悪いのは誰だ
「俺が悪いのかよ」
桔梗に言い寄られていることを鈴瑚に話せば、「お兄様は美月お姉様を裏切るのですか!?」と電話越しに怒鳴られかねない。
鈴瑚から件の番組を見たなど連絡は来ていないが、氷室と桔梗の関係には薄々気づいていてもおかしくはなかった。
氷室は責められてストレスを感じたいのではなく、ガス抜きする場所が欲しいだけなのだ。
そこで氷室に目をつけられたのは、節約のために毎日自炊しているおかずを、お弁当箱に詰めて持ってきては箸でつつく──この診療所唯一の看護師である那須宮だった。
「そ、それは……。うーん……」
氷室が桔梗に言い寄られても、美月のことがあるので気持ちに答えられないと桔梗を遠ざけた結果。
焔華にキレられ、連鎖するように吉更の好感度が下がった話を聞いた那須宮は、気まずそうな表情をした。
那須宮にとって氷室は上司だ。
上司の恋愛事情を赤裸々に語られ「俺が悪いのか」問いかけられても、反応に困るのは当然のことだろう。
氷室が逆の立場なら、「お前は馬鹿か」の一言で済ませる。
「……悪かった。意見を求めているわけではない。ただの愚痴だ。聞き流してくれ」
「……あ、あの……っ。白雪先生は、悪くないと思います……!」
氷室は言うべきではなかったと反省すると、那須宮に謝罪をした。
頭を下げた氷室に慌てた那須宮は、反省している氷室を勇気づけるためだろうか。
氷室は悪くないとフォローをはじめた。
「お世辞は必要ない」
「お、お世辞ではないです……!その、人の気持ちって……他人がどうこうできるものでは、ないじゃないですか……っ」
那須宮は「人を好きになれと強要されればされるほど、その人を好きになることはできないだろう」と語った。
周りを巻き込み寄ってたかって人を好きになれと逃げ道を塞ぐだけで、人間が誰かを好きになるならば。
恋愛で悩む人など、この世からいなくなる。
意志の弱い人間や流されやすい人間は、数の暴力に負けてしまうかもしれないが──。
氷室は自分が他人の意見に流される医師の弱い人間であるつもりはない。
寄ってたかって桔梗を好きになれと言われても、うんざりするだけだ。
氷室が美月を思う気持ちは、誰よりも強い。
世間体を気にするならば、いつまでも行方不明になった女に手紙一枚で振られているにもかかわらず「彼女がいる」と言い張るより、若い女に手を出して養う方が印象はいいだろう。
高収入、高学歴の医者が若い女と結婚した。
未成年時に手を出していれば未成年淫行罪で逮捕されるが、大人同士──それも一般人同士ならば、「そういう人もいるのか」と受け入れるか無関心な人間が多いだろう。
一握りの人間から向けられる批判の目に耐えればいいだけだ。
氷室は右手の薬指に指輪をしている。結婚しないの?と聞かれたら。
『彼女にその気がなくて』
など、彼女のせいだと思われるような言動を心掛けていた氷室は、あのドキュメンタリー番組が放送されたせいで「氷室と交際しているのは愛知桔梗なのではないか」と疑われる羽目になった。
いい迷惑だ。
思い出すだけでもイラついて仕方ない。
氷室は、那須宮が必死になって氷室を擁護する言葉を話半分に聞いていた。
「わ、私は白雪先生の悩みを解決する為の名案を持ってるわけでも、力になれるようなことだってないかもしれません、けど……っ。お話を、聞くことくらいはできますので……!」
那須宮はいっぱいいっぱいになりながらも、氷室が一人で抱え込み苦しむくらいならばいくらでも愚痴を聞くと伝えてきた。
氷室はその優しさに甘えるわけにいかないと自分を律しながらも、ありがたくその言葉を受け取る。
「……お前は謙遜しすぎだ」
「ふえ……?」
気の抜けた声を出すのが可愛いと思ってやっているのならば、氷室は那須宮を冷たくあしらっただろう。
なんだかんだで6年も共に働いているのだ。
那須宮が誰かに好かれたいから馬鹿なふりをしているのではなく、他人に怯えすぎてそうした言動をすると理解していた氷室は、那須宮に労りの言葉を掛ける。
普段氷のように冷たい男が、那須宮を心配するような発言をしてくるとは思わなかったのだろう。
彼女は「ぴゃーぴゃー」と奇声を発しながら、顔を真っ赤にして照れている。
「もっと自信を持て。お前がついてきてくれたお陰で、仕事がスムーズに進んでいる」
「そ、そんな……っ。そんなことないです!私は地味で、かわいくなくて、兄が犯罪者で、暴力団関係者が家族です。だめだめの私はいつも、白雪先生に迷惑を掛けてばかりで……!」
