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第一部 藤原道隆の時代

 藤原氏を代表する人物と言えば藤原道長である。

 書店で子供向けの伝記のコーナーに足を運んだとき、そこにいる藤原氏は、藤原冬嗣でも、良房でも、基経でも、時平でも、忠平でもなく、藤原道長である。

 それは歴史の教科書でも同じことが言える。

 先に述べた藤原氏の面々はほとんどと言っていいほど叙述されない。せいぜい名前が列挙されて終わりである。人臣最初の摂政として良房が、初の関白として基経が出てくることがあっても、その生涯が語られることはなく、肖像画が載せられることもない。

 一方、藤原道長はその名が太字で強調され、肖像画も掲載されるという栄誉を受けている。

 だが、藤原道長が政治家として何をしたのかを答えられる人はいるだろうか?

 摂関政治の黄金期が藤原道長であったことに異論はない。しかし、摂関政治は藤原道長の創出した政治体制ではない。藤原良房以降の歴代の藤原氏が整備して完成させた政治体制であり、藤原道長は完成した結果に乗っただけである。

 藤原道長の功績として、源氏物語をはじめとする女流文学を挙げる人もいるだろう。たしかに藤原道長の時代に源氏物語や枕草子といった日本文学における偉大な作品が生まれている。特に源氏物語は日本国内に留まらず、世界文学史における一大巨編であり、現存する最古の長編小説であり、今なお愛読され続けているという作品である。当作品のタイトルを「源氏物語の時代」としたのも、源氏物語がこの時代における最重要項目だからである。

 しかしながら、それらの作品を生みだしたのは紫式部や清少納言といった作者であり、藤原道長ではない。文学を作るのに必要な時代の空気を作ったのも、藤原忠平であって藤原道長ではない。藤原道長は曾祖父の作り出した言論の自由を維持しただけである。

 そう、全ては維持なのだ。

 創製ではなく維持なのだ。

 何も生み出していないと批判するのか、何ら問題なかったと評価するか、それは読者の判断に委ねるしかない。実際、今回の作品に大事件はない。戦争の叙述もなければ、平将門や藤原純友のような反乱もない。藤原道長の時代、すなわち源氏物語の時代は平穏無事な時代でもあるのだ。

 私はこの作品で、藤原道長が、これまでの藤原氏が築いてきた政治と経済と社会をどのように維持したのかを著述していく。


 若き日の道長については、あまり文献に残っていないためわかりにくい。しかし、『大鏡』には、その度胸の強さを語る話が残されている。

 ある日、藤原兼家は息子達を集めてこう語った。

 「公任は立派で頼もしい。それに比べてお前達は頼りない。このままでは公任の影を踏むこともできないだろう」

 そう語る父の言葉を道長の兄たちは困った顔をしたまま黙って聞いていたが、道長だけは違った。「公任の影を踏めないなら公任の顔を踏みつけてやる」と言い放ったのである。

 藤原道長と藤原公任は同い年である。

 公任を誉める藤原兼家の言葉は、道長の兄たちにとっては自分より年下の親戚のことであり、公任のことを優秀だと認めてはいても同列に扱ってはいなかった。実際、このときの公任は道長の兄たちより下の職位であった。つまり、自分と無関係のところでの争いであったのだから、黙っていたところで自尊心が傷つくことはなかった。

 しかし、道長にとっては同い年のライバルである。しかも、公任は既に早熟の天才として名を馳せており、この時点の人に「今から二〇年後、藤原公任と藤原道長の二人のうちどちらがより上の職位に就いているであろうか」と訊ねたとしたら、一〇〇人中九八人は藤原公任に軍配を揚げるであろうという状況であった。

 藤原兼家の子供達の中で公任と比べられる運命にあるのは藤原道長ただ一人である。その道長の答えは、公任に対する強烈なライバル心であった。公任に負けるつもりはないという野心を隠さなかったのだ。

 そして、道長は後年、公任に負けないという言葉を実践している。顔を踏みつけるという例え話の実践はしていないが、公任の上に立って、公任を道長を支えるブレインの一人にしている。


 藤原道長を語るエピソードとしてかなり有名な話もある。

 このエピソードはいつ頃の話かはわからないが、おそらく藤原兼家の存命中のことと思われる。

 記録には五月雨の激しく降る夜とあるから、現在で言うと六月頃。雨の降りしきる夜に、花山法皇が藤原兼家の子供達を殿上に集め管弦の遊びを開催した。それにしても、自分を騙して出家させた藤原道兼を招いて平気だったのだろうかという疑問はあることからこのエピソード自体が作り話とする説もあるが、事実であったとしても、かつては自分の側近であり、現在は権勢を誇る藤原兼家の子供達であるから呼ばないわけにはいかなかったというのはおかしな話ではない。

 それに、これは花山法皇のちょっとした復讐でもあるのだ。

 花山法皇が何をしたかと言うと、藤原道隆、道兼、道長の三兄弟に対し、雨の降る夜の中に度胸試しを命じたのである。夜中の一人歩きの危険さが現在と比べものにもならない危険なこの時代、しかも怨霊の祟りなどが常識として考えられていたこの時代、夜中に一人で出歩くのはかなりの覚悟を必要とした。

 それをわかっている状態で、花山法皇は

 「道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿ヘ行け」

 と命じたのである。三カ所とも内裏内部の施設であるから、殿上から歩いていけない距離ではない。貴族が平安京の街中を牛車に乗らずに徒歩で移動するなど考えられない話であるが、内裏の中なら貴族であろうと徒歩でなければならない。それに、花山法皇の命令なのだ。三兄弟には拒否権などなく、言われるままに丑の剋(現在で言う深夜一時から三時)に出発した。

 道隆は右衛門の陣まで何とかたどり着いたが、宴の松原の辺りで何かわけのわからぬ声がしたと青ざめた顔で戻って来た。

 花山法皇の復讐のメインである道兼は、紫震殿の北の露台の外まで全身を震わせながら足を運んだものの、仁寿殿の東側の敷石の辺りに家の大きさほどの背の高い人がいるように見えたと、無我夢中で帰って来た。

 復讐のターゲットである道兼の恐れおののく姿は花山法皇を満足させた。恐れおののく道兼の姿に爆笑していたのである。

 しかし、ここで問題が起こった。末っ子の藤原道長が帰ってこないのだ。

 いくら何でも帰りが遅すぎると兄達だけでなく花山法皇も心配していた頃、何食わぬ顔をして道長が戻ってきた。しかも、兄二人と違い平然な顔をしている。

 道長は「何も持たずに帰ってきたのでは証拠になりませんから、高御座の南側の柱の下の所を削って持って参りました」と平気な顔で述べ、木片を皆の前に示した。

 そして翌日、道長が持ってきた木片を大極殿の高御座の南側の柱についた傷と合わせると完全に一致した。


 このようなエピソードは、よく言えば藤原道長の度胸の良さ、悪く言えば藤原道長の浅はかさを示してくれている。知っていてタブーを犯すことと、タブーと知らずにタブーを犯すこととは、結果は同じでも中身は真逆なのだから。

 永延二(九八八)年一二月四日、道長の度胸の良さ、あるいは浅はかさが一つの事件を起こした。加害者である藤原道長はこの時点で二三歳の権中納言。一方、被害者橘淑信の年齢は不明だがこの時点で式部少輔を勤めていた。役職でいくと藤原道長の方が上になるが、貴族としてのキャリアはかなりの差があったはず。つまり、道長は被害者である橘淑信に対して年長者向けの礼を以て接しなければならないはずの立場であった。

 その年長者に対して藤原道長は何をしたのか?

 拉致である。

 道長は自分の部下に命じて、街中で橘淑信を拉致してきたのだ。

 それも、道長の邸宅に連れて行くとき橘淑信を歩かせている。

 この時代の貴族が街中を自分の足で歩くなどあり得ない。内裏内の移動は徒歩だが、内裏までは牛車に乗って移動するのが当たり前である。貴族が牛車に乗って移動するのは日常の移動だけでなく、犯罪者として連行されていくときでも変わらない話。貴族とは牛車に乗っている存在だというのが当たり前のこととされていた時代なのだ。その当たり前のことを許されずに、橘淑信は犯行現場から道長の邸宅まで歩かされた。それも衆人環視のもとで。

 現在の感覚で行くと、運転手付きのリムジンで移動している野党の国会議員が、与党の大臣の部下たちにリムジンから引きずりおろされ、与党の本部まで歩かされたのと同じである。

 では、そもそもなぜ、藤原道長は橘淑信を拉致したのか。そして、拉致して何をしたのか。

 まず、拉致した理由であるが、これは理解不能な言い分である。このときの橘淑信は式部少輔である。式部少輔となると官人の登用試験の試験担当最高責任者であることが普通。家柄を頼れずに官人になろうとする者は試験を受けないと役職に就けないのだが、その試験で道長は思い通りの結果を得られなかったのだ。

 道長は甘南備永資かんなびのながすけという者を合格させるように以前から橘淑信に対して脅しをかけていたのだが、橘淑信は脅迫に屈せず正しい試験結果を提示したのだ。それに怒って街中で橘淑信を拉致し、自宅に連れ込んだのである。

 そして拉致して何をしたのかについてであるが、残念ながら、橘淑信がどのような扱いを受けたのかわからない。

 一方、藤原道長がこの後どうなったかはわかっている。父である藤原兼家にかなり怒られたらしく、しばらくはおとなしくなったのだ。

 もっとも、公衆の面前で人を拉致しておきながら父親に怒られただけでお咎め無しなのである。これだけでも、藤原氏の権勢がいかなるものであるかを当時の人は嫌というほど知ることとなった出来事でもあった。


 一方、藤原道長は事件の被害者になったこともある。

 橘淑信拉致事件からおよそ一年半前の永延元(九八七)年四月一七日、賀茂祭でのことである。

 藤原道長はよく三兄弟の末っ子と扱われるが、道隆、道兼の他に、母親違いの兄である道綱もいる。藤原兼家には他にも男児がいるとする説もあるため、藤原道長が、藤原兼家の四男であるとする説と五男であるとする説が混在しているのである。なお、双方の説とも、藤原道長が藤原兼家の末っ子であるとする点では一致している。

