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水曜日:イヤリングから聞こえる銃声(桔梗)

(ずっとずっと、憎くて堪らなかった)


 氷室の自宅に初めて足を踏み入れた際、クローゼットの上に置かれた写真立ての中に美月と氷室のツーショット写真を見つけた時から。

 桔梗はずっと、その写真を氷室の目が届かない場所に捨て去ってしまいたくて堪らなかった。

 氷室にわかるよう、写真が視界に入るたびに睨みつけてやったからだろうか。

 一度東京に戻り、半年後に再び桔梗が氷室の部屋に姿を見せると、クローゼットの上に飾られた美月と氷室のツーショット写真は、写真が見えないように伏せて置かれていた。


(氷室先生の中で、美月先生はもう。最優先しなければならない存在ではない……)


 ことあるごとに、未練がましく。

 繋がるはずのない美月の連絡先へ電話を掛け続けていた氷室は、彼女に頼らなくなっているようだ。


(美月先生と連絡が取れたから)


 氷室は美月の声を聞いてから、桔梗を目の敵にするようなことはなかった。

 桔梗にとってはうれしい変化だが、手放しに喜べるかどうかはまた別の問題だ。

 美月が姿を見せれば、氷室が美月へ愛情を抱いていることに気づいてしまう可能性があることを、桔梗は恐れていた。


(氷室先生が美月先生に抱く思いは憧れ。恋ではないと突き付け、洗脳することは簡単だった。でも……)


 美月が桔梗と同じ熱量で。

 狂おしいほどに氷室を求めるのならば──桔梗に勝ち目はないだろう。

 桔梗は必死に自分が魅力的な存在に見えるよう計算して行動しているが、美月はおそらくありのままの自分を曝け出すことにより、氷室からの憧れを勝ち取ったのだ。

 勝てるわけがない。


(天然と養殖の魚がいるとして)


 どちらがより希少価値の高いものであるかと言えば、当然天然の方が希少価値は高いだろう。


(美月先生は、氷室先生のどこが好きだったのか……)


 桔梗は6年以上前、美月の口から何度か氷室の話を聞いたことがあった。


『私の彼氏は……そうね。冷たいようでいて、熱い男だったわ』

『冷たいようで熱い男?どんな人だったの?』

『ガス欠を起こした車、かしら』


 美月は氷室の話をするとき、いつも過去形で話をしていた。

 そのことを思い出した桔梗は、胸元で腕を組むと首を傾げる。


(今はガソリンが満タンのように見える、けど……)


 美月から『ガス欠を起こした車』と定義づけられていた氷室がどのような状況であったのか、桔梗には知る由もない。

 桔梗は改めて、スマートフォンを利用して調べてみることにした。


(……ガソリンが空っぽになって、動かなくなった車……)


 氷室は車に例えるならば、全く問題ない。

 エンジンを掛ければ車が作動し、サイドブレーキを引いてアクセルを踏めば、発進する。

 運転席に座るのが桔梗であれば、あまりスピードは出ないかもしれないが──


(美月先生がどうして氷室先生のことをガス欠を起こした車と定義づけたのかは、本人か氷室先生に聞かない限りわからないかも……)


 桔梗は氷室に嫌われることを恐れている。

 美月を目の前にすれば、口汚く(ののし)ってしまいそうだった。

 氷室に問いかければいいのだと理解はしているが、下手に美月の名前を出して桔梗への興味関心が薄れてしまっては問題だ。


(やっと氷室先生が私を嫌いから好きになろうとしてくれているのに)


 この状況で急ブレーキを踏むわけにはいかないと考えていた桔梗は、下手なことはするべきではないと思い直す。


(氷室先生は、早く美月先生に会いたいと言っていた……)


 美月と復縁したいから早く会いたいと願うのか。

 桔梗と歩む未来を描くために、美月と早く決着をつけたいのか。

 桔梗が望むのは当然後者だ。

 前者を氷室が思い描いているのならば、目も当てられない。


(氷室先生が美月先生との復縁を望むなら……美月先生には痛い目を見てもらわなくちゃ……)


