桔梗の秘密
研修医は、拘束時間が長い割には安月給だ。
率先して睡眠時間を削り当直や宿直をしなければ、生活すらままならない。
前期研修医時代は率先して外部の救急医療センターでアルバイトがてら当直医として勤務していた。
美月の行方を追うに当たり、朝から晩まで働き詰めになるのをどうにか防ぎたかった氷室は、病院に蔓延る闇を暴く為にも人が少ない当直をメインに働くことになっている。
ピッチさえ持ち歩き、連絡が来たときにすぐ対応できるのであれば、宿直時にどこで何をしていても咎められることはない。
氷室は宿直室に籠もると、誰もいないのをいいことに鈴瑚へと電話を掛けた。
『お兄様、鈴瑚です。頼まれていた件についてご報告しますね』
氷室が天門総合病院の病院を暴こうにも、研修医として働く以上は自由に動ける時間など月に100時間あればいい方だ。
24時間に換算すれば4日程度しかないのだから、圧倒的に時間が足りない。
特段用事がなければ使用人を侍らせて学校帰り自宅で優雅に過ごしている鈴瑚は、氷室にとって使い勝手のいい駒だ。
あまり派手に鈴瑚を動かし、命の危機に晒されては大事になるが──。
美月が残した資料を氷室の代わりに読み込んで、要約した情報を伝えろと仕出しに出している以上は後戻りなどできるはずがない。
二人は一蓮托生なのだ。
何よりも、鈴瑚が氷室以上に乗り気だった。
生死不明の美月を探し出すことこそが自身の使命であると躍起になっている。
やる気満々の鈴瑚を無理に拒み、独断先行されて被害が広がっても困る氷室は、あえて鈴瑚を扱き使って手綱をしっかりと握っていた。
『院内学級は病院ではなく、教育委員会の管轄です。本来病院に通う必要のない子どもたちだけを院内学級に通わせることは難しいですね』
「本来ならば、だろ」
『臓器売買に暴力団関係者の協力は不可欠です。病院だけではなく、教育委員会とも関わりがあるのなら──不可能ではありません』
この世界で生き残るために必要なのは金と権力、そして人脈だ。
悪事を働くもの達を、本来ならば爪弾きにしなければならないはずなのに。
金に目が眩んだ権力を持つ人間は、悪事を働く悪人と手を取り合い、私利私欲を満たすためだけに後先考えずに手を組むのだ。
院内学級本来目的は、違法な手段を用いて入院させている子どもたちを一纏めにすることではない。
学校に通いたくても通えず、適切な教育を受けられない子どもたちの学び場を提供するための場所だ。
教育委員会から教師を派遣して、午後から個々の病室を周り、個別指導などをして問題なく本来の目的を達成していればいいのだが……。
あの様子では監視に夢中で、本来教育を受けるべき入院患者へのフォローなどできてなどいないだろう。
「調べておけよ」
『半日で暴力団と教育委員会の繋がりを洗い流すなど、無謀すぎます。証拠を掴むのに、最低3日は頂かないと』
「都合よく密会などするのか」
『偶然を必然にするのが私達の仕事でしょう?やりようはいくらでもありますから……』
末恐ろしい妹だ。
犯罪者として、警察に逮捕されるようなことがなければいいのだが。
氷室がしっかりと手綱を握っておけば、鈴瑚も無理はしないだろう。
『それから、院内学級に通っていた7人ですが……』
氷室は院内学級が病院の管轄であるかどうかと、院内学級に通う入院患者の名前が美月の調べていた資料に登場していないか調べてほしいと鈴瑚に頼んでいた。
一通り美月の資料に目を通した鈴瑚は、電話越しに7人の名前があるかどうかを伝えてくれる。
『生体ドナーリストと書かれた書類の中に、7人の名前がありました。全部で10名の名前が記載されたリストの中で、愛知桔梗だけに赤丸が付けられています』
「愛知、桔梗……」
美月と氷室の関係性を言い当てたことといい、氷室を「将来の伴侶」としてすり寄ってくる所といい──愛知桔梗が重要人物であることは間違いないようだ。
──天門総合病院は臓器売買を日常的に行っている。
美月の残した言葉が嘘かもしれないと感じたことは氷室にはなかった。
ただ、美月の残した資料に「臓器売買リスト」ではなく「生体ドナーリスト」と書かれていることが気がかりだ。
