嵐が去った後
──これは、浮気をしようとした罰なのか。
氷室は欲を出した。
二度と会えないかもしれない美月への憧れを募らせ囚われ続けるより、自分を愛する桔梗に同じ分だけ愛を返せば、自分も幸せを諦めなくても済むのではないか、と。
そう考えたら、歯止めが効かなくなった。
白雪氷室にとって、空島美月の声は、砂漠に落ちてきたひとしずくの水だった。
愛に飢えていた氷室は「私を食べて」と誘惑してくる桔梗へ、辛抱たまらず手を出そうとしたが、美月の声を聞いて目が覚めたのだ。
これに桔梗は計算外だと静かに怒りを瞳に称え、飛行機の時間があると氷室へ告げて渋々東京に戻った。
──美月と電話が通じた日。
桔梗が東京へ戻らなければならない日であることは、氷室にとって都合がよかった。
もしも桔梗が……氷室の自宅に住み着くようなことがあれば、桔梗と顔を会わせたくないと診療所に泊まり込んでいた所だ。
(何をやっている……)
穴があったら入りたいとはこのことか。
氷室は自らの欲望に負け、美月と連絡が通じなければ桔梗と交際すると宣言したことを後悔していた。
美月と連絡が通じたからこそ有耶無耶になったが、美月は「いつ氷室に会うか」を告げることなく通話を終了させた。
早い所氷室が美月の思いを断ち切るなり、桔梗に諦めさせるなりしないとあっという間に爺さんになってしまう。
(桔梗はまだ若い。同年代の男に目を向ければ、今なら俺よりもずっといい男と巡り会えるだろ……)
氷室がどんなに言い聞かせても。
『愛知桔梗に相応しい男は白雪氷室だけ』
そう桔梗が胸を張って告げるのだから、どうしようもない。
「なぁ、那須宮。お前、俺と浮気する気はないか」
「ひ……ゃ……!?うわ、うわわわ、うわ、わ!?」
氷室はあることをひらめき、那須宮に浮気を持ちかけた。
浮気を持ちかけられた那須宮は、奇声を上げて椅子から転がり落ちる。
当然だ。
那須宮は氷室が桔梗に言い寄られていることを、よく知っているのだから。
那須宮が了承すれば、氷室は美月と那須宮、桔梗の3人を弄ぶことになるのだ。
桔梗に関して、氷室は交際しているつもりなどないのだが──。
氷室に桔梗へ対する気持ちがある以上、周りからしてみればそう認識されるのはおかしなことではなかった。
「む、無理です!無理ですよぅ……!わたしが白雪先生の、さ、三番目の彼女になるなんて……!」
「桔梗とは交際していない。あいつを諦めさせる為に、彼女のふりをしてほしかったんだがな……」
「白雪先生を諦めて貰うために、わたしが白雪先生の彼女になった所で一体何の意味があるんですか……!?美月先生と交際していても、桔梗ちゃんは白雪先生を好き、なんですよね……」
「そうだ」
「き、桔梗ちゃんを差し置いて、わたしが白雪先生と交際することになったとお話すれば……!ち、血の雨が降りますよ……!?」
ただでさえ桔梗は那須宮と顔を会わせた際に、「氷室と交際しているなどとは言わないでしょうね」と釘を差している。
当時那須宮は、ブンブンと首を左右に振って怯えていた。
あの時那須宮が機転を効かせて氷室の彼女を名乗っていれば、氷室と桔梗にはまた違った未来が訪れていたことだろう。
「……そうだな。桔梗が人殺しになっては困る。今の発言は取り消そう」
「し、心臓に悪いです……」
「もう一つあるんだが」
「まだあるんですか!?」
那須宮は転げ落ちた椅子にもう一度座り直そうとして、すくりと立ち上がった。
もう一度椅子に座り、驚きすぎて椅子から転げ落ちるのを防ぐためだろう。
那須宮は氷室の言葉を、緊張の面持ちで待ちわびていた。
「美月の顔は見たことあるよな」
「美月先生ですか?はい……。半年ほど一緒に働いていたので……大幅に変化していなければわかりますけど……?」
「診療所に顔を出すことがあるかもしれない。その時は、対応を頼む」
「美月先生が……顔を、出す……?美月先生と連絡がついたのですか!?」
那須宮が驚くのも無理はない。
彼女は美月が、6年以上行方不明であることを知っているからだ。
氷室が頷けば、那須宮はよろよろと身体の力を抜いて先程まで座っていた椅子に力なく腰を下ろした。
「美月先生……6年間も、一体どこで何を……」
「那須宮も興味あるなら、一緒に聞けばいい」
「きょ、興味しかないです!」
「わかった。美月は気が向いたら来ると俺に告げた、いつになるかは分からないが──その時が来た時は、頼む」
「わかりました」
那須宮に話をつけておけば、診療所に美月がやってきても、追い返されることはないだろう。
問題は、実家に美月が顔を出した時のことだ。
実家には現在、社会人となった妹の鈴瑚が暮らしている。
妹とは「忙しい」を理由に、長い間電話ですらも連絡を取っていなかった。
直近の一週間は桔梗と同棲していた為、連絡を取りたくても電話の音声に桔梗の声が乗っかってしまうことを恐れ、連絡を取れなかったのだ。
桔梗が東京に戻った今なら、誰に配慮する必要もなく、いつでも連絡を取れる。
あのドキュメンタリー番組を見ていれば、白雪氷室が沖縄の小さな診療所で働いていることはすぐにわかるだろう。
問題は、近隣住民に聞き込み調査をしなければどこの病院で働いているのかがわからない所だろうか。
(美月はサプライズが大好きだからな……)
沖縄までやってきた美月が連絡をしてくれば、何にも心配することはないのだが──美月のことだ。
サプライズだのなんだのと理由をつけて、どうにか居場所を突き止めて顔を出してくるに違いない。
美月は誰かを救うためや、誰かを喜ばせる為なら金に糸目は付けないタイプだ。
自己犠牲の塊である美月は、稼いだお金を自分のことに使おうとせず、8割型貯金に回していた。
いつか自分の稼いだお金で、困っている人を助けられるように。
氷室と面と向かって顔を会わせる必要があるのなら診療所にやってくるだろうし、氷室よりも鈴瑚に会いたがっているならば実家に顔を出すだろう。
氷室は業務終了後、桔梗がいなくなった部屋で少しばかりの寂しさを感じながら――妹と連絡を取る。
「久しぶりだな」
『お兄様……?一体何の用ですか』
「報告がある」
『テレビ出演の事後報告でしたら不要です。テレビ局やら週刊文冬やらなんやらが連日押しかけてきて……わたくし、とても迷惑していましたのよ!』
「それはすまん。その申し訳ない気持ちをチャラにするようなビックニュースがある」
『お兄様の重大発表は経験上、大したことなどありませんでした』
「今日のはお前も驚くぞ」
『でしたらさっさと申し上げてくださいますか!?わたくしだって、暇ではないのですから!』
久しぶりに連絡を取った鈴瑚は、苛立ちを隠すことなく氷室へ怒鳴りつけた。




