月曜日:那須宮へ恋愛相談
「男と女の幸せに、違いがあると思うか」
持参してきた弁当を電子レンジで温めている間、氷室は那須宮に問いかけた。
哲学的な質問を氷室からされると思っていなかった那須宮は、びくりと身体を震わせて氷室を見上げる。
ある日突然森の中で魔王に出会った村娘のような表情をした那須宮は、ぶるぶると震えながら氷室の様子を窺う。
「あ、あの……っ。し、白雪先生……?それは……一体……。桔梗ちゃんと、なにかありました……?」
「あるといえばあるが、ないといえばない」
「ひえっ」
冷凍食品のラザニアを電子レンジで温め、熱々になったラザニアを一口スプーンで掬った後、息を吹き掛けて冷ましながら口に運んでいた那須宮は震え上がる。
氷室の曖昧な言葉が恐ろしくて堪らない彼女は、一度スプーンから手を離し、電子レンジで温め終わった自作の弁当を取り出し開いている席に座った氷室へ問いかけた。
「あの……わ、私で良ければ……聞きますけど……」
「散々お前には言ったと思うが」
「ひゃ、ひゃい」
「俺はあいつのことが嫌いだ。幸せにしてやることなど、俺にはできないはずだった」
「だった、ですか……?」
氷室は過去形で那須宮へ打ち明ける。
年下の……それも異性である那須宮に自身の恋愛相談をするのは憚られるが、彼女は素っ頓狂な声こそ上げるものの、その点だけ目を瞑れば回答自体はしっかりとしていた。
氷室が日常的に会話をし、桔梗と氷室の関係がどうであるかを把握した上で常識的な話をしてくる那須宮は、気軽に恋愛相談などできる友達の居ない氷室にとってとてもありがたい存在だ。
「あいつの幸せを思うためなら、俺の幸せを手放してでも、あいつを好きになってやるべきかもしれないと思い始めている」
「ど、どんな心境の変化ですか……?」
氷室が桔梗を受け入れるような発言をするとは思わず、那須宮は恐る恐る氷室へ問いかけた。
昨日の白衣事件と、一昨日美月に抱く思いを突きつけられるようなことがなければ、今頃氷室は桔梗に絆されることもなく桔梗を嫌っていたままだっただろう。
人生、何が起こるかなどわかったものではない。
氷室は桔梗を恋愛対象として認識しつつあった。
「あいつとは大きな壁がある。年齢、考え方、芸能人と一般人。愛の重さ……」
「それは……壁、なんでしょうか……」
「壁ではないとすれば、何だと思う」
「え、えっと……乗り越えられるもの、ですよね……。生まれた年代は変えられないですし、考え方を簡単に捻じ曲げられるならば苦労はしません……っ」
唯一壁として認識できそうなのは芸能人と一般人だけであると氷室に告げた那須宮は、すっかり冷めたラザニアを口に運びながら考えている。
壁と呼ばないなら、今氷室と桔梗の間を隔てるものをどう呼ぶべきか。
「それは、隔たりではなく……白雪先生が桔梗ちゃんと交際したくない理由ではないでしょうか……」
熟考した後、氷室と桔梗を隔てる壁など存在しないと那須宮は告げた。
年齢差があるから桔梗と交際したくない。
考え方が違うから。
一般人が手の届くはずがない芸能人だからと理由をつけて。
桔梗と交際したくない理由を羅列しているだけで、乗り越えなければならない壁でもなければ隔たりでもないと言われた氷室は、やっと自分の中で腑に落ちた。
自分の気持ちを認めたくないからこそ。
理由をつけて桔梗を遠ざけ、嫌いであると思い込んでいたことに。
「し、白雪先生は……桔梗ちゃんのことが嫌いだと言いながらも……まとわりつかれても、全力で嫌がるような素振りは見せませんでした。その、気分を悪くしたら申し訳ないのですが……」
「俺の気分など気にするな。お前の率直な感想が聞きたい」
「ひえっ。そ、そのぅ……。理由をつければ……白雪先生は、桔梗ちゃんから一方的に好かれている男性……となります……。年の差があったり……芸能人でも……批判されることはありません……」
──もしも氷室が満更ではない様子を見せ、桔梗の思いを受け入れた氷室が堂々と。
彼女を侍らせるようなことがあれば。
氷室は間違いなく非難されるだろう。