 道綱と道長は、母親は違うが、気の合う兄弟ということもあってプライベートではよく一緒にいた。

 賀茂祭で賀茂祭使の行列を眺めるのはこの時代の平安京の人達にとって滅多にないビッグイベントであり、それは貴族も庶民も同じであった。ただし、前述のように貴族は見物場所に行くのに牛車に乗ったままであり、行列を眺めるのも牛車に乗ったままである。このときも、道綱と道長の兄弟は同じ牛車に並んで座り、これからやってくるはずの行列を眺めようと観覧場所を探していた。ここまではどこにでもいるごく普通の貴族の子弟の姿である。

 ところが、牛車となるとそう簡単にスペースなど空かない。牛車から観るのに絶好の場所はすでに埋まっていたのである。

 牛車からの絶好の見物ポイントに先に着いて占拠していたのは右大臣藤原為光の一行であった。右大臣となると従者は一人や二人では留まらない。少なくとも三〇人はいたはずである。

 その右大臣の乗った牛車の前を、道綱と道長の兄弟の乗った牛車が通り過ぎた。

 普通ならどうということのない光景であるはずなのだが、この時代、身分の高い者の前を横切るなど許されない行為である。それは摂政藤原兼家の子供であっても例外ではない。また、右大臣藤原為光にとって藤原道綱と道長の兄弟は甥に当たるのだが、それもやはり関係の無い話である。

 度胸の良さの裏返しにある、物事を深く考えない浅はかさが露呈した出来事であった。

 通り過ぎたことをきっかけとし、右大臣藤原為光の従者達が兄弟の乗った牛車に襲いかかってきたのだ。逃げようとする牛車に走りかかってきて、そこらにある石を拾って投げつける。いくら道長が度胸のある男であると言っても多勢に無勢であることは理解しているし、相手は右大臣の従者。いかに自分の父親が摂政であろうと権力で握りつぶせる相手ではない。それに、摂政藤原兼家は左大臣源雅信を牽制する役目として、腹違いの弟である藤原為光を利用しているのである。こうなると、ますます父親の権力を頼るなど出来なくなる。

 従者達に石を投げつけられ、逃げ回り、もはや見物どころではない。藤原道長に残ったのは屈辱と傷ついた牛車であった。

 ちなみに後年、藤原道長は藤原為光の息子の一人である藤原斉信を重用し、藤原為光の娘の一人を妻に迎え入れているのだから、屈辱を受けたからと言って恨みを延々と引きずる性格でもなかったようである。


 藤原兼家の亡くなった永祚二(九九〇)年七月二日、摂政内大臣藤原道隆、権大納言藤原道兼、権中納言藤原道長の三人が喪中となり宮中から姿を消すと誰もが考えていた。

 実際、道長はこのとき服喪のため内裏に足を運ぶのを止めようとしていた。当時の貴族の常識に従えば道長の行動は正解である。

 しかし、父である藤原兼家が亡くなり、息子たちがこれから喪に服そうとしたまさにその日に、一条天皇が一つの命令を下した。

 摂政内大臣藤原道隆、権大納言藤原道兼、権中納言藤原道長、以上三名の喪を解くという命令である。喪に服すなという命令ではない。喪に服す期間はもう終わったのだから通常通り出仕せよという命令である。

 この時代、親の死を迎えた者は長くても三年、どんなに短くても四十九日は喪に服すのが常識とされていた。特例として、緊急事態であるために喪に服す期間を短くすることはあったが、それでも数日は喪に服していた。

 四十九日とまでは行かなくても数日は喪に服すべく準備していたところに飛び込んできた、服喪期間の終了を告げる一条天皇の命令である。何しろ、父が亡くなったまさにその日に喪の終了を命じられたのだ。

 これは異常事態であると誰もが考えた。

 そして、その異常事態を指揮するのは摂政内大臣藤原道隆であると誰もが考えた。より正確には、娘が藤原道隆と結婚して以来、藤原道隆のブレインとなっている高階成忠の発案であると考えた。

 藤原氏は外に対しては藤原の名の下に一致団結するが、内にあっては権力闘争を繰り広げる、現在で言う自民党のような集団である。藤原氏のトップである藤原兼家の死は、藤原氏内部の権力闘争の開始の合図でもあるのだ。

 礼儀という点では親の死に際して喪に服すのが正しい。だが、権力闘争となるとそうはいかない。

 喪に服しておとなしくしている状態は、ライバルにとって権力から追い落とす絶好のチャンスなのでもある。内裏にいない期間をねらって地位を掴めば、ライバルを左遷することで簡単に地位を安定させることができるのだ。藤原道隆を通じることで一族始まって以来最高としても良い権勢を得ている高階成忠にとって、藤原道隆の失脚は身を滅ぼすことを意味する。


 礼儀を守っていれば世間の評判を得られるだろうが、権力闘争の敗者は、世間から同情を受けても権力は掴めない。相手の礼儀を踏みにじって権力を掴んだ者は非難を受けるだろうが、誰であれ選挙の洗礼を浴びねばならない現在と違い、この時代の政治家に選挙の洗礼などない。どんなに激しい世間の非難の声を受けようと、権力を握り続けることはできるのである。

 摂政内大臣藤原道隆には、藤原氏の中にも外にもライバルがいた。外のライバルは左大臣源雅信、中のライバルは右大臣藤原為光。いずれも内大臣である自分より上の地位にある。摂政であるという点を前面に押し出せば渡り合えるが、議政官の内部では内大臣というどうしても弱い地位になるのだ。

 このライバルと対するのに、喪に服すという空白期間をもうけることは致命的なミスとなる。

 かといって、喪に服さないわけにはいかない。それはあまりにも無礼なことになるからだ。

 だが、一条天皇が「もう喪中ではない」と宣言したらどうなるか。

 誰であれ喪中にはなれなくなる。本心は喪に服す時間を惜しんだ結果であろうと、建前としては「国家存亡の危機のため服喪期間を特別に短くすることとなったので、我々三兄弟は謹んで主上の仰せに従う」となる。これだと誰も文句を言えなくなる。

 服喪期間を解く対象が藤原道隆だけではなく、弟の道兼、道長にも及んでいるのも、藤原道隆を特別扱いさせない体裁を整えるためであったとするしかない。摂政内大臣藤原道隆一人の服喪期間を解くのではいかにも不条理とするしかないが、三兄弟とも解くのであれば名目はどうにかなる。

 もっとも、喪に服すつもりであった道長は、兄の主導したこの服喪期間の解除命令に対して憤りを見せている。

 おそらくであるが、少なくともこの時点で、藤原道隆は、そして、道隆のブレインでもある高階成忠は、道隆の末弟が道隆のライバルの一人になるなど全く想像すらしていなかったであろう。道隆にとっての道長は、自分の権力を支える駒の一つでしかなかったのである。

 ただし、高階成忠はここで一つのミスをしている。それまで藤原兼家の忠実な家臣であった源頼光が、これをきっかけに、藤原氏の正当な後継者である藤原道隆ではなく、憤りを見せた藤原道長に対して接近している。これは藤原氏の操れる武力に関わる問題になるのだが、この時点ではまだ気付く者がいなかった。


 藤原道隆が高階成忠をブレインとしている、さらに言えば、高階成忠が摂政藤原道隆を利用していると思われるようになった。そして、亡き藤原兼家のブレインであった二人、藤原在国と平惟仲の二人のうち、藤原在国の地位が怪しくなっていると多くの者が考えるようになった。

 この考えは、永祚二(九九〇)年八月の人事でさらに強固なものになった。五月に蔵人頭に就任したばかりの藤原在国が従三位に昇格したのである。本来であれば昇格は喜ぶべきことであるはずだが、従三位に昇格するとなると、通常、四位以下の貴族がつとめる蔵人頭からの退任を求められることとなる。実際、藤原在国は蔵人頭から自ら退任している。しかも、昇格した藤原在国は勘解由長官かげゆのかみの職位にスライドしたが、議政官の一員ではない。従三位非参議勘解由長官というのが蔵人頭を退任した後の藤原在国の地位である。従三位でありながら、参議ではないために発言権はなく、ただ日常の書類を整理する事務に追われるようになったのだ。これは誰もが事実上の左遷だと感じた。

 代わりに蔵人頭に就任したのは、このときまだ一七歳の藤原伊周である。藤原伊周は藤原道隆の子であると同時に、高階成忠にとっては孫にあたるのだ。蔵人頭は、親の威光を期待できる貴族にとっては若い内に経験しておくことが普通の職務であり、親の威光が期待できない貴族となるとそれが出世の一つのピークと見なされる職務である。

 いかに亡き藤原兼家の左右の目とまで評されたほどの人物であっても、また、藤原氏の一員であると言っても、藤原在国は親の威光を期待できない貴族であり、蔵人頭への就任は自らのキャリアのピークとしてもよい地位への就任である。

 それをわずか三ヶ月で退任させられた。しかも、昇格という文句の付けようのない理由での自発的な退任を求められた。そして、後任は藤原伊周。

 藤原兼家の後継者選定で、道隆が後継者となることに反対した結果がこう。

 口出しする者を許さない独裁政治が始まったと当時の人は考えたのである。


 道隆にとって末弟の道長がライバルになるなど想定していなかったことは、それから三ヶ月後の正暦元(九九〇)年一〇月五日により決定的な形で示された。

 以前から、一条天皇のもとに入内していた藤原定子はこの日、「中宮」と呼ばれる地位に就任し、道長がその中宮定子の中宮大夫に就任したのである。藤原定子は道隆の娘であるから、道長は姪の面倒を見るように命じられたこととなる。

 それにしても奇妙なのは「中宮」という地位である。

 一般に皇后とは天皇の正妻のことである。

 しかし、この時点で一条天皇の正妻は不在であった。

 でも、皇后はいた。

 どういうことかというと、円融天皇の皇后であった遵子皇后がこの時点でも皇后のままだったのである。無論、遵子皇后が一条天皇の正妻なわけではない。ただ、本来ならば天皇の退位と同時に皇后は皇太后に、皇太后は太皇太后になるのが本来の形であるのに、太皇太后には昌子太皇太后が、皇太后には詮子皇太后がいるのだ。玉突きをしようにも詰まってしまっておりどうにもならないのがこの時代の状況であった。

 そこで摂政内大臣藤原道隆が、より正確に言えばそのブレインである高階成忠が考え出したのが「中宮」である。

 元来、「中宮」とは「皇后の住まい」という意味であり、皇后に限らず、皇太后、太皇太后の住まいについても「中宮」と称されていた。それが、醍醐天皇の治世である延喜二三(九二三)年に皇后の周辺をまとめ上げる職務である「中宮職」が登場したことで「皇后」=「中宮」となり、この伝統が一条天皇のときまで続いていた。「中宮」と言えばそれは皇后のことであるという常識が成立していたのである。