「医者の俺が助かっていると言ったんだ。謙遜せず、素直に受け取れ」
業務に関係ない愚痴を聞いてもらったのだ。
普段無理難題をふっかけてサポートしてやっている感謝くらいは伝えても、バチは当たらないだろう。
氷室から感謝の言葉を受け取った那須宮は、顔を真っ赤にしたままもじもじと両手の人差し指同士をくっつけ合いながら小さな声で氷室にお礼を言った。
「あ……りがとう……ござ、います……。わたし、一生白雪先生のこと、看護師としてサポートしたいです……!」
「洒落にならない告白はやめろ」
那須宮に恋愛面でその気がなくとも、この言動を誰かが聞いていれば勘違いされかねない。
ただでさえ氷室は桔梗と交際していると患者たちから勘違いされているのだ。
那須宮との会話を患者に聞かれたら、「二股をしているのか」と悪評が広がり兼ねない。
(那須宮と……なんて話になったら、本命彼女の他に2人の女を誑かすクソ野郎じゃねえか)
氷室は浮気や不倫に嫌悪感を抱く人間だ。
芸能人の不倫や浮気が大々的に報じられ、批判が殺到する中。
氷室は「騒ぎ過ぎだ」と思いながらも、「不誠実な人間は死ぬべき」だと同時に考えていた。
氷室は美月と出会うまで、恋愛のれの字すらも自身の辞書にはなかったのだ。
医者を志す氷室には、そこそこの容姿と将来的大金を稼ぐATMとしての機能を男に求める女たちが山程寄ってきていた。
その気になればいくらでも食い散らかせる。
そうした環境で生きてきた氷室の恋愛観は腐っていた。
数多の女たちを食い荒らすことなく。
美月に出会ってからは彼女だけを愛し続けたのは、欲望のままに行動した結果。
破滅した人間を山程見てきたからだ。
(いつか本命彼女ができた時に、後々トラブルが起きるようなことはしない)
周りの人間達が欲望のまま、求められるがままに行動した結果破滅した姿を見てきた氷室は、周りの人間を反面教師に生きてきた。
(俺はあいつらのようにはならねえ)
今までも、これからも。
興味のない女に言い寄られ、欲望のままに手を出すなどありえない。
氷室は業務中こそ仕方ないが、プライベートでは那須宮と不必要なほど距離を取っている。
(……この距離が縮まったら、終わりだ)
那須宮にその気がないからまだいいが。
女のスイッチがいつどこで入るかわからない以上、警戒することに越したことはないだろうと氷室は決意した。
(あとはあいつか……)
氷室が愛知桔梗にしてやれることはなにもない。
桔梗の気持ちに答えるつもりがないとしても、すっぱりと関係を断つのではなく、黙認することが大切なのだと。
逆ギレしてきた焔華の言葉通りに、氷室が行動しなければならないとしたら。
このまま放置でいいだろう。
氷室がなにもしなければ、桔梗は氷室の知らないところで今まで通り思いを募らせるのだから。
問題は、何年何十年と一人で氷室への思いを募らせ、理想の王子様を作り上げた桔梗が拗らせてしまった場合だ。
氷室を理想の王子様だと勘違いしたら、桔梗は止まらないだろう。
最悪の場合、桔梗の思いに答えられないと拒絶した氷室を刺し殺すかもしれない。
(殺されたくはねえな)
美月がすでにこの世にいないのならば、氷室はなんとしてでも美月の後を追わなければならない。
だが、氷室は自ら死を選ぶ勇気などないので誰かに殺害して貰う必要がある。
手っ取り早い方法は、桔梗の心を弄び、殺人者に仕立て上げることだろう。
(……ないな)
天門総合病院の院長は、娘を死から救うための練習と称して最後の一線を超えた。
美月がこの世からいなくなったとして。自らの願いを叶えるため、桔梗を利用して自らの願いを叶える気など氷室にはできそうにない。
そもそも、氷室にそうした素質があるならば天門総合病院の件だって黙認していたはずだ。
曲がったことが大嫌いな美月の意志を引き継ぐ氷室が、正義やこの世界の常識と真逆の行動など取るわけがない。
(6年、か)
桔梗は氷室に会いたがっている。
氷室が桔梗の告白を拒絶するのは「自分が子どもだったから」だと本気で思っているのだろう。
大人にさえなれば。
氷室の側にいない美月の幻影に絶対勝てる自信があるからこそ、桔梗はこうして、公共の電波を使って氷室に「会いたい」と声を掛けてきたはずだ。
(俺と会うためなら、なりふり構わってらんねえ状況なのは伝わってくる)
桔梗は早く氷室を手に入れたいのだろう。
桔梗は20歳だが、氷室は32歳だ。ボケっとしていればすぐに働けなくなる年齢で、介護問題に直面する。
恋愛対処ではなくなるのだ。
(あと18年、あいつから逃げ切れって?)
