水・木曜日:繋がらないはずの電話
──愛知桔梗と口づけを交わした。
氷室が言うつもりのなかった思いを吐露してしまい、気持ちの整理をつけるために目を閉じた矢先のことだった。
氷室に口づけた桔梗がどんな表情をしていたのかはわからない。
桔梗は唇を重ね合わせても、氷室が目を開けることがないと知るとすぐに唇を離す。
氷室の上から退いて反応がないことを確かめると、身体を元の位置に戻し、シーツの上でもぞもぞと動く音が聞こえてきた。
(今から目を開けたら、まずいよな)
氷室は狸寝入りを決め込み、桔梗の腕が腹部に巻き付く感覚を受けても眠っているふりをし続ける。
――どのくらい、眠っているふりをしていただろうか。
30秒、1分。3分、5分――永遠とも呼べるほど長い時間の終わりは、案外早くにやってきた。
桔梗から、小さな寝息が聞こえてきたからだ。
(油断も隙もないな……)
桔梗が眠りの国へ旅立ったことを確認するために、氷室はゆっくりと瞳を開く。
氷室は、なんとも形容しがたい難しい表情をしながら、自らの腹部に顔を埋める桔梗の頭部をじっと見つめた。
たった6日間、一緒にいただけなのに。
明日にはこのぬくもりが失われるのだと思うと、氷室は言いようのない喪失感に襲われた。
トラウマになっているのだ。
隣にいたはずのものが、氷室の意思に関係なく失われる──。
(こいつと二度と会えなくなったとしたって。俺が、特別な感情を抱くようなことはないはずだ)
二度目の口づけを交わした所で。
桔梗を愛おしいと思うことなどなかった氷室が、美月と同じように桔梗が行方不明になった所で、特別な感情を抱くはずなどないのだが──。
明日は桔梗がいなくなると考えただけで喪失感に襲われるなど重症だ。
これでは氷室が、まるで。
(俺は……こいつのことをどう思ってんだ……?)
自分でも、考えた所でその答えは出てこない。
氷室と桔梗には年齢差がある。
氷室にとって桔梗はどんなに年を重ねたとしても子どもであるはずなのだが──。
(……嫌では、ないんだよな……)
こうして抱きつかれ、共に過ごすことが嫌ではなくなりつつある。
むしろ、桔梗に甘えられ、添い寝することが当たり前になりつつあるのだから重症だ。
(どうすんだよ……)
氷室が桔梗に抱く思いが年の離れた妹に向けるような感情であればよかったのだが。
氷室は美月が居なくなってからずっと依存先を探していたのだ。
桔梗は美月のように氷室を優しく導き、受け入れてくれる存在ではない。
けれど、氷室を思う気持ちだけは下手すれば、美月の何倍もあり──。
(俺が悪いことをしているみたいじゃないか……)
氷室を大好きだと慕い、結婚してほしいとまとわりつく桔梗を跳ね除けるたびに。
心へ鈍い痛みが走って仕方ない。
『俺には美月がいる』
強く自分に言い聞かせることで桔梗の好意を跳ね除けてきた氷室は、その前提を崩されてからおかしくなっていた。
(俺はこいつの気持ちを受け入れたとして……。責任なんざ取れんのかよ……)
美月との恋愛は、全く問題ない。
氷室の方が年下で、氷室が美月の背中を追い続ける恋であったからだ。
けれど桔梗との恋には問題しかなかった。
氷室は追われる恋よりも負う恋が性に合っていると気づいたのは桔梗のお陰だ。
それでも。
桔梗と言葉を交わしていると、その前提さえも破壊されるような気がして。
恐ろしくて堪らなくなるのだ。
(愛知桔梗への恋愛感情はない)
その前提さえも崩れてしまえば、白雪氷室でさえもなくなってしまうような気分だった。
(この感情を認める日が来るとしたら……)
氷室が桔梗に抱く思いを認める時が来るとすれば。
それは氷室が、美月に直接顔を合わせて別れを告げられた時でなくてはいけない。
(いくら俺が美月に向ける感情が憧れだったとしても……こいつの手を取り共に歩く未来を選び取ることは、浮気に等しい。自制しろ。俺からこいつに手を差し伸べることなんざ、あっちゃいけない)
自制しろと考える時点で、氷室の気持ちが桔梗にあるのは明らかである。
それを認めたくない氷室は、自身の手がゆっくりと桔梗の頭部目掛けて進んでいくことを、必死になって止めようとしていた。
(こいつに俺から触れて何になる。人肌恋しいなら、後腐れない女を引っ掛ければいいだけの話だろ)
氷室は必死に桔梗以外の女に目を向けようとしたが、わざわざ疲れた身体を引き摺ってまで興味のない女に金を払って手を出しにいくのがめんどくさかったのだ。
目の前にいる、自分を慕う女に今すぐ触れることで生まれるめんどくささと天秤に掛ければ、欲望に負け──桔梗の姿頭部に優しく触れてしまった。
頭を優しく撫でただけでは、何かが始まるわけもない。
