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頭を冷やし、満月を見上げて思い馳せる

『恋ではないでしょ』


 全く持ってその通りだ。

 ぐうの音も出ないど正論を食らった氷室は、風呂場で頭から冷たい水を被り、冷静になろうと努力していた。


(ガキに正論でぶん殴られて動揺して……)


 大人として、不甲斐ないにも程がある。

 わかり切っていたことだ。

 桔梗はどんな手段を使ってでも氷室を誘惑し、自らのものにしようと画策しているのだから。

 美月への気持ちが恋愛感情ではなく憧れの感情だけだったと指摘されて、何を戸惑う必要がある。

 桔梗が氷室に向ける感情だって、似たようなものだ。


(2日目でこれか……。残り5日もあるぞ)


 初日に合意なく口づけを交わし、2日目に手を繋いでいる状況ともなれば……いつ男女の仲に発展してもおかしくはない状況だ。


(心が手に入らないなら、まず身体から攻めろと入れ知恵でもされているのか……)


 桔梗の背後(はいご)では、吉更と桔梗が暗躍(あんやく)している。

 孤立無援(こりつむえん)、多勢に無勢。

 相談できる相手は那須宮と妹くらいなものだが、妹は美月と結婚するのだと信じている。

 妹とそう変わらない年齢の女に言い寄られて、その気になりそうなどと口を滑らせようものなら、ぶん殴られるだけでは済まないだろう。


(ご褒美とやらのカウントが恋人繋ぎだけで済めばいいが)


 それだけで済むわけがないと確信しているからこそ、真冬に真水を浴びて修行僧のような精神統一をしているのだ。

 今だって、桔梗が「一緒に入ろう」と迫ってくるのではないかと怯えているくらいなのだから。


(風呂場に鍵の掛かるような物件なんざねえからな……)


 賃貸物件である以上、原状回復の見込めない大幅な改造をするわけにもいかない。


(汗を流す場所で、何故大量の汗を流さなければならないのか……)


 氷室は本来ならばリラックスして身体を清める場所で怒りを爆発させると、氷室は桔梗の乱入を防ぐためにシャワーのみで身を清め終えた。


(いざとなれば、ぶん殴ってでも抵抗すればいいだけの話だろ……)


 手早く脱衣所で寝巻きに着替えた氷室は、必死に桔梗からの誘惑に抗おうとしている自分が馬鹿らしくて仕方なかった。

 氷室は男で、桔梗は女だ。

 その気になれば、力で桔梗に負けることはまずない。

 突き飛ばしてでも桔梗を拒絶すればいいだけの話なのに、傷害罪で逮捕される危険性を考慮して手が出せないと思うからややこしくなるのだ。


(俺の心が弱いから、あいつがつけあがる)


 芸能人だとか、世間の目がとか。

 周りを気にする素振りをするから、逃げ道を塞がれて身動きが取れなくなってしまうのだ。

 周りの目など気にしなければ、いくらでも勝ち筋はある。


(……あいつの思いを拒絶して逃げ切ることが俺の勝ちなのか?)


 美月以外は愛するつもりのない氷室は、美月への気持ちが憧れであると認識した以上、桔梗の気持ちに答えなければ死ぬまで独身を貫くことになるだろう。

 美人女医に捨てられ、元国民的アイドルの芸能人に言い寄られ拒んだ。

 世間からしてみれば「何故結婚しなかったのか」と罵倒(ばとう)されてもおかしくない。

 氷室は誰もが喉から手が出るほど欲しがっている女から言い寄られたにもかかわらず、独身を貫いた男として一生蔑まれて生きていくのだろう。

 いつの日にか、桔梗の思いを受け入れればよかったと後悔する日が来るかもしれない。


(……ないな)


 氷室は桔梗と交際していればよかったと後悔する20年後の自分を想像して、自分自身の気持ち悪さにゾッとした。

 20年後、氷室は52歳だ。

 若い女と結婚しなかったことを後悔する老人など、この世に存在するべきではないだろう。

 誰に何を言われようが、若い女に言い寄られようが。氷室の気持ちは変わらない。

 (ほだ)されるわけには行かないのだと、氷室は必死に言い聞かせていた。


「風呂、上がったぞ。早く入ってこい」

「はーい。氷室先生、私が戻るまで寝ないでね。先に床で寝ていたら、悪戯するから」


 桔梗はスマートフォンから顔を上げると、小さな鞄にスマートフォンをしまい込み、着替えを持ってパタパタと音を立てリビングから出て行く。

 なかなか際どい発言をした桔梗がリビングから出て行き、戻ってこないことを確認した氷室は、自身のスマートフォンを手に取るとベランダに出る。


 ──今日は()しくも、満月だった。


 美しい月が名前の由来である美月への気持ちが、恋愛感情ではなく憧れの感情であることを桔梗により自覚してしまった氷室は、満天の星空と共に美しく輝く満月を眺めながらスマートフォンを耳に当てる。


