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罠としか思えないヒントの数々

 双子の兄妹に遅れること数十分。

 氷室が診療室に戻れば、看護師から長時間姿を消すなど何を考えているのかと嫌味を言われた。

 長時間と指摘されたなら氷室が全面的に悪いようにも聞こえるが、休憩と称して診療室から姿を消した時間は30分にも満たない。

 飲まず食わずで、トイレ休憩すらも挟む暇もなくひっきりなしに患者を診察する時だってあるのだから、大目に見てほしいと言うのが本音だった。


(待たせすぎると、患者の親が怒るからな……)


 いい年した大人だって、具合の悪い中診療まで数時間掛かれば大騒ぎするのだ。

 子どもが長時間具合の悪い中大人しく待っていられるはずもない。

 診療時間外だからと口答えする権限など研修医には存在しないのだ。

 研修医を終え、医者として一人前になって許される行為を着任早々やらかしたのだから、看護師に怒られるのは当然だろう。

 一人前になれば。睡眠時間を削り、理不尽に耐え忍ぶ必要はなくなる。

 こき使われる側からこき使う側に変化する一人前の医者は、今までの鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように研修医へ辛く当たっていた。

 悪しき風習は、恐ろしい闇を抱える天門総合病院だけで行われていることではない。

 医者を志すならば、当然念頭に置くべき暗黙の了解だ。

 人より勉強が出来、金持ちの家に生まれ、多額の学費を支払って医者になった選ばれしもの達全てが、人の気持ちを思いやれる人間に成長するわけもない。


 病院は縦社会だ。


 権力あるものが「救う必要のない患者」であると名指しで指名すれは、適切な処置をすれば元気に走り回る程回復する子どもが死に至る。

 立場の弱い人間は、上の人間に目をつけられない程度に見逃される命を助けるため、自らの人間らしい生活を捨ててでも職務を全うしなければならなかった。


 氷室は自分が、善良な医者だとは思わない。


 患者を助ける、助けないは気分だ。どんなに手を尽くしても、助からない命がある。絶対に助からないとひと目でわかるような命まで、氷室は助けようとは思わなかった。

 99%助からないであろう症状の重症者を助ける1%の奇跡を手繰り寄せるのは、美月の仕事だ。


 だからこそ。


 美月が長い間臨床の場から姿を消すことは世界の損失だった。

 美月がいることで、助からないはずの命が救われるのだから──。


「白雪先生、回診お願いします」


 氷室では、美月の代わりは務まらない。


 彼女に憧れ、彼女のような小児科医になると誓った氷室は今、病気に苦しむ患者から目を逸し──彼女に危害を加えた人物への復讐に燃えていた。


「おはようございます。回診です」


 入院患者の病室を回り、異常がないかを問診していく。


 入院している時間が長いからか、慣れっこなのかは分からないが──問診に協力的な入院患者は3分と立たずに会話を終えるが、ただ胸の音を聞くだけなのにギャーギャーと泣き喚く入院患者の問診をするのは大変だ。


「ぎゃあああ!やだー!やーだー!」

「はいはい、大丈夫ですからねー」


 氷室は考えていることが顔に出やすい。


 不快感を露わにして子どもを怖がらせないように、声だけ明るく棒読みで患者を勇気づけた氷室は、看護師と協力して力ずくで押さえ付けながら触診をした。

 ひと仕事終えた氷室は、バインダーに挟んでおいたカルテを(めく)りながら病室に姿が見えなかった7人の少年少女を探す。

 トイレなどで一時的に席を外しているならば、病室に戻っている頃だろう。

 看護師を(ともな)い氷室が来た道を戻ろうとした所で、探し人達は院内学級に集められているのを確認する。


「白雪先生、あの子達の回診は必要ありません」


 院内学級のスペースにいる子どもは全部で7人。

 その中には、先日氷室を脅してきた少女──愛知桔梗の姿もあった。

 7人とわーきゃー「だるまさんがころんだ」と叫んでは遊んでいるようだが、大丈夫なのだろうか。

 氷室が回診を終えていない7人のうち2人は、重い心臓病を患っているはずなのだが……。


「入院患者の健康管理をする必要がないとでも言うのか」

「院長のご指示です。あの子達を問診した所で、異常が見られるはずがないんですから」


(あの子達を問診した所で、異常が見られるはずがない?)