脳死ドナーは、保護者の同意さえ得られたならば15歳未満でも移植が認められるが、生きたまま臓器を摘出、移植する生体ドナーは18歳以上が対象だ。
未成年が生体ドナーになることは法律で禁じられている。
(臓器売買だって法律で禁じられているんだ。未成年の身体に、同意なくメスを入れたことを驚く必要などない)
医院長は暴力団関係者と親密な関係で、真っ昼間から院内の廊下を院長と肩を並べて暴力団関係者が闊歩しているくらいだ。
未成年の生体ドナー化、違法な臓器売買、暴力団関係者との深いつながり……闇を暴こうと思えば、氷室の想像がつかない範疇まで悪事が詳らかになってもおかしくはなかった。
「私がどうかした?」
「……!?」
氷室は鈴瑚と電話を繋げたまま、飛び上がる程驚いた。
慌てて電話を繋げたまま白衣のポケットにスマートフォンを押し込み、宿直室に居るはずのない人物と対峙する。
「ふふ。まるで幽霊でも見た顔。私には、手足が生えているよ」
──噂をすればなんとやら。
まさか、このタイミングで桔梗が姿を見せるとは思わなかった氷室は、額から脂汗を滲ませながら彼女を見下す。
桔梗は化けて出てきたおばけのように、「うらめしや」と微笑みながら両手を左右に振っていた。
「消灯時間はとっくに過ぎているはずだ」
「だって。約束したのに、先生が私の病室まで会いに来てくれないから……」
「俺だって忙しいんだよ」
「電話する暇はあるのに?」
「……っ、おい……!」
桔梗何を思ったのか、白衣のポケットに両手を突っ込むと、氷室のスマートフォンを手にしてくすりと微笑む。
スマートフォンのディスプレイには、鈴瑚と通話中であることが表示されている。
「すず……こ……?」
『違います!誰ですか』
「私がいるのに。女の人と通話なんてしたらだめよ。電話、切るね」
『待──』
不思議そうにその表示を見た桔梗は、鈴瑚の漢字が読めないながらに、聞こえてくる声から相手が女であることに気づいたのだろう。
氷室へ一言断ると、桔梗は当然のように通話終了ボタンを押した。
ツーツー、ツーツー。
通話終了の音声だけが虚しく鳴る氷室のスマートフォンを手にした桔梗は、硬い表情の氷室に明るい声で問いかけた。
「氷室先生は、美月先生のことを助けたいの?」
「……何を言っている」
「ふふ。隠さなくていいのに。私はなんでも知っている。氷室先生が美月先生と結婚を前提に交際していたこと、美月先生にもしものことがあったら、私達のことを氷室先生が代わりに助けてくれるように、美月先生がお膳たてしたことも」
彼女はどうやって美月と氷室のことを調べたのだろう。
愛知桔梗の家は、裕福な家計でなければ、どこにでもいる一般家庭の生まれだ。
両親共働きの市役所勤めで、サラリーマンよりは食いっぱぐれがない。
ただ、氷室と美月の関係性を調べ上げる上において、大金を用意できるような家庭環境ではないはずなのだが──。
「ほら。また顔に出ているよ。どうやって調べたんだって顔。ふふ、あの子が教えてくれたの。私の健康な身体から、臓器を奪うあの子が生き残るためには……。氷室先生や美月先生は邪魔だから」
「……あの子?」
一体何の話をしているんだ。
あまりにも都合のいい話しすぎて、氷室は強く警戒していた。
いくら子どもとは言え、こうもぺらぺらと裏事情を話すものだろうか。
絶対になにかある。
このまま最後まで彼女の言葉を聞いていれば、悪者に仕立て上げられるような何かが。
「肝臓が悪いと聞いている」
「肝臓がんは設定」
「設定だと……?」
桔梗のカルテには「肝臓がんの治療」をする為入院していることになっていたが、本人はあっけらかんと「設定」だと言い放った。
つまり、嘘だ。
院内学級に集まっていた元気いっぱいの少年少女達が呟く発言から、カルテの改ざんをしているのではないかと疑念を抱いていたが……。
まさか当人の口から堂々と嘘の病名で入院していると暴露されるとは思わず、氷室は眉を顰めながら桔梗の言い分を聞いていた。
「私の身体は健康そのもの。あの子を助けるために肝臓を一つ渡す手術をした後、私も肝臓がんが完治したことにして退院するはずだった。両親は私の肝臓一つを受け渡す代わりに、前金として数千万円をすでに受け取っている。準備ができたら、私はあの子の姉妹になって、身体へメスを入れるの。これ、臓器売買って言うんでしょう?」
