血も涙もない、氷のような男
(恋人らしいことをしてもいいと許可を出して、真っ先にやることが恋人繋ぎかよ……)
それ以上のことを期待した氷室は、あまりものショボさに期待外れだと肩を竦める。
(健全なのはいいことだ)
ない胸を見せびらかして氷室を誘っていた辺り、期間限定とはいえ恋人として振る舞える許可が出た瞬間から、大人の階段を駆け上がるのではないかと心配だったが──そうした間違いが起きないことは、氷室にとって残念でもあり、安心すべきことでもある。
(この調子で、自分の身体を安売りせずに生きていって欲しいものだな)
後は氷室の理性が続くかどうかだけだ。
繋いだ手のぬくもりだけで興奮するほど、氷室も若くない。
よほどのことがない限りそうした間違いが起きるような展開にはならないだろうと認識し、本題に入った。
「弟から聞いた」
「やっと恋人になれたのに……。一番最初にお話する話題がきーちゃんの話?」
「そうだ。監視されているのか」
氷室と桔梗は、正式に恋人として結ばれるわけではない。
半日だけの恋人ごっこと約束したのに、桔梗はすっかり本物の恋人になった気でいるようだ。
一週間後には何らかの結論が出ることは間違いないのだが、桔梗の振る舞いは早すぎる。
(恋人として振る舞うことが当たり前になって、明日美月が戻って来たときにふさわしくないと言われても知らないからな……)
氷室は質問したかったことを口にしてしまった手前、桔梗に釘を刺すことよりも答えを受け取ることへ専念したようだ。
誰に監視されているのか、が抜けている質問を受けた桔梗は、開いている手を口元に当て、首を傾げた。
「うーん。スタッフに紛れて、とかまではわからないけれど……。東京でお仕事をしていると、いかにも怪しい黒服さんとか、こっちを見ていることが多いよね」
桔梗はなんてことのないように、あっけらかんと言い放つ。
桔梗は気づいていないかもしれないと吉更は氷室に告げたが、気づいていても誰かに助けを求めることなく黙認していたとなれば、氷室も黙ってはいられない。
「桔梗、お前な……」
「私、何もしてないよ」
「何もしていないのが問題だ。弟とその話をしたとき、どうして言わなかった」
「きーちゃんは気の所為だ、あまり気にするなとしか言わないもの。気にしすぎると、逆に動きが不自然になって消される危険性もあるでしょ」
「襲われる危険性が1%でもあるなら相談しろ」
「……氷室先生、今日は優しい……」
桔梗は恋人ごっこ中だから優しいと勘違いしているようだった。
(恋人ごっこをしていなくとも、心配くらいはするだろ……)
桔梗はまだ、氷室の愛に気づいていないのだ。
桔梗にとって必要だったのは、白雪氷室が愛知桔梗を愛していること。
その一点のみで、氷室が桔梗に抱く愛の重さなど、桔梗にとってはどうでも良かった。
(美月へ抱く思いが憧れだったからこそ、私を好きになってくれたと喜んでいるくせに、心の奥底ではまだ俺が美月をは好きだと勘違いしているんじゃないだろうな……)
この恋人ごっこは、桔梗が思う存分氷室とイチャイチャしても許される期間であり、氷室が桔梗への愛を伝える絶好の機会でもある。
美月と表向き交際が続いていることになっている氷室は、桔梗へ愛の言葉を口にできなかった。
愛の言葉を口にできないなら、態度で表すしかないだろう。
氷室は自身の肩に頭を乗せる桔梗の上へ、ゴツンと音を立て激突しないように気をつけながら寄り添った。
「恋人ごっこ中でなくたって、心配くらいはする。俺をなんだと思っているんだ」
「さーちゃんが死にそうになりながらも助けを求めたのに、断った。血も涙もない氷のような男」
桔梗は氷室を、名前に関連付けて氷のような男と称した。
桔梗は知る由もないが、氷室が血も涙もない氷のような男であったのは事実だ。
今更桔梗にそう称されたところで異を唱えるつもりなどないが、今の氷室は昔の血も涙もなかった氷のような男ではない。