 いつ美月と鉢合わせてもいいように。


 桔梗が美月に対抗する術を練っていた時のことだ。


『ザザ……』


 桔梗の花弁を象ったイヤリングから、不快なノイズ音が聞こえてきたのは。

 桔梗は氷室と美月のことを考えている場合ではないと、イヤリングを通じて聞こえてくる音声を一言一句聞き漏らさないように耳をそば立てる。


『お前のせいで、あいつが死んだ』

『……あいつとは……誰のこと……?』


 それが誰かまでは思い出せないが──イヤリングから聞こえてくる特徴的な男性の声に、桔梗は聞き覚えがあった。


『お前は6年前、1年以内に病気で死ぬと宣告されていたよな。どうして生きているんだよ!』

『わたしには……使命が、ある……。悪魔の子を、助ける……使命が……』

『悪魔の子なんざ、助ける必要ねぇだろ!健康な俺たちを生きたまま殺してバラバラした挙げ句、助けられた命だぞ!?』


 イヤリングから聞こえてくる音声に息を呑み耳をそばたてていると、吉更からメールで連絡があった。

 電話で話をしたい所だが、イヤリングから聞こえてくる音声を聞き漏らす可能性を考慮(こうりょ)したのだろう。


『あいつからの音声、聞こえているよな』

『今聞いているよ。どうしたらいい?』


 吉更からの返答より先に、イヤリングから聞こえてくる音声に変化が生まれる方が先だった。


『病気で死ねないなら、今すぐ死ね』

『……それは、できないわ……』

『なら、俺が殺してやるよ……!』


 パァン、と。


 けたたましい発砲音が聞こえたことに驚いた桔梗は、思わずベッドの上で身体を丸めて小さくなった。

 桔梗が紗雪に語りかけようとした所で、桔梗が彼女に連絡することは難しい。

 イヤリングから聞こえてくる音声には、通信機能が存在しないからだ。

 このタイミングで吉更が紗雪へ連絡をするのも悪手だろう。

 携帯電話には通信履歴が残ってしまう。

 公衆電話から電話を掛けたとしても、防犯カメラなどに姿が写ってしまう可能性だってあるのだ。


(さーちゃんは、自分にもしものことがあったとき、証拠を残せるように。私ときーちゃんへイヤリングを預けた……)


 紗雪はなにかあった時、双子に助けて欲しいからイヤリングを預けたわけではないのだ。

 むしろ、紗雪が危険に晒されていたとしても見殺しにして欲しいと思ってすらいる。


(それがさーちゃんの意志なら、私達は助けようとするべきではない。わかっているけれど──)


 誰かに襲われ、命の危機に晒されている友人を見殺しにする女を。

 はたして氷室は、愛してくれるだろうか?


(氷室先生だったら、きっとさーちゃんを助けようとするはず)


 桔梗は貴重品を持って鞄の中に押し込まれていたウィッグを被り、全速力で走り出した。

 こうした時、オートロックは便利だ。

 鍵がなくても、ドアを閉めれば勝手に鍵が掛かる。


(沖縄と東京はどうしようもない距離がある。氷室先生に助けを求めた所で、どうしようもないかもしれない。でも!)


 紗雪が誰かに銃で打たれたのならば、氷室だって五体満足では生きられない可能性があるだろう。

 桔梗が今、最優先するべきは氷室の安全を確認することだ。


『手間掛けさせやがって……』


 紗雪の声は聞こえない。


(さーちゃん……銃で撃たれて……?)


 顔面蒼白な桔梗が、海沿いの診療所へ続く道をひた走っているからだろう。

 反対方向にジョギングしていたランナーがぎょっと目を見開き、桔梗を凝視しているが、桔梗は通行人を気にしている場合ではなかった。


『こっちよ!早く!』


 イヤリングを通じて、紗雪とは異なる声音が聞こえてきたからだ。

 よく通る女に怒鳴り声に、桔梗は心当たりがあった。

 忌々(いまいま)しくてたまらない。

 桔梗が耳を塞ぎたくなるようなその声を持つ女は、紗雪へ必死に呼びかけている。


『諦めないで!大丈夫よ!あたしが絶対に助けてみせる……っ』


 正義を振りかざしたせいで、謎の男に階段から突き落とされ、7年近く姿を眩ませていたはずの女が──階段から突き落とされた瞬間を見て見ぬふりをした紗雪を助けるなど、一体何の冗談だろう。

 桔梗のスマートフォンには、先程からひっきりなしに吉更からと思われる連絡を告げる着信音が鳴り響いている。

 一目散に診療所への道を走る桔梗は、近所迷惑も顧みず必死に足を動かし続けた。


(どうして私が、あの女の声など聞かなければならないの……!)


