氷室の耳枷
「氷室先生、力持ち」
「大したもんは、入っていないだろ」
「私、こんなに身軽でいいのかな……」
「専業主婦になれば、嫌でも重い荷物を持ち運ぶことになる。今くらいは楽をしておけ」
「今のうちに力、つけておかなくちゃ」
桔梗はダンベルを持つふりをすると、上下に持ち上げてキリッと表情を変化させる。
吉更の真似をしているのかもしれないが、氷室は吉更と過ごした時間が短すぎて、それが本当に吉更の真似なのどうかすらもよくわからなかった。
不思議そうにしている氷室に気づいたのだろう。
今日は吉更の真似だと口にしたが、氷室は生返事を返すことしかできなかった。
「3ヶ月ぶりの我が家だー!」
桔梗はすっかり氷室の家を我が家であると認識しているようだ。
氷室が鍵とドアを開けると、横をすり抜けて勝手に室内へ入り込み、ベッドの上にダイブする。
ウィッグを乱雑に剥がした桔梗は、ベッドの上でゴロゴロと転がった。
「氷室先生の匂いだ……」
「転がる前に手を洗え。見えるぞ」
「氷室先生だったら、見てもいいよ」
「アホか」
バルコニーに繋がる窓に頭を向け、玄関側に足を投げ出してベッドに転がっているせいで、氷室が足元に立っていると下着が見えそうだ。
(色気の欠片もない状態で誘惑されても、不快なだけだな)
キッチンに引っ込んだ氷室は、淡々と買い物袋から食材を取り出し、冷蔵庫や収納庫に移動する。
「カレーの具材は出しておけばいいのか」
「すぐ使うから、そのままでいいよ」
「そのまま寝たら、今日の夕飯は抜きだぞ」
「渡さなきゃいけないものがあるの。氷室先生と一緒にいるのに、寝たりしないよ」
渡さなきゃいけないものなど聞いていなかった氷室は、ショルダーバッグをゴソゴソと探る桔梗の耳につけていたイヤリングに違和感があることに気がつく。
6年以上も前からずっとつけている桔梗のイヤリングは、所々傷がついていて塗装が薄れつつあったはずなのだが──片耳のイヤリングはピカピカと輝き、真新く生まれ変わったように見えるのだ。
「イヤリングの片方……塗装し直したのか」
「……氷室先生。案外私のこと、よく見てくれているのね」
桔梗はニコニコと笑みを浮かべながら、ショルダーバッグから透明なジッパー袋に入った雪の結晶を象ったイヤリングを手渡した。
「美月先生と電話が通じた日。飛行機に乗ってきーちゃんと合流した後、さーちゃんに会ってお話したの」
桔梗は天門紗雪と対面したらしい。
様々な人間から命を狙われている彼女に、もしもなにかあった時。
証拠を残しておきたいと相談されたようだ。
桔梗と紗雪のイヤリングには元々録音機能と、録音した音声を骨伝導を用いてリアルタイムに流す機能が搭載されていた。
どうやら新しくイヤリングを作り直し、ペアが異なるイヤリング同士で通信が可能になるよう改良したようだ。
「さーちゃんのイヤリングは録音。私のイヤリングは、さーちゃんのイヤリングで録音している音声がリアルタイムで流れてくるイヤホンの役割をしてくれる」
「これは天門紗雪が持つべきものだろ。俺に渡す必要はないはずだ」
「さーちゃんは半分をすでに身につけている。古い方と、新しいのを2組ずつで4つ。内訳は──」
雪の結晶を象イヤリングは紗雪と氷室。
桔梗の花弁を象イヤリングは桔梗の姿と吉更の双子が持ち、情報共有を行うことで勝手に話が進んでいるらしい。
「……天門紗雪の父親を、警察に突き出したのは俺だぞ」
「そうだね」
「恨まれていてもおかしくない奴とペアルックなんざ、ありえないだろ」
「さーちゃんは恨んでいないよ」
氷室が美月の残した証拠を使って追い詰めることがなければ──天門紗雪の父親は天門総合病院の院長として、今もなお病院に務めていただろう。
氷室が悪事を暴いたせいで、天門紗雪は移植手術が受けられなくなってしまった。
悪事を暴くことがなければ、双子のどちらかから肝臓移植を受け、今頃紗雪は健康な身体を得ていたはずだ。
氷室を恨まないわけなどないのだが、桔梗は「恨んでいない」と断言する。
むしろ、悪事を暴露したせいで裏社会の人間から要注意人物としてマークされている氷室のことを心配していると告げた桔梗は、氷室の身を守るためにもイヤリンを普段遣いしてほしいと懇願してきた。
「他の女とペアのイヤリングを、好きな男に薦める奴がいるかよ」