生まれ変わったのだ。
氷室は桔梗へどう伝えるか迷って、詩人のような抽象的な表現をしながら、静かに現在の状況を口にした。
「……氷はいつか、解けて水になる。いつまでも氷のようにはいられない」
「氷室先生の氷を溶かすのが、私の役目?」
「どう思うかは、桔梗次第だ」
氷室は桔梗と繋いだ手に力を込める。
固く結ばれた指は、たとえ第三者が乱入して引き剥がそうとしても、引き剥がせないほど強固に結ばれている。
まるで、一度薬指に結びつけば、ハサミで切断されることがない限り関係はが断たれることなどない運命の赤いみたいに。
(桔梗が、俺の氷を溶かすような存在になるのか……)
かつて、美月は鋭く尖った芸術的な氷の彫刻を溶かし、他人に害の及ばない小さな氷になるよう、氷室を作り替えた。
完全に氷室の心を守る氷が溶けてなくなった時。
自分がどうなるか想像もつかない氷室は、桔梗が無理に氷室の溶け残った氷を溶かす必要はないと考えていた。
「桔梗は、天門紗雪を助けるべきだと思うか」
「助けてほしいよ。氷室先生なら、きっとさーちゃんを……悪魔の子と呼ばれたみんなを、助けられる」
「買いかぶり過ぎだ」
「うんん。氷室先生には、力があるもの。覆い隠された真実を明らかにする力が……」
歯切れの悪い言葉を紡ぐ桔梗は、氷室に強要するつもりはないようだ。
(できれば助けてほしいが、無理なら仕方ないと諦める。そんな所か……)
桔梗の曖昧な態度がありがたくもあり、何が何でも天門紗雪を救ってほしいと泣き叫んでくれた方がよかったと思う自分がいて、氷室はなんとも言えない気持ちになった。
(桔梗が俺に懇願してこなかったとしても)
どうするべきかを決めるのは氷室で、すでに答えは心の奥底に眠っている。
氷室は面倒だから、見て見ぬふりをしたかっただけなのだ。
天門総合病院の事件から7年が経ち、凄惨な事件はすでに過去のものとして人々から葬り去られつつある。
天門紗雪の父親である両親が無期懲役の判決を言い渡され刑務所で服役しているにもかかわらず、かなり早い段階で再現ドラマが作られたほどだ。
世間はあの事件を、過去の出来事にしたがった。
連日世間を騒がせているものはあの事件そのものではなく、不当扱いに異を唱える悪魔の子と呼ばれた臓器売買に関わった被害者でもあり、加害者でもある子どもたちだけ。
人の噂も七十五日。
どんな凶悪な事件も、何か問題が起きない限りは、大きく報道されることはない。
寝た子を起こすべきではないと考えていた氷室は、静かに桔梗へ現実を突きつけた。
「俺は法律を変えられない」
「……氷室先生はお医者さんだから……」
「天門紗雪に手を差し伸べた所で、できることは限られている」
「氷室先生が想定する、さーちゃんにできることって?」
桔梗に問われた氷室は、その答えを口にしていいものかと迷っていた。
口にすれば、氷室は現実から目を背けられない。
(……くそったれ)
氷室がその気になれば、妹の鈴瑚や、警察官の藤井に協力を要請することで──天門紗雪に発砲した人間を逮捕するのは、そう難しいことではない。
問題は、桔梗と吉更の臓器を分け与えなければ、天門紗雪の命を繋ぐ方法が見つからないことだ。
「それを桔梗へ告げる前に、知っていたら教えてほしい」
「いいよ」
「何故、天門紗雪は桔梗か弟の臓器でなければ移植ができないんだ。そもそも、男女の双子は二卵性が原則だろう。全く同じ臓器を持って生まれるはずがない」
桔梗を責めるように問いかけた氷室の質問を受けた彼女は、むすっと頬を膨らませてから難しい顔をした。
(これは、本人もよく理解していなさそうだな……)
氷室のことに関してだけは悪知恵が働く桔梗も、自分の事となれば途端に鈍くなる。
氷室以外のことになど、桔梗は興味関心を抱けないのだ。
問いかけた言葉の答えが聞こえてくることはないだろうと諦めつつも、氷室は桔梗の答えを待った。




