兄と妹
「お兄様!無事かどうかの返信くらいしてください!」
3日ぶりに帰宅すれば、桔梗に無理やり通話を切断された以来に声を聞いた鈴瑚が氷室を涙目で睨みつける。
お姉様と慕っていた美月がある日突然居なくなったことがトラウマの鈴瑚は、知らない女の声が聞こえた瞬間電話が切断されたことに対して怒り狂っていた。
連絡はこまめにしろと泣き叫ぶ鈴瑚を宥め、後のことを使用人に任せて仮眠を取ろうとした氷室の腕に絡みついてきた鈴瑚は、分厚い紙束を氷室へ見せつけてくる。
「お兄様!美月お姉様の資料をわかりやすくわたくしが時系列順に並べた資料です!」
「何ページあるんだよ」
「285ページありますが、重要な部分に付箋をつけておきました。忙しいお兄様は、まず付箋の部分だけでも今日中に目を通してください!」
「分厚すぎだろ……」
人間が生きるために必要な睡眠時間を十分に取れていない氷室は、うんざりした様子で分厚い資料を持ってリビングのソファに寝転ぶ。
(警察へのプレゼン用か……?)
本来であれば自室に籠もりベッドで眠るつもりだったが、氷室は11時に桔梗から呼び出されている。
お昼時には早すぎて、店の開店時間には遅い。
なんとも中途半端な時間だ。
現在の時刻は朝の8時。
2時間は確実に眠れるが、ベッドの上で眠れば二度と起き上がれないような気がしてならなかった。
「お兄様!資料を読んでから寝てください!そのまま寝たら資料がぐちゃぐちゃになってしまうではありませんか!」
「うるせえな……。10時半になったら起こせ」
「わたくしは目覚まし時計ではありません!」
鈴瑚はうるさく騒ぎ立てるが、知ったことかとばかりに氷室は目を閉じる。
纏まった睡眠時間が取れないのは、今に始まったことではない。
眠れるときに眠ったい方がいいと学習している身体は、すぐさま眠る準備を始めた。
「鈴瑚様」
「……お兄様……。相変わらず、お休み3秒ですね……」
使用人が気を利かせて持ってきた掛け布団を手にした鈴瑚は、氷室の身体に風邪を引かないように掛け布団を掛けてやる。
氷室は休日、美月と落ち合う隠れ家に顔を出す以外は外に出ることなく自宅にいた。
普段隠れ家に行く時間は人目につかない夜中なので、珍しいこともあるものだと鈴瑚は氷室の寝顔を見学しながらポツリと呟く。
「わたくしは、お兄様が壊れてしまわないか心配です……」
美月がいなくなってから。
鈴瑚と氷室は彼女が残した資料に、彼女の行方に繋がるようなヒントがないか血眼になって探していた。
鈴瑚は花も恥じらう高校生であり、帰宅部だ。
学校さえ終わればいくらでも暇な時間はあるが──激務の氷室はそうもいかない。
美月が今も天門総合病院で女医として勤務していたならば。
休日氷室は寝溜めをして、仕事に明け暮れていたことだろう。
「生活リズムが合わなくて、デートの一つもできずにお兄様が振られるようなことがあっても……美月お姉様の生死が不明になるなど、想定していませんでしたから……」
研修医を終えた美月は希望すればまとまった休みが取れる状態ではあったが、二人が同じ日に一日フリーになる時間を作るのは難しい。
美月と氷室は長年交際している恋人同士ではあるが、鈴瑚が把握している限りでは二人が恋人らしい生活を送っている姿はあまり見たことがなかった。
「もっと強く、婚姻届に版を押すように言えばよかった……」
鈴瑚は、美月や氷室の迷惑になるからと、わがままを貫き通して強引に婚姻させなかったことを後悔している。
(美月お姉様なら、お兄様を任せてもいいと思えたのに)
氷室の隣は美月しかありえないと断言する鈴瑚は、数日前電話越しに聞こえてきた桔梗の声を思い出して頭を振った。
(美月お姉様。早く帰ってきてくださらないと、お兄様が他の女に取られてしまいます)
美月はいつか必ず、元気な姿を見せてくれる。
