過去の黒歴史が、桔梗を勇気づけた
「氷室先生、これ何?」
桔梗の前に差し出されたオムライスを指差して、卵がとろけるかどうかの確認をすると思っていた氷室は、桔梗が得体のしれないものを見る目で出来上がった料理を見つめていることに気づく。
(なんだこいつ)
氷室は桔梗の表情を確認し、微妙な反応をした。
「お前、20年生きてきたくせに……オムライスを見たことないのか……」
自らの前に差し出された料理がオムライスであると知った桔梗は、スマートフォンを片手にオムライスがどんな料理であるかを検索しているようだ。
氷室が想定していたよりもだいぶ遅れて、桔梗はぱっと表情を明るくした。
「これがオムライスなのね。ファンのみんなが、ケチャップ《チャーハン》のCMに出たときオムライスがどうこうと話しかけて来ていたの。私よく分からなくて……。初めて食べる。作ってくれてありがとう。氷室先生」
氷室はまさか純粋に桔梗からお礼を言われるとは思わず、面食らった。
桔梗は氷室が面食らっている理由に気づいたのだろう。
ぷっくりと頬を膨らませていじけだした。
「氷室先生、私が打算ありきでしかお礼を言わない女だと勘違いしているでしょ。私はいつ何時も、感謝の気持ちを忘れない」
「そうかよ。むくれてないで、さっさと食べろ。スプーンかレンゲを使って食うんだぞ」
「……非常識だって馬鹿にしているでしょ」
「してない」
「絶対嘘。氷室先生、酷い……」
ガキはすぐに泣くから嫌いだ。
氷室は無言で瞳を潤ませた桔梗にティッシュを差し出すと、「冷める前に早く食え」と催促した。
食事を促された桔梗はティッシュで涙を拭きながら、スプーンを手に取りオムライスを口に運ぶ。
「……美味しい……っ!」
桔梗は輝く笑顔で頬を膨らませると、はむはむと小動物のように小さく口を動かしながら食べ進めていく。
氷室が女と食卓を囲む機会はそう多くない。
桔梗の女性らしい食べ方を見た氷室は、なにか言いたげに顔を顰める。
その複雑な表情に桔梗が気づく前に中央からスプーンを使って卵を開くと、半熟卵がとろりと流れ出て皿の上に広がっていく。
(手間暇かける必要はなかったな)
食事の間、二人は無言だった。
食事を終えた桔梗の機嫌は、明らかに持ち直したようだ。
このまま大人しくしていた際のご褒美やらについても忘れて欲しい物だが、そうは問屋が卸さない。
「氷室先生、オムライスの美味しさに感動したこと。投稿してもいい?」
「……大人しくしていたご褒美とやらはやらん」
「それは駄目。せっかく氷室先生と一緒に暮らせるんだもの。たくさんイチャイチャしたい」
氷室と桔梗はイチャイチャするような男女の関係ではない。
桔梗にとっては大好きで愛する人かもしれないが、氷室にとって桔梗は顔見知りの子どもだ。
愛を囁く相手ではないのだから、イチャイチャなどできるはずもないのだが……。
「お前の定義するイチャイチャと、世間一般的のイチャイチャが同じものであるならば、そもそもお前は俺といちゃつく権利はないことに気づけ」
「氷室先生が私を好きになってくれたらいいだけよ」
桔梗は簡単に氷室が好きになればいいだけだと当然のように告げるが、美月が戻ってきた時。
『氷室の彼女は自分である』
など主張すれば、修羅場になると理解しているのだろうか。
氷室が桔梗を好きであると認めても、美月がいる限り桔梗は氷室の浮気相手でしかない。
「お前のやっていることは、最低だぞ」
氷室にとって本命の彼女は美月だ。
桔梗は本命の彼女から氷室を誘惑し奪おうとする略奪女。
不倫が何かと問題になる芸能界で、一般人から男を奪い取ったと騒ぎになれば、桔梗は芸能活動を続けられなくなる可能性だってある。
いくら氷室を自分のものにしたいと言えども、許されることではないだろう。
「氷室先生と美月先生の交際は、6年前に終わっている。大好きな人に彼女がいないなら、アタックするのは当然のこと」
「俺と美月は別れてなどいない」
「氷室先生がそう思い込んでいるだけだよ。6年も経ったのに、まだ受け入れられないの?」
そう簡単に美月への恋心を失うことができれば苦労はしない。
たとえ桔梗に迫られ、いつでも乗り換えられる環境にあるとしても。
簡単に手を出せるほど、氷室は馬鹿ではなかった。
「時間の経過を経て美月への思いを断ち切り、お前を好きになる白雪氷室は、俺の姿をした別人だ」
「じゃあ、氷室先生はこれから、私のせいで別人に生まれ変わるのね」
