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火曜日:那須宮のとんでもない勘違い

 翌日のカレーが、当日作ってすぐに食べたカレーよりも美味しく感じるのは、桔梗にある違いが見受けられるからだろう。


(そんなわけないだろ)


 桔梗が白衣を羽織っているか、いないかで味が変化するはずもない。

 皺くちゃだった白衣は、氷室のアイロンがけによってシワが取れ、桔梗の魅力をより一層際立たせている。

 桔梗の思いを受け入れたくないと思う気持ちと、桔梗の思いを受け入れるべきだと気持ちが頭の中に巡る氷室は、見たくない現実から目を背けていた。


「氷室先生って、私が白衣を羽織ると目の色が変わるよね」

「気の所為だ」

「気の所為じゃないよ。目を逸らさないで。もっと見て。氷室先生の桔梗は、目の前にいるよ」


 桔梗は氷室の手を握ると、上目遣いで見つめてくる。

 朝っぱらから「私を見て」とアピールされても、氷室の口からはため息しか出てこない。

 休みならともかく、今日は平日。

 当然出勤日だ。


(休みならともかく……?)


 休みなら桔梗の相手をしてやれる時間があったと思いたかったのか。

 深い意味はないと一瞬思い描いた(よこしま)な感情を打ち消すと、氷室は一瞬だけ潤んだ瞳で見上げてくる桔梗と目を合わせ、すぐに逸した。


「むぅ……やっぱりすぐ目を逸らす……」

「遊んでいる暇はねぇんだよ。今日一日、大人しくしていろ」

「大人しくしていたら、お願い一つ。叶えてくれる?」


 桔梗はドサクサに紛れて氷室へおねだりをしてくる。

 押し問答をする時間すらも惜しい氷室が、断るわけなどないと判断してのことだろう。


(相変わらず、人に媚びるのだけは上手だな……)


 当然、褒めてなどいない。

 氷室は一瞬嫌味を口にしようとしたが、結局口にすることはなく桔梗の申し出に頷き返した。


「帰ったらな」

「うん。じゃあ、大人しく待っているね。行ってらっしゃい」

「……行ってくる」


 行ってくると行ってらっしゃい。

 ただいまとおかえりなさい──桔梗が一緒に住めば、挨拶は必ず笑顔ですると宣言したことを覚えていたようだ。

 笑顔で見送られた氷室は、難しい顔で桔梗に挨拶を返すと自宅を後にした。


(残り13日……約2週間か……)


 一週間はあっという間で物足りないくらいだったが、2週間ともなれば桔梗の考えやどこが好ましいと思うかなど明らかにする機会はあるだろう。


(このタイミングで美月が顔を出せば、桔梗との未来も前向きに検討できそうだが……)


 氷室としては、桔梗と2週間過ごした後に顔を合わせるのがベストタイミングだ。

 美月とは桔梗抜きで、腹を割って話をしたい。

 桔梗の滞在中に美月が顔を出せば、桔梗は美月に噛みつき、昼夜問わず修羅場になりかねないだろう。

 氷室に2度と合うつもりはなかったのか、会えない事情があったのかはわからないが……。

 電話を繋げるまで、6年掛かったのだ。

 そう簡単に美月が会いに来るとは到底思えない。

 やはり、気長に待つ必要があるだろう。


「お、おはようございます。白雪せ……!」


 氷室が診療所に顔を出すと、すでにナース服に身を包み診療開始の準備を進めていた那須宮が声を詰まらせた。

 那須宮が吃るのはいつものことなの氷室はあまり気にしていなかったが、顔面蒼白なのが気になり、荷物をロッカーに入れ白衣を羽織りながら彼女へ問いかける。


「おはよう。どうした。体調でも悪いのか。青ざめているようだが……」

「し、ししし白雪先生……っ。美月先生に生涯操を立てることにしたんですね……!」


 那須宮はなぜかよくわからないが瞳に涙を潤ませて喜んだ。

 氷室は一体何の話だと眉を潜めて那須宮に問いかけるが、涙を拭う那須宮は感動でそれどころではないらしい。


「俺は美月に、操を立てる決心をしたつもりはない」

「え……っ。で、でも!両耳にピアスが!」

「イヤリングだ」

「い、イヤリング……?どちらでも意味は同じ、ですよね……?」


 那須宮と氷室の話がどうにも噛み合わない。

 那須宮は氷室が両耳につけてきたイヤリングに特別な意味があると勘違いしており、氷室は特別な理由があってイヤリングを耳につけてきたわけではなかった。

 いくら那須宮と言えども、イヤリングに録音機能があるのだと自ら手の内を明かすような馬鹿ではない。

 顔を青くしたり赤くしたり忙しく口ごもる那須宮に、氷室は強い口調で問いかけた。


「何が言いたい。はっきり言え」

「ひゃ、ひゃい……っ。そ、その……大変失礼かと思うのですが……」

「お前が失礼な態度を取らなかった日などあるのか」

「ひえ!?」

「冗談だ」


 那須宮は怯える必要がないのに怯え、いっぱいいっぱいになるとすぐ悲鳴を上げるので、人生を損している気がしてならない。

 氷室には全く関係ないことだが。

 冗談を告げることにより緊張が解れた那須宮は、顔を真っ赤にしながら挙動不審な原因を口にした。


「右耳にイヤリングやピアスをするのは……ど、同性が好きであるアピール、ですよね……?じょ、女性除けのような…」

「なんだそれは」


 氷室は桔梗が両耳にイヤリングをつけてきたので、ペアでつけるのが当然だと思いつけて出社してきただけだ。

 氷室が困惑していると、那須宮は補足の説明を始める。


「右耳は本来、女性だけが耳につけるべきみたいで。その、女性側だから、」

「左だけなら問題ないのか」

「は、はい。男性は、左側だけピアスかイヤリングをつけるのがおしゃれの秘訣です……!」

「わかった」


 桔梗は左耳に録音機能つきのイヤリングをつけたので、氷室は右耳のイヤリングだけを外せばいい。

 那須宮は一体どこでこうした情報を仕入れてくるのだろうか。

 氷室は疑問に思いながらも、患者に指摘される前でよかったと右耳のイヤリングを外す。


「あやうく患者に、同性を好むと噂を流される所だった。那須宮のお陰で悲劇は未然に防げたようだ」

「い、いえ!お礼など必要ありません!と、当然のことをしたまでですので……!」


 謙遜した那須宮は、ほっと一息つくと着信を告げている内線電話を慌てて取りに行った。


(男が右耳にピアスやイヤリングをつけると、同性を好むの証になるのか……)


 無知は罪だとよく言うが。世の中には意味不明なルールがあるものだ。


(これは桔梗に言っておくべきだな……)


 氷室は録音機能のついていない古びたイヤリングを鞄の中にしまうと、診療室に向かった。

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