「仕方ないじゃない。私がさーちゃんと同じイヤリングをつけていれば、マスコミに関係を疑われる。氷室先生がさーちゃんと同じイヤリングをつけていたとしても、疑われるようなことはないでしょ」
氷室は一介の医者だ。
スキャンダルをすっぱ抜かれた所で、世間は氷室を社会的に抹殺する意味がない。
叩く相手は誰でもいいが、一般人では面白くないと感じるものも多いだろう。
彼らは、輝かしき芸能界のステージにいる芸能人を、引きずり下ろすことに愉悦を感じるのだ。
どこにでもいる医者を非難した所で、誰もが嫌悪する悪行を繰り広げていない限り、氷室は痛くも痒くもない。
「俺になにかあったとしても。リアルタイムで聞いていたところで、桔梗と弟の生活圏は東京だ。沖縄にすぐやってきて、俺の敵を討つことはできないぞ」
「それでも。ないよりはマシでしょ」
氷室は自分になにかあった時は死に至る前提で話を進めていたが、桔梗は飛行機の距離に互いがいる状態で問題が起きることを、さほど問題視しているようには思えなかった。
考えられる原因を見て見ぬふりしてでも、このイヤリングを氷室につけさせたいらしい。
(こうと思えば、思い通りになるまで。こいつは俺の話なんざ聞きやしない……)
氷室は降参のポーズを取ると、透明なジッパー袋に入っていたイヤリングを無言で取り出し、桔梗に着け方を教わった。
「男がイヤリングってどうなんだよ」
「突っ込まれたら、彼女からプレゼントされたと言えばいい。氷室先生の名字に関連付けて、プレゼントして貰った。完璧な理由付けだと思わない?」
「名前ならともかく、名字に関連付けたプレゼントなどしないだろ」
「無理があるなら、氷室先生の氷から取ったことにしていいよ」
氷の文字から雪の結晶をプレゼントして貰ったなど、説明する方が恥ずかしい。
氷室は深いため息をつくと、耳たぶに雪の結晶が象れたイヤリングをつけようとするが、うまくつけられない。
「貸して。私が付けてあげる」
慣れない手付きでイヤリングを付けようとして失敗する氷室の姿を見ていた桔梗は、氷室からイヤリングを受け取った。
ネジを回し耳たぶを挟み込むスペースを開けてから、ゆっくりと慣れた手付きでイヤリングの金具に耳たぶを挟み込む。
イヤリングを桔梗につけてもらうために大きく足を開き、椅子に座っていた氷室の膝に自身の片膝を載せ、一生懸命両手を使って耳たぶに触れる。
イヤリングをつけようとする桔梗とは、嫌でも密着する羽目になった。
少しでも視線を落とせば、胸元に目が行ってしまう。
露出の激しい服装をしていた所で、胸元に下駄を履かせるには限界がある。
布面積が少なければ少ないほど、胸元が本物で構成されているのか、上げ底されているのかは案外わかりやすいものなのだ。
女性らしさなど微塵も感じさせないなだらかな胸元ではあるが、細い首筋は成人男性として唆るものがあった。
(あの首筋を両手で掴んだら)
氷室が強い力で首筋を掴もうものなら、折れてしまいそうだ。
細い首筋をじっと見つめていた氷室に、桔梗も気づいたらしい。
「私の首元、寂しいよね」
イヤリングを付け終わった桔梗は、首元をじっと見つめていた氷室が面白みのない首元だと考えているのではないかと勘違いしたようだ。
氷室は細い首筋に見惚れ、あらぬことを考えてたのだが――まさか、馬鹿正直に告白するわけにもいかない。
氷室は邪念を振り払うと、桔梗が紡ぐ言葉の続きを待った。
「私がさーちゃんから預かったイヤリングをプレゼントしてあげたから、氷室先生にはネックレスをプレゼントしてほしいなぁ、なんて」
指輪ではなくネックレスと強請る辺り、彼女ではなんでもない存在として弁えていると思うべきか。
「俺に強請らなくとも、SNSに書き込めばいくらでもファンから貰えるだろ」
「氷室先生にプレゼントしてもらうことが大切なの。氷室先生が、私のために選んでくれたものリストにネックレスが追加される……」
氷室がネックレスをプレゼントすることは、桔梗にとっては確定事項らしい。
氷室から勝手にネックレスをプレゼントをされた気になっている桔梗は、うっとりと頬に手を当て興奮していた。
(白衣の件といい……)
そのうち桔梗に、身ぐるみをすべて剥がされてしまいそうだ。
「カレーを作るなら早くしろ」
雪の結晶が象られたイヤリングを耳たぶへ身につけることで。
氷室は桔梗から与えられた枷のように感じながら、桔梗をせっついた。