氷室が50歳を迎えれば、桔梗は38歳。
独身を貫くならまだしも、女性としての婚期は完全に逃してしまうだろう。
38歳で桔梗が氷室を諦めたとして、いい男に出会えるかどうかは怪しいところだ。
(男が結婚する理由なんて、子どもが欲しいか若い女としたいくらいしかねぇからな……)
女を養うのは金が掛かる。
金銭面の心配をしたくない男は、メリットがなければ女となど婚姻しない。
氷室にとって美月は憧れの女性だ。美月が金を欲しがるなら、全財産を投げ売っても構わない。
愛する女を養いたい、愛する女と幸せな結婚生活を夢見て婚姻する男など一握りだ。
(あいつは元アイドルで現役の芸能人だ。嫁の貰い手くらいはいるだろ)
男を選ばなければ、桔梗が氷室以外の男と添い遂げるのはそう難しいことではない。
氷室が美月を愛し続ける限り、桔梗は氷室の恋愛対象ではないのだ。
根比べが何年続こうが、負ける気はしなかった。
(面倒なのは泣き落としされた時だよな……)
神奈川焔華が桔梗の為を思って泣いた時、氷室はたじろいでいた。
眼の前で泣いている女が焔華ではなく、桔梗だった時のことを考えたからだ。
焔華と氷室の年齢差はそう大きくない。
氷室が焔華を泣かせた所で、敵に周るのは吉更くらいなものだ。
問題は、相手が桔梗だった場合だ。
桔梗は感情の起伏が乏しい。
笑顔を見せることは多いが、怒ったり悲しんだりする所を氷室が目の当たりにしたのは、院長の罪を暴くために手術室に突入した後、吉更を心配する桔梗の姿を見た時だけだろう。
元アイドルとして、歌手活動からモデル、女優としてドラマ、舞台、ミュージカル、バラエティとマルチに活動する桔梗の喜怒哀楽は、テレビ画面を通してなら誰でも山程見られる。
テレビ画面に映し出される桔梗の表情は、演技によって生み出されたものだ。
その表情がどれほど本来の桔梗が見せる表情に近いかなど、氷室には理解しようのないことだった。
(俺以外の人間がいない所で泣くならいいけどな)
計算高い桔梗のことだ。
自分の味方が増えるような状況下でしか涙を流すことなどないだろう。
12歳もの年の差がある氷室が桔梗を泣かせれば、桔梗を泣かせた氷室は間違いなく悪者だ。
桔梗を受け入れ、優しく包み込むような態度を取らなければ、一生「桔梗を泣かせた男」と後ろ指を指される。
それだけは避けたい氷室は、泣かれる前にどうにか桔梗との関係を断つ必要があった。
(こっちから会いに行くのが正解なのか?馬鹿馬鹿しい)
東京のど真ん中で桔梗と二人きりで話し合う姿を、週刊文冬にすっぱ抜かれワイドショーデビューを果たすか。
このまま桔梗がしびれを切らして沖縄までやってくるのを待ち、二人きりで話をしている所を地元住民に茶化され、囃し立てられるのを我慢するか。
(どっちも選択したくねえ……)
氷室はコピー用紙を一枚手に取り、二分割する。
二分割にした紙に「東京」「沖縄」と書いて文字が見えないようにくしゃくしゃと丸めた氷室は、ころころとその紙を転がしながらシャッフルしてからある人物へ電話を掛けた。
『お兄様?あの下品な番組は一体何なのですか!美月お姉様が見たら悲しむような番組で、なぜお兄様は愛知桔梗に探されていますの!?』
「右と左なら、お前はどっちがいい」
『謎掛けですか』
「いいから答えろ」
久しぶりに氷室と連絡を取った妹の鈴瑚は、例の番組について聞きたいことが、山ほどあるらしい。
氷室に問いただそうとしたが、氷室もただでは説明などするつもりはなかった。
『……左、でしょうか』
氷室に急かされた鈴瑚は、不思議そうに氷室へ質問の答えを告げる。
氷室は左側に置かれている丸めた紙を開き、中の文字を確認した。
氷室が確認した左側の紙には、「沖縄」と書かれている。
氷室は例の番組について根掘り葉掘り聞きたい鈴瑚の叫び声を無視して、電話を切った。