 まだまだひよっこの研修医とは言え、氷室は医者だ。

 看護師の判断や院長の指示に黙って従う(いわ)れはない。

 もしも看護師と院長の指示に従い患者の具合が悪くなれば、責任を取ることになるのは氷室なのだ。


 (書類上問題があったとしても、問題なしと記入するのか)


 身体的に問題がないのかは、回診担当者である氷室が確認しなければならないことだ。

 看護師は、研修医として赴任してきたばかりの氷室を警戒している院長が名指しでサポートするようにと指示をしたベテランである。

 10年近く天門総合病院で働く、忠実なる下僕(げぼく)だ。

 氷室が少しでも怪しい動きをすれば、美月のようには消されるかもしれない。


(寝る時間を削ったとしても、美月の資料を精査(せいさ)するのは1日1時間から30分がやっとだ)


 氷室が読むことを前提として作成された資料を深くまで読み漁る暇が、研修医として汗を流す氷室にはほとんどと言っていい程存在しなかった。

 病院での勤務中に、自分の足で稼げる情報があるのなら、美月の資料を確認するよりも先に自らの目で見聞きするべきだ。


「異常があるかどうかを確かめるのは、医者の仕事だ」


 院内学級で元気よく遊ぶ子どもたちが、臓器売買に関わる子どもたちであるかどうかを見極めるのもまた、氷室の仕事である。

 氷室は看護師と院長の指示に逆らい、堂々と白衣を(ひるがえ)して院内学級の中へと入っていった。


「回診です」

「しろゆき先生!」


 氷室が一言声を掛ければ、院内学級の女性教師がぎょっとしたように目を白黒させて氷室を見つめた。

 明らかに挙動不審だ。

 氷室がやや硬い表情で警戒しながら院内学級に足を踏み入れたからだろう。

 楽しく遊んでいた子どもたちも不安そうだ。

 そんな子ども達の不安を吹き飛ばしたのが、愛知桔梗だった。

 先日白雪氷室と名乗ったはずなのに間違った呼び方で氷室を呼んだ彼女は、一目散に氷室の腕を取って、院内学級に集まっていた生徒たちの元へと引きずっていく。


「みんな、しろゆき先生だよ」

「しろゆき……?」

「へんな名前」

「白雪だ。これから回診をする。全員一列に並べ」

会心(かいしん)一撃(いちげき)?」

「ばっか、ちげーよ。回診だ。かいしん!」

「かいしんってなぁに?」

「身体に異常がないか確かめるんだよ」

「わたし達に悪い所があったら、入院なんてできないのにね。へんなの……」


 大小様々な年代の少年少女達は、5歳から14歳まで年齢順に氷室の前へ並んだ。

 院内学級の中で一番年上の桔梗は、氷室から一番遠い場所に並んでいる。


(悪い所があれば入院できないのに……か……。おかしなことを言うな……)


 聴診器を当てては簡単な問診を行い、次々に患者を見て回る氷室は、たしかに全く心音の異常が見られない患者たちのカルテに「異常なし」と書き込みながら、考えを巡らせる。

 病院への入院は「病気を治療する為」に行うものだ。

 病気を治療する必要がない人間は、そもそも入院資格がない。

 正規の手続きを踏んで入院できるはずがない人間が、何故か一箇所に集められているのだとすれば──。


(管理がしやすいとはいえ……そんなにわかりやすいことをするのか?)


 看護師と院内学級で過ごす子どもたち言葉を深読みすれば、この場所に集う子どもたちが何らかの違法な手段を用いて、病院に入院している確率が高い。

 警戒しているとは言え、大して調べもせずに氷室がすぐにわかるようなヒントを発言する患者と看護師に、氷室は強い違和感を感じていた。


(罠だろうな……)


