気分はすっかりバカップル
「も、もしかしてお邪魔でした……?」
美月と氷室が硬い表情で話をしていたことに、後々気づいたのだろう。
那須宮は診療室に顔を出した氷室に問いかけてきたが、用事がなければ那須宮は氷室を呼びに来たりしない。
診療時間が差し迫っていたことは確かなのだから、ここで邪魔だと那須宮を追い払うわけにもいかないだろう。
「いや。問題ない」
氷室は不安そうな那須宮を安心させるように言葉を紡ぐと、診療時間を待ちに待っていたとばかりに病人とは思えない元気の良さで挨拶してくる子どもの診療に当たった。
(天門紗雪と、話はできなかった……)
体調が思わしくないならば、仕方ない。
今日のところは、桔梗と共に美月が行方不明になっていた間どこで何をしていたのかを聞くのがメインとなりそうだ。
(桔梗が東京に戻るまでには、天門紗雪の意思を確認したい所だが……)
もっと早く、この作戦に気づくべきだったと後悔していても時間は戻らない。
氷室は前を向いて、歩くしかないのだ。
(今は俺のできることをしよう)
やらなければならないことは山積みだ。
「先生、ばいばーい!」
最後の患者が診療室から母親と手を繋いで出ていくのを確認した氷室は、椅子の背もたれに身体を預けて目を瞑る。
就業後は決戦だ。
美月が真実を語らない可能性も考慮しながら、氷室は注意深く彼女を観察する必要があった。
(桔梗が昨日の夜の恋人ごっこを、引きずっていないといいが……)
寝ぼけていた桔梗をベッドに放置してきてしまった氷室は、美月と二人で帰宅した際に桔梗がどんな反応を示すかが想像もつかず、警戒しながら自宅へ戻ることになりそうだ。
(俺の家だぞ?なんで俺がこんなに警戒しないといけないんだ……)
氷室が両手で顔を覆っていると、テーブルの上に何かがことりと置かれる音がする。
那須宮がつかれた氷室を癒やすためにコーヒーを入れたカップを持ってきた音だと確認すると、那須宮に礼を言って口に含む。
「三日三晩、診療所に寝泊まりも辛いだろ」
「い、いえ。だ、大丈夫です。ひ……ボディガードさんもいるので」
那須宮の言いかけた「ひ」のつく単語がなんなのか。
見当もつかない氷室は、さして気にすることなく目覚ましに出されたコーヒーを一気飲みすると、立ち上がる。
「悪いな、那須宮。いつか必ず、この埋め合わせはする」
「ひゃ、ひゃい。き、期待しています……!」
全然大丈夫ですといいながら、実はかなりの負担であったようだ。
那須宮らしくない返答が返ってきたことに驚いた氷室は、できる限りのことはしてやろうと心の隅に留めた。
「美月、帰るぞ」
ロッカーから荷物を取り出した氷室は、休憩室で紗雪の様子を見守っていた美月に声をかけて帰路につく。
紗雪の様子は、一時期よりだいぶよくなったようだ。
夜どうし献身的な看護をしたお陰だと、美月は氷室へ告げる。
その言葉はぜひとも、那須宮に聞かせてやりたい。
「本人に言ってやれ」
「深緑に?気が向いたらね」
美月は那須宮を褒める言葉など口にする気はないようで、適度にはぐらかしていた。
那須宮が天門総合病院で働く前からの知り合いだと言う割には、美月と那須宮はなんとも言えない温度差がある。
氷室は本来どうでもいいと見て見ぬふりをする所だが、このあと美月の過去を聞くことになることもあり、思い切って海岸沿いを歩いている間、那須宮のことをどう思っているかについて改めて聞くことにした。
「那須宮は美月を慕っているように見えるが、美月はそうでもないのか」
「深緑?あの子は可哀想な子。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「妹のようには思わないんだな」
「妹とは思えないわね。深緑だって思えないでしょう。恋のライバルなのよ、あたしたちは」
美月の口から思ってもみない単語が出てきたのには、氷室も驚いた。
恋のライバルとは、一体どんな意味なのだろうか。
氷室のことは好きではないと本人は否定していたが、あれは嘘だったのだろうかと氷室が息を止めた時だった。
「ふふ。氷室を奪い合うライバルは、桔梗ちゃんだけで十分よ」
美月はホッとするような、謎が残るようななんとも形容しがたい言葉を紡いだ。
詳しい話は帰ってから桔梗の前で話すと伝えた美月の姿を見た氷室は、なんとも言えない気持ちになり、寄せては返す波を見つめる。
真夏に比べると、随分と日が落ちるのが早くなっている。
美しい海を見渡そうにも、街頭の明かりが心もとなく、まるで氷室が抱く気持ちのようだ。
(俺が美月よりも桔梗を愛するように。美月にだって好きな奴がいたっておかしくないだろ)
それが過去のことなのか今のことなのかは現段階ではわからないのだから、必要以上に気にする必要はない。
(美月との関係は終わっている。今更誰と付き合おうが、俺に美月を責める権利はない)
美月が氷室を責める権利がないように。
今はまだ。
美月と氷室は交際しているが、双方に気持ちがないのだからいずれ破局することになるだろう。
(あと6日か……)
美月に好きな人がいるとして。
氷室の心がすでに桔梗のものとなった今の状態で、美月が別れることを拒絶したのならば。
氷室と美月はかつての約束通り、添い遂げるのだろうか?