 その常識を摂政内大臣藤原道隆は破った。

 「皇后」と「中宮」は必ずしも同じではない。

 それが藤原道隆の主張であった。

 さすがにこの主張は当時の人を驚かせたと見え、藤原実資は『小右記』にこのときの動きに対して、「驚き奇しむこと少なからず」と記している。

 それでも第三者は驚きだけで眺めていられたのであるが、当事者となるとそうはいかない。実際、『小右記』は続けて、中宮大夫に就任した藤原道長が、父の服喪期間中であることを理由に、立后の儀を欠席したことを記している。父の死の直後に喪に服すことを許されなかった道長がはじめて見せた兄への抵抗であった。

 もっとも、この道長の反抗について摂政内大臣藤原道隆は何の行動も起こしていない。いかに抵抗を見せようと、この時点の藤原道長は摂政藤原道隆を支える藤原氏の貴族の一人にすぎず、兄にとっては後継者候補ではなく自分の使用できる駒の一つにすぎなかったのだ。


 一方、中宮藤原定子の誕生で割を食ったのが皇太后藤原詮子である。

 それまで、一条天皇の最も身近な女性は実母である皇太后藤原詮子であった。

 それが、中宮定子の誕生により権威が弱まった。

 それは宮中における皇太后藤原詮子の住まいの移り変わりで読みとれる。

 一般的に、宮中の中心に近ければ近いほど、その女性はより天皇に近い存在と認識され、権威が付随する。逆に言えば、離れるほど権力が弱まる。それも相対的に。

 正暦元(九九〇)年一〇月五日、中宮藤原定子立后。ただし、住まいは登花殿が用意されており、住まいだけを見れば皇太后藤原詮子と中宮藤原定子はほぼ同格となる。もっとも、中宮定子はこの時点ではまだ参内していない。

 正暦元(九九〇)年一〇月二二日、中宮藤原定子、初めての参内。同時に、清涼殿の上御局が与えられる。この瞬間、中宮定子が天皇に最も近い女性となった。

 正暦元(九九〇)年一〇月二五日、皇太后藤原詮子、大内裏内の職御曹司しきのみぞうしに遷る。これで誰もが、皇太后藤原詮子の権威の下落を悟る。

 そして、正暦元(九九〇)年一二月三日、皇太后藤原詮子が内裏を出て東三条殿に住まいを移す。いかに藤原氏の本拠地であり、また実家でもあるとは言え、住まいが宮中でなくなったことは、皇太后の地位はあっても、その権威は皇族のものではなくなったことを意味する。すでに何度も記しているが、日本という国は、皇族以外はみな庶民なのである。いかに豪勢であろうと、いかに権勢を持つ者の住まいであろうと、庶民の住まいに移り住んだということは、皇族としての敬意は払われても、日常における権威までは付随しなくなるのだ。

 それでも、天皇の実母という権威だけは残る。皇太后藤原詮子は、日常の権威は失っても、一条天皇の実母であるという権威だけは残り、それは時折思い出させられる権威となった。

 おそらくであるが、皇太后藤原詮子が、一条天皇の実母であると時折にせよ思い出させることに成功したのは、実弟である藤原道長が中宮定子の側近の一人となったからであろう。当初、東三条殿で生活をしている道長は、後に土御門殿に住まいを移している。そして、皇太后藤原詮子も東三条殿を出て、弟の住む土御門殿に住まいを移している。土御門殿の名目上の主は藤原道長であるが、事実上の主は皇太后藤原詮子であるとさえ言われたほどである。

 この姉との暮らしで、藤原道長は否応なく実姉である皇太后藤原詮子と接している。その上で宮中に参内し、中宮定子のもとに侍るのである。

 摂政藤原道隆は末弟を藤原の権力を強固にする駒としか認識していなかった。しかし、自らの権力のために、父の死に喪に服すことも取り上げ、中宮という新たな地位を生み出した長兄に反旗を翻す下地はもう誕生していた。


 藤原兼家にとっては、自らの後継者を定め、盤石な未来を創造した上での死であったはずである。

 この時点での藤原道長は、従三位権中納言右衛門督。議政官の一人であり、摂政の実弟でもあることから有力貴族の一員としてカウントされてはいたが、藤原氏の権力の後継者としては認識されていない。藤原氏の権力は、トップはなんといっても摂政内大臣藤原道隆であり、次いで権大納言藤原道兼である。道長の二人の実兄が藤原氏の権力を握っており、道長はこの権力機構を構成する一貴族にすぎないと考えられていた。

 しかも、藤原道隆は、早々に自分の後継者を指定していた。実子の正四位下参議藤原道頼である。このときの藤原道頼は二〇歳。三八歳の藤原道隆の次の世代という点でも、後継者に申し分ない存在である。そして、藤原道頼が藤原道隆の後継者であると認識している状態で藤原兼家は逝去した。つまり、自分の次の次の代までを確認した上での死であった。

 ところが、正暦二(九九一)年になると、藤原道隆の後継者が入れ替わるのである。

 正暦二(九九一)年一月七日、藤原伊周が参議に就任。一八歳の若さでの参議就任であり、ついこの間まで蔵人頭であったことを加味しても、これは大抜擢とするしかない。

 しかし、藤原伊周が摂政藤原道隆の子となると話は変わる。そう、藤原道隆は、自分の後継者を、亡き父も認めていた藤原道頼から、道頼の二歳下の弟である伊周に変更したのである。

 なぜか。

 実は、藤原道頼と伊周は、兄弟ではあるが母親が違う。藤原道頼の母は同じ藤原氏の出身であるのに対し、伊周の母は高階氏の出身である。そして、伊周は中宮定子の実の兄でもあるのだ。

 高階氏は、先祖をたどれば天武天皇に行き着く名門である。だが、有力貴族ではない。高階の姓を与えられて臣籍降下してから一五〇年に渡って記録が残っておらず、高階貴子が藤原道頼の妻になったことでいきなり歴史に名を記すようになった、歴史だけはある新興勢力であった。

 高階貴子の父である高階成忠はかつて文章生であり、その後も大学頭を経て東宮学士、つまり、皇太子時代の、一条天皇の学問分野の教育係になっている。

 これは、血統に頼らないで出世を目指す者にとってのエリートコースを歩んでいたことを意味する。

 いくら高階氏が天武天皇の血を引くと言っても、先祖をたどれば皇室にたどり着く貴族など珍しくもない。一五〇年は遡らないと皇室につながらず、二〇〇年遡ってやっと天皇につながるような家系では血筋を誇るなどできない。日本国にはそんな家系を持つ者など珍しくも何ともない。それに、何度も記しているが、いくら先祖が皇室につながっていようと、日本国に住む者は誰であれ、姓を受けた瞬間に庶民になるのである。庶民になって一五〇年も経っているような家系は一目置かれることなど断じてない。

 一目置かれることのない庶民が出世を目指すなら、やはり大学に身を置くしかなかった。大学に身を置き、自らの知力で勝負して出世ピラミッドに挑むしか方法はなかった。

 高階成忠はそれに成功した。自らの知力で自らを出世させただけでなく、娘の教育にも成功し、娘を藤原道隆の妻とすることに成功したのである。


 もっとも、この縁談を持ちかけてきたのは藤原道隆の方である。

 藤原道隆は藤原氏内部の政略結婚で妻をもうけ子をもうけてはいたが、乗り気ではなかったのだ。愛のない夫婦生活だったのだろう、何しろ、藤原道隆の妻の名が残っていないのだ。藤原氏の一人であることは判明しているが、名が残っていないということで、道隆の興味のほども知れてしまう。

 この夫婦生活をしていた状況で、大学頭の娘である高階貴子に出会い、藤原道隆は一目惚れした。

 そして、大学頭高階成忠のもとに出向いて、娘をほしいと願ったのである。

 無名貴族としても良い高階氏と、飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原氏とではあまりにも差があるし、高階氏にとっては玉の輿である。

 しかし、高階成忠はこの話を最初は断った。この時点で藤原道隆の父である藤原兼家は、有力貴族の一人ではあっても摂政や関白に就く保証などどこにもなかった。藤原道隆はその息子である。権力者になる保証がどこにもなく、ただ藤原氏の血を引くだけのその他大勢の貴族の一人になる可能性のほうが高かったのだ。

 しかも、藤原道隆は結婚している。ということは、娘を側室として差し出せと言ってきているわけで、まともな父親ならば、いくら藤原氏が相手であろうと、いや、藤原氏相手だからこそ躊躇する。

 愛のなくなった側室が見捨てられ、生活に困り、地方に下ったり、出家したり、ひどいケースになるとホームレス同然の姿になり、平安京のはずれの小屋で暮らすようになったなどという話もある。好き好んで自分の娘をこうさせようと願う父親などいない。

 娘の境遇を心配した高階成忠であったが、まだ若き藤原道隆を見るなり態度を改めた。

 「この若者は将来大臣になる」

 そう見込んで、娘を妻に送り込んだのである。

 これは賭けであった。正妻ではないにせよ、娘が藤原氏のもとに嫁ぐ。その娘が孫娘を生み、その孫娘が天皇のもとに嫁いだとしたら、高階成忠はその瞬間に天皇の義理の祖父になるのだ。そして、天皇との間に子をもうけ、その子が天皇になったら、高階成忠は天皇の曾祖父になる。これはそれまでの人生を一変させる大出世のチャンスである。


 無論、その賭けの成功する可能性は低い。だが、このまま娘が平凡な貴族の妻となったときに待っているのは、これまで通りの平凡な貴族としての日常である。平凡な貴族となるか、それとも境遇を一変させた日常を手にするか、高階成忠は賭けに出たのだ。そして、賭けに勝った。

 娘が孫娘を生み、一条天皇のもとに嫁いだ。これで高階成忠は、一条天皇の義理の祖父となった。

 中宮定子と一条天皇とのつながりをより強固にするためには、定子の実の兄である藤原伊周に権力を与えることがもっとも確実であった。兄弟姉妹のつながりを利用しての権力確保は、藤原氏にとっては奈良時代からの伝統である。ただ違うのは、ここに高階氏という見たことも聞いたこともない無名の貴族がいることだった。

 無名の貴族と言っても、大学頭をつとめ、東宮学士までつとめた人物とその娘である。父娘とも博学多才で知られており、気がつけば摂政藤原道隆のブレインにまでなっている。

 藤原兼家の死に伴う喪の期間を縮めたのも、中宮と皇后は必ずしも同一の人物である必要はないというアイデアも、藤原道隆のアイデアと言うより、高階成忠のアイデアであった可能性が高い。少なくとも、当時の人はそう考えていた。

