水曜日:様子のおかしい氷室におねだり(桔梗視点)
桔梗は明日の夜、20時45分の便で東京に戻る予定だった。
無理矢理1週間の休暇を取得する為、前後に分散させた仕事が東京で桔梗の帰りを待っている。
氷室と過ごせる時間は水曜の朝と夜。
そして木曜の朝と、空港へ向かう直前──氷室の仕事終わりだけだ。
(早く氷室先生と、一緒に暮らしたいな……)
氷室には仕事がある。
たとえ桔梗が仕事をやめて一般人になったとしても、四六時中一緒にいることは叶わないかもしれない。
それでも。
桔梗が自ら会いに行かなくては氷室と言葉を交わせないくらいの生活を送るくらいならば、朝と夜の挨拶だけでもいい。
桔梗は少しでもいいから、氷室と言葉を交わし合いたかった。
「氷室先生」
氷室はじっと、部屋の壁を食い入るように見つめている。
壁に何かいるのかと桔梗も視線の先を確かめてみたが、真っ白な壁に何かがいるわけではなかった。
「ねぇ、氷室先生」
桔梗が何度名前を呼んでも。氷室は眉を顰めたり、握り拳を作るだけで、桔梗を見てはくれない。
氷室は白衣を羽織った桔梗に、思う所があるようだ。
桔梗が白衣を強請って強引に羽織り、普段着として活用することになってから。
氷室は目に見えて桔梗への態度を軟化させた。
いつもは「お前」としか呼ばなかった呼び名を名前呼びに変え、視界に桔梗が映り込むたびに、困ったように目を伏せる。
(氷室先生の様子がおかしい)
桔梗を嫌っていた氷室の姿を見たことのある人間であれば、誰だってそう感じるであろう。
桔梗は氷室の意識を自身に向けるべく、氷室の頬をツンツンと突き始めた。
「氷室先生、氷室先生。しろゆきこおりひつせんせいー」
氷室のフルネームを本来の呼び方ではない読み方で呼べば、どんなことがあっても氷室は桔梗の呼びかけに答える。
やっと何もない壁を見るのやめて頬を人差し指で突いていた桔梗を見つめた氷室は、深いため息をつく。
それだけで氷室が何を伝えたいのか理解した桔梗は、ぷっくりと頬を膨らませてツンツンと氷室の頬を優しくつついた。
「私、たくさん名前を呼んだのに。全然答えてくれないんだもの」
「変な呼び方で呼ぶの、いい加減やめろよ……」
「氷室先生が私を無視しなければ、呼ばないよ」
「無視しては、いない……」
氷室は桔梗が白衣を羽織るようになってから、口調を崩すようになっていた。
桔梗を導く大人であろうとしていた為、大人になった桔梗に気を使う必要がなくなったのか──嫌いから好きに変化しつつあるからこそ、口調を変えたかどうかは微妙な所だが……。
桔梗は順調に氷室の懐へ入り込み、着々と彼との距離を縮めつつあった。
「じゃあ……クイズを出題する」
「クイズ……?」
「私は氷室先生のこと、何回呼んだでしょう。不正解だったら、氷室先生は私の抱きまくらになって」
「いつも俺の許可なんざなくたって、抱きまくらにしてくんじゃねえか……」
単身者用の1DKマンションで暮らす氷室の部屋には、シングルベッドが一つしかなかった。
初日こそベッドを桔梗に譲り床で寝ていた氷室だが、夜にベッドから抜け出て床に横たわる氷室の布団へ桔梗が潜り込んだことにより、一悶着あったのだ。
桔梗はあまり、寝相がいい方ではない。
シングルベッドの上で二人一緒に寝るなら桔梗は壁側に横たわり、床に転がり落ちないようにガードして貰う必要があった。
氷室がシングルベッドの上で桔梗と眠るのを嫌がっているのは、寝相が悪いからだけではない。
交際しているわけでもない男女が密着して眠ることに、難色を示しているのだ。
「5秒で答えて。5……4……3……」
「5回」
「はい、残念。正解は7回だよ」
白雪氷室の中には常に空島美月の存在がある。
