9月1日月:2週間で、虜にするから
季節は夏から秋に移り変わり、もうすぐ秋ドラマがはじまる季節だ。
桔梗もメインキャストとして2本の番組に出演を予定している。
10月になれば、番宣やらなんやらでニュース番組やバラエティに出演し、お茶の間を賑わせるのだろう。
──9月1日の月曜日。
夏休みの学生たちで賑わうビーチの声が、窓を開けた診療所にも風に乗り聞こえてくる中──夏の嵐は、前触れもなくやってきた。
「氷室先生!」
氷室の名前を呼ぶ女は、そう多くない。
氷室の名前を先生と元気よく呼ぶ時点で、それが誰なのかすぐにわかった氷室はため息をつくと、その人物の姿を下から上まで確認する。
夏休み中の学生が多い為、黒に近い紫色の髪を堂々と晒して歩けば──すぐに誰であるか露呈してしまう。
特徴的な髪色をごげ茶色の髪色に変化させた彼女は、随分派手な格好をしている。
黒のライダースジャケットに、ダメージ加工のされたホットパンツ。
生足を惜しげもなく晒した彼女の姿を町中で目にした男は、彼女が芸能人であると気づくことがなくても、その美しさに目を奪われることだろう。
彼女はセクシーな服を好んで着ていた。
こうした服を着ている姿がうまく想像できなかったことは、見覚えのある顔であったとしても、氷室が彼女であると気付けなかった理由でもある
(事前に連絡してこいよ……。準備しておいてやったのに)
名前を呼ばれた氷室は、誰が耳をそばだてているかわからない場所で、彼女の名前を呼ぶわけには行かなかった。
「来るなら連絡してから来いよ……」
「サプライズよ。氷室先生、私が来てくれて嬉しい?来るなって言われると思ったから、驚いた」
桔梗は氷室に怒鳴られるのではないかと恐れていたようだが、氷室の言葉を受け、彼女は目を丸くした。
氷室は素直な気持ちを伝えただけで驚かれるとは思わず、不機嫌そうに眉を顰めている。
せっかく桔梗が診療所にやってくることを氷室へ認めさせたのに、機嫌を損ねてしまった。
彼女は少しでも氷室の眉間が取れることを願って、人差し指でツンツンと叩いてほぐし始める。
「お前の顔なんざ二度と見たかねぇとでも言ってほしかったなら、言ってやってもいいんだぞ」
「え、やだ。氷室先生には来てくれて嬉しいと喜んで貰いたい」
「だったら、意外そうな顔すんなよ……」
「ご、ごめんなさい。氷室先生の前では、あんまり驚かないようにする」
「……お前はやることなすことが極端だな……」
呆れてものも言えない氷室は、診療所の開いていた窓を閉めて施錠すると、エアコンを稼働させた。
長話になると判断したのだろう。
氷室の行動をじっと見つめていた桔梗は診療室の丸椅子に腰掛けると、ぐるぐると両足を上げて楽しそうに回り始めた。
「子どもみたいなことするなよ……」
「子どもじゃないもの。私はもう大人」
「だったら、意味もなくぐるぐる回って椅子で遊ぶな」
「ええ……。氷室先生、丸椅子ぐるぐるアタックに親でも殺されたの……?」
「なんだそれは。技名じゃねぇんだから……」
「必殺!丸椅子ぐるぐるあたーっく!」
威勢のいい掛け声と共に桔梗が両足をピンと前に突き出し、氷室の腹部目掛けて勢いよく蹴りつける。
今日の桔梗は妙にテンションが高い。
腹部に攻撃を加えると、一歩間違えば急所に当たる危険性があるため勘弁してほしいのだが──桔梗の足が、腹部に当たった。
ダメージを受けた氷室が蹲り床に膝をつくと、嫌でも椅子に座る桔梗を見上げる羽目になる。
(女王様気取りかよ)
まるで女王様と家来のような姿に、氷室は苦虫を噛み潰したような顔をした。
屈辱的な表情を浮かべる氷室とは対照的に、桔梗は満足そうに微笑み、足を組んだ。
「今日から氷室先生のお家で、お世話になります!」
「この夏休み真っ只中にか。今から1週間じゃ、観光客と被るだろ。帰りの飛行機、大丈夫なのかよ」
「ふふん。今回は1週間ではないから、問題なし!」
