百年の恋も冷めた瞬間
「し、白雪先生!」
診療時間終了後、いっぱいいっぱいになっている那須宮に呼び止められた。
何事かと振り返った氷室が那須宮と目を合わせれば、あわあわと慌てふためく彼女の姿が視界を横切る。
「あ、あのう……っ。そ、その……っ。で、出過ぎた真似をしました!申し訳ありません……!」
謝罪など一切必要なかったのだが、那須宮は律儀に氷室を責めた件に対して謝罪した。
氷室とは、毎日のように顔を合わせるのだ。
サポートする側としては、仲直りをしてからいつも通りの仕事をしたいと考えたのだろう。
氷室は白衣を脱いでロッカーに投げ込みながら、那須宮の謝罪を受け入れた。
「気にするな」
「で、ですが……!」
「お前の貴重な意見は、今後に活かす」
「そ、それって……」
あわあわと慌てていた那須宮は、期待を込めたキラキラとした眼差しを氷室に向ける。
残念ながら、今すぐに那須宮にいい知らせを伝えることはできそうにない。
氷室が那須宮の望む答えをはっきりと口にするには、吉更の話が事実であるかを桔梗に確かめる必要があるからだ。
(帰りたくねぇな……)
桔梗の大人しく自宅に引きこもっていた際のお願いに戦々恐々としている氷室は、見るからに動作が重くなる。
そんな氷室の姿を見た那須宮は、事務員がすでに帰宅した時間を見計らって休憩室から顔を出した美月に呼び止められていた。
「深緑。悪いけれど、今日も泊まって貰える?話したいことがあるのよ」
「へ?それは、そのぅ……。か、構いません……。でも、白雪先生と、一緒にいた方が……」
「氷室は今日、桔梗ちゃんのお願いを聞く日なのよね?」
「……ああ」
「桔梗ちゃんが氷室に口付けを強請ろうものなら、ひっぱたいてしまいそうなの。お互いの安全を考慮して、あたしは診療所で寝た方がいいと思わない?」
「ひえ……っ」
那須宮は美月が桔梗の頬をひっぱたいた想像をしたのか、ブルブルと震えている。
(本音は美月も桔梗の相手をめんどくさがりつつあるんだろうな……)
ワンルームで大人3人が仲良く暮らすのは難しい。
桔梗は氷室を独り占めできないと美月へ怒りを露にし、美月は大人としての対応を求められる。
(1日で懲りたと、診療所で寝泊まりするなり、仲がいいなら那須宮の自宅に押しかけるなり、ホテルを取るなりしてほしい所だが……)
あれほど会いたくてたまらなかった女が目の前にいるのに、今では目の前にいることすら煩わしく感じるなど、どうかしている。
(これが百年の恋も冷めた瞬間なのか……)
美月に対する思いは今更どうしようもないが、桔梗へこのような思いを抱いた時が問題だ。
氷室は桔梗への思いが永遠に真実であることを願いつつ、那須宮へ美月と紗雪を頼む。
「何かあれば、遠慮なく声をかけろ」
「紗雪ちゃんの助けを求める声は見て見ぬふりをするのに、緊急事態には対処すると声をかけるなど、虫が良すぎるわよ」
「美月……。着信拒否してやってもいいんだぞ」
「できるの?」
できるわけがない。
氷室にとって美月への連絡は、精神安定剤のようなものだった。
桔梗への思いを自覚してからは、極端に美月へ繋がらない電話を掛ける機会は減ったが──おそらくは。
気持ちがなくとも、完全に美月と連絡を断つことは難しいだろう。
「今日一日、ゆっくり羽を伸ばせ」
「言われなくともそのつもりよ」
「明日の夜には、聞かせて貰う」
「何を?」
「7年間。美月がどこで何をしていたのか」
美月は氷室の鋭い目線から逃れるように瞳を細め、笑顔で了承した。
「いいわよ」
もったいぶっていた割には、随分とあっさりしている。
氷室はほっとしたのも束の間。
気づいたら明日美月がいなくなっている可能性に頭を悩ませながら、桔梗が帰りを待つマンションへ帰宅した。
*
「氷室先生!お帰りなさい!」
氷室が「ただいま」と声を出す前に、桔梗は勢いよく氷室へ抱きついてきた。
美月がいることを想定していたのだろう。
抱きついてすぐに氷室の背後を窺うが、どんなに確認しようとも氷室の背後には美月の姿はない。
「美月は診療所に泊まり込む」
「氷室先生と二人きり!?」
「気を利かせたらしい」
「やった!氷室先生と半日、ずっと一緒だ……っ。今日は徹夜しなくちゃ!」
桔梗にとって、氷室と二人きりなのは何よりも価値があることのようだ。
美月が一緒にいたとしても、寝ている氷室の寝顔をじっと見つめるくらい、どうってことないはずなのだが……恋する乙女の考えは、氷室には理解できなかった。
「男の寝顔を徹夜で見続けた所で、得られるものなどないだろ」
「氷室先生の寝顔は貴重だもの。しっかりと目に焼き付けなくちゃ」
結婚すれば、いつでも見られる。
