美月の過ごした7年間
(階段から突き落とされてから1年間なら、あの手紙を受け取った時もまだ……)
美月が監禁されていたことを知った氷室は、動揺していた。
桔梗が自身の首元に抱きついていなければ、美月を抱きしめていたかもしれない。
監禁されていたと聞いただけで、どうして今更、と考えていた気持ちがどこかに消えてなくなり、よく無事で生きていてくれたと考える。
美月と再び巡り会えたことを感謝するようになるのだから、人間の感情とはままならない。
(心を揺れ動かす必要がどこにある。美月はどんな危機に陥ったとしても、絶対に生き残る強運の持ち主だ。動揺する必要など一切ないだろ)
美月はどんな危機に陥ったとしても、五体満足で姿を見せる。
そう信じていた氷室は、美月に臓器売買の連絡を貰った時、すぐさま天門総合病院の非常階段へ駆けつけなかったことを後悔していたが──今となっては、ある意味では正解だったのだろう。
美月はこうして、五体満足で氷室の前に姿を見せたのだから。
「怪しい行動をしたら殺すと言われたけれど、男にはあたしを殺す勇気がなかった。自分の人生に限界を感じている人間こそ、扱いやすい人はいないわ。身の振り方を間違えると、あらぬ恨みを買って地獄に落ちるかもしれないけれど」
美月はいかにして男を懐柔したか、時には生々しい話を交えて饒舌に語った。
「……最低」
メンタルの弱った男をいかにして落とすか。
図らずとも聞くことになった桔梗は、嫌悪感を露わにして美月の言動を非難した。
(最低なのはどっちだか……)
浮気をした氷室と、自らの命を繋ぐために男を懐柔した美月。
命の危機に瀕していたわけでもないのに、成人したばかりの桔梗に手を出した氷室が、悪いに決まっている。
自分を責めている氷室は。美月を批判する桔梗のように強い嫌悪感を抱けなかった。
「最低かどうかを決めるのは、桔梗ちゃんではないわ」
「最低、最悪。氷室先生の本命彼女を名乗っておきながら、氷室先生のよりもずっと前に裏切っているなど……許せない」
「仕方がなかったのよ」
「氷室先生を裏切らないと、死ぬしかなかったから?私だったら、絶対氷室先生を裏切ったりしないのに……!」
比べるまでもないと認識した氷室は、美月と桔梗のやり取りを黙って聞いていた。
氷室が美月の行いを批判する権利などないのだ。
美月が命を繋ぐために、その男を懐柔したからこそ今がある。
桔梗は美月が邪魔で仕方ないのだ。
死んでいてくれたら、氷室が自分のものになると信じて疑っていないからこそ、そう願わずにはいられないのだろう。
鬼の首を取ったかのように美月を非難している桔梗は、理解できない。
(見えない所で俺を裏切って、命が助かるなら。存分に裏切ってくれて構わない)
大切なのは、愛する人の命だ。
氷室へ操を立てるあまり、命を落としてしまうくらいならば。
氷室はいくらでも、裏切られたとしても構わなかった。
「桔梗ちゃんには桔梗ちゃんの考えがあるように、あたしにもあたしの考えがあるの。相容れることなどないのは、3日間過ごしてお互い理解しているはずだけれど」
「氷室先生が好きだったんでしょ」
「そうね。愛していたわ」
美月は過去形で氷室への愛を語る。
氷室のように、ミイラ取りがミイラになってしまったのだろうか。
氷室よりも、自らの命を繋ぐためには、懐柔した男が好きになってしまったから。
美月が身を引こうとしているならば、氷室が美月に縋り付く必要はない。
お互いにいい人が見つかったならば、一緒になろうと関係を紡ぐ必要などないのだ。
美月が氷室に別れを告げ、氷室はそれを了承すればよかった。
そうすれば、3日前に美月と氷室の関係は終わりを告げていたはずだ。
「今はもう好きじゃないなら、私にちょうだい。どうして邪魔するの」
「氷室が幸せになる所を見届けるのは、強引に人生を捻じ曲げたあたしの責務だと考えているわ」
「美月先生の責務などどうでもいい。氷室先生は、美月先生と交際していた時とは違うの。勝手に氷室先生の人生を背負い込まないで」
これではどちらが浮気相手だかわかったものではない。
美月には桔梗が東京に帰る、残り6日で判断してくれと告げてあるが、桔梗は一刻も早く氷室を彼氏と紹介できるような関係になりたいのだろう。