 プルルル、プルルル……。


 氷室は情緒不安定になると、けして繋がることはない美月の携帯番号に連絡をしていた。

 氷室が諦めて電話を切断するまで、永遠に聞こえ続ける携帯の発信音を聞きながら。

 氷室は美月に思いを馳せる。


(たとえ美月に抱く思いが、憧れの感情であると認めることになったとしても……)


 美月がこの場にいれば──。

 どんなに桔梗から言い寄られたとしても、氷室が心を動かすことはなかった。

 どうして美月がこの場にいないのだろうかと、氷室は美しく輝く月に問いかける。


(……返ってくるわけがない。返事だって。声ですらも)


 美月の携帯番号に電話を掛けても声は聞こえず、美しく夜空で輝く満月は美月がいない理由を教えてなどくれない。

 満月に心の中で呼びかけることがすでに間違いなのだ。

 氷室は翌日が休日であるのをいいことに、珍しくノンアルコールではなく生ビールの缶を手に持ち、プルタブを引っ張って開ける。


(飲んで酔っ払って、取り返しのつかないことになったらどうするつもりなんだか……)


 取り返しのつかないことを望んでいるのは桔梗の方だ。

 理性が続く限りは当然、氷室から桔梗に手を出すことなどない。

 桔梗が風呂から出てきて、今まで通り氷室を手籠めにしようとあの手この手で色仕掛けを仕掛けてくるならば、そのときは。

 泣こうが(わめ)こうが、どうなっても氷室は責任を取るつもりなどなかった。


(あいつだって大人だ。子どもじゃないと主張するなら、間違いが起きたあとに後悔して、泣き(わめ)けばいい)


 誰も助けてくれないことに気づけば、桔梗も目が覚めるだろう。

 氷室はやさぐれていた。

 桔梗に唯一と言ってもいい、心の拠り所であった美月への恋心が憧れであると自覚させられた氷室は、酒の力に頼らなければ白雪氷室としての形を保てなかった。

 桔梗が惚れたらしい氷室の言動を今の自分に当てはめるならば、美月が好きだと思い込んでいた気持ちを、桔梗を愛することでどうにか持ち直せばいいだけだ。

 それだけはしたくないと桔梗を否定する自分がいることは事実であり、氷室は板挟みになっていた。


(桔梗を受け入れれば楽になれる)


 小さな診療所の医師として働く、白雪氷室に戻れるのだ。

 桔梗の手を取らない理由はない。


(美月がいなくなり、一方的に手紙で振られても。6年間美月を愛し続けた時間が無駄だったと言うのか。無駄ではない。俺はいつまで美月を愛し続ける。あいつに面と向かって、別れようと言われるまでは)


 氷室と美月が顔を合わせた所で、お互い離れていた時間が長すぎる。

 美月が氷室をどんな存在であると認識しているかすらもわからなければ、美月に抱く感情が恋愛感情ではないと気づいてしまった氷室が、美月と同じ熱量で互いを愛し続け結婚まで強引に進むことなどできやしない。


(男女の恋愛は、1人の思いだけでは成立しない)


 氷室が美月への思いが憧れの感情であると認識したことにより、恋の三角形が崩れ始めている。

 桔梗は氷室が好きで、氷室は美月が好きだったが、憧れの感情であると気付かされた。

 美月はすでに氷室へ手紙で別れを告げている為、交際時と同じ熱量で思いを抱いているかどうかは怪しい所だ。

 今の所はっきりしているのは、桔梗が氷室に向ける愛情だけ。

 この状況で氷室が桔梗に(なび)いたとしても、文句を言われる筋合いなどない。

 桔梗が氷室に好意を抱いていることは、あのドキュメンタリー番組のお陰でファンへ筒抜けだ。

 氷室が12歳も下の女を愛し、幸せにする覚悟さえ持てれば。

 全員が幸せになれる。

 誰も傷つくことなく、幸せに。


(本当に美月は、傷つかないのか)


 氷室が美月に抱く思いが憧れだとしても。

 もし美月が、氷室の前に姿を表した時……桔梗と交際している姿を確認した美月の反応が、氷室は気がかりだった。


(美月は一生俺の前に姿を表さないかもしれないし、いつかふらりと会いに来るかもしれない)