氷室が自分の意志で桔梗に触れたことは、今まで自分を律し続けていた氷室の感情を大きく揺れ動かす行いであることは確かだったようだ。
(俺は馬鹿か……)
桔梗のよく手入れされた、サラサラの髪の毛に触れた氷室は、もっと彼女に触れたいと思うことがないように手を引っ込めた。
(……認めるわけ、いかねぇだろ)
愛知桔梗に向ける感情が、恋だとしても。
それが恋だと認めるわけに行かない氷室は、何があっても恋でないと否定すると決め──考えることを放棄した。
*
「氷室先生」
氷室は就業時間が近づくに連れて、どんどんと顔色が悪くなって行った。
那須宮に「体調が悪いのか」と心配されるほどだったが、桔梗に告白される時間が迫っていると馬鹿正直に那須宮へ告げられるはずもない。
氷室は事務員と那須宮に就業時間が終わりを告げた後、さっさと帰るよう言い聞かせると、診療所にやってきた桔梗と対峙した。
「時間がないから、単刀直入に言うね。私は氷室先生が好き」
「……誇れる内面は見つかったのか」
「愛知桔梗が持っている、愛知桔梗にしかない誇れる内面は──氷室先生が大好きって感情だけ。氷室先生を大好きな気持ちは、誰にも負けない」
愛知桔梗には、白雪氷室を好きな気持ち以外に誇れる内面があるはずなのだが──。
氷室が桔梗の誇れる内面を指摘してやることはできそうにない。
桔梗の誇れる内面を指摘し、その部分に惚れることは──愛知桔梗と添い遂げる人生を決定づけることにもなりかねないからだ。
「氷室先生は周りに興味なさそうにしていることが多いけれど、嫌いな人や困っている人のことを見捨てられない。うちに秘めた情熱は、焔華さんと同じかそれ以上にメラメラと燃えている」
愛知桔梗は、神奈川焔華に憧れを抱いている。
アイドルとしての神奈川焔華ではなく、桔梗は彼女そのものに憧れ目標としているらしい。
氷室からしてみれば、「あんな女」と同列に語られたくないと思っているようだが──。
氷室の内面が焔華とよく似ているからこそ好きになったのだと告げる桔梗は珍しく、無表情に淡々と氷室へ気持ちを吐露していた。
「私はずっと天使になりたかった。きーちゃんのように生まれたことを祝福され、慈しみ育てられる幸せを一度でもいいから感じたくて生きてきたの。でも……。氷室先生と出会ってからは、私は私でいいと思えた」
愛知桔梗は天使になれない。
そもそも、愛知吉更だって両親が天使であると定義づけただけで、天使などではないのだ。
天使だの悪魔だのこだわった所で、人間であることはやめられない。
桔梗は氷室のお陰で、悪魔である自分を受け入れることができたと言うが──。
本当にそうなのだろうか。
氷室がいなくても、桔梗は天使や悪魔の括りはまやかしであることに気づきそうなものだが。
「私は悪魔。人々を狂わせ、生まれるべきではなかったと両親を後悔させた。これからも幸せになることなど許されないかもしれない。それでも──」
桔梗はその答えに気づくことなく、自分はあくまであると思い込んでいる。
「私は氷室先生と結婚して、産まなきゃよかったと言った両親を見返してやりたいの。私にだって、愛してもらえる人ができたんだって……」
必ずしも氷室でなければならない必要はあるのだろうか。
氷室は真っ先に疑問を抱き、眉を顰めたが、天使や悪魔どうこうについては怒り狂う吉更の主張を聞いていた身だ。
氷室でなくてはいけない理由は、あの場に同席していて状況を把握していることが大きいのだろう。
「お前の主張はわかった」
氷室は拳を握りしめ、桔梗の主張を受け入れる。
告白を受け入れるとは言っていないが、氷室の口からため息が漏れることはなかったことに安堵したのだろう。
桔梗は氷室の答えを、今か今かと待ちわびていた。
桔梗は白衣を羽織っていない。
そのお陰で、氷室は彼女の瞳をまっすぐ見つめ返す。
無言でスマートフォンを取り出した氷室は、不思議そうな顔をしている桔梗に説明する。
「今から美月に連絡する」
「……美月先生?」
「そうだ。美月の連絡先に電話を掛ければ、呼び出し音が鳴る。5コール鳴らし、美月の声が聞こえなければ──お前と共に歩む未来を受け入れる」
桔梗の告白を受け入れるべきなのか。
考えた所で、氷室から出てくる答えは否だ。
冷静に考えれば、氷室が桔梗の思いを受け入れる確率は1%にも満たないだろう。
ただ……。
前日の夜に、桔梗が側からいなくなると考えた時。
氷室は考えてしまった。
このぬくもりを失うことになるくらいならば、桔梗を受け入れるべきではないかと。
「いいよ。美月先生の声が聞こえてこないことで、思いを断ち切り──氷室先生が私を好きになってくれるなら」
桔梗を美月のように失うくらいだったら。