 藤原兼家の後継者が藤原道隆であるというのは以前から決まっていたものの、いざ道隆が後継者になろうかというそのタイミングで横やりが入ったのは、前作「戦乱無き混迷」のラストでも記した通りである。その横やりの理由は、藤原道隆の資質に対して、藤原兼家の左右の目とまで評されるほどであった藤原在国が疑問を抱いたからである。そして、藤原在国は後継者として藤原道兼を推した。

 この時代の世襲は、必ずしも長子相伝と決まっているわけではない。兄より弟のほうが優秀だと評価されたら弟のほうが出世街道で先を行くなどごく普通のことであり、兄が弟に優先するという理由で権力を掴んだのは藤原兼通ぐらいしか思い当たらない。

 前任者が後継者に任命した者がもっとも優秀であると誰もが認めれば世襲はスムーズに行く。多少の疑問符がついていようと、周囲で支えられると判断すれば誰も反対しない。ここで反対の声が挙がったということは、藤原道隆の資質に疑問を抱かずにいられなかったということである。

 資質に疑問を抱かれるような人間に、喪中期間を取り外し、中宮という新たな職務を誕生させることができるであろうか? この点での疑問も、高階成忠というブレインの存在を考えると納得できるのである。

 藤原道隆自身も、義父の高階成忠も、利害の一致を見たのだ。藤原伊周と中宮定子の兄妹の権力を盤石にすることで、自身の未来の栄華を築くという利害の一致を。


 高階成忠というブレインの誕生でもっとも割りを食ったのが、藤原兼家の左右の目とまで評されていた藤原在国である。ライバルとして張り合いながらも、ともに藤原兼家の政権を支えていた平惟仲は、藤原伊周の参議就任により空位となった蔵人頭に就任している。

 ライバルが順調に権勢を掴みつつあることに加え、高階成忠という新たなライバルの登場に不安感を強め、焦りを隠さなくなってきていた藤原在国であるが、それでも、従三位非参議勘解由長官(かげゆのかみ)という地位は平惟仲や高階成忠より上である。

 焦りを見せながらも、藤原在国は現在の職務に専念することでもう一度自らの権勢の土台づくりを始めだしたのだ。何しろ勘解由長官かげゆのかみは特に問題がなければかなりの割合でそれより上の職務、すなわち参議以上に昇れるのである。

 ところが、正暦二(九九一)年二月二日に、藤原在国は何の前触れもなく全ての官職を剥奪された。左遷のショックから立ち直ろうとしていた矢先の官職剥奪は藤原在国を絶望に追いやった。

 官職剥奪の理由としては秦有時殺害容疑とあるから、その容疑が本当であるなら官職剥奪だけで済むのはむしろ軽いといえる。だが、本当に殺人事件に関与していたのかどうかはかなり怪しい、と言うより、あまりにも無茶な言いがかりとしか考えられないのである。

 先に藤原道長が拉致してもお咎め無しだったことは記したが、いくらなんでも殺人事件に関わっておいて官職剥奪だけで済むわけがない。普通なら追放刑である。それを官職剥奪だけに留めているのは、それが藤原在国に下せるギリギリの線だったからとするしかない。

 秦有時がどのような人物なのか、本当に殺されたのか、そして、その黒幕としてでも藤原在国が絡んでいるのかがそもそもわからない。数少ない記録によれば、秦有時が坐大膳属、すなわち、延喜式に大膳職坐神を祀るとして記されている三つの神社のいずれかで働く人間であったことが推測される。延喜式にあるほどの神社だからそれなりの格式ある神社である。ゆえに、貴族との接点がゼロなわけではない。貴族の一員ではなくても、貴族社会では顔見知り程度では名の知られた存在だったであろう。そしておそらく、この頃に亡くなったのであろう。殺人事件であったかどうかはわからないが不審死であった可能性は高い。

 その不審死に関連した捜査を聞きつけた藤原道隆が、あるいは高階成忠が、藤原在国も責任者の一人として名を挙げることを考えつき、官職の剥奪に至ったのであろう。何でもいいから追放する理由を探していたところに飛び込んできたニュースを利用したといったところか。


 正暦二(九九一)年二月一二日、円融法皇死去。

 これは現代人も当たり前のこととして認識していなければならないことであるが、歴史用語として使われている「〇○天皇」の「〇○」の部分は死後に決まる。これを「諡号しごう」という。

 つまり、生前に「〇○」の部分はない。天皇陛下、あるいは単に陛下と呼ぶことが許されるのみであり、どのような名であるかを知ってはいてもその名を呼ぶことはないし、ましてや「平成天皇」と称することもない。

 それはこの国のずっと続いてきた伝統であり、円融法皇の「円融」も、出家して、命を落とすまでに身を寄せていた場所が「円融寺」であることから名付けられた名である。もっとも、上皇という制度があった平安時代は多少事情が異なっており、上皇が一人しかいないときはいいが、二人以上の上皇がいるときの区別の必要があるので、本人黙認のもとでの〇○の部分はある。円融法皇の場合は「朱雀院」がそれにあたり、当時の記録にも「朱雀院」と記されている。

 三三歳という若さで亡くなった円融法皇であるが、円融法皇はこのとき、七〇〇年近くに及ぶ伝統を生み出している。

 正暦二(九九一)年二月一七日、入棺。

 正暦二(九九一)年二月一九日、円融寺で荼毘だびに付され、遺言に基づいて父である村上天皇の傍らに埋骨される。

 村上天皇の傍らに埋骨されたということは、円融天皇を埋葬するための陵墓がないことを意味する。

 陵墓がないとはどういうことか。

 円融天皇は火葬なのだ。

 平成二五(二〇一三)年一一月、天皇皇后両陛下が火葬を希望されたことがニュースになったが、これは円融天皇の始めた伝統を復活させたことを意味する。

 歴代天皇一二二人のうち火葬は四一人。神武天皇以後は土葬が当たり前であったが、持統天皇が火葬にするよう遺言を残してから火葬と土葬とが混在するようになり、平安時代中期になると土葬が普通になってきた。

 それが、円融天皇が火葬を命じて以後、江戸時代まで火葬が当たり前になった。江戸時代初期の後光明天皇のとき、いったん火葬をした後に土葬にするというしきたりが成立し、明治天皇が土葬を完全に復活させ、昭和天皇まで土葬の伝統が続いているのが現在である。火葬を希望なされたことは、異例な宣言をなされたのではなく、伝統の復活を希望なされたわけである。

 さらに円融法皇は自らの死に際して、特別なことを要求しなかった。

 藤原兼家の死去に際して、子供達に喪に服すことを禁止した一条天皇に見せつけるかのように、葬礼用の礼服着用禁止、国葬の禁止、山稜建設の禁止を命じ、さすがに服喪期間をゼロにすることまではさせなかったが、本来一年以上であるはずの服喪期間を一三日間に短縮させた。

 自らの死が国政に与える影響を可能な限り最小限にさせたのである。これもまた、円融天皇が始めた伝統であった。


 ライバルが無位無冠となったことを知り、以前から望んでいた蔵人頭の地位を手に入れた平惟仲であるが、意外なことに、正暦二(九九一)年三月に蔵人頭を辞任している。

 ライバルがいなくなったことで、これで自分の時代だと考えたのか、蔵人頭を辞めることで通常ならば手に入れることのできる地位、すなわち、参議の地位に昇ることを考えたようである。もっとも、位階があっても参議になれない者がいた時代であるから、蔵人頭を卒業したところですぐに参議になれるとは考えていなかったようである。

 だが、参議にこだわらなければ空席が一つあった。藤原在国がついこの間まで就任していた勘解由長官かげゆのかみである。勘解由長官かげゆのかみもまた参議になるための通過儀礼的な職務であった。

 ところが、摂政藤原道隆は平惟仲の期待を裏切るのである。

 正暦二(九九一)年三月二五日、平惟仲の蔵人頭辞任が受理され、源扶義が後任の蔵人頭に就任した。

 それからおよそ一ヶ月後の正暦二(九九一)年四月二六日、従三位の参議藤原懐忠が勘解由長官かげゆのかみを兼任すると発表されたのである。

 参議への第一歩と考えた勘解由長官かげゆのかみが、まさかの現役参議の兼任。勘解由長官かげゆのかみを期待していた平惟仲は参議に一歩近づくどころか、何の役職もない貴族になってしまったのだ。

 平惟仲は藤原在国と違い、藤原兼家の後継者選定で、兼家の意向を受ける形で道隆を後継者とすることを主張してきた。そして、道隆は平惟仲の主張したとおり後継者になった。

 本来であればここで、平惟仲には藤原道隆からの何かしらの恩恵があるはずである。蔵人頭にしたではないかと言われればその通りであるが、蔵人頭就任は平惟仲への恩恵というより藤原在国に対する牽制であって、平惟仲にとっては恩恵に該当しないものであった。

 ライバルと考える存在が自分より先行しているとき、ライバルと同じ境遇を受けるのでは納得しない。ライバルを追い抜いてはじめて、ライバルとの関係でプラスマイナスゼロになったと考えるものである。いくら藤原在国が無位無冠の存在になったとは言え、従三位にまで昇り、勘解由長官かげゆのかみまでつとめた藤原在国は自分より先行している存在であった。何しろこの時点の平惟仲は正四位。位階での三位と四位との間には大きな開きがある上に、勘解由長官かげゆのかみを経験した藤原在国と経験していない平惟仲という関係が存在しては、平惟仲のライバル感情を満たすことなどできないのだ。

 藤原道隆も、また、そのブレインである高階成忠も、人間の感情への配慮という点では合格点を就けることができない。それでも失格であると自覚していればまだ救いはあるのだが、いっさいの反論を許さない雰囲気を作ってしまっているのである。

 敵になった人間を追放するのはまだ理解できる。同意はできないが理解できる。だが、味方になることを選んだ人間に対して満足行く対応をしないというのは、上に立つ人間のすることではない。


 上に立つ人間のすることではないことをしている藤原道隆はその後も自派の強化に励み出す。味方になることを選んだ平惟仲が自分から離れつつあることもまた、道隆が自派の強化を図ることになった理由の一つであろう。