一週間ではないと桔梗の口から聞かされた氷室は、理解し難い言葉を聞いたと言わんばかりに顔を顰めた。
1週間では、桔梗が好きかどうかを判断するには短すぎると思ったこともあるが──滞在時間が長ければ長いほど、間違いが起きる可能性も限りなくゼロではなくなって行くだろう。
「いつまで居る気だ」
「なんと!前回は短すぎたから、無理矢理スケジュールを開けて2週間確保してきたの。これで、氷室先生を虜にする準備は万端ね。覚悟してね、氷室先生!」
桔梗は美月と連絡が通じたことにより、告白を断られているはずなのだが……。
一切気にする様子もない桔梗は、まるで告白などなかったような体で、氷室に笑顔を向けてきた。
(一度断ったくせに、惹かれつつあることを見透かされてでもいるのかよ……)
氷室は背筋が凍るような思いをしながら、ため息をつくと立ち上がる。
立ち上がった氷室を桔梗が追いかけることにより、先程とは真逆の光景が生み出された。
(見下している方が優位に立っているわけではねぇけど……)
気持ち的に、年下の女に見下されているのは我慢ならないのだ。
相手が美月であれば喜んで見下されるが、眼の前にいるのが桔梗ならば、氷室は見下したかった。
「自分の立場、理解しているのかよ」
「立場って?」
「お前は俺に告白を断られているんだぞ」
「そうだね」
「そうだねって……」
「一度断られたら、同じ人に何度告白してはいけない法律などないはずでしょ」
自由恋愛が主流の社会で、一度告白を断られた人間に告白してはいけない法律など存在しない。
(法律は存在しないが)
告白を断ったなら、相手のことが好きではないか、受け入れられない理由があるのだろう。
その理由がどうであれ、短期間に告白を繰り返した所で返答が変化するとは思えない。
何度告白した所で、いい返事など聞こえるはずがないとわかっているはずなのに。
それでも桔梗は、氷室に告白し続ける。
諦めることなく何度も告白すれば、めんどくさがった氷室がいつか頷いてくれるのではないかと──信じているから。
「あのな……」
「美月先生は?あの後、連絡あった?」
「……梨の礫だ」
「そのまま一生氷室先生に、電話して来なければいいのに」
氷室にとってその思考は、厄介なことこの上なかった。
美月の話題を振ってきた桔梗から、笑みが消える。
このままいっそのこと、性格の悪さを理由に関係を断つことができないだろうか。
心の奥底では、桔梗と出会えたことに大喜びしているくせに。
氷室は桔梗にとって意外な言葉を紡いだ。
「俺は美月との関係が宙に浮いた状態では、他の女と交際するつもりはない。美月と一生連絡が取れなければ、お前が俺と添い遂げる未来などありえないぞ」
「……美月先生とお話して破局したら、氷室先生は私のものになるの?」
「美月と俺が合意の上で破局した場合、俺はフリーだ。桔梗だけではなく、他の女ともいくらでも関係を結べる」
「目の前に若い女の子が居て、氷室先生のことを何年も前から大好きって伝えているのよ。その状況で、金目当ての女にフラフラ手を出しに行くのは絶対ありえない」
「桔梗にとってはありえなくとも、俺にとっては充分ありえるからな」
氷室はフラフラと自ら新しい女を探しに行かずとも、「医者」の職業だけでフリーであることを宣言すればいくらでも女が寄ってくる。
金目当ての女を、氷室が好きになるかはまた別の話ではあるが──桔梗は美月と円満に関係を終えたとしても、氷室が自分のものにならないと聞いて頬を膨らませてむくれていた。
「美月先生と正式にお別れしたら、氷室先生は私のもの。売約済みだって、言い寄ってくる女に見せつけなきゃ……」
「週刊誌に俺との交際をリークしようとするなよ」
「……どうしてわかったの?」
もしやと思い氷室は桔梗に釘を差したのだが、まさか本気でその気があるとは思わなかった氷室は頭を抱えてしまった。
不思議そうな桔梗は、氷室が釘を差さなければ週刊誌に自ら情報を売り込み「白雪氷室は私のもの」だと宣言し、男性ファンを悲しませても氷室の彼女になるつもりだったようだ。