桔梗は恍惚とした笑みを浮かべ、小さく手を合わせた。
桔梗が愛するのは白雪氷室だが、「美月を好きな白雪氷室」ではない。
どうやら白雪氷室の姿をしてさえいれば、桔梗は中身を問わないようだ。
(俺の意志は全否定かよ)
苛立った氷室は使い終わった食器をキッチンの洗い場に持っていくと、スポンジに食器用洗剤をつけて洗い始める。
この後に紡ぐ言葉が桔梗を傷つけるとわかっていたからこそ、彼女の表情が見えないように背を向けたのだ。
一番卑怯なのは誰なのか。
それは桔梗ではなく、氷室だろう。
氷室は成人したばかりの桔梗を導かなければならないのに、地獄へ叩き落とそうとしているのだから。
「お前が大嫌いな言葉を使うなら──悪魔と言い換えてもいい。お前は悪魔ではないだろ。悪魔になった俺を、本気で好きになれるのか」
使い終わった皿を、食器用洗剤をつけたスポンジで擦り泡まみれにした氷室は、水を出して皿に付着した汚れを洗い流していく。
水道から流れる水音と、洗っている食器がカチカチと鳴る音だけが長い間聞こえてくるだけで、待てど暮らせど桔梗からの返答は帰ってこなかった。
(やはり桔梗を悪魔と称するべきではなかったか)
反省した氷室が食器を洗い終わり、手を拭いて振り返ろうとした時だ。
背中と腰に、強い衝撃が伝わったのは。
「私は悪魔ではない」
振り返ろうとした氷室は、右側の壁を見つめる羽目になった。
腰に手を回しギュッと抱きついている桔梗が腰に回す手を強めたからだ。
彼女は氷室の腰につけられたベルトを手で弄ぶと、いつでも既成事実を作れるのだと無言で氷室を脅してきた。
(こいつを拒めば、実力行使も辞さないと言いたいのか……?)
さすがにその気がない氷室の腰につけられたベルトを外した所で、大人の関係に発展したとしても望む愛は得られないと理解はしているのだろう。
氷室は桔梗の手がベルトに触れていることを横目に確認するだけに留め、続く言葉を待つ。
「ずっと、両親の言葉を否定して生きてきた。天使と呼ばれるきーちゃんが羨ましくて、数分先に生まれただけなのに迫害される自分が嫌いで仕方ない。さーちゃんに肝臓を分け与え、私はさっさと死ぬべきだと思っていた」
氷室と出会った当初、桔梗は「死にたくない」と言っていたはずだ。
どんな手段を使ってでも死にたくないと氷室へ告げた女は、こうして生き残り──氷室を誘惑しようと目論んでいる。
「両親と世間が、私が悪魔として死ぬことを望んでいる。美月先生の言葉を聞いても、この世界で生きようとは思わなかった」
助けなければよかったと氷室が考えるほど、迷惑な存在として嫌われる彼女が抱く思いは、表に出てくることなく胸の中に秘匿され続けていた。
「氷室先生の言葉を聞いたら、この世界で生きていくのも悪くないなと思えたの」
桔梗がどうして氷室を好きになったのか。
その思いが明確に語られた時──氷室は面食らってしまった。
「俺の?」
桔梗と出会ったのは、美月が行方不明になった半年後。
天門総合病院の研修医として働くようになった屋上だ。
それより前に桔梗と氷室が言葉を交わしたことなどないはずなのに、桔梗はどうやって氷室の言葉で生きる決意をしたのだろうか。
「美月先生が言っていたの。彼氏から、言われたことがあると」
桔梗は、美月を通じて氷室が紡いだ言葉を一言一句違わず繰り返す。
「この世界に生まれてはいけない人間などいない。誰もが何らかの使命を持って生まれてきた。その使命は、生まれてきた本人ですらも知り得ない可能性の方が高い。ワクワクしないか」
若い頃自分が美月に告げた言葉が桔梗の口から紡がれると、氷室は柄にもなくカッと顔を赤くした。
氷室にとってその言葉は、思い出したくもない。
学生時代に、美月へ向けて紡いだ言葉だったからだ。
「俺たちは自分たちの望むがまま、使命を胸に掲げ生きていける。その使命が神から与えられたものではないとしても。俺たちが強く願えば、何度だって与えられた使命を掲げては人生をやり直せる。お前の使命は人助け。俺は──」
「ちょっと待て」
氷室は桔梗のベルトを掴む手に重ね合わせ、それ以上は言うなと桔梗の言葉を遮った。
あの時は若かったのだ。
失敗しても、新たな自分に生まれ変わったつもりで新しいことに挑戦すれば、何事もうまくいく。
そうして氷室は何度も何度も姿かたちを変え、性格を変化させてこの世界で生きてきた。
氷室はあの時、自ら口にした言葉を紡がれたら、恥ずかしくて死にたくなるほどの発言をしたのだ。