 まず、正暦二(九九一)年七月七日、それまで内大臣を兼任していた摂政藤原道隆が、内大臣を辞して摂政の職務に専念すると発表。一四日にこの訴えが認められた。

 そして、一条天皇の義理の祖父として従三位の位階を授けられるという特別な配慮があった高階成忠が、正暦二(九九一)年七月二二日、二階級特進で従二位に昇格すると発表になった。二位と言えば普通ならば大臣クラスの位階である。それを参議ですらない、自分の孫娘を一条天皇の妻とすることに成功したというだけの老人が手にしたのである。これを聞いた当時の人たちは、これはとんでもない時代になったと感じた。一条天皇の職務を事実上代行している藤原道隆のさらにその後ろに、参議ですらない貴族が権威を持って君臨し、摂政藤原道隆をあやつり人形のように操っているのである。

 そして、正暦二(九九一)年七月二七日、誰もが藤原道隆の後継者と認めた参議藤原伊周が、一八歳の若さで従三位に昇格したのである。これはもう、藤原道隆とその周辺だけで権力を独占しているとしか言いようがない。

 しかも、その状況を批判することは許されない。批判したら藤原在国のように官職没収となるのだ。

 人類の歴史において何度となく現れた言論規制は、法によっていきなり規制がはじまるケースと、目に見えぬ形で進行し、気づいたら規制が生まれていたというケースとがある。そして、より悪質なのは、気づいたら規制が生まれていたというケースのほう。意外かも知れないが、前者のようなケースのほうが言論の自由に近いのだ。前者は明文化されているだけに何を口にして良いかが明瞭になっている。法に違反しなければ命に関わることもない。しかし、後者は、何が良くて何がダメかが記されない。しかも、昨日までは問題なかったのが今日からいきなり問題になるということだってある。明文化されないだけに、日が経つにつれて自主規制がより一層悪化するのだ。現代の日本人の立場で考えるならば、昭和末期と平成とで、どちらのほうが表現の自由を謳歌しているかを考えていただきたい。昭和であれば問題ない作品が平成ではダメ出しを食らうことは珍しくもないではないか。

 しかも、後者の自主規制は、一人一人の善意から発生しているだけに余計にタチが悪い。この規制の雰囲気を作り出している高階成忠は、悪意から規制を進めているのではない。善意から規制を推進しているのだ。その善意が息苦しい世相を作り出しているのである。


 正暦二(九九一)年九月七日、大規模な人事刷新があった。

 まず、右大臣藤原為光が太政大臣に就任。後任の右大臣には大納言の源重信が昇格。

 二ヶ月前に摂政藤原道隆が兼職を辞任したことによって空席となっていた内大臣には藤原道兼が昇格。

 さらに、藤原済時が大納言に、源重光と藤原道長の二人が権大納言に昇格。

 空席のできた中納言職を埋めるために権中納言藤原公季が昇格。

 権中納言の空席は、藤原道頼と藤原伊周の二人が昇格。二人とも藤原道隆の子であったが、以前から後継者と見なされていたもののこの年になって急に後継者候補から外された藤原道頼と、この年になって急に後継者候補に躍り出た藤原伊周の二人が揃って同じ役職に就いたことに当時の人は興味を示した。

 そして、藤原兼家の子のうち、一人だけ出世レースから取り残されていた藤原道綱も、この日、参議に昇格したことで議政官に名を記すこととなった。

 さらに、九月九日からは武官の人事が発表された。もっとも、この時代の武官は上に行けば行くほど名誉職になり、武器を操る能力や軍勢を指揮する能力が問われるわけではない。

 まず、九月九日に、内大臣藤原道兼が右近衛大将を兼任すると発表された。

 そして、翌九月一〇日には参議藤原道綱が右近衛中将を兼任すると発表された。

 律令制に従えば、近衛、衛門、兵衛の三部門からなる武官がそれぞれ左右で存在し(これを六衛府という)、この六つの部隊が平安京を、そして、各国に配備されている軍団がこの国を守るとなっている。しかし、桓武天皇による防人の廃止によりこの国から徴兵制が消失し、藤原冬嗣の時代になると軍団も名目上の存在となるまで劣化し、それと入れ替わるように新たな軍事組織である武士が誕生した。

 それでも、当時の武士は自分のことを軍事の専門職であるとは認識していなかった。武力を扱う存在であることは認識しているが、彼らはあくまでも、その土地における有力統治者であると自認していたのである。

 自領を統治するのに公的地位は役に立った。規模が小さなものであっても、公的地位が認められればそれは国家公認の軍勢となる。武力を行使するにしても、公的地位があれば国の公的な活動となる。逆に、いかに巨大な軍事力を擁していようと、公的な地位がなければただの物騒な武装集団でしかない。同じ武力に訴え出るのであっても、公的地位があれば国の後ろ盾が得られるが、公的地位がなければテロと同じになる。当然ながら平安時代にテロリズムという言葉はないが、テロリズムという概念ならある。平将門も、藤原純友も、事実上は反乱ではあったが、名目上はテロリスト集団が暴れているという事件であったのだ。


 ここで藤原道兼と藤原道綱が、右近衛府という、もはや名目上の存在でしかない武官の上級職に就いたというのは、単なる箔付けではない。

 右近衛府の大将や中将には部下の任命権がある。正式な任官は式部省の管轄であるが、大将や中将が任命した武官としての部下を、式部省が拒否するなどまずあり得ない。

 つまり、右近衛大将や中将となることで、藤原氏に仕える武士に対して公的地位を与えることが可能となるのだ。それがどんなに低い地位であっても、無位無官の庶民と、役職を持つ公人とではやはり違う。そして、武士が自らの領地を保全するために、年貢を藤原氏に納める代わりに名目上の所有者を藤原氏としてもらうよう要請するのも今となっては当たり前である。

 名目上の所有者は、最悪でもその国の国司より上の地位である者ならばそれでいい。あるいは、有力な寺院や神社でもいい。とにかく国司より上の地位にある者の土地とすることができれば、税より低い年貢の負担だけで済む上に、自領を狙う他の武士への牽制にもなる。

 藤原氏に土地を寄進し、藤原氏に年貢を納める。その代わりに藤原氏の保護を受け、藤原氏への貢献次第では公的地位も獲得できる。こうなるとますます藤原氏は豊かになり、藤原氏でない貴族との差をつけることとなる。

 これは公正ではないし公平でもない。この状況を苦々しく考え、現状を批判する者も数多くいた。

 だが、どんなに批判しようと、社会をこのような仕組みにすることで、特に目立った混乱もなく経済が回り、人々の暮らしが成り立っているのだ。そして、現状を批判する者自身もまた、藤原氏ほどではないにせよ、大規模な土地所有者であり、その土地から上納される年貢で生活しているのだ。

 格差を批判する者は、自分が格差社会の負け組だから批判する。自分より恵まれない境遇にある者がいることを哀れむ者はいるが、そのために自分の得ている権利を手放す者はいない。せいぜい寄付が限度である。古今東西、様々な時代の様々な国の様々な地域で社会の改革を訴える者は数多く現れ、ときにその改革を実践してきたが、その全てが自らの権利はいっさい減らすことなく、他人の得ている権利を削って配れという内容である。


 正暦二(九九一)年九月一六日、土御門殿に移り住んでいた円融天皇妃皇太后藤原詮子が出家した。

 これだけならば珍しいニュースではない。この時代、夫を亡くした女性が出家するのは普通である。それは皇族とて例外ではない。円融天皇を亡くした皇太后藤原詮子が出家したと聞いた当時の人たちは、亡き円融天皇のためにすばらしい行為をされたと感じたものの、そこに珍しさを感じることはなかった。

 ところが、ここに飛び込んできた知らせは当時の人を驚愕させるに充分であった。

 今後、皇太后藤原詮子を「東三条院」と称するという命令である。

 「~院」とは本来、建物の名前につけられる号であるが、人物に対してもつけられることがある。

 現在は、かなり値段の高い戒名を買うと手にできるが、この時代はそうはいかない。

 人名同様の称号として「~院」と名付けられるのは、上皇だけなのである。

 その、上皇しか許されない称号を、いかに一条天皇の実母として皇族に加わったとは言え、庶民の生まれである、その証拠に姓を持っている藤原詮子が手にしたのである。つまり、藤原詮子を上皇と同じ扱いにしたのだ。

 こうなるとさすがに議論を呼ばずにいられない。

 実際、この日の『小右記』は、朝廷内で激しい議論が繰り広げられたことを記している。

 それも、賛否両論どころか、圧倒的多数の否定意見の中での強行採決であったことを記している。否定意見の論拠としては先例のないことに尽きるのだが、この時代の先例第一主義は現在の比ではない。先例にないこと、延喜式にないこと、有職故実にないことはタブーなのである。

 そのタブーを破ったのは、摂政藤原道隆による強行採決であった。

 たしかに摂政には強行採決を許される法的根拠がある。だがそれは伝家の宝刀であり、使用しないからこそ意味のある権利なのだ。

 摂政に与えられる権利のあまりの大きさに藤原良房は最後まで摂政に就くのを拒否し、仕方なしに摂政に就いて応天門炎上事件の後始末を終えると、それを摂政としての唯一の政務であり唯一の政務を終えたとして、隠居して政界の第一線から退いた。

 摂政とはそれだけの大権なのである。

 その大権を藤原道隆はいとも簡単に使った。

 これは単に一人の女性が上皇扱いされるようになったというだけの出来事ではない。


 皇太后藤原詮子は、実は、皇后に就いた経験がない。

 間違いなく円融天皇の后ではあったのだが、円融天皇の皇后は藤原頼忠の娘である藤原遵子、別名「四条宮」である。皇后になることを願いながらも皇后になれなかった藤原詮子は、藤原遵子の弟の藤原公任に「こちらのお后様はいつになったら皇后になれますかね」とからかわれたこともあったという境遇であった。しかも、宮中においてではない。東三条殿、すなわち、藤原詮子が当時住んでいた邸宅にわざわざ藤原公任がやってきてそのような嫌味を言ったのである。

 その境遇を一変させたのは、妻としての実績ではなく母としての実績であった。

 皇后藤原遵子は一度も妊娠することがなかった。

 一方、藤原詮子は子を産んだだけでなく、その子が、一条天皇として帝位に就いた。

 皇后の地位を持っていなくても天皇の実母となれば立場は一気に逆転する。

 その逆転を決定づけたのが藤原詮子に与えられた地位、すなわち、皇太后の地位である。

 普通、皇太后とは、皇后であった女性が、夫が天皇でなくなったときに自動的に就く地位である。それが、皇后でなかった藤原詮子が、一条天皇の実母ということで皇太后に就いたのだ。しかも、藤原遵子は夫の退位後も皇后のままであるという通常ではあり得ない状況が続いていたのである。