「……あのな。その気がなければ、週刊誌に売り込んでも無駄だぞ」
「どうして?騒ぎになれば、白雪氷室と愛知桔梗は交際していることこそが真実になる。たとえ氷室先生にその気がなくたって。応援してくれるファンのみんなは、私と氷室先生の婚姻を祝福してくれるはずよ」
「100人中100人のファンが祝福するのか」
「私、バラエティ番組で何度も発言しているもの。旦那様にするならお金持ち、私が困っているとき助けてくれる人。25歳までに結婚したい」
「お前は……」
桔梗は氷室が想像もしていない方向へ突っ走り、どんどん外堀を埋めていく。
その猪突猛進さは美月と似ているが、美月と異なるのは「誰かのために」発揮するのではなく、「自分のために」発揮する所だろう。
桔梗は全ての出来事が自分中心なのだ。
氷室に好きだの、愛していると囁くのは、氷室を自分のものにしたいから。
天門紗雪と手を組み、天門総合病院の悪事を阻止したのも自分の死を回避する為だった。
誰かのために自分を犠牲にする美月と、自分が生き残るためなら誰かを犠牲にても構わないと行動する桔梗なら、誰だって美月が好ましいと思うのは当然だろう。
(自己中女にかまっている暇などないと。いつから、俺は言えなくなった……?)
氷室は桔梗への気持ちを認めたくなくて。
結局言葉の続きを口に出すことはせず、桔梗から目を離した。
「……今日は白衣、着ていないんだな」
「空港で若い女の子が白衣を着ていたら、嫌でも注目されるでしょ。顔をじっくり見られたら、私が愛知桔梗だってバレちゃう。ちゃんと持ってきてはいるから、安心して。。お部屋では毎日着るよ!」
すっかりお気に入りになっているであろう白衣は、スーツケースの中にしっかりと折り畳まれて入れられているが──毎日着用しすぎて、くたびれ始めている。
「アイロンがけからだな」
シワシワヨレヨレの白衣を、どこまで、きれいにできるかは謎だが……。
やってみなければわからないこともあるだろう。
桔梗はアイロンに馴染みがないのか、不思議そうに単語の意味を考えているようだ。
「……俺の嫁になりたいと騒ぐ前に、最低限の家事を身につけることから始めろよ……」
「アイロンがけって家事の中に入るの?」
「洗濯した後。乾かした洗濯物のシワを伸ばすのに使うだろ」
「そうなんだ……」
桔梗はシワになった衣服をどうしているのかと聞けば、捨てて新しい物を購入すると告げた。
(これだから高給取りは)
呆れた氷室は、エアコンを消すと無言で窓ガラスがきちんと施錠されているかを確認し始めた。
「氷室先生。おうち帰る?」
「いつまで経っても診療所にいるは必要ないだろ。荷物はこれだけか」
「うん!ご飯買って帰ろう!あのね、マスターにお料理教えてもらったの!カレー、作れるようになったよ」
具材を切って炒め、市販のカレールーを入れて鍋で煮るだけの簡単な料理ができるようになったと自慢げに話されても「低レベルだな」以外の感想がない。
(切って焼いて煮込むだけでも。信じられないくらいまずい料理を作るやつはいるからな……)
美月の料理は、切って焼くだけなのになぜかアメーバ上に食材が変化する。
なぜそうなるかは作った本人でさえもわからないので、その料理を食べることになる氷室がその原理を理解できるはずもないのだ。
(作らせてから考えればいいか……)
飲食店のマスターから教わったなら、食べられないほど酷いカレーは作らないだろう。
(もしも食べれないカレーを作るようであれば……)
満足な食事も作れない女と結婚する気はないと、いい断り文句が生まれるだけだ。
氷室は小さな子どもが初めてのお使いをする時に見守る大人のような気持ちで、桔梗の着替えなどが入ったスーツケースを代わりに持ってやると、桔梗が変装しているのをいいことにそのまま近隣のスーパーにカレーの食材を買いに行くことになった。