喉から出そうになった言葉をどうにか飲み込んだ氷室は、抱きついてきた桔梗の背中へ腕を回し、優しく引き寄せた。
今の氷室にとって、それが桔梗に返してやれる精一杯だ。
「氷室先生も、嬉しい?私と二人きりになれて」
「ノーコメント」
「美月先生と二人きりになりたかった……?」
「わざわざ言わなくてもわかるだろ」
「言葉にしないとわからないことも、世の中にはあるの」
桔梗は美月の真似をしているのだろうか。
大人びた発言をしたかと思えば、パッと氷室の腹部に抱きついていた手を離し、代わりに氷室の腕を掴んでリビングへと引っ張る。
「あのね、リモートでマスターさんに聞いて作ってみたの!」
テーブルの上には、ご飯と一緒にシチューが盛り付けられていた。
どうやら、美月をぎゃふんと言わせるために、暇な時間を活用して夕飯を作ったようだ。
(ぎゃふんと言わせる相手が戻ってこないのは、桔梗にとって残念だろうが……)
美月は調理スキルが壊滅的だ。
明らかに見た目からして人間が食べるものとは思えない料理を出してくる美月とは異なり、誰でも作れる料理だとしても、ちゃんとしたものをテーブルの上に並べられるだけでも十分美月に勝っている。
氷室は桔梗の頑張りを、褒めてやることにした。
「今日はちゃんと炊飯したのか」
「うん!ご飯を炊いている間に、シチューを作ったよ」
「問題は味か……」
氷室は桔梗の作った料理を美月に確認して貰うためにも、スマートフォンでテーブルの上に並べられたシチューを撮影する。
(美月に胸を張って誇れるものが、初心者に毛が生えたレベルの料理なのか……)
随分と低レベルな争いだ。
氷室はなんとも言えない微妙な気持ちになりながら、手を洗ってからスプーンを手に取った。
「いただきます」
口に入れて飲み込めさえすれば、味はどうでも桔梗の勝ちだ。
将来的に主婦としてあらゆる家事を担当するつもりならば、当然味も美味しい料理であることが好ましいが……料理を始めたての初心者に、いきなり100点満点の美味しい料理を求めるのが間違いなのだ。
「どうぞ!召し上がれ!」
氷室は全力で目の前に置かれたハードルを低く設定すると、少しだけシチューのかかった白飯からスプーンで掬って口に含む。
「……普通だ……」
米の炊き加減も、柔らか過ぎず硬すぎない。
炊く際の水分量をしっかりと守ったからこそ、食べられる代物が出来上がったかと思うと、桔梗は少なくとも誰かから手取り足取り教われば、レシピ通りに料理を完成させられるスキルを持ち合わせていることがわかる。
(美月とは大違いだ……)
美月に親切心で料理を教えても、まったく身にならなかったことを思い出した氷室は、桔梗の料理スキルを神に感謝した。
「桔梗は将来いい奥さんになるな……」
「料理上手な氷室先生の奥さんになれるよう、私もっとたくさん勉強する!」
7年近く前、勉強は嫌いだと氷室に告げていた人物と同一人物とは到底思えない。
氷室は興味本位で桔梗へ問いかけることにした。
「勉強、好きになったのか」
「嫌い」
「嫌いなのかよ……」
料理を勉強しなくちゃと氷室に告げた桔梗は、勉強を嫌いなままのようだ。
(勉強嫌いが料理を勉強した所で、身になるのか……?)
氷室がなんとも言えない顔でシチューを口に含んだ姿を見た桔梗は、自身も「いただきます」と手を合わせてスプーンを片手に食事を始める。
「嫌いなことも、氷室先生のためなら頑張れる」
「その理論が成立するなら、美月とも言い争うことなく、静かに生活できそうなものだがな」
「それとこれは話が別」
「同じだろ……」
「全然違うよ!好き嫌いの問題でどうにかなるではないの。氷室先生、私と美月先生に仲良くしていて欲しいの?」
願望をなんとなく口に出してみたが、氷室は美月と桔梗が仲良くしている姿を想像しようとしても、うまく想像できなかった。
今でこそ子どものように氷室を奪い合う二人だが、仲良く手を繋いだ所で、やることは変わらない。
(あいつらが仲良く手を取り合ったら……俺をどうやって二分割するか話し合うのか……?)
氷室の一方的な浮気と、全員公認の二股。
(どちらの罪が、社会的に重いのだろうか)
そう考えを巡らせた氷室は、考えるだけ無駄だと頭を振る。
氷室の中にはすでに美月への思いは綺麗サッパリ消え失せて居るのだ。
桔梗へ抱く思いが恋心ではなかったと思いを変化させることはあっても、再び美月を好きになった上、二人同時に思いを抱くなどありえない。
(同時交際など器用な真似が、俺にできるわけがない)
総合病院時代の激務に比べれば時間的な余裕はあるが、一人相手するだけでもやっとなのだ。
二人同時に愛を囁き、まったく同じように接し続ける器用な真似など、氷室はできそうになかった。