 美月が姿を見せた時。

 桔梗の思いを受け入れたとして、美月ではなく桔梗を優先できるかどうかが鍵となるだろう。


(俺は美月と桔梗。どちらを深く愛するべきなのか……)


 桔梗に現実を突きつけられる前であれば、迷いなく氷室は美月を選べただろう。

 脇目も振らず美月を選べた氷室は、現実を突きつけられただけで美月への気持ちを揺らがせている。

 これは由々しき事態だ。

 今この場に妹がいれば、間違いなくぶん殴られる。


(めんどくせえな……)


 誰と一緒に過ごすべきなのかなど、考えたくもない。

 たった一度きりの人生なのだから、氷室に好意を寄せる金目当ての女をとっかえひっかえし、道具として使い潰すのも悪くないだろう。

 氷室にはそれができるだけの収入がある。


(欲望に負けて最低なゴミクズ男に成り下がるか、生涯独身を貫くか……)


 氷室の答えは、酒の力を借りても出なかった。


「氷室先生ってお酒、呑むのね。いいなあ。ビール。私も呑みたい」

「お前はまだ子どもだろ」

「もう酔っているの?私は大人よ。ほら、免許。車だって運転できる」


 風呂から上がった桔梗は、ガサゴソと鞄を漁り、パスケースの中に入れた運転免許証を見せてきた。


 免許の有効期限を見る限り、18歳になってすぐ取得したらしい。


「ね、私は大人でしょ。焔華さんに言われたの。早いうちに取っておきなさいって。車を運転する役が来た時に困ると言われて、感心した。今度、レンタカーを借りて……」


 氷室も運転免許証は取得しているが、長らく運転などしていなかった。

 桔梗もレンタカーの言葉が出てくるあたり、ほぼペーパードライバーだろう。

 お互いに何かあってもカバーしあえない状態で、車に乗るわけには行かない。


「──氷室先生」


 空になった空き缶を手で潰した氷室は、「話を聞いているの?」と顔を覗き込んできた桔梗と思ったよりも距離が近いことに気づいてたじろいだ。

 後ろにはバルコニーのフェンス。氷室には逃げ場がない。

 桔梗がこのマンションに出入りしていることを掴んでいる記者がいるとすれば、外から望遠レンズで撮影されても、おかしくはない距離感ではある。


「お前……」


 急いで風呂から出てきたのだろう。

 桔梗の毛先から、ポタポタと水滴が落ちていく。

 毛先の水滴が落ちていく方向は、桔梗の胸元で──。

 酔いが回っている氷室は、嫌でも彼女の胸元に意識を向けてしまう。


(何故ボタンを、開けてある……)


 ぴっちりと上までボタンを閉めていればいいものを。

 首元が苦しいのか、氷室をドキリとさせるためか。

 寝間着のボタンを上から2つ開けていた彼女の胸元に落ちる水滴を確認した氷室は、身長差の関係でそこに意識を集中させると、見てはいけない場所を興味深く眺める変態だとぶん殴られてもおかしくない状況になるのだ。

 普段の氷室であればすぐに視線を逸らすはずだったが、酔いが回り冷静な判断ができない状態では、自らの意志に反して思ってもみない行動をする。


 例えばこうして──桔梗を喜ばせるような行動を。


「もう、またお前って呼んだ。名前で呼んでくれたの。すごく嬉しかったのに──」

「……髪……」

「髪の毛?」


 氷室は名前で呼んでくれないと怒る桔梗の髪に触れた。

 毛先から水滴が滴り落ちるくらいだ。

 直接触れると、しっとりと濡れている。


「風邪引くぞ」

「だって。マンションは、ドライヤー。使えないでしょ。騒音になるから駄目だって、きーちゃんが……」

「近所迷惑なのは確かだが、髪を乾かさないわけには行かないだろ。ほら。タオル持って来い。乾かしてやる」

「本当?氷室先生、私の頭、乾かしてくれるの?」


 桔梗は信じられない様子でもう一度氷室から言葉を引き出そうとするが、もう一度言ってやるほど優しくはない。

 先程まで濡れた髪に触れていた手を前後に動かし、風呂場に行ってタオルを取ってくるように命じた氷室へ、桔梗は慌ててタオルを取りに行った。

 夜空に煌々と輝く満月が、桔梗の髪に触れる氷室の姿を見守っている。


(美月がこの姿を見たら、泣くだろうか。悲しむようなことがあれば、俺は……)


 パタパタと音を立て、バスタオルを片手に桔梗が満面の笑みでリビングに姿を表すのを確認する。

 氷室は満月を見上げることなくベランダから室内に戻り、カラカラと音を立てて窓ガラスを施錠した。

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