天は桔梗に味方した(桔梗視点)
『……先生、私が寝たら……いなくなったりしない……?』
『ああ。時間の許す限り、今日だけはお前のわがままを聞いてやる』
――6年前。
愛知桔梗がステージから転落し、病院に運ばれた後の病室で。
桔梗に約束したはずの氷室は、目が覚めた時には姿を消してしまった。
(今回は絶対に離さない……離れたりなどしないから……)
桔梗は眠ったふりをして氷室の腕に纏わりつく力を込めたが、氷室は一向に桔梗から身体を離す様子がない。
ピ、と電子音が響き、轟々と壁に備え付けられたエアコンから暖房が始動する音が聞こえてくる。
小さな衣擦れの音を最後に、すーすーと小さな寝息が聞こえてきた。
(……氷室先生、寝た……の……?)
桔梗は驚く。
まさか氷室が、桔梗の腕から抜け出ることなく大人しく寝るなど思わなかったからだ。
桔梗はゆっくりと瞳を開き、氷室の顔を確認しようとする。
身長差の関係で氷室の寝ている姿を見るためには、顎が外れてしまうほど彼を見上げなければならなかった。
(ちょっと無理かな……)
どうしても、氷室の寝ている姿を確認したかったわけではない。
桔梗は、あっさりと確認するのを諦めて再び目を閉じる。
(氷室先生がお家に帰ってきてからの展開は、神がかってたな……)
桔梗は笑いを堪えるのに必死だった。
美月への思いが恋愛感情ではなく憧れの感情であると指摘すれば、氷室は面白いくらいにペースを乱したのだ。
あとはもう、坂を転がり落ちるように。
坂の下で待ち続ける桔梗の手のひらの上へ転がり込んでくるのも、そう遠くはない。
(邪魔さえ入らなければ、氷室先生は私のもの)
氷室を手に入れるまで6年も掛かってしまったが、許容範囲だ。
桔梗は高らかな勝利宣言を心の中で行い、勝利の美酒に酔い痴れていた。
(氷室先生が私のものになったら、すぐに愛を確かめ合わなきゃ。子どもさえ作れば、先生は私を捨てたりなどできなくなる。あの女が、姿を見せるようなことがあっても……)
桔梗はつい最近まで子どもだったとは思えぬ意地汚さを発揮し、腹の中で口では言えないあんなことやこんなことを考えては、はやる気持ちを抑えられない。
桔梗は大人になるまで、6年待った。
氷室への思いは芸能界の闇を知り、Imitation Queenの元アイドルとしての肩書を求める男たちを足蹴にすることで歪に歪み、桔梗本人ですらも収拾がつけられないほど膨れ上がっている。
(嬉しい。氷室先生は、私のいい所を見つければ、交際してくれると約束してくれた。私を愛してくれる。美月先生よりも……)
私だけを見て、と。
桔梗は何度もテレビカメラを通じて、氷室に訴えかけていた。
桔梗が愛する相手は氷室だけ。
勘違いした男に言い寄られ怖い思いをしたことは一度や二度ではないが、桔梗は何度恐ろしい目にあっても、画面越しに氷室へ訴えかけることを諦めなかった。
その結果、桔梗は喉から手が出るほど欲しがっていた氷室を手に入れる目前の所までやってきている。
(氷室先生……ごめんなさい……)
桔梗は胸の奥底で、氷室に謝罪をする。
氷室は10年近い年月、美月だけを愛してきた。
桔梗が氷室に愛してほしいと不相応に願ったせいで、氷室が長年信じ続けた楽園を破壊してしまったのだ。
それはけして、許されるべきことではない。
許されることがないとわかっていても。
桔梗は氷室を求め、もがく手を止めることなどできなかった。
(許さなくていい……恨んでいたとしても……構わないから……)
愛と憎しみは紙一重とも言うだろう。
砂糖菓子のように甘く、コーヒーのように苦い。
おとぎ話のような恋を、桔梗は氷室としたいわけではなかった。
氷室を思うだけでも胸が苦しいと感じる恋こそ、桔梗が望む氷室との恋愛だった。
(好きの反対は無関心。嫌いと言われるよりも、無関心を貫かれる方がずっとつらいから……)
桔梗は氷室が寝ているのをいいことに密着すると、ゆっくりと目を閉じた。
*
「……い。き、……桔梗……」
二度寝した桔梗は、氷室が自分の名を呼ぶ声で目覚める。
桔梗が目を開けたことを確認した氷室は、寝起きだからだろうか。
眉を顰めて桔梗を睨みつけていた。
「氷室先生だ……」
朝目覚めて、氷室と目を合わせることがこれほど素晴らしいとは思っていなかった。
桔梗は、彼の腕により一層強く抱きつく。
抱きつかれた氷室は迷惑そうに顔を顰め、身を捩った。
