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浮気は無理でも娘ならワンチャン?

「きょ、今日は災難でしたね……」


 砂浜で愛知桔梗の撮影が行われていたせいなのか──普段は何かと大盛況の診療所から、客足が遠のいていた。

 具合の悪い患者がいないことはいいことだ。

 普段飲まず食わずで働き詰めな氷室と那須宮も、久しぶりにのんびりと纏まった休憩を取りながら業務に当たる。


 まったりとした診療時間を終えた二人は、久方(ひさかた)ぶりの定時退社だ。

 那須宮の「災難」について語れば、氷室は墓穴を掘るような気がする。

 だんまりを決め込んだ氷室が戸締まりをして、診療所の電気を全て消す。

 戸締りを確認してから出入り口をしっかり閉め、鍵穴に鍵を差し込んだ時のことだった。

 背後からパタパタと、誰かが走ってやってくるような音が聞こえる。

 診療時間を終えたにもかかわらず、急患が飛び込んでくるのは今に始まったことではない。

 顔を見合わせた氷室と那須宮が同時に振り返った時のことだ。


 そこにいたのは、患者ではなく──。


「私の氷室先生と、肩が触れ合うほどの距離で立っているなんて……。那須宮さん、酷いです。まさか、美月先生と私を差し置いて、交際しているなどとは……」

「ひ、ひええっ。そ、そんな!そんな滅相(めっそう)もない!わたしは美月先生と桔梗ちゃんには勝てませんんっ!」


 ぶんぶんと首を左右に振る那須宮は、左側へとかさかさ音を立て後退(あとずさ)り、氷室と距離を取る。


(面倒なことになった…)


 急患でないことに安堵しながら、別の意味で頭を抱えたくなった。

 鍵を閉めようとしていた診療所の扉を開け直した氷室は、桔梗へ言葉を紡ぐ。


「長い話になるなら、中へ入れ」

「私、先生と一緒に帰りたいな」

「……どこのホテルを取ったんだか知らないが、あれだけギャラリーがいれば週刊誌がどこで張っているかわからん。すっぱ抜かれたら困るような行動は慎め」

「飛行機のチケットは事務所名義。私の撮影は午後から。SNSで沖縄にキョウちゃんがいたって書き込まれても、週刊誌記者が沖縄に永住していない限りは明日までは安全だよ」

「永住していないと何故言い切れる」

「私が氷室先生の住んでいる街事情を下調べせず、会いに来ると本気で思っていたの?必要なら調査報告書を見せてあげる」


 桔梗は笑顔で間接的に「記者がいないかどうか探偵を使って調べた」とも取れる話をした。

 那須宮はその話がでた途端に悲鳴を上げ、ますます氷室と桔梗から遠ざかる。


「那須宮、先に上がれ」


 桔梗と二人きりになることだけは避けたかったが、業務時間外に那須宮へ精神的な負荷を掛けるわけにはいかないだろう。

 ストレスやパワハラが原因で辞めるなど自己申告されたら、困るのは氷室だ。

 氷室は仕方なく、那須宮を帰すことにした。


「ひゃ、ひゃい。お、おつかれ、さまでした……」


 那須宮は奇声を上げながらも二人にしていいのかと不安そうだったが、トラブルに巻き込まれるのは嫌だったのだろう。

 氷室の許可を得た那須宮は、パタパタと診療所から走り去ってしまった。


「昔の氷室先生だったら、絶対私と二人きりになんてなろうとしなかったのに」

「俺は大人だ。ガキの扱いは心得ている」

「私だってもう大人よ。20歳になって、結婚もできるようになったし、お酒だって飲める。一人暮らしは危ないから。したくても、焔華さんに許してもらえていないけど……」

「自立してから言え」

「焔華さん過保護だから。私が氷室先生のお嫁さんになるより先に、誰かに襲われたら大変だと。気を使ってくれているの。精神面では自立しているからいいでしょ」


 桔梗は少しでも氷室へ大人になったアピールがしたいのか。

 邪魔な髪を耳の後ろへ流して大人っぽさをアピールし、誘惑しようと必死になっている。

 確かに、桔梗は大人になった。

 6年も経てば人の見た目は容易に変化する。


 それは認めよう。


「大人になることを履き違えてないか」

「そう見える?私、芸能界の荒波に揉まれたお陰で、かなり精神的に成長したはずなのに……」


 それは桔梗の勘違いだ。

 氷室にとっては、どんなに年を重ねようが桔梗は小さな子どもだった。

 12歳もの年が離れているのだから無理もない。

 大人として認められる年齢になったとしても、氷室は彼女に手を出そうとは思えなかった。


 だからこそ。


 髪を染め、男を(たぶら)かすような仕草をする桔梗を見た氷室は、心配になったのだ。


(あいつは俺に好意を抱いているらしい。俺に選ばれる為には早く大人にならなければと階段を駆け登る女が、道を踏み外したら夢見が悪いからな……)


