未来の分岐点
砂浜と歩道を隔てる縁石は、氷室の頭から腰ほどの高さがあった。
その上に登ると桔梗は、氷室よりも数十センチ身長が高くなるのだ。
氷室はいつ桔梗が壁の上から落ちやしないかと冷や冷やしながら、桔梗を見つめる羽目になった。
「家族愛では意味がないの」
壁の上を歩く桔梗のスカートが、ひらひらと氷室を誘うように揺れる。
桔梗は氷室に向けて淡々と言葉を紡いだ。
「私は氷室先生が好き。氷室先生を私だけのものにしたいと思うほどに。氷室先生は、美月先生のどこが好きなの。包容力?年上の余裕?それとも、身体目当てなのかな……」
「馬鹿言うなよ。何でもかんでも欲望に結びつけるのはよせ」
「氷室先生は真横に美少女がいても手を出さない。元国民的アイドルが、煮るなり焼くなり好きにしろなんて告げる機会は、なかなかないよ。氷室先生は、私のファンを敵に回した」
有象無象のファンたちが氷室に敵意を向けてきた所で。
『私は不特定多数に愛されている』
桔梗がそうして承認欲求を高めることはあっても、氷室が同調圧力に屈して彼女を好きになるわけではない。
(だからどうした)
名指しで批判されようが、桔梗を好きになることはないのだと。
意気地になっている氷室に、桔梗の言葉は響かない。
眉を潜めて黙り込む氷室に、縁石の上を歩く桔梗は抑揚のない声で淡々と言葉を続けた。
「氷室先生だって、生物学上は男でしょ」
「そうだが」
「どうして氷室先生は私を好きになってくれないの?どうでもいい人たちは私の魅力に気づいて、たくさんグッズを買ってくれたり、応援してくれるのに」
人には好みが存在する。
桔梗は氷室を愛するあまり、人間として生まれた男たちが全員、桔梗を好きになるわけではないことが頭からすっぽりと抜け落ちてしまっているらしい。
この地球上に、人間の男として生まれたすべての人類が桔梗を好きになるのが運命づけられているとしたのならば。
意思を持った別々の人間として、存在する理由すらなくなってしまうだろう。
(暴論だな)
桔梗には傲慢な女王様のような思考回路が見え隠れするほど、氷室に愛して貰える自信がある。
恵まれた美貌。
一度聴いたら忘れない、耳に残る美しい声。
正確無比な歌声は聞く人を魅了し、演技で人々の目を引き付ける。
欠点があるとしたら、人には言えない秘密を山ほど抱え込んでいることくらいだろうか。
(俺のことを好きなことも……ある意味では、欠点になるか……)
学生時代、美月に救われた氷室は彼女を裏切れない。
もしも美月に出会う前、桔梗と出会い。
桔梗の魅力に目を奪われていたのだとしたら――きっと氷室は、桔梗を選んでいたのだろう。
(それは認めても構わないが、認めたせいで脈ありだと勘違いされるのは困る)
氷室は美月から、手紙で一方的に別れを告げられてしまったが、彼の認識上はまだ交際しているつもりだ。
美月を裏切るようなことはしないと決めている氷室は、桔梗の疑問にそっけなく答えた。
「……お前を魅力的には感じないからだ」
「私が美月先生と全く同じ人間になったら、私に魅力を感じてくれるの」
「美月になろうとすることが間違いであることに気づけよ。お前は愛知桔梗以外の何者にもなれない」
「……きーちゃんにはなれるもの」
「昔の話だろ」
桔梗は幼少の頃から性別が異なる容姿がそっくりな双子の弟、吉更と頻繁に入れ替わっていた。
考え方や性格、生活環境や交友関係すら異なる吉更になりきることが当たり前の桔梗には、周りをあっと驚かす演技力が備わっている。
それは頻繁にテレビぞラマや舞台、ミュージカルへキャスティングされていることから明らかだ。
その気になれば桔梗はいつだって、別人として氷室の前に姿を表せたことだろう。
姿形を偽り、時には美月のふりをして氷室に近づくことができたはずだ。
それをしなかったのは──。
「お前に演技力があるのは認める」
「氷室先生、私に興味なんてないはずなのに。私の活躍。見守っていてくれたの?」
「お前の活躍は、嫌でも目に飛び込んでくる」
「ふふ。私、重宝されているの。芸能人は我が強いから、主役をやりたいと自己主張がすごいの。私はテレビ画面にさえ映っていれば、主役でなくても構わない。脇役の方が、オファーは多いかな」
