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日曜日:悩殺するための装備を身に着けて

(なんだよ。俺が愛知桔梗にしてほしいことを、あいつがしてくれる日って……)


 パシャパシャと冷たい水を両手で(すく)い取り、顔に掛けた氷室は意味不明な桔梗の言動を脳内で繰り返していた。

 氷室が桔梗にしてほしいことなどない。


(俺があいつに望むことはただ一つ。大人しくしいろ。それ以外は望まねえ)


 氷室が言い聞かせても、大人しくしていられないのが桔梗だ。

 実際、桔梗は不機嫌そうにぷっくりと頬を膨らませていた。

 氷室が洗面所から出れば、何が起きるかなどわかったものではない。


(一生ここから動きたくねぇな……)


 氷室は洗面所に籠城(ろうじょう)しようかと悩んだが、やらなければならないことは山積みだ。

 溜まりに溜まった洗い物を洗濯し、朝食を作り、掃除をして洗濯物を干せば、昼食の時間がやってくる。


(あいつと遊んでいる暇なんざねぇんだよ。俺が休日なら暇していると思ったら、大間違いだ)


 働いているよりも、休日の方が忙しいことだってあるのだから。

 桔梗の誘惑に(そそのか)され、貴重な時間を消費するわけには行かなかった。


(いつまで経っても籠城しているわけにも行かねぇか……)


 10分ほど深く洗面所で考え込んでいた氷室は、洗濯かごに投げ込んであった衣類を洗濯機に投げ込み洗剤を入れ、蓋を締めて稼働させると、意を決してリビングへと戻る。

 リビングには氷室を誘惑しようと目論む、悪魔が笑顔で出迎えた。


「氷室先生!」


 胸元がハート型にくり抜かれたニットはチュニック丈らしく、太ももの中腹(ちゅうふく)を覆い隠す程度の長さしかない。

 本来であれば、下にスパッツやパンツなどを履くことで外出着として着用することを想定しているデザインなのだが……。

 桔梗は下着を隠すようなボトムスを着用していなかった。

 少しでも動こうものなら下着が見えてしまいそうなほど、丈が短いニットワンピを着た桔梗を目の当たりにした氷室は、欲情するよりも先に桔梗が想定していなかった全く別の感想を抱く。