桔梗は芸能人として忙しい毎日を送っている。
この機会を逃せば、纏まった休みを取れるのは最低でも半年は先になるからだ。
「今は俺と桔梗の交際問題よりも、美月の話を聞くべき時だ」
「氷室先生は、私よりも美月先生の過去が気になるの?」
「比べることなどできるわけがないだろ。いいか、桔梗」
「……氷室先生。でも……」
「大人しく美月の話が聞けないなら、床に落とすぞ」
「それは嫌!」
グラグラと太ももを揺らし、首元に回された腕を無理やり引き剥がそうとした氷室の姿を見て、桔梗は何が何でも引き剥がされることはないとばかりに首元へ抱きつく力を強めた。
真面目な話をしているはずなのだが、桔梗がいると二進も三進も前へ進めない。
氷室は申し訳無さそうに眉を顰めると、美月に話の続きを促した。
「氷室へ別れの手紙を描くように命じられたのは、あなたが天門総合病院の悪事を暴いたと知ったからよ。あたしはあの廃墟で男と暮らしていたのだけれど、あの事件以来警察の手を逃れるために、私達は様々な場所を転々とした」
美月は都心を中心に男と二人で永住の地を探し求めて彷徨い歩いていたようだ。
やっと見つけた永住の地は、歌舞伎。
美月はかねてより気にしていた立ちんぼ──男性と一夜限りの関係を結ぶことで金銭を受け取る女性たち──へ片っ端から声を掛け、一つの大きなグループを作った。
夜の街で金銭を稼ぐために金払いのいい男を待つ女性は、借金があるか、ホストに入れ込んでいるか、生活環境が悪いか──そうした問題が理由としてあげられる。
例外もあるが、そうした理由で金銭的に困っている女性を助けるために、美月は「ビューティムーン」と名乗り、女性たちへ真っ当な仕事を斡旋し始めた。
「警察から追われているか」
「やっていることは真っ当でも、やり方が合法ではないのよ。当然、目をつけられる。一緒にいた男は名無組の組員だもの。今まで逮捕されなかったのは、藤井さんの影響が大きいかしら」
美月は当然のように、藤井の名を出してきた。
天門総合病院の事件に尽力した藤井とは、3年に一度程度世間話くらいはする仲だったが、美月のことを心配していることはあっても、氷室に連絡が取れたと打ち明けてくることなどなかったはずだ。
「連絡を取っていたのか」
「電話で話すことはないわよ。ビューティムーンの名前が売れ始めて、渋谷で宣伝のトラックを走らせたくらいに名無組本部へやってきたの。そこから芋づる式に……」
「いつからだ」
「3年ほど前かしら……?」
美月が生きていると知らなかったのは、氷室だけだったのだ。
桔梗が首元に抱きついていなければ、よろよろと椅子から崩れ落ちてしまっていたことだろう。
桔梗の前で情けない姿を見せるわけには行かないと、大人としての虚勢が働いた形だ。
(藤井と鈴瑚は、俺以上によく連絡を取り合っている。俺が美月と連絡が取れたと話をしたとき、鈴瑚は喜んでいたが──)
美月との結婚について再三念を押してきていた辺り、鈴瑚も美月が生きていると知っていた可能性が高い。
(馬鹿みたいだ)
氷室が美月のことを心から愛していたならば、今頃怒鳴りつけていたことだろう。
今までどれほど心配したと思っているのかと自分の気持ちを押し付け、責任を取れと迫っていたはずだ。
(……ある意味では、正解だったのかもしれないな……)
美月ではなく桔梗を選んだことは正解だったのだと確信する。
なにも思わないのだ。
氷室の心はすでに桔梗へと揺らいでいる。
美月が生きていることを隠されていたと知っても、「俺はその程度の人間だった」と納得することはあっても、絶望しなかった。
(俺が正気を保っていられるのは、桔梗のお陰だ)
大きな、時には重すぎるほど桔梗の愛が氷室を包み込んでいるからこそ。
氷室は美月に怒りを顕にすることなく、静かに話を聞いていられるのだ。
「氷室先生……」
「心配するな。問題ない」
「でも……」
首元に纏わりつく桔梗が氷室の表情に変化がないかを確認している。
初日に美月への素直な気持ちを打ち明けたときに見せた苦しそうな表情に比べれば、氷室は恐ろしいほどに感情が抜け落ちた表情をしていることに桔梗も気づいたのだろう。