(美月を再び、桔梗よりも愛することがあれば……)
桔梗のことを気にしている氷室は、美月が隣にいても今までのように幸福だと感じることがなくなってしまった。
7年近く美月に恋い焦がれたはずの氷室は、7年近く氷室を思い続けた桔梗の思いに根負けしてしまったのだ。
美月と桔梗。
氷室の選択が間違いであるか、正解であるかどうかは、これからの人生を歩んでみなければわからない。
(どちらを選んでも、大なり小なり後悔することはあるだろう)
人生に正解などないのだ。
その時必死に捻り出した答えが正解であるとも限らないのだから、後悔しない道を選ぼうと思う方がおかしい。
(美月の過去がどんなに同情するべきものだったとしても)
氷室は美月を同情しないと決めた。
それが、美月ではなく桔梗を選んだ氷室の──
「氷室先生、酷い!」
氷室と美月が肩を並べて帰宅すると、顔を合わせた桔梗はむくれ面で氷室を非難した。
やはり朝方、眠っている桔梗をそのまま放置するべきではなかったようだ。
「一日の間に私が氷室先生と顔を合わせる時間は、朝の2時間と夜の10時間しかないのに……!」
「12時間もあるじゃない。贅沢な悩みね」
「睡眠時間込みの時間に決まっているでしょ!?」
桔梗は氷室との桔梗な時間を美月に奪われたと考えているらしく、美月の発言に食って掛かった。
そうしてすぐ美月に牙を剥く辺りが、精神的に未熟であると笑われる部分であることを、桔梗が気づいていればいいのだが。
「氷室先生を返して」
「借りてたわけでもなければ、氷室は桔梗ちゃんのものではないわよ」
「もう十分、診療所で氷室先生とお話したでしょう!?仕事を終えたら、氷室先生は私との時間を堪能するの。邪魔しないで」
「二人で仲良く分け合えばいいだけじゃない」
「絶対嫌!」
桔梗は氷室の腰に抱きつくと、美月に左腕を奪われないよう両手を抱え込んだ。
氷室の扱いは人形に近い。
桔梗は氷室を独占したくて堪らないが、美月は決着がつくまでは二人で仲良く分け合えばいいと考えている。
これでは、何度話し合っても平行線だ。
「桔梗」
「氷室先生も、私と二人きりがいいでしょ」
「……昨日、散々二人きりを堪能したろ。今日一日くらい、我慢してくれ」
「むぅ……」
氷室を困らせたいわけではないのだろう。
明らかに納得していない様子ではあるが、桔梗は瞳を潤ませて氷室を見上げた。
「美月先生が一緒にいることを受け入れなかったら。私のこと、嫌いになる……?」
「……美月が行方不明の間。どこで何をしていたか、桔梗は気にならないのか」
「氷室先生が私のこと嫌いになるくらいだったら、我慢する……」
どうにも桔梗と、話が噛み合わない。
氷室の質問を無視した桔梗は、「強引に二人きりになろうとするなら、嫌いになるぞ」と氷室の言葉を引き出したいようだ。
たとえ冗談でも「嫌いになるぞ」など脅しの言葉を、好きになった女へ告げる気などない氷室は押し黙る。
その様子を氷室の左隣で見ていた美月は、腹を抱えて笑い出した。
「ふふ……っ。面白いことを言うのね。桔梗ちゃんと氷室は……っ」
「何がおかしいの」
「もう、気分はすっかりバカップルね。あたしの目の前でいちゃつくなり、なんでも好きにしてもいいわ。いい加減中へ入りましょう。時間がもったいないと思わない?」
「言われなくたって!」
桔梗はぱっと氷室の腰から手を離すと、両腕を輪になるよう掴んでリビングへ引っ張り始める。
何が何でも、美月と両手に花のような構図は避けたいようだ。
(独占欲がより強く表へ現れるようになってきたな……)
元々桔梗と氷室の愛情には、風邪を引きそうなほど温度差があった。