「真冬にその格好はねぇだろ……冷えるぞ……」


 氷室は桔梗の姿を見て興奮するよりも先に、彼女の身体を心配した。

 季節は真冬。

 春に向けて移りゆく時期とはいえ、いくら暖房で温めた部屋の中でも、ニットワンピース一枚に生足、胸の谷間を露出した状態では風邪を引いてしまってもおかしくない。

 桔梗の長期休みは1週間。

 残り4日のうちに桔梗が風邪を引けば、看病することになるのは氷室だ。

 氷室はベッドから毛布を手繰り寄せると、桔梗の身体に投げつけた。


「お、重い……せ、せっかく氷室先生を悩殺するための装備を身に着けたのに……!」

「装備ってなんだよ。俺はモンスターか?」

「氷室先生を倒したら、氷室先生が私のものになるのよ。私は勇者で、氷室先生は……ラスボス?」

「想像力が(たくま)しいことで」


 氷室は桔梗の言葉に呆れていたのだが、桔梗は褒め言葉と受け取ったらしい。

 布団の重みで床にへばりついた桔梗は、氷室に投げつけられた布団からひょっこりと顔を出すと、芋虫のような状態で氷室を見上げた。


「布団を投げつけてくるくらい、私の身体を見たくないの?若い子の生足なんて、滅多に見られないのにね……」

「布団から足を出すな」

「寒くたって、いいもの。氷室先生を悩殺するには、代償が必要でしょう」

「いいから。他に服、持ってねえならそのまま(くる)まっていろよ」

「目に毒だから?」

「……風邪引いたら面倒だぞ」

「氷室先生に看病して貰うから問題ないもの」

「あのな……」


 氷室が看病する前提で話が進んでいるが、この地域の医療は恐ろしく脆弱(ぜいじゃく)だ。

 氷室が勤める診療所が休診になれば、患者は車で1時間近く掛けて別の病院で受診することになるだろう。

 最悪の場合は、隠居した恩師に頼めば快く代理を引き受けて貰えるだろうが……。

 くだらない理由で風邪を引いたせいで、一線を退いた恩師を引き()り出すようなことなど、氷室は誰かに頼まれたとしてもしたくなかった。


「お前が薄着になったせいで風邪を引けば、想像以上の人間に迷惑が掛かると思え」

「薬を飲めばすぐに直る」

「薬に頼りすぎるがよくねぇってことくらい、お前だって知っているだろ」

「あ。またお前って呼んだ。桔梗よ、氷室先生。ききょう!」


 布団に包まり「お前と呼ぶな」と訴えかける桔梗は、何度も自身の名前を繰り返し叫び続けた。

 その光景は、生まれたてのひよこがぴよぴよと鳴く姿によく似ていて、氷室はたじろいだ。


「ガキが背伸びしてんじゃねえよ」

「私はもう、成人した立派な大人!」

「立派な大人は、大声で自分の名前を叫び続けたりしねぇから」

「むぅ。氷室先生が悪いのよ。私の名前を呼んだり、呼ばなかったりする……」


 氷室は呼び方や呼ばれ方にこだわりがない方だ。

 桔梗の「好きな人には名前で呼ばれたい」と思う気持ちには、同意しかねていた。


「荷物はいつ来るんだよ」

「午前中に指定して貰ったの。今日、来るんじゃないかな……」

「……宅急便が来るまで、お前は布団に(くる)まっていろ」

「ええー。それじゃ意味ない。氷室先生を悩殺するため、とっておきの服を鞄に忍ばせておいたのに……」

「ありがた迷惑だ。このまま荷物が来るで布団に(くる)まっているか、初日に着ていた服を洗濯して着るか。どちらか選べ」

「氷室先生の服が着たい」


 二択を迫った氷室に対し、桔梗は選択肢にない3番目の回答をしてきた。

 布団に(くる)まって身を隠すくらいならば、桔梗は今着ている服の上から氷室の服が着たいらしい。


「俺はどちらか選べと言ったはずだが」

「氷室の先生のワイシャツか白衣、貸して?」


 桔梗は毛布に包まったままうるうると上目遣いで氷室を見つめた。

 何故ワイシャツと白衣を指定するのか理解に苦しむ氷室は眉を(しか)めたが、ワイシャツでは生足までは隠せないと悟ったのだろう。

 クローゼットの中からハンガーに吊るしてあった白衣を取り出すと、桔梗に投げて寄越す。


「やった。ありがとう、氷室先生!」


 たかだか白衣程度で、何を喜ぶ必要があるのだろうか。


 (つつ)まれた毛布の中から出てきた桔梗の姿を直視しないようにキッチンへ向かった氷室は、寝起きからどっと疲れた。


 ()ったものを朝から作るつもりなどなかったが、フライパンを火にかけることすら面倒な氷室は朝食を食パン一枚で済ませることにしたようだ。


「食パントーストするぞ。バターは?」

「つける」

「適当でいいか」

「たっぷりまんべんなくがいい」


(そこまで注文するなら自分でやれよ)


 氷室が桔梗に鋭い視線を向けたときだった。

 氷室が投げて寄越した白衣を服の上から着て、身体全体をすっぽりと覆い隠していることに気づいたのは。


「あのな、文句があるなら自分で……」

「氷室先生。どう?白衣、着てみたの。これなら、風邪など引かないでしょ」


 氷室が危惧していたようなことは確かに起きないかもしれないが、白衣が服を着て歩いているかのような姿に氷室は面食らってしまった。

 桔梗と氷室の身長差は25cmほど。

 氷室が羽織ると太ももあたりの丈だと、桔梗が羽織れば床まで引き摺ってしまいそうな丈になるのは当然のことだ。

 胴や腕などもぶかぶかで見栄えが悪いにも程があるはずなのだが、氷室は何故か桔梗から目が離せなくなってしまった。


「彼シャツならぬ、彼白衣(かれはくい)。どう?普段氷室先生が羽織っているものを、私が羽織っている感想は」


 桔梗は白衣のボタンを全てしっかりと留め、先程とは打って変わって大幅に露出がダウンしているはずなのだが──氷室は思わず桔梗の姿を上から下まで舐め回すように見つめた。

 胸元と生足を大胆に晒している姿よりも魅力的に映るのは、氷室が普段仕事着として着用している白衣を、本来であれば着用する機会のない桔梗が着ているからだろうか。

 氷室は女性の白衣姿を見慣れている。

 美月と交際していた際は白衣姿など見慣れたもので、目を惹かれるようなこともなければドキリとするようなこともなかった。

 氷室は白衣を着た女が好きな訳では無い。これは推測だが、氷室は。


(嘘だろ。俺の白衣を着たこいつが好ましいと考えるなんて……)


 氷室は愕然(がくぜん)とした。

 先程大胆な姿を披露した桔梗をはじめて目にした時とは、全く異なる感情を抱いていることに気づいてしまったからだ。


「氷室先生?」


 桔梗が感想を催促して来ているが、二の句など紡げる状態ではなかった。


(嘘だ、嘘に決まっている。俺の白衣を着たこいつの姿を見ただけで、180度真逆の考え方をするようになるか?)