 おまけに、時代は藤原遵子の父である藤原頼忠の時代から、藤原詮子の父である藤原兼家の時代に変わっていた。

 その時代の移り変わりを決定づけたのが、一条天皇の初の年始の挨拶である。

 当時の天皇は正月に父母の元に年始の挨拶をするのが慣例であった。これを当時は「朝現行幸」と言っていた。そして、誰が最初に朝現行幸を受けるかで、そのときの権力の様子が見て取れた。

 話は円融法王存命中、かつ、藤原詮子がまだ東三条殿に住んでいた頃にさかのぼる。

 当時の一条天皇のように退位した父が存命である天皇の場合、普通は何よりも先に上皇である父の元に足を運ぶものである。実際、円融法皇は息子が朝現行幸に来るものと考えて待ちかまえていた。

 ところが、そのときの一条天皇が最初に立ち寄ったのは東三条殿、すなわち、藤原詮子の元である。宮中で常に顔を合わせている母子が、わざわざ母の実家にまでやって来て母に挨拶したのだ。これで当時の人は、誰が天皇に最も近い女性であるかを知った。皇后経験のない皇太后藤原詮子が、円融法皇より強い影響力を持つ人物として現れたのである。

 それは、かつて藤原公任に嫌味たらしく罵られた場所である東三条殿が、罵られた当人である藤原詮子にとっての栄光の舞台へと変わった瞬間でもあった。


 この状況で藤原兼家が亡くなり藤原道隆の時代となった。

 そして、藤原道隆は妹である藤原詮子を上皇に匹敵する存在にまで引き上げた。

 普通に考えれば藤原詮子はこれ以上ない権威を獲得したこととなり、満足していなければおかしい。

 ところが、そうではなかった。

 藤原詮子は一条天皇の母として君臨している。だが、一条天皇にとっての第一の女性ではなくなったのだ。一条天皇とっての第一の女性は中宮定子であり、実母ではない。

 よく見られる嫁と姑の争いと言ってしまえばそれまでだが、それとほぼ同じ現象が起こっていたのである。しかも、我が子である一条天皇は嫁である中宮定子の味方に付いている。

 おまけに、中宮定子の父は摂政藤原道隆。いかに藤原詮子にとっては実の兄であり、また、一族のトップに君臨する男でもあると言っても、中宮定子と藤原詮子との争いが目に見えた形になって現れたとしたら、中宮定子の味方をするに決まっている。嫁との争いに敗れ立場を無くした姑が唯一頼れる実家がこの状況とあっては、自分に味方するものなど誰もいないと同然であった。

 天皇にとっての第一の女性であることが誇りの拠り所であった藤原詮子にとって、いかに高い地位を与えられようと、自分よりも天皇に近い女性がいることのほうが苦痛であり、自分に味方する者がいない現状が苦痛であった。

 この姉の苦痛を読みとったのが弟の藤原道長である。道長は姉、より正確に言えば天皇の実母を、自宅である土御門殿に招き入れることに成功したのだ。

 摂政藤原道隆は、弟の道長が、自分の意のままに動く存在ではないことに気づき始めていた。

 そして、皇太后藤原詮子を手に入れた。

 それでもまだ、道長が自分の権力を脅かす存在になるとは思ってもいない。弱小の反乱分子になる可能性があるという程度であり、気になるとすれば、道長本人ではなく、一条天皇の実母を自宅に招き入れているという状況のほうである。

 藤原詮子に「東三条院」と名付けたのも、いくら住まいが道長の邸宅である土御門殿であろうと、藤原詮子自身は摂政である兄のもとにあるのだという宣言の意味があったのだ。

 藤原道隆は、自分の子供たちが次世代の権力者となることを何よりも優先して考えていた。道隆にとっては、妹の詮子も、弟の道長も、自分のために利用する駒という認識しかなかったのである。実際、道長は中宮大夫、つまり、中宮定子の執事の役割も命じられている。そして、道長は、中宮立后の儀に欠席をしてはいても、中宮大夫の職務は問題なくこなしているのである。


 さて、ここで国外に目を向けてみるとどうであったか。

 大陸では宋と契丹が微妙なパワーバランスを維持していた。

 日本人にはわからない感覚であるが、宋の国民は生まれたときから宋の国民だと限らない。少年少女は生まれたときから宋の国民であるが、五代十国の混乱のさなかに生まれ育った多くの人にとって、国家というのは生まれ育った大地ではなく、ある日突然、「今日からおまえはこの国の国民だ」と言われるものであった。

 しかも、五代十国というのは国が生まれては滅びを繰り返していた時代であった。そうした時代に人生の大部分を過ごしていた人にとって、宋という国が、新たに生まれた数多くの国の中で大きい方であることは認めても、できたばかりの新興国にすぎなかったのである。言わば、国に対する忠誠心が期待できなかったのだ。

 本来なら、ベトナムへの侵略を成功させることで、領土の拡大と戦勝気分による好景気、そして、国民意識の統一を図り、国への忠誠心を育むはずであった。

 ところが、宋はベトナムに敗れた。それも、言い訳のできぬ負けかたであった。

 これもまた、敗戦と言えば、空襲や原爆、さらに沖縄戦といった、それまでの暮らしを破壊されるリアルな敗戦しか体験していない日本人にはわからない感覚であるが、暮らしぶりが変わらないというのに、国が国外に軍勢を派遣して負けて帰ってきて、ある日いきなり「我々は敗戦国民だ」と言われたのである。

 仮に、生まれ育った国がこのような敗戦を迎えたとしたら、待っているのは虚無感であろう。そして、国内に暴動が起き、少なくとも政権交代は起こるはずである。

 ところが、多くの宋の国民にとっての宋は生まれ育った国ではない。つまり、赤の他人が勝手に戦争を起こし、勝手に戦争に負けたのだ。これでさらにリベンジのための軍勢を集めるとなったとして、誰が恩も義理もない赤の他人のために軍に出るというのか。

 敗戦は宋の国民に厭戦気分を招いただけでは済まなかった。職業としての軍人を選ぶ国民が減り、一〇〇万と言われていた軍勢は見る影も失い、今はただ領土の維持が限度というレベルにまで軍事力が低下したのである。

 一般に、宋はベトナムとの戦争に敗れたのち、文治政治へと国の方針を転換したとされる。だが、それは、平和を愛する気持ちからではなく、戦争を忌避する国民感情が生みだした結果であった。


 宋の北にある契丹は二つの問題を抱えていた。

 一つは契丹の北東である。この時代、「女真族」と総称される民族が勃興してきたのだ。

 女真族の本拠地は、現在のロシアの沿海州、ハバロフスクから樺太対岸にかけての一帯。記録に登場したときにはもうその土地に住んでいた人たちである。

 女真族の存在自体はかなり前から確認されており、日本の史料にも、渤海人とともに来日した記録が残っている。もっとも、渤海国が健在であった当時は女真族ではなく黒水靺鞨と呼ばれていた。渤海国が建国される前は一つの靺鞨民族であり、それが南北に分かれて、南の粟末靺鞨が高句麗の遺民と合わさって渤海国となり、北の黒水靺鞨が渤海国に服従する集団として認知されていた。

 渤海国が滅んだ後、黒水靺鞨は契丹に服従するようになっていた。この頃から民族名として「女真」が使われるようになった。

 貧しく、人口も少ないこの一帯に対し、渤海も、契丹も、服従は求めたが、領土とすることは控えていた。国境を脅かさず、服従して平和的な関係を築けており、しかも貧しい土地となると、普通は領土欲を満たすターゲットにはなれない。おまけに、ごくまれに領土欲を前面に押し出す統治者が現れて戦争を挑んでくることもあったが、黒水靺鞨はその侵略に対してゲリラ戦を挑み、敵を敗走させている。こうなるとますます侵略する気になれなくなる。

 そのままであれば平和であるはずであった。

 ところが、今度は女真族のほうが平和を求めなくなってしまったのである。

 黒水靺鞨と呼ばれていた頃からの女真族の土地で養える人口を超えてしまったのだ。かといって、食えなくなった女真族を養える土地などどこにも余っていなかった。北に向かえば土地は確かに余っている。だが、そこは当時「未知の樹海」と呼ばれていたシベリアのタイガの森林地帯である。好き好んでそんな土地に入植し開拓しようなどと考える者はいない。チャレンジャーはいたかも知れないが、誰一人として成功していない。だから「未知の樹海」なのである。

 一方、南に向かえば土地はある。かつては自分たちと同じ民族であった渤海国の跡地でもある契丹の領土である。

 かつての仲間の領地を取り返すという大義名分を手にした武装ゲリラが契丹の領地にたびたび侵略し、あるときはモノを、あるときは人間を奪っていく姿が日常の光景になってしまったのだ。

 契丹としては放っておける事態ではない。ただちに女真族に対して侵略の中止を呼びかけざるを得なくなったのである。

 ゲリラは、攻め込んだ敵に対して抵抗するには効果を示す戦法であるが、侵略する側になると最も効果を示さない戦法へと変化する。統率されておらず闇雲に暴れ回り、奪い、殺し、去っていくというのは、一時的な資産を手にする代わりに、敵からの怒りを買うことこの上ない。恐怖心があったとしても、歓迎して迎え入れるような存在ではないのだ。

 ゲリラと正規軍が先頭に至ったとき、それがゲリラの根拠地であればゲリラに優位に働くが、正規軍の根拠地でゲリラに勝ち目はない。

 結果として、女真族は再び契丹に従う存在へとなった。見た目だけで言えばこれで平和になったことになる。しかし、それはいつ爆発してもおかしくない不安定な状況での平和だったのだ。


 契丹の抱えるもう一つの問題が高麗である。

 契丹は高句麗の継承国家である渤海の継承国家を自認している。それが国家としての正当性なのだから、現実問題がどうであろうと譲れる話ではない。

 一方、高麗もまた高句麗の継承国家であるとしている。新羅によって侵略されたものの高句麗の遺民は北に逃れて渤海国を築き、年月を経て高麗となって現在に至っているというのが国家としての正当性である。

