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8時間だけ、恋人ごっこ

「氷室先生。考え事……?」

「もしも」

「例え話?」

「そうだ。俺が桔梗の思いを、気の所為だったと撤回し──」

「撤回するの!?」


 例え話だと事前に伝えてあったはずなのだが──桔梗を愛する気持ちの撤回に関してだけ反応した彼女は、勢いよく身を乗り出してきた。

 こうなってしまえば、食事どころではない。

 桔梗の瞳へみるみるうちに涙が溜まっていく姿を見た氷室は、慌てて念を押した。


「例え話だぞ」

「氷室先生のことが、大好きだから……。もしもを考えるだけでも、悲しくなるの」

「現実にはならない。だから泣くな」

「……例え話でも、私よりも美月先生のことが好きと言わないで……」


 氷室は精一杯桔梗を慰めたつもりだったのだが、彼女の方が一枚上手だったようだ。

 氷室が桔梗の涙に弱いことを逆手に取り、うるうると瞳を潤ませた桔梗は、自身の望みを叶えようとする。

 氷室は桔梗の瞳から涙が零れ落ちないように、手を尽くしたつもりだ。


(このまま桔梗に絆されて、思うがままの行動を取るのは面白くないな……)


 今日、この場に美月はいない。氷室と桔梗は二人きりだ。

 誰も桔梗を泣かせたと指摘してくる人間がいないなら、いっそのこと泣かせてしまえばいい。


(俺が手を出さないように、気をつければいいだけの話だ)


 桔梗の涙は美しかった。その美しさに惚れた氷室は、桔梗の涙に弱い。

 彼女が涙を流す姿を見ていると、自分が自分でなくなってしまうような感覚に陥るのだ。

 桔梗に手を出したとしても、誰にも咎められることがないのならば。泣こうが喚こうが──氷室は言いかけた言葉を、全て桔梗へ告げることにした。


「例え話の続きだ」

「聞きたくない」

「桔梗の思いを撤回し、美月のことを好きだと俺が言い始めるのと」

「絶対にありえない!氷室先生と私は運命の赤い糸で繋がっているのだから。美月先生を好きになったとしても。私達は結ばれる運命なの……!」


 桔梗は両手をテーブルに叩きつけ、バンバンと音を立てて暴れ始める。

 まるで子どもの癇癪(かんしゃく)だ。

 到底大人の女性には見えない態度に半ば呆れながら、氷室は本題に入った。


「美月と桔梗の双方を愛していると囁き、二股を試みるならば。桔梗にとってはどちらがマシだと思う」

「氷室先生は私だけのもの。美月先生と一緒に、二人で分け合うなどありえないから……!」

「そうか」


 桔梗は自分一人のものにならない氷室からの愛を受け取った所で、価値を見出せないようだ。

 桔梗は運命の赤い糸で繋がっている限り、美月の元へ行くのも許さないと目に涙を浮かべながら睨みつけてくる。


(想定の範囲内だな)


 もしもの二択を、どちらも選択するつもりがないとはっきり口にした桔梗を前に、氷室は空になった器へスプーンを離してから、小さなため息を溢した。


「そうムキになるな。現実の話とは切り離して考えろ。二股などする気はない」

「そうやって念押しするのが、余計に怪しく見える……」


 先程まで瞳に涙を溜めていた桔梗は、すっかり涙を流す気にもなれなくなったのだろう。

 ぷっくり頬を膨らませ、不貞腐れている。

 氷室の前に置かれたカレー皿はすでに空だったが、桔梗はシチューを半分消化した所だ。

 氷室が桔梗にとって心臓の悪い二択を与えたせいで、だだでさえ食べるペースの遅い桔梗が食べ終わるまで、普段の倍以上時間がかかっている。


(食事中に余計なことを言うべきではなかったな……)


 氷室は深く反省しながら、桔梗がシチューを平らげるまでじっと彼女の様子を窺った。

 先程目に涙を溜めて悲しそうな表情をしていた桔梗は、いかにも不機嫌ですと言わんばかりに苛立った様子でシチューを口に運ぶ。


 その様子は、やけ食いに近かった。


(美月様々だな……)


 氷室と二人きりでは、ころころと変化する桔梗の表情を見ることなどできなかっただろう。

 子どもにしか思えない、コロコロと変化する表情の虜になった氷室は、自然に口元を緩ませた。


「……氷室先生?どうして笑うの!」


 桔梗は苛ついているからだろう。

 普段であれば滅多に見られない氷室の笑顔を喜ぶはずなのに、この時ばかりはさらにご機嫌斜めになってしまった。


「悪かった」

「謝って済んだら、警察はいらない」


 やっとの思いでシチューを平らげた桔梗は、両手を合わせて「ごちそうさまでした」と律儀に挨拶すると、ゆっくりと立ち上がる。

 氷室が何事かと目線だけ動かし桔梗を見上げれば、彼女はビシッと中指を立て、勢いよく氷室へ向けた。


「二股禁止」

「例え話だと言ったろ……」

「例え話でも!可能性を口に出すことがすでに罪なの!」

「そうか……?」


 氷室は理解できないと首を傾げたが、自分こそ正しいと胸を張る桔梗には氷室が首を傾げる姿などなんの抑止力にすらならなかった。


「氷室先生には罰として、私のお願いを2つ叶えて貰うから」

「どんな願いかにもよる。俺の意にそぐわないものなら1つ。大した苦労や抵抗する理由がないものなら2つ」

「氷室先生が悪いことをした罰としてお願いが1つ増えたのに。どうして氷室先生が私に条件を出すの?」


 桔梗は氷室が口出ししてきたことが気に食わないようで、氷室を指差するのをやめて腕を組む。

 その様子は神奈川焔華そっくりで、流石は憧れているだけのことはあると、氷室は腹を抱えて笑い始めた。


「ははは……っ」


 突如として声を上げて笑い始めた氷室に、桔梗は驚いている。

 当然だ。

 怒っている桔梗に、大笑いするような要素があるわけがない。

 突然笑い出した氷室をぼんやりと見つめていた桔梗は、氷室が声を上げて笑うのをやめた後に恐る恐る声を掛けた。


「何がおかしいの」

「血の繋がりがなくとも。長く一緒に生活していれば、仕草は似るんだな」

「仕草……?むぅ。また美月先生のこと思い出した……」


 桔梗は美月のことを氷室が思い出したのだと勘違いしているが、桔梗が思い出したのは神奈川焔華だ。

 氷室が焔華の名前を出したところで、桔梗の機嫌が直るとも思えない。

 腹を抱えて笑うのやめた氷室は、お詫びとしてある提案をした。


「桔梗のお願いはこれからちゃんと聞いてやる。その代わり、まずは俺の質問に答えて貰う」

「さっきみたいな質問は、お断りだからね」

「ああ。わかっている。その前に……恋人ごっこで手を打たないか」

「ごっこではなくて、恋人がいい」


 桔梗が望むのは、白雪氷室の恋人だ。

 ごっこでは意味がなく、将来的には結婚を前提としている関係を望まれた氷室は、先程のやり取りを気にしているのだろう。

 普段であれば絶対に了承しないであろう提案を、期間限定で呑むことにした。


「朝までならな」


 24時間ではなく、たった8時間程度。

 氷室が眠っている間も含まれるとしても、桔梗にとっては、それだけで十分だった。


「手……繋いで……。離れないように……」


 桔梗は対面の席から氷室の隣へ移動すると、肩に頭を乗せて寄り添う。

 氷室が言われた通りに右手を差し出せば、桔梗が左手を重ね合わせて指先の隅々までを氷室の右手と重ね合わせた。

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