室先生なら、それが嫌ならば手が早い他の男を好きになれと言うでしょ……」

「気の所為だ」


 桔梗を心配するような言葉を紡いだのは失敗だった。

 氷室が自らの過ちに気づいた所で、一度口から飛び出た言葉が元に戻ることはない。

 ベッドに倒れ込んだ桔梗は、泣きつかれたのだろう。

 何もかもを諦めたような表情で、ゆっくりと瞳を閉じた桔梗の姿を確認した氷室は、彼女を放置して診療室へと戻った。

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