「お前……」
「美月先生は言っていた。臓器売買は絶対にやっちゃいけないことだから。私を助けてくれると」
桔梗は悪びれもなく堂々と氷室へ罪を告白する。
鈴瑚によれば、院内学級に通っていた7人のうち、桔梗の名前だけに赤丸が付けられていたと言う。
桔梗はすでに臓器売買を持ちかけられた後だったのだ。
両親合意の元臓器売買の契約を済ませているならば、準備が完了するまで口止め料として大金が支払われた後であることは間違いない。
美月はこの事実を知ったせいで消されたのだと合点がいく。
氷室にとって桔梗は飛んで火に入る夏の虫だが、それは立場を変えても同じように見えるのだろう。
「どうやって助けるつもりだったのか……。私の両親はすでに前金を受け取っている。全額あの子の両親に返したら、罪に問われず済むの?」
桔梗は自分が犯罪に関わっていることを暴露してでも氷室と関係を紡ぎたい。
そして氷室は、誰にも知られることなく美月が暴きたかった病院の闇を暴いた上で、彼女の無事を確認したかった。
美月は病院の悪事を暴いている最中に、桔梗が巻きこまれていることに気づいたのだろう。
曲がったことが許せない美月は、未来ある若者が事件に巻き込まれることを嫌う。
常人では考えつかない解決策を考えて、桔梗を助けるつもりだったはずだ。
問題は、その解決策をしっかりと残してくれているかなのだが……。
それは氷室が、もっとよく美月の残した資料を確認しなければわからなかった。
「私を助けるつもりはあっても、きーちゃんを助けるつもりはなかった。私達は双子。私が逃げたら、きーちゃんが酷い目に遭うの。きーちゃんのことも助けてくれると言ってくれたら。私は美月先生の力になってあげたのに……」
黙って聞いていれば。
桔梗は大人である氷室や美月よりも優位に立ったつもりであるらしい。
まるで「美月が事件に巻き込まれたのは当然だ」「もっと自分に協力的ならば助けてやったのに」と発言する桔梗の言葉にカッとなった氷室は、桔梗の胸ぐらを掴んで低い声で唸る。
「美月が襲われるとわかっていながら、見て見ぬふりをした……それがお前の秘密か……?」
「私の秘密は、この病院の闇をすべて把握しているあの子と繋がりがあること」
「お前があの子と呼ぶ人物は、今どこにいる。お前は美月の居場所を知っているのか」
「私に協力してくれたら、教えてあげる」
「協力だと?お前は一体、俺に何をさせたい」
桔梗は天門総合病院に蔓延る闇をすべて把握していると言った。
臓器提供を受ける側とも交流があると言うのだから驚きだ。
臓器提供を受けた側がお礼の手紙を書くことはあっても、臓器提供者と顔を合わせることは禁じられているはずなのだが──。
やはり、この病院には──常識で計り知れない闇が広がりすぎている。
「あの子を助けるため、犯罪に手を染めたと暴露されたくないあの子の両親は、あの子が助かったら私を始末する。邪魔な美月先生を行方不明にしたように」
暴力団関係者に協力を仰げば、社会的に人間を抹殺するのは簡単だ。
桔梗は美月のことを見捨てたくせに、自分が死ぬのは嫌らしい。
美月のことを見捨てることなく助けてくれたなら、氷室は喜んで桔梗の手助けをしたのだが…。
今現在美月は行方不明のままであり、桔梗は美月が危険な目に合うことを知りながら放置した。
死ににたくないと氷室へ縋る桔梗を助ける義務などない。
「氷室先生、今度の日曜日、暇でしょう。私にいい考えがあるの。駅前に11時集合。時間厳守よ。1時間だけ、私に先生の時間を貸して?」
「暇なわけないだろう」
「宿直バイトもなければ、勤務日ではない。お休みの日なのに」
「どうやって俺のシフトを把握した」
「あの子に頼んだの。お願い、氷室先生。時間を作ってくれないなら、美月先生と交際していたって院長に言いつけるよ」
氷室は桔梗の誘いを断ろうとしたのだが、美月との関係性を暴露すると脅されたら、従わないわけにはいかなかった。
氷室のシフトを把握できるのなら、桔梗の言う「あの子」は入院患者ではなく病院関係者なのだろうか?
美月の資料に目を通すつもりだった氷室は、渋々桔梗の申し出を受け入れ、奪われていたスマートフォンを返して貰ったのだった。