 わかりやすく情報を与え、食いついてきた所をグサリとひと刺しする気なのだろう。

 美月も「人身売買の証拠を掴んだ」と言っていた。今にして思えば、あれも罠の一貫だったのだろう。


「氷室先生。私の番だよ」

「大きく肌を見せる必要はない。じっとしていろ」

「……気合い入れて、勝負下着。つけてきたのに……」


 桔梗は聴診器を片手にしゃがむ氷室の前で、大きく来ていたパジャマシャツの裾から胸元に掛けて、上半身を露出しようとした。

 派手な下着を氷室に見せた所で、何かが始まるわけもないだろうに。

 昔は触診の為に大きく胸元を露出するのが主流だったが、セクハラ問題に発展する可能性を考慮したのだろう。

 現在は裾の下から医者が手を差し込み、胸元を直接確認するようなことはしていなかった。


(年の差考えろよ……)


 桔梗と二人だけならば本音を口にしていたが、現在氷室は不特定多数の患者が見守る中で桔梗の回診をしている。

 馴れ馴れしく桔梗に返事をすれば面倒なことになると理解している氷室は、あえてその発言をスルーした。


「おねーちゃん。しょーぶしたぎってなーに?」

「大好きな男の人を(とりこ)にするために身につける下着のこと」

「桔梗ちゃん、先生のこと好きなの?」

「ふふ。私、氷室先生のお嫁さんになるのよ」

「アイドルの次はお嫁さんかよ。わけわかんねえ。手術に失敗したら死ぬのに」


 院内学級に集まっていた患者達の意見は割れていた。

 桔梗の言葉を素直に受け取り祝福の声を上げるもの、懐疑(かいぎ)的な声を上げるもの、興味がないものと様々だ。


「勝負下着ってどんなの?売店には売ってないよね?どうやって買ったの?」

「ふふ、それは秘密」

「双子はいいよなー。片割れのふりしていつでも病院抜け出せんだから。俺たちはそうもいかねえ」

「さっきからなんなの?桔梗に風当たり強すぎ!」

「桔梗のこと好きだもんな。仕方ないよ」

「ちげーよ!気色悪いこと言うな!」


 子どもたちは元気にわいわいと言い合いをしている。

 にぎやかなのはいいことだが、会話が不穏すぎて氷室も気が気ではない。


(子どもたちも自身の状態をある程度把握しているのか……?)


 謎は深まるばかりだ……。


 氷室から子どもたちの興味が薄れたことを確認した看護師は、さっさとこの場を立ち去るように顎で扉を示したが、氷室がこの場を立ち去るためには絡みつく桔梗をどうにかしなければならない。


「……離してくれないか」

「ねぇ、氷室先生。時間があったら、私の病室に来て。氷室先生になら、私の秘密。教えてあげる」

「な……」

「約束してくれるでしょ」


 桔梗は氷室がうんと言うまで絡みついた腕から離れるつもりはないらしい。

 氷室は耳元で囁いた桔梗の言葉になど頷きたくはなかったが、意地になり嫌だと言って看護師に目をつけられるのだけは避けたかった。


「…………」

「やった。先生、約束したからね」


 氷室が苦い顔をしながら小さく頷けば、桔梗は彼から手を離して院内学級に集まった子どもたちの元へと戻っていく。

 やっと長い間密着していた桔梗の手が離れたと踵を返し氷室の背後からは、子どもたちの明るい声が聞こえてくる。


「桔梗ちゃん、何を約束したの?」

「秘密」

「ひみつばっかりー」

「女は秘密が多いものなのよ」

「神奈川焔華の真似か。似合ってねーぞ」

「ほら!また喧嘩する!」

「してねーし……」


 桔梗はどうやら、院内学級の中でも中心的人物であるらしい。

 そして、院内学級に通う少年に好意を抱かれている。


(何を持って俺に話してくるのかは知らないが……。今すぐ真横の少年に目を向けるべきだ)


 氷室は口にこそ出さないが、桔梗から好意を向けられることに困惑していた。


 桔梗は現在14歳。来年には小児科を卒業して一般診療科──恐らく内科に移るであろう年齢の少女だ。

 対する氷室は、後期研修を始めたばかりの研修医4年目。26歳だ。

 桔梗との年の差は12歳もあるのだから、恋愛感情など抱けるはずもない。


『はい。鈴瑚です。お兄様?』

「夜までに調べてほしいことがある。メールを送るから、確認してくれ」


 氷室は看護師の目を盗んで鈴瑚に手早くメッセージを送ると、スマートフォンを見る暇なく仕事に明け暮れた。

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