「氷室先生、覚えているのね。美月先生は、覚えてないかもしれないと言っていたのに……」
「あの馬鹿……」
美月は桔梗にとんでもない置き土産を残していったようだ。
氷室はこの世界に何度も絶望しては、自らの使命とやらを無理やり思い込むことにより世界へ順応してきた。
自らの使命を思い浮かべ、何度も姿かたちを変える生活をやめられたのは、美月のお陰だ。
美月は白雪氷室そのものを愛してくれた。
カメレオンのように世界へ絶望しては姿かたちを変化させる氷室を、それぞれ別人としてではなく。
そのどれもを平等に愛してくれたのだ。
妹の鈴瑚にすら「厨二病」「多重人格者」「精神破綻者」と厳しい言葉を掛けられていた氷室は、美月が氷室のすべてを受け入れてくれたからこそ、白雪氷室として無感情な今を生きていける。
「……大嫌いな人間に自ら触れたくなるほど、言われたくないのね」
「……あの言葉は、俺と美月だけの思い出だ。それ以上は言うな」
「美月先生と氷室先生だけの思い出になど、私がするわけないでしょ」
ベルトの上に手を乗せた桔梗の上に乗せられた氷室の指を絡め取り、無理やり恋人繋ぎをしてみせた彼女から軽快な笑い声が聞こえてくる。
──氷室はあれほど警戒していたにもかかわらず、桔梗の罠に絡め取られてしまった。
しまったと。
氷室が気づいた時には、もう遅い。
桔梗は氷室の指に自身の指を絡ませることに成功したお陰で、ごきげんな様子で氷室が聞きたくない言葉を口にした。
「生まれるべきではなかったと嘆き悲しむ人間の背中を奈落の底まで突き落とし、生まれ変わらせる。新しい自分になれば、新たな使命を胸に掲げ、生きていくことが楽しくなるはずだ」
「めろ……」
「私は生まれ変わったの。氷室先生の言葉に感銘を受けて。この人なら、私を導いてくれる。大嫌いな私を殺して、生まれ変わらせてくれると」
「やめろ」
「美月先生に氷室先生はふさわしくないよ。だって美月先生は、生まれ変わる必要がない。氷室先生は生まれ変わる必要がないあの女を羨ましがっているだけ。それは恋ではないでしょ」
「やめてくれ……」
桔梗は氷室に現実を突きつけてきた。
まるで長年、氷室と美月の姿を眺めてきたかのように的確な発言は、氷室の心を抉る。
──この気持ちが恋ではないかもしれない。
それは氷室が最初から不安視していたことだ。
美月は氷室の憧れだった。
彼女のようになれたらどんなにいいだろうと焦がれ、彼氏でいることに誇りを持っていたのだ。
だが、美月がいなくなってから。
あの気持ちは本当に恋心なのかと疑問に感じる時が多くなった。
美月に答えを聞こうと満月の夜に連絡をしても、呼び出し音が鳴り続けるだけで美月からの答えは得られない。
あの思いが。美月に向ける感情が恋ではないことなど、氷室はとっくに気づいていた。
それでも、その感情を見て見ぬふりをしたのは──。
認めてしまえば、桔梗を拒む理由がなくなってしまうからだった。
「私なら、氷室先生の苦しみに寄り添ってあげる。氷室先生が弱っている時に慰めてくれない彼女ななど、存在している意味がない」
「……俺は……」
「私のことを嫌いだったのは、どうして好意を抱いているか分からなかったからでしょ。私が氷室先生のことが好きな理由を理解してもまだ、私のことを嫌いだと言えるほど。氷室先生は冷たい人なの……?」
桔梗は氷室の腰に手を回し、氷室と片手を恋人繋ぎした状態のまま氷室の顔を見上げようとした。
氷室が身体を捻り後ろを見れば、桔梗と顔を合わせるのは容易だ。
氷室には振り返る勇気がない。
今すぐに氷室が桔梗と瞳を合わせれば、「顔見知りに一般常識を教え込む」などと自分に言い聞かせた前提が崩れ去ってしまう。
一線を超えてもおかしくないこの状況をどうにか打破する為に、氷室は震える声で桔梗の名を呼んだ。
「桔梗」
氷室が初めて自らの名を呼んだことに気づいた桔梗は、重ね合わせた指に力を入れると小さく返事をする。
(負けたつもりなんざねえけど)
いつまでもキッチンに突っ立ったままではいられないだろう。
氷室は美月に恋愛感情など抱いていなかった。
言いようのない喪失感など、氷室の指を絡め取る桔梗に縋ればすぐにでも埋まる。
「いつまで突っ立っているつもりだ。風呂に入ってくるから、一度離せ」
負けたつもりなどなければ美月への思いを簡単に受け入れられない氷室は、桔梗に指を離すように告げる。
大人しく桔梗が指を離したのを確認すると、逃げるように風呂場へと退却した。