「いつまでひっついている……。朝だぞ。起きろ」
「起きても引っ付いていい?」
「俺が許可を出すと、本気で思っているのか」
「思っていないけど……。私のことを名前で呼んでくれるようになった先生なら、許可を出してくれるかもしれないでしょ。口にするだけならタダよね」
照れ隠しだろうかと桔梗は微笑み、全く堪えた様子などないようだ。
ただでは転ばない桔梗は氷室にもっと引っ付いていたいと強請るが、いつまでも纏わりつかれては鬱陶しくて仕方ない。
苛立つ氷室により、却下を食らってしまった。
「いいから、顔洗ってこい」
「むぅ。寝起きの若い子が引っ付き虫になってくれる機会など、なかなかないよ。もっと堪能しなきゃ損なのに!」
「若さなんざ求めてねぇ。押し売りしてくんな」
乱雑な言葉遣いをするようになった氷室の姿を確認した桔梗は、しゅん……としょぼくれた様子で引っ付き虫から卒業し、ベッドから降りた。
「顔洗ってくる……」
「段差に引っかかってコケるなよ」
「大人の女性は、段差に引っかかって転んだりしないから」
「大人だって転ぶことくらいあんだろ……」
氷室は眉を顰めていたが、桔梗が堂々たる足取りで洗面所に向けて歩いていったからだろう。
やっと一息つけると、ベッドの縁に腰掛けスマートフォンを見つめている姿を横目に捉えながら、桔梗は洗面所に向かった。
「きーちゃん、おはよー」
洗面所までやってきた桔梗は、スマートフォンを使って双子の弟である吉更に連絡を取る。
まだ朝早いからだろう。
10コールほど鳴らして電話に出た吉更の声は低く、苛立っている。
『んだよ……朝っぱらから……。日曜だぞ……?』
「私の内面的な魅力ってどこだと思う?」
桔梗は寝起きの吉更へ単刀直入に問いかけた。
吉更はまどろっこしい話が嫌いだ。
さっさと本題に入り、さっさと通話を終えた方が吉更の機嫌を損ねないで済む。
『頑固』
桔梗から問いかけられた吉更は、低い声で唸るように一言だけ呟く。
電話越しから聞こえてきたその言葉を聞いた桔梗は、「もっと他にないの?」と頬を膨らませた。
『他にあんのかどうかは、こっちが聞きてえよ。悪い所は山程あるけど』
「きーちゃーん。真面目に答えてよー」
『自分で探せ』
「氷室先生が、私の内面にある誇れる所を発表したら、好きになってくれるの。お願いきーちゃん。ヒントだけでも!」
桔梗は電話越しに、甘い声を出して弟へ強請る。
当然吉更からは不評で、気持ち悪い声を出すなと厳しい声が飛んできた。
吉更に厳しい声を掛けられても、全く気にした様子がない桔梗の声を聞いた吉更は、渋々回答を口にする。
『ただでは転ばないよな……』
「それは褒め言葉?」
『桔梗が誰にも負けないことなら、3つくらいあんだろ』
「3つもある?そんなにないよ」
『ヒントは出した。あとは自分で考えろ。じゃーな。俺は寝る』
「きーちゃん!二度寝する前にもう少しヒント──」
ヒントを強請るが、吉更はさっさと通話を切断してしまった。
スマートフォンを耳から離した桔梗は、口を尖らせながら吉更へメールを送信する。
『私が誇れる所を氷室先生に発表できなかったら、きーちゃんのせいだからね』
吉更は何も悪くないはずなのだが──。
メールを送信した桔梗は顔を洗い、今日一日どうやって氷室距離を縮めようか画策する。
(外に出れないって不便だなあ)
桔梗のことを氷室が「お前」ではなく「桔梗」と名前を呼んでくれるようになったのは大進歩だ。
ここから残り5日で、どれだけ氷室と距離を縮められるかによって、桔梗の人生が変わる。
(おうちデートでどこまで距離を詰められるか……考えなくちゃ……)
桔梗は頭をフル回転させ、どうすれば氷室の彼女として人生を歩めるかを必死に考え、ある一つの答えに辿り着く。
「今日は氷室先生が、私にしてほしいことを私がしてあげる日!」
「してほしいことなんざねぇよ。大人しくしていろ」
氷室は洗面所から戻ってきた桔梗の頭を優しく撫でると、自身も顔を洗うためにリビングを後にした。
「……むぅ……」
名案だと思ったのに。
何もするなと言われた桔梗は、ぷっくりと頬を膨らませて氷室が消えて行った方向を見つめる。
(氷室先生が私にドキドキするようなラブイベントを、発生させて見せるんだから……!)
桔梗は鞄の中から「浮気のススメ」と書かれた本を取り出すと、熱心に読み込んで氷室をドキドキさせるための作戦を実行した。