氷室は桔梗に演技力があることは認めるが、細かい背景には興味がなかった。
主役だろうが脇役だろうが、スタッフロールに愛知桔梗の名があれば、それだけで氷室は条件反射的にその番組の放送中はテレビを見ないようにする。
桔梗が把握するドラマの放送時間は避けられても、ニュース番組の特集画面で突如として愛知桔梗の出演する演技が報道されたなら、氷室は避けようがなかった。
『また無告知で出ているのか』
桔梗の演技を偶然目にした氷室はチャンネルを変えようとして、彼女の演技を食い入るように見つめる。
そのお陰で、氷室は桔梗にたぐいまれなる演技の才能があることに気づいたのだ。
「お前はその気になれば愛知桔梗の名を捨て、身分を偽り俺と新しい関係を紡ぐことだってできたはずだ。お前はそれをしなかった」
「……きーちゃんと私が入れ替わっていた時のように。別人になることは簡単よ。私ときーちゃんは家族だもの。身分証だって交換すればいい」
「身分を証明できないから、新たな関係を紡ごうとしなかったのか」
「それもあるけれど……。私は、氷室先生に愛知桔梗を愛してほしいの。別人になった私を、美月先生よりも大好きになってほしいわけではない」
桔梗は氷室に嫌われている。
彼女には当然、その自覚があるのだろう。
好感度がマイナスを突き抜け地を這っていたとしても。
誰からも愛される芸能人として輝く愛知桔梗は、長い時間を掛ければ氷室からの愛を得られると本気で信じている。
恐ろしいほどの自信家だ。
向こう見ずで、氷室を自分のものにするためだったらどんな手段も厭わない。
(美月とは対象が異なるだけで……やっていることにそう変わりはないのか……)
美月は命の危機が迫る人を見かけたら、どんな手段を使ってでも助けようとした。
いい意味でお人好し、悪い意味では無謀とも言える正義感を抱く女性だ。
桔梗は氷室を自分のものにするためだったらどんな手段も選ばない。
世間を味方につけ、逃げ場を失わせ囲い込む。
その手段は姑息とも言えるし、計算高いとも言い換えられる。
氷室が命を落しかねない危機に瀕したならば。
氷室を助けるついでに困っている人へ手を差し伸べるかもしれないが、桔梗の世界は氷室中心に回っている。
過度な期待は禁物だ。
氷室は美月の自己犠牲──地位や名誉、立場すらも厭わずに困っている人を救いたいと願い手を差し伸べる無償の愛に惚れている。
桔梗にもその無償の愛が備わってはいるようだが、美月とは対象が異なるのだ。
美月は不特定多数。
桔梗は個人に向けて。
その愛の大きさを実感したとしたら、氷室は──頑なに桔梗を拒むことなどできなくなるだろう。
「私は私。どんなに背伸びをしても、美月先生になろうとしても、愛知桔梗をやめることはできない……。その言葉は、私ではなくて鏡花先輩に掛けてあげるべき言葉だね」
桔梗は大きく片足ずつブラブラと腰の高さまで足を上げては、どこかで聞いたことのあるような名前を出した。
宇都宮鏡花。
Imitation Queenの4期生で、桔梗がステージから転落した際に接触事故を起こしたアイドル時代の先輩だ。
鏡花は、Imitation Queenの1期生であり、絶大な人気を誇った伝説のアイドル七色虹花の再来と呼ばれた少女だった。
鏡写しに最強アイドル。
一度ステージの上でマイクを握り、スポットライトを浴びれば──まるで七色虹花が乗り移ったかのようにそっくりな仕草と歌声を披露する。
親族説、生き別れの姉妹説などがファンの間でまことしやかに囁かれているが、どれもあくまで噂の域を出ない。
宇都宮鏡花は七色虹花が好きすぎて、彼女になろうとするあまり。完璧に彼女を再現するに至ったと氷室は耳にしたことがあった。
彼女があくまで表向きの理由としてそう発言したのか、本心なのかは彼女だけが知っている。
氷室のような一般人が、鏡花の真実と嘘を見分けることなど、桔梗から話を聞くようなことさえなければ知る術などどこにもなかった。
「鏡写しに最強アイドル。ファンが考えてくれた口上は、鏡花先輩にぴったりだった」
「……お前の口上」
「愛するみたいに包み込む。我らが天使愛知桔梗」
桔梗は一度聞いたら二度と忘れないであろうインパクトのある口上を、ファンが発言した通りのリズムで淡々と再現した。