12歳差の若い元国民的アイドルの芸能人を骨抜きした、謎の一般男性として世間から白い目を見られたくない氷室は、必死になって桔梗を嫌いになり、拒む理由を探している。
「桔梗ちゃんが一般人になれば……。白雪先生が想定するほど酷いパッシングが起きることなく……静かに暮らせるのではないでしょうか……。この辺りの住人さんたちは皆さん、白雪先生と桔梗ちゃんの……し、幸せを……願っています、し……」
氷室の都合がいいように考えるならば、桔梗への思いを認め、添い遂げる代わりに芸能人として輝くことは諦めてくれと交換条件を出せばいいだけだ。
だが、それは氷室の一方的な願望であって、それが桔梗の幸せに繋がるかはわからない。
桔梗は氷室と美月の件を知る人間からしてみれば「結婚を約束していた本命彼女から若さと芸能人であることを武器に氷室を奪い取った略奪浮気女」だ。
氷室の妹である鈴瑚に桔梗を会わせようものなら、必ず上記の言葉を口汚く罵られ、氷室は非難されるだろう。
鈴瑚が美月のことを「お姉様」と呼びしたい、戸籍上の義姉となることを楽しみにしていることを知る氷室は、自分が口汚く罵られることよりも。
妹の泣き顔を思い浮かべて、心を痛めていた。
(桔梗が鈴瑚とほぼ同じくらいの年って言うのだがな……)
氷室と3つ程度の年の差であれば、まだ良かったのだが。
美月が戻ってきた際。
事件に巻き込まれ行方不明になっている間、氷室が美月のことを忘れて桔梗とよろしくやっていたに違いないと発狂されては堪らない。
氷室だって、桔梗が恋愛対象であることに気づいたのはつい最近なのだ。
鈴瑚に怒鳴られたとしても誤解だと叫ぶのが嫌で、氷室は桔梗からの愛を拒んでいるのだとすれば──桔梗が氷室を諦められないのも無理はないだろう。
(大事なのは、鈴瑚の気持ちではなく……俺の気持ちだ)
白雪氷室は、誰と添い遂げるのが一番幸せなのだろうか。
それを決めるのは周りの人間ではなく氷室本人だ。
那須宮に問いかけた所で、答えそのものを受け取ることなどできやしない。
「女の幸せとはなんだ。結婚して子どもを生むことか。働かずに旦那に寄生することが幸せなら……」
「へっ!?そ、そりゃ……は、働かなくて住むに越したことはないですが……お子さんが生まれたら、働けない、ですよね……?保育園や幼稚園に預けるにはお金も掛かりますし、職場の理解だって必要です。寄生と呼ぶのは、ちょっと……」
男は妻と子を養うために働き、女は家庭を守る──時代錯誤もいい所だ。
今どきの社会では夫婦共働きでなければ、生活が立ち行かなくなる程に低賃金化や物価上昇が叫ばれている世の中。
桔梗だってスキャンダルを恐れる必要さえなければ、一晩で数百億稼ぐ金の卵を生む雌鳥だ。
このまま一生芸能界に身を置き続けるならば、氷室の何倍も稼げるだろう。
桔梗が氷室と交際したいと願うのは、金銭面が理由ではない。
氷室の言動は、的外れにも程がある。
「なら、那須宮の思う女としての幸せをを聞かせてくれ」
「わ、私の……ですか……?桔梗ちゃんに当てはまるかはわかりませんよ……?」
「構わない」
「で、では……。僭越ながら……。わ、私は、大好きな人と一緒に生活していくことこそが……女性としての幸せ、だと思います……」
那須宮は顔を真っ赤にした姿を氷室に見せたくないのか、うつむき加減でボソボソと打ち明ける。
好きな人と一緒に過ごし、好きな人の子どもを産んで育ててみたい。
それができない今の自分が不幸であるとすら思っている那須宮は、滅多に口にすることなどない奥底に隠していた気持ちを吐露して、恥ずかしそうにしている。
(小動物みてぇな所は変わんねぇのに……那須宮が恥ずかしがっていてもなんとも思わねぇんだよな……)
どうでもいい女と好きな女の違いを認識した氷室は、ぴたりと思考を停止させる。
どうでもいい女──那須宮の恥ずかしそうにしている姿はなんとも思わないが、好きな女──この場合思い浮かべるのは、美月ではなく桔梗が白衣を羽織満足そうに微笑んでいる姿であることを自覚した氷室は、愕然とした。
(美月への思いは憧れ……恋愛感情じゃねぇから……)
そもそも美月は、氷室の前で恥ずかしがるような仕草は見せなかった。
美月と桔梗は何もかもが真逆だ。