 これもまた日本人には理解でいない話であるが、国家としての正当性を突き詰めていくと、その国の誇りに行き着く。そして、誇りの対象とすべき事項が無ければ無いほど、いかに自分の国が古いかという話を持ち出し、歴史の古さに誇りを見いだすようになる。そして、古くから存在していた国ほど偉く、最近できたばかりの国は偉くないという話になる。国の歴史の古さこそが国民の誇りであり、国民の誇りの上に国家が成り立つという構図にしなければ、誇りの対象を持たない新興国はいともたやすく崩れ去ってしまうのだ。

 日本国のように、建国が神話や伝説の時代であり、そこから連綿として国家が続いているなどという国は、日本の他にはエチオピアしかない。中国も、エジプトも、イラクも、古代文明が発祥したほどの歴史の古さを持っているが、様々な国家がめまぐるしく入れ替わっただけでなく、他民族に飲み込まれ、他国の一部になった歴史を持っている。これらの国を含む圧倒的大多数の国は、自国の歴史を語るときに、現在の国家になってからの歴史だけでなく、他国の歴史や、現在には存在しない国の歴史を語らねばならない宿命を持っているのだ。それが、歴史誕生の瞬間から現在まで国家が存続し続けている国の国民には理解できない歴史である。

 それを現実として受け止めることができるのは、国家の歴史が短いことを理解した上で、他に誇りを見いだすことに成功している国だけである。宗教でもいい。思想でもいい。誇りの対象を持つ国は歴史に頼る必要がない。

 それらを持たない国家にとって、国家としての正当性は、誕生して間もない国であればあるほど強く求めるようになる。自国がいかに長い歴史を持った国であったかを強く主張しなければ、国民に誇りを持たせることができないのだ。より正確に言えば、他に誇れることがないから歴史を創出して誇りを生み出さなければならないのだ。

 契丹も、高麗も、国家としての正当性を、この時代から一〇〇〇年はさかのぼれる古代高句麗王朝との継続性に見いだしている。こうなると、対立を呼ばないわけがない。日本人ならば「何でそんなことにこだわるのか」などと考えるであろうが、それは、日本があまりにも恵まれた歴史を持っているからである。そうでない国は、日本人の言う「そんなこと」に頼るしかないのだ。

 この対立が生み出したのは、契丹と女真の対立と同じであった。女真同様貧しい朝鮮半島の人間が、ゲリラというか、武装強盗というか、その手の物騒な集団になって契丹の領内に攻め込んでモノや命を奪うようになっていたのである。本音は生活を満たすための犯罪であろうと、名目としては国家として歴史に向かい合う愛国者が起こす、自国の歴史と異なる歴史を信奉する者に対しての正義の制裁なのである。

 しかも、女真と違い高麗は国家として成立している。つまり、国と国との外交交渉が可能なのである。そして、高麗は宋と外交を結んだ。朝鮮半島の国々では通常の光景になっている、中華帝国への服従という形での外交である。中華帝国に服従する代わりに中華帝国第一の臣下国として振る舞うことで他国より優位に立とうという国家戦略であり、日本や契丹、あるいはベトナムのように、宋と対等の関係で向かい合うことはしないのが高麗の戦略であった。

 高麗は、直接国境を面しているわけではない黄海の向こうの宋と手を結ぶことで、両国の間にある契丹を牽制しようとした。これは宋にとってもメリットのあることであった。宋と高麗にとってメリットがあることは、契丹にとってはデメリットになる。

 宋との間は緊張を伴った均衡状態、女真との間はいつ崩れるかわからない微妙な平和となると、契丹にとって眼前の敵は高麗になる。歴史にやたらと難癖を付け、強盗を派遣してはモノを奪い去り命を奪い取っていく集団に対し、契丹は本格的な対処に出る準備を始めるようになった。


 この国外情勢を当時の日本は掴んでいたのか?

 結論から言うと掴んでいた。ただし、正式な外交交渉によってではなく民間の通商による情報収集であった。

 この時代の日本は、表向きはどの国とも国交を結んでいないことになっていた。しかし、民間人の往来ならばあったし、民間人の往来を装った水面下の外交交渉も存在した。

 その上で、当時の日本は以下のような分析をしていた。

 海外からの不法入国が連続している。盗賊を捕らえてみても言葉が通じないことなど珍しくもない。対馬や隠岐といった日本海の島ではもはや当たり前すぎてニュースにもならない。それどころか、九州の筑前や、山陰の出雲でも不法入国者が日常の存在になっている。それでも現在はまだ小規模な海賊だからどうにかなっているが、そう遅くない時期に海賊の軍勢は膨らみ、それはやがて犯罪被害ではなく侵略を喰らう事態に発展する、と。

 いかに戦争ではないといっても、全くの無防備でいられるわけはないことは熟知していたのである。熟知していたがオフィシャルな軍事力が全くなかったのだ。

 藤原氏が武官の地位を掴んでいるのも、地方の武士団をどうにかして国のオフィシャルな軍事力に加えようとした結果である。藤原氏が武官の役職を兼任できれば、藤原氏の匙加減一つで地方の武士団に公的な武官の地位を与えることができ、平時だけでなく緊急時にも対応できるのである。

 たとえば平氏である。武士としての平氏が朝廷の掌握できる存在として認識されるようになったのだ。

 平将門を討ち取った平貞盛が亡くなったのは永祚元(九八九)年一〇月一五日だから、この時代からわずか二年前のことである。その平貞盛は平将門を討ち取った後、鎮守府将軍や各国の国司を歴任し、最終的には従四位下まで進んだ。さらに、平貞盛の権勢はそのまま四男の平維衡が引き継ぎ、伊勢に一大勢力を築くと同時にこのときも貴族の一員として列せられていた。


 ところが、ここに列せられていてもおかしくない武士が、なぜかここにはいなかった。源氏の統領である源頼光が藤原道隆から決別し、藤原氏の支配から脱するようになっていたのだ。ゆえに、この時代最高の武力と認識されていた源頼光の率いる多田源氏に対し、朝廷が何らかの指揮権を振るうことができなくなっていたのである。

 正確に言えば多田源氏と藤原氏との接点は保っていた。ただ、藤原道隆個人とは決別していたのだ。その代わりに源頼光が選んだのが藤原道隆の末弟である藤原道長であった。道長を選んだことは、道隆から見捨てられ、藤原氏の権威を利用できなくなることを意味する。それでも、源頼光は自らの主君と考えていた藤原兼家が指名していた後継者である藤原道隆ではなく、藤原兼家の死を追悼しようとした末っ子を選んだのである。これはもう賭であった。

 源頼光は貴族としてある程度の権威を築いていた。とは言え、ある程度、である。

 もともと「源」とは天皇に就く資格を持つ者が臣籍降下したときに名乗る姓である。ゆえにただの貴族とは格が違う。議政官の面々を見ても源氏が散見されるし、源氏のいない議政官自体考えられないほどである。

 しかし、源頼光の名は議政官のどこを探しても見当たらない。

 同じ源氏であっても差はある。左大臣源雅信や、源雅信の子で参議の源時中の所属する宇多源氏は議政官で一定の権威を掴んでいるのに対し、源頼光の所属する清和源氏は議政官とほど遠いのだ。

 その代わりに清和源氏の選んだのが実業界である。

 平安時代で言うと、大規模荘園の所有者が実業界に相当する。そして、現在と違って荘園を守る武力を手にして資産を維持するのが当時の実業界に身を投じた者の必須スキルであり、その必須スキルを磨いてこの時代の実業界の第一人者となるのが源頼光ら清和源氏の選択であった。


 現在でも、官界ではなく実業界に身を投じる者は多い。政界と官界と実業界が結びつくことが珍しくないのは現在に限った話ではなく、平安時代でも同じことである。実業界としての清和源氏が選んだのが当時の自民党である藤原氏との接近であったが、現在でも自民党に様々な派閥があるように、当時の藤原氏にも様々な派閥がある。

 その派閥の中で、最有力と見なされていた藤原道隆を見捨て、この時点ではまだ派閥として認識すらされていない藤原道長との結びつきを選ぶというのは、傍目には賭としか見えない選択である。この時代に経済評論家がいたとしたら間違いなく評論家にその選択を批判されていたであろう。

 それでも藤原道長を選んだのは、人情に基づいての判断ではなく、物事を冷静に判断したからだとするしかない。実業界に身を置く人間というものは、政界に身を置いている者や経済評論家と違って冷静に物事を判断できる。その源頼光の冷静な判断の結果が藤原道長との接近であった。

 何を以て藤原道長を選ばせたのか。それは政治家としての力量である。より正確に言えば、藤原道長が素晴らしい力量の持ち主であったからではなく、藤原道隆が力量の無さから早々に自滅すると睨んだからである。

 その判断を藤原兼家の死去の際に源頼光が行なったのは前述の通りである。

 父の死における態度で、非情であった藤原道隆と、人情味を見せた藤原道長とを見比べての判断である。

 人情に基づいて行動するというのは合理的でないとする人もいるが、実際には、人情を合理的でないと批判するほうが合理的ではない。

 人間社会というものは、他者に厳しい者を恐れることはあっても尊敬することは絶対にない。それは、他者に厳しい者の取り巻きも同じである。他者に厳しい者が恐れられている間はどうにかなるが、一度でも恐怖心が消えたらその瞬間に、他者に厳しい者も、その取り巻きも、何もかも失うのだ。

 藤原道隆には他者への優しさがない。そのような者と接点を持ったら、一瞬の権力を掴めることはできても、道隆のあとまで権力を掴める保証は極めて低い。

 尊敬される者は例外なく他者への優しさを持っている。その優しさを持っているのが道長であると判断したのだ。そして、遅かれ早かれ道長は今以上の権力に就くと判断したのだ。

 源頼光という一個人の判断ではない。清和源氏全体の判断でもある。極めて重い判断ではあったが、判断せずにズルズルと先送りしたら清和源氏全体の衰弱につながるのである。

 結論から記すと、源頼光のこの判断は清和源氏にとって最良の選択であった。歴史にIFは厳禁と言うが、仮にここで源頼光の判断に失敗があったら後の清和源氏の隆盛はなく、鎌倉幕府も、室町幕府も、江戸幕府もなかったのである。

 後世、源平の対立が日本中を包み込むこととなるが、その起源はこのとき既に誕生していたのである。


 源頼光が藤原道長を選んだことを当時の人はどう思っていたのか?