繋がるはずのない美月の電話に連絡をして、5コール声が聞こえなければ彼女と付き合うと約束こそしたが──桔梗に好意を抱けるかどうかは、また別の問題だ。
「わかった」
桔梗から了承を得た氷室は電話をかけ始めた。
プルル、プルルと呼び出し音が永遠に鳴り続けるだけで、当然美月の声は聞こえない。
(あと3コールで美月の声が聞けなければ。俺は桔梗と交際する)
プルル……1コール。
プルルルル……2コール。
プルルル──3コール目。
やはり駄目だったと氷室が諦めて桔梗の告白を了承しようとした時だ。
「俺はお前と──」
ブツ、と。
回線が切り替わる音がした。
「氷室先生」
「……っ!」
桔梗が告白の答えを聞こうと、氷室を急かす。
彼女を手で制した氷室は、スマートフォンを耳に押し付けると、静かな声で美月の名を呼んだ。
「美月」
『──62回』
聞こえるはずなどない。
美月の声を6年ぶりに聞いた氷室は、思わず桔梗から視線を反らした。
桔梗と目を合わせたまま、美月と会話などできるはずがない。
氷室は美月を裏切ろうとした罪悪感に飲まれながら、一言一句聞き漏らさないように意識を集中させて、美月の言葉を待った。
『氷室が繋がらない電話をあたしに掛け続けた数よ。着信履歴とも呼ぶわね』
「美月、お前!」
『あたしが氷室の前から姿を消した後、立て続けに何十回も電話を掛け続けた後は、未練がましく私と氷室の誕生日に1回ずつ。気持ちが落ち着かない時、ちょこちょこ連絡をして来ていた……』
「今どこにいるんだ!」
『もういい年なんだから、いつまでもあたしに頼っていては駄目よ』
「美月……っ!」
氷室は桔梗が目の前にいることすらも忘れ必死に美月の名を呼んだ。
捨てないでくれと思う気持ちと、曖昧にするくらいだったら今すぐにはっきり「別れる」と宣言してほしいと思う気持ちが相反している。
『気が向いたら、会いに行くわ』
「ああ……っ。いつでも待っている……!」
美月と永遠に言葉を交わせないなら、桔梗でもいいと思っていた気持ちが何処かに吹っ飛んだ氷室は、いつの間にか距離を縮めた桔梗に袖を引っ張られて我に返る。
「……美月先生と、連絡取れたの……」
「……ああ。俺はまだ、美月を諦めることなどできそうにない」
「そう。わかった」
美月は「気が向いたら会いに来る」と氷室に伝えてきた。
美月は二度と氷室に会うつもりがないわけではないのだと知った以上、氷室は桔梗に依存する必要がなくなってしまったのだ。
「じゃあ、美月先生が会いに来たら私を呼んで。振られる所、見届けてあげる」
手のひらを返した氷室に、桔梗はあっさりと答えを受け入れ微笑んだ。
今回は告白を断られてしまったが、正式に氷室がフリーになれば受け入れてくれると確信しているらしい。
桔梗にペースを乱されていた氷室は、自身のペースを取り戻すと桔梗の言葉に首を振る。
「何度告白されようとも、俺の気持ちは変わらない」
「美月先生と連絡が取れなければ、私の告白を受け入れてくれたくせに」
氷室は否定できずに押し黙った。
桔梗の指摘が図星だったからだ。
美月と連絡が取れなければ、氷室は桔梗との交際を前向きに検討するつもりだった。
「酷い男だろ」
けれど。
美月が氷室に会いに来ると告げた以上、面と向かってけじめをつける日がいつか必ず訪れるとわかったのだ。
美月と交際をする、しないをはっきりした上で桔梗の思いを受け入れるかどうかを考える必要があるだろう。
「美月先生と電話が繋がらなければ、氷室先生は私のものになっていた。氷室先生は十分譲歩してくれたよ」
桔梗は同意をしなかった。
美月と電話が繋がってしまったからこそ、桔梗は告白を受け入れて貰えなかっただけで。
あともう人押しであることは変わりないと思っているのだろう。
(酷い男だと俺を怒鳴りつけるような女であれば……もっと早くにこいつを開放してやれたのにな……)
飛行機の時間が迫っている以上、この場で長々言い争いをするつもりは桔梗もないらしい。
氷室が腕時計で時間を確認すると、桔梗はゆっくりと氷室の袖から手を離した。
「諦めた方が身のためだぞ」
美月の声を聞かなければ。
桔梗と離れがたくて袖を掴む手が離れたら縋りついてしまいそうだったなど、口が裂けてもいえない氷室は桔梗の背中に念を押す。
「──私は絶対に諦めない。先生と添い遂げるまでは」
断られても、諦めろと言われなくたって。
振り返った桔梗は「受け入れてくれるまで何度だって告白し続ける」と宣言して見せた。
どうやら、桔梗と氷室の攻防戦はまだ続くらしい。
はっきり宣言されてしまえば、氷室は深いため息を吐き出すことしかできなかった。
next→3章(前編)/5章 6年の沈黙を経て。銃殺未遂事件に偶然居合わせた彼女が姿を見せても、もう遅い──