氷室の力を借りることなく。
一人で立てる自立した女性であり氷室の憧れである美月と。
氷室のことを求めてやまない。
氷室にとっては子どもにしか思えない、大人になったばかりの桔梗。
この二人を比べようとしたって、優劣をつけれられるはずがないのだ。
美月と桔梗にはそれぞれ全く異なる良さがある。
どちらが氷室に相応しく、そして氷室が好ましいのかと考えるならば。
二人を比べるのではなく──氷室が二人に抱くそれぞれの思いを比べた方が、答えは出やすいのだろう。
(俺が桔梗に抱く思いが、恋愛感情だとしたら)
比べるまでもなく、氷室は桔梗へ素直に今までの非礼を詫びて桔梗に伝えるべきだ。
ずっと体面を気にして、自分の気持ちに蓋をしていたが──桔梗のことが好きなのだと。
(俺が美月に抱く思いが憧れだとしても。あいつよりも美月が大切であると確信することがあるなら、その時は)
氷室が桔梗に女としての幸せを与えてやることなどできそうにない。
氷室ははっきりさせなければならなかった。
桔梗が好きなのか、嫌いなのか。
那須宮が恥ずかしがる姿を見てもなんとも思わないのに、桔梗が白衣を羽織った姿を思い出した時だけは、自分の中にある信じたくない気持ちに気づいたことを──。
「し、白雪先生?」
「いついかなる時にも、都合よく男の言うことを聞く奴隷と結婚する」
「ど、奴隷って……」
「男はメリットがなければ結婚などする必要がない。大抵の男は好きなときに欲望をぶつけてもいい相手を得るために結婚する。金か顔に目が眩む女と、欲望を追い求める男。お似合いだな……」
「ちょ、ちょっと待ってください……!そんな、夢も希望もないことを……っ」
「結婚に夢や希望などないだろ。人生の墓場だとよく言わないか。受験や就職と一緒だ。結婚するまでは必死に好きだ愛していると囁くくせに、いざ結婚生活を始めると愛が薄れる」
「き、桔梗ちゃんが……白雪先生とご結婚されたとして……。愛情が薄れることなど……あるのでしょうか……」
それは氷室に聞くべきことではないだろう。
答えを持っているのは桔梗だ。
その時にならなければわからないことも多くあるだろうが──。
氷室は愛が永遠ではないことを知っている。
(俺の美月に向ける気持ちが、最初から憧れだったのか、狂おしいほど好きだった気持ちが長い年月を掛けて憧れに変わっていったのかどうかはなんとも言えないが……)
桔梗の愛だって、永遠ではない。
手に入らないからこそ、他人のものを欲しがり愛する女は世の中に山程いる。
不倫や浮気をする女は、特にその傾向が強いと聞く。桔梗だって例外ではないだろう。
「男の幸せは、自分より弱い女を屈服させることで始めて生まれるものだ。支配し、屈服させ、奴隷のように扱う──うまくいくはずがない。自分がお姫様のようにたくさんの愛を注がれて当然だと思いこんでいる女となんざ……」
「桔梗ちゃんは、白雪先生からお姫様のように愛して欲しいのでしょうか……?」
「さぁな」
「よ、よく……お話、した方がいいと思います……あの、その……桔梗ちゃんの肩を持つつもりはないのですが……」
「はっきり言ってくれ」
「白雪先生は……。自分の気持ちをあまり言いませんよ……ね……。一般常識ばかりで……。その。将来を誓い合うつもりの相手とは……一般常識ではなく、自分の正直な気持ちを伝えた方が、いいと思います……」
那須宮からのアドバイスを受け取った氷室は、すっかり冷めてしまった弁当の中身を無言で口の中に詰め込むと深いため息をついた。
那須宮は悲鳴を上げていたが、彼女に呆れているわけでもなければ、文句を言うつもりなどない。
「本当に、一般常識だと思うか」
氷室が先程那須宮に告げた言葉が一般常識であるか、本心であるかどうかは氷室が口にしなければ那須宮は知る由もない。
那須宮は氷室のあんまりな言動に、氷室の考えなど一ミリも入っていないと思い込んでいるようだが──。
「俺はお前が思っているほど、できた人間じゃないんだよ」
できた人間のように見えているのだとしたら、それは。
できた人間である美月に憧れ、彼女の背中を追いかけていたからこそ。
そう見えただけなのだ──。