鈴瑚はそう信じて、美月の代わりに氷室を得たいの知れない女から守ろうと誓った。
*
10時50分。
駅前の噴水広場に氷室が顔を出せば、待ち合わせの人物はすでに到着していたのだが──。
その格好が問題だった。
(俺は今日、愛知桔梗と待ち合わせをしているはずだ)
そもそも愛知桔梗は病院に入院している。
人身売買の準備が整うまで、人質のような形で入院することになった人間が外出許可など取れるのだろうかと不思議で堪らなかった氷室は、入院患者であるはずの桔梗が気軽に外へ出られる理由を知ることとなった。
「……愛知……?」
「氷室先生!」
どうやら、院内学級で「双子は便利」と言われていた理由がこれらしい。
桔梗の片割れ――吉更は氷室のことを「氷室先生」とは呼ばない。
「氷室先生」と読んだ時点で、中身は桔梗だ。
「ふふ。氷室先生、私がきーちゃんみたいな格好していたから驚いたでしょう。氷室先生とデートしたくて、きーちゃんに替わって貰ったの!」
恐らく、が確信に変わった瞬間だった。
替わって貰ったが意味する所は、病院を抜け出してきた桔梗の代わりに、吉更が病室で桔梗のふりをしていることだろう。
「血液検査はどうしているんだ」
「私ときーちゃんは、どこも悪くないもの。入れ替わっていても、何も言われない」
「むちゃくちゃだな……」
性別が同じ双子ならともかく、性別の異なる二卵性の双子が入れ替わるなど、常識では考えられないことだ。
桔梗は病院、吉更は自宅。
生活からして違うのだから、当然血液検査の結果だって差異が生まれるだろうに。
「あの子を助けるために、私ときーちゃんのどちらかを常にキープできていたら、病院側は何も言わないよ。あの子は女の子だから、できればきーちゃんではなく私の肝臓を移植したいみたいだけど」
桔梗の言い分を信じるならば、病人側は黙認しているようだ。
「氷室先生!行きたい所があるの!着いてきて!」
「おい、走るな……!」
桔梗の言葉を疑っていた氷室は、桔梗が全速力で駆けていく姿を見て思わず声を上げた。
何かあったらどうするんだと怒鳴れば、桔梗は「大丈夫」と微笑む。
初対面時感情の起伏が乏しいように見えた桔梗は、ただの人見知りだったのかもしれない。
元気に走り回る桔梗の背中を追ってついた先は、大型ショッピングモールモールだった。
桔梗は迷いのない動作で、無料観覧ステージのある場所へと向かう。
その方向へと向かえば向かうほど、マイクにより拡散される耳障りな歌が聞こえてきた。
(……下手くそ。素人のカラオケ大会かよ……)
氷室が顔を顰めれば、振り返った桔梗が聞こえてくる歌声について説明を始める。
「氷室先生、テレビを見る暇もなさそうだから、きっと知らないよね」
「休みの日くらいは見るぞ」
「休みの日って……。月に3日しかない貴重なお休みに?歌番組、見るの……?」
桔梗は氷室の発言に懐疑的だ。
どんなに忙しかったとしても、休みの日まで知識を詰め込むほど氷室は仕事人間ではない。
美月ならば、休みの日までスキルアップの時間に費やしそうだが……。
氷室は基本、休みの日は寝溜めするタイプだ。
とてもじゃないが、休日も活動的に行動していたら身体が持たない。
「妹がテレビのチャンネルを歌番組に合わせていればな……」
氷室は実家で妹と共に暮らしている。
妹の鈴瑚は流行に敏感なので、歌番組が放送されている時間にリビングへ顔を出せば、自動的に歌番組を見聞きすることになるのだ。
「先生、妹さんがいるの?」
「お前とは2つ違いだ」
「2つ違いってことは、16歳?高校生だ!いいなぁ、高校生。私もセーラー服着たい!」
肝臓がんが事実であれば、移植手術を受けなければ長くは生きられないはずなのだが…桔梗の言い分を信じるならは、桔梗の身体は健康そのものだ。
そう悲観するようなことはないだろう。