 これに対する答えが、正暦二(九九一)年九月二一日にみてとれる。

 この日、藤原道長が二六歳の若さで権大納言に就任。摂政の弟であることを考えればおかしな出世ではないが、藤原道隆は弟ではなく我が子に権力を継承しようとしているのであることを考えると、道長に特別な配慮をしたと言えるのである。

 ただし、牽制もしている。

 同日、従二位中納言藤原顕光が左衛門督に、正三位参議源時中が右衛門督に就任している。

 この時代のオフィシャルな軍事組織において、衛門えもん(宮廷の警備)は、近衛このえ(天皇の警備)、兵衛ひょうえ(京都市中の警備)に並ぶ組織である。ただし、近衛を除く軍事組織がほぼ壊滅状態にあり、衛門は名誉職にすぎないとしてもよい。

 だが、名誉職であろうと軍事の人事権を握ってはいることに違いはないのだ。そして、それが名誉の称号であり何ら意味を持たない名称であろうと、衛門の名を有する地位を受ければ、武士は無位無冠の庶民ではなく、国の役人として、さらには貴族として列せられる存在になるのだ。

 忘れてはならないのは、平将門にしろ、藤原純友にしろ、オフィシャルな地位を持っていてもおかしくない存在であったということである。

 たしかに平将門はオフィシャルな地位を掴むことができなかったが、それでも桓武天皇の五世孫であり、時の最高実力者である藤原忠平のもとに仕えていた実績もあった。

 それでも平将門は名目上無位無冠の一般庶民と扱えたが、藤原純友に至っては公的権力を持っていた。いや、持っていたどころではなく、元々が朝廷から海賊鎮圧を命じられて派遣されたら、海賊集団の親分になって暴れ回るようになってしまった存在なのだ。

 この時代の武士というのは、誰であれ高貴な身分とつながっている。栄誉こそ掴めていないが、血筋だけで言えば貴族に列せられてもおかしくない者がうごめいていたのである。

 そうした者を手懐ける手っ取り早い方法、それが、公的地位を与えることであった。特に、六衛府の官位であればほとんどが名誉職であるから朝廷にとって脅威とはならないし、受け取った武士にしても貴族にふさわしい官職であるから満足する。つまり、誰も損をしないことになるのだ。

 問題は誰がこの地位を与えるかである。武士が恩義を感じるのは地位を与えた個人であって、藤原氏を中心とする朝廷組織そのものではない。現在で言うと、国会議員個人への恩義であって、その議員の所属する政党に対してではないというところか。

 こうなると、地位を与えることができる役職に就くことが、武士を簡単に味方にすることのできる方法になる。

 源頼光という当代随一の武士を手にした藤原道長に対し、権大納言の地位を与えることは道長の懐柔を意味したが、左右の衛門の地位を新たに任命し直すことは、武士を味方にした道長への牽制にもなったのである。


 正暦三(九九二)年一月一日時点の朝廷の構成は以下の通りである。

 

役職   位階   姓名    兼職

摂政   正二位  藤原道隆  

太政大臣 従一位  藤原為光  

左大臣  従一位  源雅信   東宮傅

右大臣  正二位  源重信  

内大臣  正二位  藤原道兼  右近衛大将

大納言  正二位  藤原朝光  按察使

大納言  正二位  藤原済時  左近衛大将

権大納言 正三位  源重光  

権大納言 正三位  藤原道長  中宮大夫

中納言  従二位  藤原顕光  左衛門督

中納言  正三位  源保光  

中納言  正三位  藤原公季  春宮大夫

権中納言 正三位  源伊陟   右兵衛督

権中納言 従三位  藤原道頼  

権中納言 従三位  藤原伊周  

参議   正三位  源時中   右衛門督

参議   正三位  藤原道綱  右近衛中将

参議   正三位  藤原安親  修理権大夫

参議   従三位  藤原時光  大蔵卿

参議   従三位  藤原懐忠  左大弁

参議   従三位  藤原実資  左兵衛督

参議   正四位下 藤原誠信  春宮権大夫


 こうして記すと、位階と役職がかみ合ってないことが見てとれる。

 かつてはそもそも一位になるなどよほどのことがない限りありえない話であったのに、この時代になると従一位とは言え、一位が二人もいる。さすがに正一位は死者に与えられる名誉の称号であるという決まりは守っているが、それにしても、一位が複数いるというだけでも異常事態である。

 さらに異常事態なのが二位。

 本来、従二位ともなれば最悪でも右大臣にはなれる。それが、従二位でありながら中納言に留まるというのだから、これは異常とするしかない。もっとも、ただでさえ二人も従一位がいて、正二位だけでも五人いるという状況になると、二位だからと言って簡単に大臣になどなれるわけがなくなる。

 さらに深刻なのが三位。

 三位でも大臣に就くのはおかしな話ではないのである。本来ならば。

 ところが、大臣どころか大納言にもなれず、権大納言止まりである。同じ三位でも正三位と従三位とでは格が違うとは言え、それでも従三位ともなれば大納言にだって就けるはずであるのに、権中納言が二人いる以外は参議である。

 いや、それでも参議になったのならまだ良い。この時代には、従三位にまで上り詰めながら参議にもなれずにいた者がいたのである。それも四人も。

 従三位藤原懐平、従三位源泰清、従三位源清延、従三位藤原高遠の四人が、従三位まで上り詰めながらも参議にすらなれずにいたのだ。

 どうしてこんな事態になってしまったのか。

 位階のインフレが起こってしまったのだ。

 理論上、同じだけ努力をし、同じだけ結果を残したら、同じ評価をされなければならない。自動車の運転免許などはそうである。自動車の運転免許は、筆記試験と実技試験をクリアすれば誰でも免許をもらえる。合格者の上限はない。

 しかし、それは何人いてもかまわない絶対評価の世界の話であり、相対評価であるべきところで結果だけに見合った公正な評価をするなど、できもしない理想にすぎない。

 これは入試を例に取ってみるとわかりやすいであろう。

 一〇〇人しか合格できない学校に二〇〇人の受験生が集ったとしたら、自分の結果が上位五〇パーセントに入っていれば合格できる。しかし、一〇〇〇人の応募となったら、自分の結果が上位一〇パーセントに入っていないと合格にはならない。

 同じだけ努力をしても、対象者が多ければ順位は下がり、求めていた結果を得られなくなるのは世の常である。かといって、努力をした者全員に分配できるような余裕など無いのもまた世の常である。その学校に一〇〇〇人もの受験生が集ったからといって、合格者を五〇〇人に増やすことはない。もし、そんな学校があったとしたら合格の価値が下がってしまう。一〇〇人しか合格できない学校に合格したから価値があるのであり、その五倍の可能性で合格できるようではその学校に入学する価値が下がってしまうのだ。

 これは不満を生み出す。

 かつては自分より努力も少なく、乏しい結果しか残さなかった者でもいい地位に就けたのに、今ではこんなに努力をし結果を出した自分でさえ満足いく地位を手にできていないのだ。そう考えて、誰が不満に思わないでいられようか。

 かと言って、大臣の数も、大納言や中納言や参議の数も限られている以上、全員を満足させるような役職を与えることなどできない。

 それで位階なのだ。

 役職は与えられないが、位階ならどうにかなる。位階を与えることで、貴族として、あるいは役人としての評価とするのである。これならば不満を抑えることができた。「大臣にふさわしいので大臣にする」は不可能でも「大臣に就くにふさわしい努力をし、結果を残したので大臣に就ける位階である二位を与える」なら可能なのだ。

 その結果が位階のインフレである。 

 一位に就く者が一人いるかいないかという時代は終わり、一位が複数いて当たり前、二位はもっといて当たり前、三位はさらにたくさんいて当たり前。

 おかげで従三位になれても参議になれない者がいるという時代になったのだ。


 ではそもそも、なぜ、こんなインフレになるまでの事態に至ったのか。

 理由は簡単で、貴族の数が増えたから。

 これもまた、現在の進学状況と対比できる。

 昭和三〇年代は一〇人に一人しか大学に進めなかった。

 昭和から平成に移り変わる頃には三人に一人に増えた。

 現在では二人に一人が大学に通うようになった。

 こうなると何が起こるか?

 大学卒業によって得られる成果、すなわち、就職の困難さである。

 かつては大学を卒業したら、大学時代に多少暴れていようと、それこそ勉強もせず学生運動に身を投じていようと、それなりに名の通った企業の正社員になれた。それだけの募集があったからというより、大学卒業者自体が少なかったからである。

 現在では正社員になること自体が困難である。学生運動なんかしたらその瞬間に就職先は消滅だ。かといって、学生運動に身を投じなくても状況が良くなるわけではない。学生運動に身を投じることなく真面目に大学生生活を過ごした上で、大学卒業にふさわしい職を探したところで、職の数と、大卒の肩書きを持つ者とが全く釣り合っていないという現実を直視するだけである。

 何しろ、かつては同年代の限られた一〇パーセントの者だけが大卒であったのが、現在では五〇パーセントに膨れあがってしまっている。しかも、その五〇パーセントの全員が、限られた一〇パーセントと同じだけの成果を求めているのだ。これで満足いく成果を分配できるわけがない。

 この時代も結局は同じなのだ。

 上流貴族になれる資格を持つ者が次から次へと現れ、そのほぼ全員が上流貴族にふさわしい地位と役職を要求する。限られた数名だけの栄誉であると決まっていても、その限られた数名に加わる資格を持つ者が増えるとどうにもならなくなる。

 しかも、ここでしっかりとした対応をしないと、第二の平将門や、第二の藤原純友を生み出してしまう。それだけの権力を持った者が続出している以上、しっかり対応することで不満をそらさざるを得なくなる。

 そうして少しずつ不満をそらしていった結果が位階のインフレである。

 一つ一つは善意に基づいた、そして律令にも有職故実にも基づいた対処である。だが、その積み重ねは、律令とも、有職故実とも真逆の、悪意ある崩壊になってしまったのだ。

 もし、歴史に学ぶならば、平安時代の人たちがこの位階のインフレを抑えることに失敗したことを目の当たりにするであろう。それは、鎌倉幕府の成立後も、南北朝の分裂後も、そして江戸時代も変わることのない現象であった。

 何しろ、この解決は日本国憲法発布まで待たねばならないのである。位階という仕組みは現在でも残っているが、現在の日本で位階を手にできるのは故人のみ。日本国に功績のあった者が亡くなったら皇室から位階が与えられるように仕組みを変えたことでようやく、生者の位階の争いは終結した。

 これを踏まえると、現在の就職困難社会は、会社員という資格が死者に与えられる名誉の称号になるまで終わることはないことになる。そのときはそのときでまた新たな競争が誕生しているであろうが。

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