彼女は氷室の元交際相手だが、つい最近まで氷室は美月との関係性が「元」ではなく現在進行系であると信じて疑っていなかったのだ。
桔梗を愛すれば「浮気」であると尻込みしている氷室の目を覚まさせるのには苦労したが、その苦労があったからこそ。
──桔梗はこうして氷室の白衣を羽織り、彼と和やかに会話する権利を得たのだった。
「帰って来たら添い寝の刑ね。楽しみだなぁ。氷室先生と添い寝」
「楽しみにすんなよ……」
氷室が呆れても、桔梗は満面の笑みを浮かべて白衣を手繰り寄せる。
氷室の呆れた声は、桔梗には届いていないらしい。
羽織っている白衣へすっぽりと身体を覆い隠した桔梗はブカブカの袖から小さな手を出し、ひらひらと手を振った。
「氷室先生、もうすぐ出る時間じゃ……」
「……後で覚えていろよ……!」
氷室がボケっと何の変哲もない壁を見ている間にも、時間は無情にも過ぎ去っていく。
背後の壁に立て掛けられた壁時計の針が指し示す時間を確認した氷室は、慌てて外出の準備を始めた。
どうやら、出勤の時刻が間近に迫っていることに気づいていなかったらしい。
「なにか手伝う?」
「余計なことすんな。座っていろ」
「はーい」
手伝いを申した桔梗をないがしろにして出勤準備を終えた氷室は、あっという間に部屋を出て行ってしまった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
桔梗がひらひらと手を振り氷室を見送れば、診療時間に遅れそうな氷室は後ろを振り返ることなく去って行った。
残された桔梗はリビングに戻ると、テレビ電話を掛ける。
相手はもちろん──双子の弟である吉更だ。
「おはよう、きーちゃん!焔華さんも!」
『あたしはおまけ?』
桔梗は画面に二人仲良く肩を並べて映る吉更と焔華に挨拶をする。
ついでに名前を呼ばれた焔華は不満そうな声を出した。
桔梗は「おまけではない」と焔華に伝えた後、早朝に電話をした理由を話す。
「予定通り、明日の飛行機で戻るね。空港からは……」
『着いたら連絡しろ。迎えに行ってやる』
「やった。きーちゃん。待っているね」
『で?あいつとはどうなのよ。攻略できたわけ?』
「今ね、すごくいい所なの」
桔梗は羽織った白衣を手繰り寄せると、笑顔で吉更と焔華に語った。
氷室から白衣を奪い取り、羽織るようになってから態度が軟化したこと。
美月への気持ちが好意ではなく憧れだと突き付けてやれば、桔梗を恋愛対象として見るようになりつつあること。
定期的に長期休暇を取り氷室と距離を詰めれば、氷室と交際することも夢ではないこと──。
『あんたはもうアイドルではないけれど。元国民的アイドルの恋愛スキャンダルは、現役のメンバーにも迷惑を掛けることになるわ』
「今のImitation Queenって、パッと目を引くような子がいないよね。焔華さんの選んだ子たちが悪いわけではないけれど……」
『定期的に長期休暇を取って飛行機を利用するつもりなら、必ずどこかで情報が漏れるわ。本気であいつを自分のものにするつもりなら、先に記者会見でも何でも開いて世間を味方につけるか、芸能界からすっぱり足を洗いなさい』
芸能人の恋愛スキャンダルが騒ぎになれば、その後の人生に多大なる影響を与える。
氷室が桔梗と愛を確かめ合い結婚するとはっきり靴にすればいいのだが……。
不確定な状態で芸能界から足を洗えば、桔梗は貯金だけで生きていくことになる。
14歳から国民的アイドルとして活動してきた桔梗が今更一般社会に出て、アルバイトからはじめるなど無理な話だ。
焔華は「働き口がなければあたしと一緒に裏方をやればいい」と誘ってくれるが──。
桔梗はImitation Queenの現役メンバーを支えたいとは思わなかった。