桔梗はなにか言いかけた言葉を口に出すことなく、氷室の首筋に顔を埋め直した。
「もう、医者としては働いていないんだな」
「ご丁寧に行方不明届を出されたせいで、現場には戻れないのよ。行方不明になる前、天門総合病院であたしが働いていた経歴は当然問題視されるでしょう。天門に戻った所で、あそこで働いている人間とあたしが志を共にできると思う?」
当然、思うはずがない。
美月は誰かを助けるためならば手段を選ばない人間だ。
たとえ暴力団関係者と手を組むことになったとしても、明らかな犯罪行為でさえなければ、罪に問われることはない。
美月は正義を振りかざしてきた人間ではあるが、純白でもなければ漆黒でもなかった。
常に中間で、双方の美味しいところ取りをして生きてきたグレー寄りの人間だ。
きっと美月はこれからも、漆黒に染まらぬよううまく利用しながら、中間色として生きていくのだろう。
「美月には、美月にしかできない生き方がある。俺はそれを応援したい」
「ありがとう、氷室。あたしも、あなたの行く末が幸せであることを祈っているわ」
この話はこれで終わりだと言わんばかりに美月が話を纏めてしまったが、この話はまだ終わっていない。
もう一つ。氷室は美月に聞かなくてはならないことがあった。
「天門紗雪を発砲した男の顔、見ているだろ」
氷室が美月に問いただしたことで、首元に顔を埋めていた桔梗がパッと勢いよく顔を上げ、美月を見つめた。
美月の過去はどうでもいいが、紗雪の事件となれば話は別なのだろう。
氷室と桔梗の視線を受けた美月は、さして気にする様子もなく笑顔でしっかりと頷いた。
「ええ。誰であるかも、知っているわ」
「犯人の名前もわかるのか」
「桔梗ちゃんにも、馴染み深い人物よ」
「私と……?」
桔梗は聞き覚えのある声だが、その人物が誰であるかはわからないと言っていた。
(どこかで聞いたことのあるような声だとはわかっても、名前が出てこない。馴染み深い人物だと……?)
氷室がどんなに首を捻った所で答えを出せる問題ではない。
膝の上に座っている桔梗の様子を窺った氷室は、むすっと不機嫌そうに美月を見つめる桔梗の姿を捉えた。
「誰かわかっているなら、美月先生が氷室先生に伝えればいい」
「桔梗ちゃんが誰であるか、正解を導くべきだと思うわ。犯人もそれを望んでいる」
「……なに、それ。犯人の肩を持つの」
「いいえ。あたしは今すぐにでも情報を共有して、犯人逮捕に尽力するべきだと考えているわ。けれど……紗雪ちゃんが、犯人の将来を気にしているのよ」
美月は紗雪の口から紡がれることがなければ、勝手にそれが誰であるかを告げることはできないと口にした。
天門紗雪の命を繋ぐ、唯一の方法を実行に移すことも、彼女の意思確認が必要となる。
「あまり、時間は掛けていられない」
「そうね。紗雪ちゃんの病状も小康状態。いつ何が起きてもおかしくはないわ」
「さーちゃん……」
氷室の首元から両腕を離した桔梗は、胸の前で両手を組んだ。
まるで祈りを捧げるように。
その仕草は、後ろ姿だけでも洗礼された神のように神々しかった。
「桔梗ちゃんは、紗雪ちゃんに生きていて欲しいのね」
「私ときーちゃんが、死にたくないと願ったから。私達が死を覚悟して義理の兄弟になってあげれば、さーちゃんは苦しまずに済んだ……」
たとえ金銭のやり取りがなかったとしても、臓器移植を前提とした養子縁組は法律で禁じられている。
吉更が紗雪と婚姻した上で臓器提供をするなら話は別だが、吉更には愛する人がいるのだ。
紗雪の夫となり、臓器提供をするには無理があった。
「あまり思い詰めるな」
「これも運命、だから?」
桔梗は氷室と結ばれることを運命と称している。
紗雪は臓器提供を受けなければ、いつか死ぬ。
もう長くはないと余命宣告を受けて、7年近い時を生きているだけでも奇跡に近いのだ。
それを、運命と言わずとしてなんと言うのか。
「……天門紗雪は、桔梗の手によって救われる」
「でも、私。何も……」
「運命を信じるならば、いい方向に考えろ」
氷室との運命を、信じるように。
桔梗が胸元で祈りを捧げた手を氷室が優しく包み込めば、桔梗は小さく頷いた。