氷室が抱く些細な愛情と、7年近く氷室へ向けて心の奥底で大切に培われた桔梗の思いは、氷室が生半可な覚悟では背負いきれないほど膨れ上がってしまっている。
氷室が桔梗と同じ熱量で彼女を愛せるかどうかは、美月がこの7年あまり、どこで何をしていたかにもよるだろう。
(……俺が美月を嫌いになるほどの行いをしてくれていたら、どんなにいいことか……)
自分の都合しか考えていない氷室は、美月が氷室に会おうとしなかった理由がどうしようもなく身勝手で、美月の都合がいい理由であることを祈っていた。
氷室は美月が側にいない時間の8割を、彼女に捧げている。
(美月と再会するべきではなかったと後悔するような残酷な真実が明らかになれば、俺は桔梗へ心変わりしたことを世間から許されるのではないかと考えている……最低な人間だ)
美月にどんな事情があれ、氷室が浮気に近い形で桔梗へ心を許したのは確かなのだ。
けして、混同してはいけない。
美月の歩んできた道のりが、浮気に近い形で桔梗へ心を許した氷室と同じか。
それ以上に酷い体験をしてきたとしても──氷室は美月の背中を追いかけるのはやめ、自分の足で立って歩き始めなければならないのだ。
(桔梗と幸せになるために)
夕食と入浴を済ませた3人は、あとは寝るだけの体制でテーブルを囲んでいた。
美月から、存分にいちゃついて構わないと許可を得たからだろう。
桔梗は椅子に座る氷室の膝上に座り、ご満悦な様子で美月を睨みつけている。
「大人と子どもね。叔父さんと姪っ子さんのようにも見えるわ」
「彼氏と彼女!」
「ふふ。浮気相手の間違いでしょう」
「浮気相手でもなんでも構わない。氷室先生の本命彼女は私だから……っ」
「そう思っているのが、桔梗ちゃんだけではないといいわね?」
美月は桔梗の反応を楽しんでいるようだ。
明らかにからかっているだけだと理解していても、桔梗は引くに引けないのだろう。
狂おしいほどに氷室を求めているのだとアピールしなければ、美月に奪われてしまうから。
「美月。そろそろいいだろ」
「ふふ。あたしはもっと桔梗ちゃんとお話したいのだけれど」
「私は話したくない!」
「あら、それは残念」
ちっとも残念そうに思えない明るい声で告げた美月は、机の上で頬杖をつくと、静かに語り出す。
「そうね。どこから話せばいいのかしら……」
昔を懐かしむように目を細めた美月の姿をじっと見つめる氷室の表情を確認するべく、桔梗が振り返り首元へ抱きつく。
桔梗の存在を無視するなと言わんばかりの行動へ出たことに驚きながら、氷室は首元へ抱きつく桔梗の腕を優しく撫でつけてやる。
「天門総合病院の階段から落ちた後──あたしの人生は終わるはずだった」
桔梗と氷室の様子を気にも止めない美月は、長い髪の毛先へ指を這わせると、弄びながら回想を始めた。
「どうして生きているの」
「あたしも想定外だったのだけれど……。突き落とした男のメンタルが、信じられないほどに弱かったのよ」
突き落とした男のメンタルが信じられないほど弱かったと語った美月に、桔梗と氷室は顔を見合わせて怪訝な顔をした。
(突き落とした男のメンタルが強ければ、美月はこの世にいなかったのか)
メンタルと称される4文字だけでは要領を得ないが、深読みすればそうした意味にも取れる。
美月は氷室と桔梗のリアクションが面白くて仕方がないのだろう。
唇を三日月型に形作り、笑顔で続きを話し始めた。
「男には罪を背負う覚悟がなかった。瀕死のあたしを見てワゴン車へ押し込んだのはいいけれど、そのまま東京湾に沈める気にもなれず、男は手脚を拘束して、暫く様子を見ることにした」
「暫く?」
「あたしは1年間、階段から突き落とされた男に監禁されていたのよ」
美月の告白を聞いた桔梗は、氷室の首元に縋り付く手に力を込めた。