 悪い男に引っ掛かかり、氷室の見えない所で桔梗が酷い目に合うのは、氷室も望んではいなかった。

 たとえ氷室には関係ないとしても。

 叶わぬ思いを抱き、その思いをうまく消化できなかったせいで道を踏み外したと明らかになれば桔梗の身内である吉更が怒り、本来であれば先輩でありプロデューサーであっただけの焔華も怒り狂うはずだ。

 週刊誌にすっぱ抜かれれば、世間にも白い目を向けられるだろう。

 氷室が自身の幸せを追い求め、桔梗の不幸を求めれば求めるだけ──不幸は氷室に跳ね返ってくるのだ。


(危なっかしくて仕方ねえな……)


 焔華が氷室に向かって逆ギレを始めた理由が長いこと理解できなかったが、今になってその理由を理解することになるとは思いもしなかった。

 神奈川焔華はすぐに声を荒らげ常に怒っているようなイメージではあるが、理由がなければ怒りを露わにするようなことはない。

 桔梗は6年もの間氷室への思いを募らせ──間違った方向へ全速力で向かっている。

 氷室が桔梗を拒絶すれば、彼女の人生が取り返しのつかないことになる可能性が高かった。


「芸能界ってすごいね。有名になる為なら、女の子ってどんなこともするんだよ。権力を持っている男に取り入り、お金を積み、愛を囁き、身体を曝け出す。すごいよね。私、思わず焔華さんに聞いちゃった。芸能界って、これが普通なの?って」


 焔華は桔梗の問いかけに苦い顔をして大筋を認めたらしい。

 それから桔梗は、そうした人間たちをあざ笑い生きてきたようだ。


(こいつは昔からあまり性格が良くなかったが──)


 芸能界の荒波に飲まれ、さらにスレた。

 年の割には達観していると言えば聞こえはいいが、自分と異なる意見を持つ大勢に抗い生きていくのは相当のストレスだ。

 表面上は彼女たちの意見に賛同し、心の中では全く異なる考えていれば嫌でも心は荒む。

 ストレス耐性がない子どもであれば耐えきれず命を断っていてもおかしくなかっただろう。


「芸能界なんて、長くいるものじゃないね。臓器売買により私腹を肥やす大人たちかそれ以上に醜い人間ばかり。氷室先生のお陰で地獄から助け出されたのに、また違う地獄に身を置いている……」


 桔梗は今にも、氷室に助けを求めて来そうなほど暗い表情をしている。

 たくさんのギャラリーに囲まれ、美しい歌を響かせながらPV撮影に明け暮れていた姿とは似ても似つかない。


「私が助けてほしいと言ったら。氷室先生は、あの時みたいに私を助けてくれる?」


 氷室が訝しげな瞳をしたからだろう。

 桔梗はついに、助けてくれないかと口に出した。

 氷室は桔梗を受け入れる前提であれば、優しい言葉をかけてやるべきだろう。

 しかし氷室は、桔梗を受け入れるつもりがなかった。

 優しい言葉など、桔梗に掛ける必要がない。


「……自分で選んだ道だろ」

「ふふ。自分でどうにかしろって?」

「大人になったならな。いつまでも頼ってないで、一人で解決できるようになれよ。俺は一般人だ。芸能界までは助けに行けない」

「先生がその気になれば、芸能界デビューも夢じゃないよ。その為に、今芸で氷室先生の情報提供を呼びかけたんだから」


 今芸とは、ドキュメンタリー番組の略称だろう。

 氷室は桔梗の策略により、自らと関係なく顔写真と医師であること、本名をテレビ番組で晒されている。

 その気になれば芸能人としてのデビューも夢ではないことは確かだ。

 当然、氷室にその気などないが。


「美月先生がいたら、桔梗ちゃんを見捨てるなんて酷いわって怒られちゃうよ」

「……美月は俺に説教しない」

「じゃあ、なんて言うの?」


 美月なら間違いなくこう言うだろう。


『あたしに任せて、氷室。あたしが無理だったら、氷室が桔梗ちゃんを救って』


 真っ先に美月が桔梗を地獄から救い出す為に後先考えず動き、そのカバーに氷室が走る。

 それが氷室と美月の役割分担だ。


『桔梗ちゃんを見捨てるなんて酷い』


 など、美月が発言するわけもない。


(……まだ、大丈夫だ)


 美月の発言を想像した氷室は、美月の姿を思い出すことができてホッとしていた。


(まだ、美月の姿を思い出せる)