 普通に考えればありえない出来事が氷室の中で始まりつつあることに気づいた彼は、思わず口元を抑えて桔梗を凝視する。


(あいつの背後(はいご)に、桔梗の花が見える……)


 桔梗の花に囲まれ、ブカブカの白衣を着てうるんだ瞳で見上げてくる桔梗の幻覚を見た氷室は、これみよがしに首を左右に振った。


(流されてたまるかよ。白衣を着た程度で俺がこいつを好きになるわけがねぇだろ)


 冷静になれと何度も自分に言い聞かせている時点で、すでに取り返しのつかない状況下に陥っていることすら理解することを拒んだ氷室は、バターナイフを手に取り、冷蔵庫からバターを取り出したっぷりのバターを食パンに塗り込み始めた。


「ねぇ、氷室先生。私の白衣姿、どうなの。好き?嫌い?」


 冷静になるまでひたすら食パンにマーガリンを塗り続けていた氷室は、桔梗の声で我に返る。


(何やってんだ、俺は……)


 白衣姿で迫られただけで冷静さを失うなど、どうかしている。


 これでは子ども扱いしていた桔梗を馬鹿にできやしないと考えた氷室は、マーガリンを塗りたくりすぎて食べるのすら億劫(おっくう)な食パンを2枚トースターの中に投げ込むと、蓋を締め加熱を開始した。


「しろゆきこおりひつせんせいー」

「まだそのめちゃくちゃな呼び方覚えていたのかよ。やめろ」

「だって。氷室先生が私を無視するからいけないのよ。ねぇ、感想は?」


 再三桔梗に感想を求められた氷室は押し黙る。

 素直に認めたら桔梗は調子に乗るだろう。

 自分に嘘を付けば、後々もっと強烈な、抗いきれない魅力的な姿を見せつけて来るかもしれない。

 いま素直に認めてやれば、調子に乗るかもしれないが一時的に満足はする。

 今日一日くらいは、大人しくしてくれるだろう。

 桔梗など好きではないと意地を張り、自分の気持ちから目を背けようとするから桔梗が現実を突き付けてくるのだ。

 氷室がさっさと認めることさえしてやれば、桔梗は必要以上に迫ってくることはないだろう。

 そう判断した氷室は、か細い声で正直な感想を呟くことにした。


「……桔梗は、何を着ても似合う」

「……っ!」


 白衣を羽織った状態で氷室のか細い声を聞いた桔梗は、パァッと瞳を輝かせて声にならない悲鳴を上げるほど喜んだ。

 この場がマンションでさえなければ、ぴょんぴょん飛び跳ねるほど喜ぶ桔梗は、タイミングよく焼き上がった食パンをトースターから取り出し、手を洗ってからぱくついた。


「焼きすぎたもんを率先して食うな。新しいの焼いてやるから」

「うぅ……固い……。でも、この食感が(たま)らない……」


 苛立ってバターを塗りすぎた食パンは、こんがりきつね色を通り越して炭になりつつある。

 人間の食べ物とは思えない丸焦げの食パンをバリバリと口にする桔梗は、文句を言いながらも手に取った一枚を完食してしまう。

 もう一枚のパンを口に含まないよう口に(くわ)えた氷室は、気合を入れてバターを適量食パンに塗り込み、こんがりしっとりと焼き上げた。


「それだけじゃ味気ないだろ。ケチャップ、チーズ……ハンバーグもつけるか」

「ハンバーグ!」


 桔梗は元気よく、氷室へお湯で温めれば数分で食べられるチルドのハンバーグを強請(ねだ)る。

 あれだけ「私は大人」と威張(いば)っておいて、結局味覚はお子様なのかと呆れながらも、氷室は二人分のハンバーグを湯煎(ゆせん)し、生野菜と共に食卓へ並べたのだった。

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