 桔梗は心の中で叫んでいた。

 イヤリングを通じて聞こえてくる女への恨み、紗雪の無事を心配する気持ち、そして氷室に対する思い──それらすべてが複雑に絡み合い、氷室が暮らすマンションから全速力で診療所まで長い間駆け抜けたせいで酸欠気味になった桔梗は、診療所の扉に勢いよく身体を滑り込ませると、バランスを崩して床に倒れてしまった。


「だ、大丈夫ですか……!?」


 声を掛けに来たのは那須宮だ。

 彼女は特徴的な紫色の髪を隠している今の桔梗が、愛知桔梗であると認識できなかったようだ。


「ひ……むろ、せ……んせ……」


 診療所に青白い顔で飛び込んできて突然倒れ()し、けたたましい着信音を響かせ続ける女など、迷惑なことこの上ない。


「……ちょ、ちょっと待っていてください!し、白雪先生!急患です……!」


 息も絶え絶えに桔梗が氷室の名を呼べば、那須宮は声で愛知桔梗だと気づいたようだ。


『急げ!』

『紗雪ちゃん!生きることを諦めないで!』


 慌てて氷室を呼びに行ったことを確認した桔梗は、絶え間なく聞こえてくる美月の声と見知らぬ男の声を聞きながら息を整える。


『……し、ら……せ……』

『ああ!?なんつった!?』

『し……ゆき……きょ……ちゃ……ぶな……』

『氷室のことは心配しないで。これから合流するわ』


 イヤリングから聞こえてきた声に反応した桔梗は、ゆっくりと立ち上がり貴重品を入れたバッグからスマートフォンを取り出す。

 履歴は吉更で埋まっていた。

 桔梗がスマートフォンを耳に当てた時、診療室から氷室が白衣を(ひるがえ)してやってくる。


 その表情は、驚きに満ち溢れていて──


『無事か!?』

「那須宮、仮眠室の準備をしろ」

「ひゃ、ひゃい!」

『氷室先生と合流できたなら、心配することねーな』


 桔梗が息を整え吉更へ返答を返そうにも、病院はまだ診療時間の最中だ。

 あと30分もすれば午前の診療は終わるが、待合室には数人患者の姿が見られる。

 桔梗が大声を出し、患者に愛知桔梗であることが露呈し大きな騒ぎになるくらいならば、声を押し殺し黙っているべきだろう。


「掴まれ」


 桔梗が息を整えている間に、信じられないことが起こった。

 桔梗の元へ歩みを進めた氷室は、桔梗を抱き上げたのだ。

 横抱きにされた桔梗は、これ幸いとばかりに首元へ両腕を回して顔を埋める。


(氷室先生の匂い……ぬくもりを、こんな近くで味わえるなんて……)


 桔梗は心の奥底から湧き上がる喜びを噛み締めていれば、氷室に抱きつくため捨てたスマートフォンを回収してから氷室は桔梗を休憩室へと連れて行く。


「何があった」


 氷室は桔梗のスマートフォンを無断で手に取ると耳に当て、吉更に問いかける。

 吉更は当然、桔梗に聞けと告げるだろう。

 昼休みにすべての話を終えることができればいいのだが。

 断続的に聞こえてくる忌々しい声が恐ろしくてたまらない桔梗は、ついには静かに涙を流し始める。


「泣くほど辛いことでもあったのか」

「ひ、むろ……っ、せんせぇ……っ」


 休憩室に備え付けられたベッドの上に下ろされた桔梗は、氷室から離れたくないと首元に抱きつく手を強めた。

 桔梗が強く首元へ抱きつけば抱きつくだけ、氷室は首が締まって苦しくなってしまう。

 患者が待っている以上、いつまでも桔梗の相手をしてやる時間などなかった。


「落ち着くまで寝ていろ。診療時間が終われば、相手をしてやれる」

「氷室先生……。美月先生よりも……私のこと、すき……?」


 桔梗は氷室の胸元から顔をあげると、問いかけるべきではない言葉を氷室に呟いてしまう。

 氷室ははらはらと静かに瞳から涙を溢す桔梗に見惚れていたようで、数十秒ほど固まってから重苦しい口を開く。


「そう遠くないうちに、その答えは改める。今は時間がない。許してくれないか」


 真正面から真剣な眼差しで見つめ、氷室らしからぬ紡がれた言葉を否定できるはずもない。

 桔梗は小さく頷くと、氷室の首筋から両手を離してベッドに倒れ込んだ。

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