 テレビ越しに大人へ成長した桔梗の姿を確認してから、氷室は悪夢にうなされるようになる。

 脳裏に焼き付いて離れないのは桔梗姿で、美月を思い出そうとしてもうまく思い出せない日々が続いていた。

 桔梗とはその気になればいつでも会えるが、美月とはどんなに願っても会えない。

 彼女が氷室と会うことを拒んでいるからだ。


「先生は今でも、美月先生のことが好きなんだね」

「…………ああ」

「違うの?今、すごく間があったよ。もしかして、私のことを気にしてくれているのかな」

「ありえない」

「それは即答なんだ……」


 桔梗は残念そうに氷室へ言葉を紡ぐと、診療所の中で込み入った話をしようと誘う氷室の腕を取った。


「6年ぶり会えたのに。氷室先生は私を残念がらせる天才ね」

「早く嫌いになってくれ」

「それは絶対ありえないよ。無理やり襲われても、私は氷室先生を嫌いになることなんてない。先生相手だったら、無理矢理でも喜ぶかも……」

「俺を性犯罪者扱いするな」

「きゃー。氷室先生が怒ったー」


 桔梗は黄色い声を上げて氷室から手を離すと思いきや、むしろ腕に胸を無知やり押し付けてきた。


 流石は元Imitation Queenのセクシー担当だ。

 氷室を悩殺するためならどんな手段を取っても構わないのは本当のことらしい。

 桔梗は氷室から鍵を奪い、慣れた手付きでドアを閉めると鍵を掛け、絡めた腕を国道へと引っ張る。


(こいつ……腕を絡めたまま国道を歩くつもりか!)


 氷室は冗談ではないと心の中で声を荒らげたが、氷室の反対意見を聞いた所で歩みを止めるわけもない。

 踵を返した桔梗は氷室の腕を取り、グイグイと国道に向かって引っ張っていく。


「パパ活を疑われるような行動は慎め」

「浮気とパパ活だったら、どっちが私と氷室先生の関係として相応しいと思う?」

「どちらも好き好んで結ぶような関係ではない」


 桔梗は氷室の隣を歩きながら、不倫とパパ活のメリット・デメリット確認していた。

 パパ活のメリットは金銭を貰えることだと口にした桔梗は、どちらの関係を結ぶことも遠慮したい氷室を上目遣いで見上げながら妖艶な笑みを浮かべた。


「私、氷室先生と思いが通じ会えないなら、浮気がしたいな。パパ活はお金で繋がる縁。私が氷室先生をパパと呼びたいなら、美月先生から奪い取る必要などなくなる。二人の娘になればいいだけだもの」


 桔梗は氷室が納得しかねる発言を堂々として見せた。

 もしも美月が行方不明になることなく、氷室と婚姻し──毒親に殺されそうな桔梗が居たとしたら。

 氷室は当然、桔梗を養子に迎え入れただろう。

 今になって思えば、それこそが氷室と美月、桔梗の三人が幸せになれる唯一の道だったように思えるのだから驚きだ。

 毒親から桔梗を救った氷室と美月は社会から称賛され、桔梗を娘として育てていく。

 氷室に向ける愛は恋愛感情ではなく家族愛で、なんの問題もなく桔梗の成長を近くで見守りながら歩んでいくことができただろう。


「俺への恋を諦めて、娘になるつもりはないか」

「私と浮気はしたくないけど、娘にならしてくれるの?」

「……考えてやらんこともない」


 氷室が桔梗の提案を受け入れることなど殆どない。

 珍しいことがあるものだと目を丸くした桔梗は、寂しそうに笑う。


「……先生は酷いね。もっと早くに言ってくれたら良かったのに」


 氷室は無茶を言うなと言いたくなった。

 独身は養子縁組の対象外だ。

 美月と婚姻した状態でなければ、桔梗を娘として迎い入れることなど不可能だった。

 それをするためには、美月が階段から落ちる前に婚姻し、桔梗の家庭事情を聞き、正式な手続きをしなければならない。


「6年前に言ってくれたら──まだ、間に合ったかもしれないのに」


 今更、どうにかなる問題ではないのだ。

 氷室が独身である限り、桔梗を娘に迎え入れる未来などない。

 娘として迎え入れるよりもよほど、氷室が美月を諦め桔梗の思いを受け入れて婚姻を結ぶ方が現実的だった。


「今更、無理だよ。先生のことをパパとを慕い、この思いを捨てるなんて無理。私はもう大人だよ。氷室先生の娘になるメリットなんてない」

「俺の娘になれば、お前は俺のものだ」

「言い換えれば、氷室先生は私のものになるって?先生は何もわかっていない。私が一番欲しい物がなにか。わかっていたら、こんな発言は絶対しないよ」


 桔梗が本当に欲しい物がなにか──。

 それは当然、氷室の心だろう。

 桔梗は氷室からの愛が欲しい。家族愛ではなく、女性として好きになって貰いたいのだ。


「おい、危ないぞ」


 桔梗は国道まで氷室を引きずると、ぱっと手を離して砂浜と歩道を隔てる壁に登り、歩き始めた。

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